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風の予兆

 船医の仕事は思ったより少なかった。

 乗客の層が比較的若かったことも関係しているのだろう。


 たまに船酔いや風邪の症状を訴えてやって来るが、そのどれもが軽症の範囲内。

 おかげで葉月さんも私も時間を持て余していた。


 そんな私たちを見かねて声をかけてくれたのが、酒場で出会った男性、もとい乗組員のリカルドさんだ。

 

「患者さんが来たら教えるからさ、船内を回ってきなよ。店や劇場、カジノもあるんだ」


 せっかくの船旅が仕事で終わったら勿体ないと微笑まれ、私たちはお言葉に甘えることにした。

 リカルドさんの勢いに押されたのもあるが、単純に息抜きがしたかったのだ。


 乗客名簿を見せてもらったので、政府と繋がりのある妖がいないことは確認済み。

 そして葉月さんの話では、海を渡った先に例の組織のアジトがあるという。

 つまり、ここは常世で唯一の安全地帯なのだ。


 羽を伸ばせる最後の機会に、私たちは嬉々として医務室を出た。


 貴重品は常に持ち歩いているので、部屋には寄らず、そのまま六階まで上がる。

 そうして着いた先、目の前に広がったのは、だだっ広いショッピングモールだった。


「とりあえず、どんなお店があるのか見て回りましょうか。案内の冊子をもらい忘れてしまいました」


 のんびりとした口調で葉月さんが言った。

 落ち着いているように見えて、尻尾がフワフワと揺れている。

 目に見えてワクワクしている葉月さんに、自然と私の心も華やいだ。


 いくつものお店が集められたそこは、多様多種の妖たちによって賑やかに彩られていた。

 乗客は随所に置かれた商品を吟味し、口元に柔らかな微笑みを浮かべている。

 誰もが素敵な出会いに胸を高鳴らせ、目の前の物に釘付けだ。


 周囲を気にする必要がないことに安堵して、私たちもひと混みの中に足を踏み入れる。


 可愛らしくも手頃なジュエリーを売るお店があれば、高級感ただよう洋服屋もあり、幅広い客層に対応していることが(うかが)えた。

 中には常世らしい、摩訶不思議な雑貨屋さんもあった。


 興味本位で中に入ってみると、雑多に置かれた商品たちが真っ先に目に入った。

 アンティーク調の小物や年代物の衣類、そして各国から集めたという眉唾物。

 それらが店の棚に所狭しと並んでいる。

 

「……食べると十秒だけ真実を見抜けるチョコレートに、神力・妖力で分かる性格診断装置。こっちは……握っているだけで水中で息ができるようになる人魚のウロコ!?」


 かなり胡散臭いが、なかなか夢のある品物たちだ。

 買うには至らなかったが、見ているだけで笑顔になる。

 すべての店をざっと見終わるころには、なんだか満たされたような心地になった。


「楽しかったですけど、さすがに疲れましたね」


「そうですね。買い物も一段落しましたし、何か食べにいきますか?」


 私の腕から荷物を奪いながら、葉月さんが提案してくれる。

 今のところ患者が来たという連絡は入っていないので、私は一も二もなく頷いた。


 昼食には遅く、夕飯には早いという微妙な時間帯なので、お茶のできる場所を探して回る。


 しばらくして、見晴らしの良いデッキにたどり着いた。

 近くにはカフェもあり、私たち同様、遊び疲れたひと達の憩いの場となっている。

 私と葉月さんは注文を終えると、空いている席に腰を下ろした。


 外だというのに、いつの間にか凍てつくような寒さは消えていた。

 代わりに、春を思わす爽やかな風が、耳心地の良い潮音を乗せてやってくる。

 

「この先って、もしかして暖かいんですかね。風は進行方向から来ているっぽいですし」


 紅茶とともに頼んだスコーンを片手に、私は葉月さんに尋ねた。

 

「海の向こうは被害が出ていないと噂されていますが、案外その通りなのかもしれませんね。この船に乗っているほとんどの乗客が、その話を頼りに避難しているとか」


 そう言って、葉月さんは甲板に視線を移した。

 つられて目を向けると、そこには思い思いに船上を楽しむひとたちがいた。

 四階のモールと同様、彼らは何かを期待して、穏やかな表情を浮かべている。


 そんな心和む情景を眺めていると、ふと柔らかな風が駆け抜けていった。

 温かくて、なんだか眠くなってくる。

 小さくあくびを漏らすと、葉月さんがこちらに手を伸ばしてきた。


「少しお昼寝しますか?」


 尋ねながら、風で乱れた私の髪をそっと耳にかけてくれる。

 向けられた優しい眼差しに、顔が熱くなるのを感じた。

 じっと見つめてくるので、恥ずかしくなって慌てて首を横に振る。


「だ、大丈夫です! 仮にも仕事中ですし、なにより寝過ごしちゃうといけないので!」


「私が起こしに行きますから、ご安心ください。あっ、いっそのこと添い寝しましょうか。時間感覚には自信があります」


「添い……!?」


 私の反応がおかしかったのか、からかい始める葉月さん。

 楽しそうに目を細める彼を見て、たしかな幸せを感じた。

 

 温かな風に包まれ、海はゆっくりと穏やかに進んでいく。

 けれど、私たちはまだ知らない。

 この春一番が、大きな災いとなって私たちに襲い掛かってくることを。

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