折り合い
目を開けると、薄暗い部屋の中に白い光が差し込んでいた。
天井から吊り下げられた飾りが、光を受けて色を取り戻し始めている。
わたしは寝返りを打つと、ベッドの隣に置かれた小さなテーブルを覗いて電気の時計を見た。
「6と……1と5」
前に母から教えてもらった「数字」を読み上げて、はてと首を傾げる。
1と5が並んだときは、どう読めばよかったか。
しばらく考えて思い出せなかったわたしは、何時か知るのを諦めて起き上がった。
隣で寝かせていたぬいぐるみを抱きあげ、数歩先のドアに向かうと、少し背伸びをしてドアノブを掴む。
最近ようやく手が届くようになって、ドアを開けるたびに父と母に褒められている。
ちょっぴり大人になった気分で部屋を出ると、真向かいの両親の寝室が目に入った。
わたしは耳をピタリと扉にくっつけ、二人が寝ていることを確認すると、静かに階段を降りた。
きちんと言いつけ通りに子供用の手すりを掴み、一段ずつ慎重に足を下ろす。
そうしてリビングのドアも開けると、わたしは小走りで大きな窓に向かった。
カーテンを力いっぱい捲りあげ、窓ガラスに顔を近づける。
呼吸をするたびに白くなる窓が面白く、ついつい絵を描いてしまう。
お絵かきに夢中になっていると、不意に庭の方から可愛らしい鳴き声が聞こえてきた。
「来た!」
わたしは慌てて窓を拭い、呼吸をなるべくしないように気を付けながら目を凝らした。
鳴き声は3つ。
1つは柔らかい声で、あとの2つは甲高い声だ。
どうやら母猫とその子供がやってきたらしい。
「ネコさん!」
興奮を抑えきれなくて声を上げたあと、わたしはハッとして口を覆った。
両親に内緒で猫を眺めているのには、ひとつの理由があった。
それは、どうやら母が動物嫌いであるらしいということだ。
母に聞いたわけではないが、いくらねだっても犬や猫を飼ってもらえないので、わたしは嫌いなのだと思っている。
「おぉ、可愛いな。親子かな」
「たぶん。ふふっ、可愛いわね」
「うわぁ!」
突然、耳元で両親の声がした。
どうやら猫を見るのに夢中になっているうちに両親が起きてきたらしい。
驚いて飛び上がるわたしに、ふたりはクスクスと笑った。
「毎朝コソコソと何を見に行っているのかと思えば、猫さんだったか。うちの庭を通り道にしているんだね。気づかなかったなぁ」
そういって頭をぐしゃぐしゃと撫でてくる父は、じゃれ合う子猫たちを凝視しながら頬をうっすら赤らめている。
わたしは一瞬顔を輝かせ、そしてすぐに母の動物嫌いを思い出してうろたえた。
怒られると思い、身を縮める。
悪いことをしてしまった。そう実感すると、母の顔をまともに見られない。
「お母さん、ごめんなさい」
俯きながら言うと、叱られることを覚悟して拳を握った。
しかし、想定していた言葉はいつになっても聞こえない。
それどころか、母は不思議そうな顔で「どうして、ごめんなさい?」と尋ねてきた。
「だって、猫さんイヤでしょ」
言葉が足りないせいで、ますます母は首を傾げた。
どうして嫌いだと思ったのか、そこが引っかかっているらしい。
「お母さん、猫さん嫌いじゃないよ。くしゃみが出るからナデナデできないんだ」
横でふたりの会話を聞いていた父が代わりに答える。
「ほんと?」
どうしても母の口から聞きたくて、わたしは真剣な顔で向き直った。
母は二度ほど頷くと、ふわりと笑った。
「結奈は本当に優しい子ね。猫さん、お家にいてくれたらいいんだけど、ごめんね。お母さん、猫さん好きだけど、鼻水がたくさん出て大変になっちゃうの」
「うん、わかった!」
よく分からないけれど、とりあえず母は猫が嫌いではないらしい。
両親の笑顔につられて満面の笑みを浮かべると、また父がわたしの頭をぐちゃぐちゃにした。
暖かくて優しい空間が、どこまでも続いている。
心がくすぐったくて、自然と笑顔になれる場所。それが父と母の真ん中だった。
目を開けると、自分の太ももが目前に迫っていた。
どうやら葉月さんの看病をしている途中で、椅子に座ったまま転寝していたようだ。
俯いていた首が痛くて、私は肩をパキパキ鳴らしながら背筋を伸ばした。
とても懐かしい夢を見ていた。
ずいぶんと小さいころの記憶なのに、幼い自分にとって大きな出来事だったからか、はっきり覚えている。
それこそ、抱きしめてくれる母の温もりや父の優しい眼差しまですべて。
両親との思い出が夢として出てくることは今までもあった。
とても幸せな夢の中にいて、目が覚めて、現実を思い知る。
目の前にあった幸せがすべて過去のものだと気づいた時の喪失感は、何度経験しても新鮮な痛みとして心を襲った。
でも、久しぶりに夢を見て、その感覚がないことに気づいた。
いつの間にか、両親との思い出を幸せなものとして受け取ることができるようになっていた。
ふと、現世の家で葉月さんが贈ってくれた言葉を思い出す。
『楽しかったこと、幸せだったこと。それらを忘れる必要はないのです。今は割りきれなくても、いずれ必ず懐かしむときが来ますから』
両親の生きていた名残を見るのが辛くて、思い出ごと捨ててしまおうと思っていた私に、そう葉月さんは言ってくれた。
見たくないと目を背けていた両親の寝室に、思い出の品を目いっぱい詰めて、彼は朗らかに笑っていた。
(あのとき、本当に、捨てなくて良かった。後悔するところだった)
私は湧き上がる感情に胸を熱くさせながら、静かに眠っている葉月さんの横顔を見つめた。
恋びとであり、師匠でもあるこのひとには、返せないほどの恩がある。
叶うことならば、一生をかけて返したい。
そんなことを考えているうちに、またひとつ、愛おしい気持ちが募った。
2歳頃の結奈ちゃん。
すでにもふもふ中毒の片りんを見せ始めていますね(笑)




