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婚約していた相手に振られました 短編〜連載

婚約している相手に振られました。え? これって婚約破棄って言うんですか??

作者: 藍生蕗


「マリュアンゼ! お前の顔なんてもう見たくない! 二度と僕の前に顔を見せるな!!」


 そう言い放つ婚約者をしばし見下ろし逡巡するも、相手が駆け出しこの場から立ち去ってしまったので、マリュアンゼはひとまず肩の力を抜いた。そうして自分を見守る困惑の眼差しに少しばかり苦笑して、自身もまたその場を後にした。


 ◇


「こんの馬鹿娘が─────────────!!」


 そう力の限り叫んだのは、マリュアンゼの母だ。

 父と二人、祝いの酒盛りをしていたところに、こんな勢いで怒鳴りこんできたものだから、酔いも醒める。

 ぱちくりと目を瞬かせるマリュアンゼの横で父が母を宥めた。


「まあまあ、またマリュアンゼが何かしたのか? 今日は許してやれ。こんな良い日にそんなに怒るな怒るな。お前も一杯やるか?」


 父はまだ酔っている。故に母の怒りの目測を誤っている。

 マリュアンゼが読んだ通り、その言葉に母は目をカッと見開き父の目の前に一枚の書類を突きつけた。


「どこが! 何が良い日なんですか?! おめでたいのは、あなたの頭の中だけになさって下さい下さい! この書類が目に入らないんですか────────!?」


 どこぞのご老公の為のような台詞を(まく)し立てる母を横目に、マリュアンゼは手に持った酒を再び口に運び、ぐびりと飲んだ。


「は、はあ? 近すぎて見えないが、うん。んん? こ、婚約破棄??!」


「そうですよ! ジェラシル様が、フォンズ伯爵家が、マリュアンゼとの婚約を破棄すると言って来たんですよ────!!」


 その言葉に慌てて父が書類を両手に取る。その様子を眺めながらマリュアンゼは、あれはそう言う意味だったのかと得心した。


 ◇


 ジェラシル・フォンズ伯爵令息とマリュアンゼ・アッセム伯爵令嬢は両家の事業提携の為、婚約した。

 しかし今回の事で、傷心の息子にこのまま婚姻を押し付ける事は出来ないと、手紙にはあちらの親の悲痛な叫びが書いてあった。

 書いたのは伯爵でも、書かせたのは夫人だろう。あの夫人はマリュアンゼを見てガッカリしていたから。


 実は夫人と母との相性もあまり良く無かったし、事業提携なんて名ばかりで、負担もウチの方が大きい。それでもいいからこの脳筋を貰ってくれと頭を下げた結果がこれだ。母は発狂せんばかりに取り乱している。


 父と二人床に正座をさせられ、マリュアンゼはそんな事を考えていた。命令した母は二人の前を行ったり来たりしながら、ひたすら嘆いている。


「何で勝ったりしたの!?」


「……ジェラシル様が遠慮はいらないって言ったから……」


 じゃあしょうがないよな、なんて顔をしてた父は母から凄い目で睨まれ視線を逸らした。

 そして母は、どうして本音と建前の区別がつかなかったの! と怒り出し、ひとしきり喚いた後崩れ落ちた。


「せめて……せめて、優勝しなければ良かったのに……」


 そう言って今度はすすり泣き始める。


「いや、凄い事だぞ? 騎士団主催の剣術大会で優勝だなんて? 最後は副団長と手合わせして相打ち! 初の女性優勝! 快挙じゃないか!」


 因みにジェラシルとは二回戦で当たった。彼はあまり強く無かった。運動神経に自信があるなら参加してみろ、胸を貸してやる。なんて(のたま)っていたくせに。


 娘の栄誉を思い出し喜色を浮かべる父を、ハンカチを噛んで泣いていた母が、ギリッと睨みつける。


「ふ、副団長も褒めてたぞ?」


 そう言えば最後、副団長は顔が引き攣ってた気がする。マリュアンゼは、ぼんやりとそんな事を思い出す。

 それにしても、母の形相に怯みながらも父は父なりに頑張って母の機嫌を取ろうとしているが、逆効果だ。マリュアンゼは耳を塞いだ。


「どこの世界に男より強い令嬢を好む男がいるか────!! そして、そんな令嬢を嫁に欲しいと望む令息があああ!! ジェラシル様は、公衆の面前で婚約者に叩きのめされて恥をかいて……マリュアンゼはゴリラみたいな女だって周囲に言わしめてるんですよ! 私はもう、恥ずかしいったら……」


