虎の耳
私は汲んできた水を零さぬように気をつけながら、地下の部屋に戻った。
ハシゴをおりてすぐ、タウフィークさんの声が聞こえてきて、顔が自然と笑顔になる。
「タウフィークさん、目が覚めたんですね!」
慎重に桶を運びつつ、急ぎ足でソファーの元へ向かう。
私に気づいたタウフィークさんも、存外元気そうに笑顔を返してくれた。
「やあ、結奈ちゃん。久しぶりだね」
「はい、また会えて嬉しいです」
にこやかに会話する私たちの横で、葉月さんだけが難しい顔をしている。
私は邪魔にならないよう、会話をやんわり切り上げて手拭いを水に浸した。
ちなみに、小春さんは私が桶を取りに行っている間に一階に戻っていた。
葉月さんの指示に従って、タウフィークさんの傷の手当てを始める。
打撲傷にはニワトコの茎とキハダの樹皮の粉末を練り合わせたもので湿布し、擦り傷などの外傷には紫雲膏で対処する。
「結奈ちゃん、もう立派な薬師だね。すごいなぁ」
私の一連の動きを見ていたタウフィークさんが、関心したように言った。
寝そべったままの状態でこちらを見上げる彼は、優しく温かい目をしていた。
(私にお兄ちゃんがいたら、こんな感じなのかな?)
きょうだいを持たない私には、とても新鮮な感覚で、それから少し面映ゆい。
「結奈さんはとっても優秀だよ。自慢して回りたいくらいね」
そして褒めらてた私以上に嬉しそうなお師匠様。
得意げな顔を隠しもせず、自信満々に言う葉月さんに、私は顔が熱くなるのを感じた。
「わ、私のことはいいですから!」
耐えかねて喚くと、反応が面白かったのか、葉月さんたちに笑われてしまった。解せぬ。
「さて。それで、頭痛や下腹部の不快感の他に気になることは?」
切り替えるように表情を改めて尋ねる葉月さんに、タウフィークさんがへらりと笑った。
「大したことないよ。それにしても、ふたりは俺の救世主だね。眩しすぎて、目を開けていられない」
汗ばんだ額に腕を持っていきながら、タウフィークさんが言う。
冗談めかした口調とは裏腹に、浮かべた笑顔は強張って見えた。
「視覚障害だね」
道具や薬の入った籠を探っていた葉月さんが、タウフィークさんの言葉をあっさり曲解する。
一瞬ツッコミをいれるか迷ったが、葉月さんの表情が真剣みを帯びていたので、黙っておくことにした。
「ずっとドキドキしていて息苦しいし、ぐらぐらするし、胸もざわついている。どうしよう、俺はふたりに恋をしてしまったようだ」
「動悸にめまい、悪心。……恋? 楽しくなっているってこと?」
「お前、ついに恋心を知ったのか。おめでとう」
会話が全くかみ合っていない。
そもそも、なぜ師匠は恋をしてしまった発言から異常興奮に結論付けたのか。
だめだ、ものすごくツッコみたい。
葉月さんは埒が明かないと思ったのか、返答の代わりにため息をついた。
「さっきまで普通に話していたのに。女性の前で格好つけてしまう気持ちは分かるけど、必要なことだから真面目に話して」
諭すように言う葉月さんに首を傾げつつ、私はふたりの顔を交互に見た。
そして、瞬時に思考を巡らせてハッとする。
(そっか、アルミラージ一族は何かと胡散くさ……気取ろうとするところがあるから、他人……特に異性の相手に弱った姿を見せるのが苦手なんだ)
私はいそいそと手当の道具を片付けると、なるべく軽い空気を纏わせてすっくと立ちあがった。
「私、新しい水を汲んできますね」
そう言って歩き出す私を、タウフィークさんが慌てて制した。
「ごめん、結奈ちゃん。こういうの良くないよね。大丈夫、ちゃんと話すよ」
気遣ったつもりが、逆に気を遣わせてしまったようだ。
私はタウフィークさんの瞳を探ってから、そっと師匠を見る。
一連の流れを黙ってみていた葉月さんは、私の視線に気づいて指先を微かに動かして床を叩いた。
どうやら、ここに居ろと言いたいらしい。
私は瞬きでそれに応えて、葉月さんの隣に座り直した。
「それで、タウフィークは毒を盛られたと言っていたけど、先ほど話してくれたもののほかに、なにか気づいたことはない? 解毒しようにも、打たれた薬の正体が分からないと手の打ちようがない」
