糸の重み
「絶対なびきません!」
「それは分かりませんよ。人魚の魅力は底なしですからねぇ。ちょっと誘惑すれば、きっと彼もコロッと恋に落ちるでしょう」
「落ちません! ……ちなみに、誘惑ってどうやるんですか? あっ、別に参考にしようってわけじゃないですからね!?」
監視室の水の中で、私とオリバーさんは友情を深めていた。
そう、あくまで談笑だ。喧嘩ではない。
それから、別に油を売っているわけでもない。
修理道具や安全ベルトなどが準備されるのを待っているところである。
「お前たち、ちょっとは緊張感を持ってくれないか。乗客スタッフ全員の命を担っているんだぞ」
私たちのやり取りを見ていた船長が呆れ口調で言った。
縦長の瞳が残念そうに細められている。
金華猫と呼ばれる猫の妖だが、水は苦手ではないらしい。
職業が職業なので当たり前かもしれないが、平気で監視室をのぞき込む様に、つい「猫なのにえらいねぇ」と声をかけたくなる。
道具が揃うと、オリバーさんは手早く安全ベルトを装着した。
いくら人魚でも、荒れた海水面に居続けることは困難だそうで、流されてもすぐに戻れるよう、ベルトは長いロープによって船に繋がれている。
私はと言うと、手首に着けた短めのロープのみ。
その反対側はオリバーさんの手首に繋がっており、心強いのか心細いのかよく分からない状態だ。
「じゃあ、そろそろ行きますか。瓶は持ってます?」
「はいっ!」
しっかり頷く私を引き寄せ、オリバーさんは船長の方を向いた。
「なるべく急ぎますけど、海の状態とかは入ってみないと分からないので、時間がかかったらすみません」
私を小脇に抱えたオリバーさんが、申し訳なさそうに言う。
正直、持ち方をどうにかしてほしいところである。
脇腹に腕が食い込んで、非常に痛い。
「いや、焦らなくて良い。浸水しかけているとはいえ、まだ猶予はあるからな。安全第一だぞ」
「はい、キャプテン。それでは行って参ります」
オリバーさんは私に修理道具を手渡し、そのまま躊躇なく水の中に潜った。
合図くらいしてくれてもいいと思う。びっくりした。
オリバーさんに持ち運ばれながら仕事机や棚を通り過ぎ、丸い頑丈そうな扉を開く。
その瞬間、温かな海水が室内に入り込んできた。
一気に視界が開け、思いのほか静かな海原が飛び込んでくる。
息を止めていた私は、ふと苦しさを覚えて右手首のブレスレットに視線をやった。
暗い海の中、わずかに発光しているのが見えて、恐らくきちんと発動しているのだと分かる。
(きちんと息ができますように……)
私は心の中でそう呟くと、恐る恐る息をしてみた。
陸地でやっているときとは違い、ほんの少しだけ肺を膨らませる。
すると、潮の香に満ちた酸素が体内に入って来た。
「えっ、水どこ!?」
水の中でどうやって息をするのかと思っていたら、そもそも水がなかった。
分かりやすく言うと、私の体全体が防水加工されたように水を弾いているのだ。
驚いて声を上げると、しかし水中で音を立てたときのようにくぐもっている。
ますます分からない。
目をパチクリさせている私に、オリバーさんは二ッと明るく笑った。
「人魚は水を自在に操れる。だから、人魚の神力が宿ったそのウロコを身に着ければ、所持しているひとも、少しの間その力が使えるようになるんです。ポイントは祈ること」
「祈る……?」
首を傾げる私に、オリバーさんが頷いた。
ヒレを思い切り動かし、悠々と泳ぎつつも、目線は警戒するように前を向いている。
「神力を使う感覚はひとそれぞれでしょうけど、僕は祈るように使っています。もっとも、人間の祈る力に比べたら微々たるものですが」
唐突に「人間」という単語が出てきたので、危うく瓶と道具箱を落っことすところだった。
私は慌てて持ち直すと、オリバーさんを見上げた。
「あの、人間には祈る力があるんですか?」
「ははっ、気狐は桃源郷の辺鄙な場所に住んでいるって聞いたことありましたけど、本当なんですね。これ、かなり有名な話なんですよ」
