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懸念を前触れに

「結局、何も起きなかったですね」


 肝試しの帰り際のようなことを口にしながら、葉月さんは空の回復薬の小瓶を薬箱にしまった。

 無事に門を閉じ終え、道を引き返しているところなので、辺りはすっかり暗くなっている。


「そうですね。てっきり待ち伏せされていると思っていたんですけど」


 第三の門が隠されていたのは、町の境を越えた先に広がる、静かな森の中だった。

 そこはジャンナの隣町であるムウェズィヌールの森で、門は(こけ)むした洞穴にひっそりと屹立(きつりつ)していた。


 敵の隠れていそうな場所が多くて戦々恐々としながら歩を進めていた私たちは、しかし、何事もなく目的を果たすことが出来た。


「もしかすると……夕方の地震で何か被害を受けたのかもしれません。組織の拠点とされているミフラブ渓谷は地盤が不安定そうですし」


 そう言った葉月さんの声は、複雑な色を滲ませていた。

 敵の身に不幸なことが起こると、どうしても心のどこかで安堵してしまうものだ。

 相手が対応に追われているうちに、私たちは安全に門を閉じることができるのだから。


 しかし、相手の不幸を無邪気に喜べるほど、私たちは非情にはなれなかった。

 大怪我を負ったかもしれないひとは、亡くなったかもしれないひとは、誰かの大切なひとなのだ。

 その大切なひとが、たまたま自分の大切なひとじゃなかっただけで。

 

「……無事だといいですね」


 導くように言うと、葉月さんは「そうですね」と控えめな笑みを浮かべて頷いた。


 しばらく歩いていると、少し離れたところに例の渓谷が見えてきた。

 トゲトゲとしたシルエットが、暗闇にぼんやりと浮かび上がっている。

 まるで不気味な切り絵の世界にでも迷い込んだみたいだ。


「でも、本当にあそこに組織の拠点があるんですかね。めちゃくちゃ住みにくそうですけど」


 たしかに、ミフラブ渓谷は岩壁が草木で覆われていて、隠れるにはうってつけの場所だ。

 けれど、あの切り立った断崖を行き来するのは至難の業である。


「それは私も疑問に思いました。ですが、ハサンがアルミラージ一族直々に入手した情報だと言っていたので、無視するわけにもいきませんし……」


 そこで一度言葉を切って、葉月さんは茶目っ気たっぷりに笑った。


「まあ、気にかけておいて損は無いでしょう。レオドール様が送ってくださった地図でも、この近辺に組織の仲間がいることは確認済みですからね」


 そう言って懐から三つ折りの地図を取り出す葉月さんに、私は「それもそうか」と頷いた。

 何事も用心に越したことはないと、つまりはそういうことだ。


 渓谷の麓に沿って歩いていた私たちは、やがて行きにも通った森に足を踏み入れた。

 途中まで馬車で進んだ、あの一本道だ。

 ハサンさんからの手紙の返事によると、合流地点はこの森を抜けたところらしい。


 砂漠化の進んだジャンナで、わずかに残った森林地帯のそこは、大きな湖によって生きながらえている。

 いわば常世のオアシスだ。

 動物たちも水を求めてやってきているようで、夕方に通ったときは、多種多様な生き物の鳴き声が聞こえていた。


(さすがに夜遅いから静かだなぁ。というか……)


 私は「ぐう」と盛大に鳴ったお腹を慌てて押さえて、恥ずかしさに縮こまった。

 ずいぶんと主張の強い腹の虫である。


「ふふ、さすがにお腹が空きましたね」


 羞恥心で頬を火照らせる私の代わりに、葉月さんが代弁してくれる。


「ナツメヤシの実も早々に食べてしまいましたからね。ハサンが用意してくれているという夜食まで頑張りましょう」


「ううっ、はい……」


 子供を(なだ)めるような声音で言われてしまい、ますます自分のお腹が恨めしくなる。

 もう少しタイミングを考えてほしい。

 このままでは、恋人ではなく食いしん坊に見られてしまう。


(それはやだ! 私は素敵なレディーになって、葉月さんに魅力的だと思ってもらうんだから!)


 そう心のうちで叫んだとき。

 ふと、道端に繁茂(はんも)する草本が大きく揺れた。

 ガサガサと草同士の擦れる音がして、一気に私と葉月さんの間に緊張が走る。


 次の瞬間、身構える暇もなく、音の主が飛び出してくきた。

 ちょうど今、私の立っている場所だ。

 わっと声を上げる中、大きな衝撃が私の体を襲った。


 相手側からも驚いたような声が上がる。

 そのまま、私と飛び出してきた相手はそれぞれ地面に転げた。


「結奈さん、大丈夫ですか? お怪我は?」

「だ、大丈夫です」


 横で札を構えていた葉月さんが、助け起こそうと手を伸ばす。

 その手に引かれて立ち上がると同時に、突風が吹き上がった。


 片手にお札を持ち、もう片方の手で私を引き上げた葉月さんの、深く被ったフードがひらりと舞う。

 白銀の髪や狐耳が露になり、月夜に照らされて神力が色づく。


「あっ」


 慌てる葉月さんの声に、少女の声が被った。

 肩で大きく息をしつつ起き上がった少女は、縦長の瞳を大きく見開いて、葉月さんをじっと見据えていた。

後半に差し掛かりました。

最後まで頑張ります!

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