葉月さんの言葉を受けて、タウフィークさんは朧げな記憶を思い起こすように、固く目を閉じて唸った。
「うーん、必死だったからあまり覚えていないんだけど……なんか狐がどうとか言っていたな」
「狐ですか?」
「そう。狐の手で殺してやる……だったかな?」
私は思わず葉月さんに視線を向けた。
狐と聞いて真っ先に思い浮かぶのは、やはり霊狐である葉月さんだ。
「狐といえば葉月だし、状況からして皮肉だったのかなって」
タウフィークさんも同じことを思っていたらしい。
苦笑混じりにそう言って、葉月さんを見る。
けれど、当の本人は私たちの視線に気づくことなく、深く考え込んでいた。
「狐の手で殺す……。一体どういう意味で……いや、でもどこかで聞いたような……」
しばらく黙考してから、葉月さんはハッと息を呑んだ。
「狐の手袋!」
「え?」
急に可愛らしい単語が出てきて驚く私の横で、タウフィークさんが「あっ!」と声を上げた。
「それだ! 確かにそう言ってたよ!」
思い出せてスッキリしたのか、タウフィークさんが興奮気味に頷いた。
それにしても、狐の手袋とは一体なんなのだろうか。
素直に尋ねると、葉月さんはサラリと教えてくれた。
「ジギタリスの和名です。症状も似ていますし、もしかすると、打たれたのはジギタリス由来の毒かもしれません」
薬学部に席を置いている私は、その花の特性を思い出してギョッとした。
ジギタリス製剤と言えば、血中濃度の治療域と中毒域の幅が狭くて、非常に扱いづらい薬品だったはず。
薬でこれなのだから、毒薬として使われたとなれば、タウフィークさんの体はかなり危険な状態なのではないだろうか。
「あれ、結奈ちゃん、顔真っ青だよ? 大丈夫?」
……全然そうは見えないが。
私は不思議そうに見上げてくるタウフィークさんに曖昧な笑みを浮かべて、大丈夫だと首肯する。
そのまま視線を逸らすと、ごまかすように葉月さんに解毒方法を尋ねた。
「今は手元にないのですが、塩化カリウムの点滴をすることが一般的です。意識がなければアトロピンも投与するのですが、ウサギ目の妖は分解できてしまうため、どうも効きが弱くて」
今回は使わずに済みましたが、とホッとしたように言う葉月さんに同意してから、現世で学んできた薬学の知識を探る。
「ええと、アトロピンを含む生薬というと……ナス科?」
うろ覚えなので恐る恐る言うと、葉月さんは目を細めて笑った。
眼差しが良くできた教え子に向けるそれで、またこそばゆくなる。
「正解です。ハシリドコロやベラドンナなどの植物に含まれています」
そう言って葉月さんが薬箱の中から出してきたのは、チェントロネプの薬屋で買っていた小瓶だった。
ひとつ違うのは、入っていた薬種が液状になっていることだ。
「あれ、いつの間に。たしか、生薬のまま売られていませんでした?」
「抽出した方が副作用が少なくて済むので、船旅の間に仕込んでおいたのです。もっとも、ベラドンナの抗コリン成分はジギタリス中毒を悪化させることもあるので、今回は使えませんけれど」
勉強になるなぁと相槌を打っていた私は、ふと物言いたげな顔をしているタウフィークさんに気づいて我に返った。
つい師匠に患者さんの前で講義させてしまった。
ゴホンとひとつ咳払いをして、本題に戻るべく口を開いた。
「あの、塩化カリウムの点滴がない今は何をすればいいんですか?」
「応急処置として、虎耳草の煎じ薬を内服してもらいます」
そこまで説明して、葉月さんはタウフィークさんに向き直った。
「屋敷に戻ったら、薬師に見てもらって、ちゃんと治療を受けること。いいね?」
タウフィークさんはやっぱり複雑な表情をしていたが、諦めたようにため息をついて頷いた。
「はいはい。……この師弟、相変わらずマイペースというかなんというか。まあいいけど」
ボソッと呟かれた言葉は聞かなかったことにして、虎耳草を煎じるために準備を始める。
何はともあれ、本当に無事でよかった。
葉月さんの安堵した顔を見つつ、私は心からそう思った。
化学用語が盛りだくさん(*´艸`)