可笑しそうに笑った彼は、船の構図が書かれた海藻をちらりと見てから口を開いた。
「結奈さんは天国をご存知ですか? 桃源郷のそばにあるにも関わらず、誰も見たことがない、幻の国です」
私は少し迷って、「少しだけ」と答えた。
葉月さんから天国のことについて聞いたことがなかったので、現世で言い伝えられているものを思い浮かべる。
「天国には亡くなった人間がたくさんいて、とても美しい景色がどこまでも続いているのだそうです。しかし、現世で亡くなったすべての人間が天国に行くわけではありません」
善人は天国へ、悪人は地獄へ。
宗教によって違いはあるだろうけれど、少なくとも私の中の死後の世界は、こういう仕組みだと思っている。
しかし、オリバーさんは私の予想とは違う事を話し始めた。
「天国に行けるのは、生者に想われている人間だけ。忘れられた人は消えてしまい、悪い印象で記憶されている人間は地獄に行くそうです」
言葉を切ると同時に、オリバーさんの泳ぐスピードが落ちた。
なんだか船の方へ引っ張られるような感覚がして、二人そろって目を細める。
「構造図ではこの辺りって書いてあるけど……あそこかな」
「暗くて見えませんけど、あそこな気がします」
なんともフワフワした会話とともに船体に近づくと、大きめの穴が開いた損傷箇所にたどり着いた。
手早く指示を出すオリバーさんに従い、道具箱から必要なものを手渡していく。
「どこまで話したっけ。……あぁ、そうだ。えっと、つまり人間には故人の存在を蘇らせるほどの祈りの力があるんです」
言いながら、オリバーさんは船体に向けて手をかざした。
葉月さんが札や狐火を扱うときのような繊細な動きではなく、豪快に腕や手を動かす。
その動作に伴って、船体を包んでいた海水がスライムのように縁取られていく。
にょーんと聞こえてきそうな動きで船から離れていく海水。
非現実的すぎて、むしろ何の感情も浮かんでこない。
(……それにしても、なんで葉月さんはこの話をしなかったのかな? もしかして、知らなかったとか?)
物知りの葉月さんに限って、そんなことは無いだろう。
単に話す必要がないと判断したのかもしれない。
(故人の存在を蘇らせるかぁ。……ていうか、その原理で言ったら、妖は死んだら消えちゃうことになるけど……)
なんだか頭がぼんやりしてきた。
疲れたのだろうか。
作業をしているオリバーさんも、少し顔色が悪い。
私は修繕に夢中な彼に回復薬を突っ込みながら、ひたすら大人しくしていた。
船の修理が終わったのは、三十分をギリギリ超えないくらいの時間だった。
度々波にさらわれそうになりつつ、何とか船内に戻る。
ウロコのおかげで髪や体を乾かす必要がなかったため、まっすぐ医務室に向かう。
すっかり通い慣れた部屋は、いつもより賑わっているようで、たくさんのひとの声が聞こえた。
私はひとつ深呼吸すると、迷いなくドアを開けた。
そうして目に入ってきたのは、様々な妖たちと、彼らの治療のために忙しそうな葉月さん。
新たな患者だと思ったのか、薬箱を持ち上げて振り返った彼と目が合う。
驚いたように目を見張り、次の瞬間、心底ほっとした顔で駆け寄ってくる。
近づいてくる葉月さんに笑いかけたところで、思い切り抱きしめられた。
肩に置かれた手が少し震えていて、人前だからとは言えなかった。
ついでに言うと、通りすがりの乗組員らから贈られた拍手が医務室のひとたちも伝染し、医務室はちょっとしたお祝いムードになっている。
訳が分からない。
そんな周りの様子など気にすることもなく私を抱きしめていた葉月さんが、ポツンと小さく呟いた。
「見送るのはもうたくさんです」
その言葉がどうしようもなく切なくて、私は腕にギュッと力を入れた。
ようやく次回で船旅は終わりです。
皆様、お疲れ様でした!
再来週からホットなお話になります:( '-' ):