 そう言って泣き出す母に父は眉を顰める。


「な、うちの娘をゴリラだと?!」


「お父様、あんまりです!」


 頷き合う父娘に母が涙ながらに顔を向け────


「「ゴリラより、私(マリュアンゼ)の方が強い」」


「こんの脳筋父娘があああ────!!」


 ────絶叫した。


 ◇


 以後マリュアンゼは、淑女教育のなんたるかを再再々……教育を絶賛強制受講中である。


 ちくちくと刺繍なんぞに勤しみながら、母は父より強いと信じているマリュアンゼは内心首を傾げる。何故父は母と結婚したんだろう────と。


 淑女のなんたるかを一通り学んできたマリュアンゼは、母が貞淑な淑女と言われると困惑する。……母を見習い、良き夫人とは────主人を尻に敷き、時にはしばき倒して家を支える者だと解釈してきたのだ。なので淑女教育を受けながらこれは何の役に立つのだろうと、疑問ではあったものの、とりあえず目の前の母を見習って来た……つもりだ。


 マリュアンゼは別に出来の悪い子では無かった。

 だから何度か受けた授業も特に教師から問題無いと評され合格する。

 マナーも刺繍も、なんなら歌や絵画も得意で造詣も深い。

 ただ運動の方が好きなだけだ。


 世が世なら、或いは、性別が逆ならば文武両道と褒めそやされていただろう。けれど、ここではマリュアンゼは脳筋残念令嬢だ。頭は悪く無いが、鈍感なので脳筋なのだ。


「相変わらず見事なお手です、レディ」


 何故何度も呼ばれるのだろうかと、事情を知らない教師は、今日も首を傾げる。


「ありがとうございます」


 マリュアンゼも、見かけは普通の貴族の令嬢だ。

 着飾って大人しくしていれば、淑女にしか見えない。

 しかも今は婚約破棄に悩む、その表情は物憂げで……見栄えも悪くなかった。


 教師は詳しく事情を知らないとは言え、彼女が婚約破棄をされたのは知っていた。けれど彼女の何が気に入らなかったのだろうかと、不思議で仕方なかった。

 親戚筋の誰かを紹介しようかと気を遣うものの、それは止めた方がいいと、後日夫に止められる事になる。


「それでは私はそろそろ帰ります」


「ええ先生。ありがとうございました」


 丁寧なカーテシーにも合格と、満足気に頷いて教師は退室して行った。


「お母様は私をどうしたいのかしら……」


 思わずひとりごちる。

 多分猫を被って欲しいのだと、お付きの侍女は何度かアドバイスしている。しかしその感覚はマリュアンゼに伝わらず、段々と面倒になってあまり口にしなくなった。


 口を酸っぱくして助言するというのは、或いは苦言を呈すると言うのは、与える方もエネルギーを使うものだ。受け止めて貰えなければ、言う方もあまり口にしなくなる。


 そんなマリュアンゼにもどかしく思うものの、彼女はそれ以上に持ち合わせた不思議な魅力で、愛される量の方が多かった。

 結果甘やかされ、現在に至る。

 そして夫人は嘆く。


 マリュアンゼの父は昔騎士団に属していた、世に言う栄誉団員というヤツである。今は身体を壊して書類仕事に勤しむ日々を送っている。

 マリュアンゼは父に似ている。脳筋の癖に記憶力がとても良い。その為型通りの勉学や、判で押したような仕事は問題なくこなせる。……これが出来て何故これが分からない? という類稀なる人種。それがアッセム父娘。常人には理解出来ず、イラッとさせられる。


 コンコンと言うノックと共に入ってきた人物はこの家の三人目の脳筋、マリュアンゼの兄である。否、この場合二人目が兄で三人目がマリュアンゼだ────どうでもいいか。侍女は人知れず嘆息した。


「マリュアンゼ、婚約破棄されたんだって? 良かったな! あんなもやし野郎、俺は気に食わなかったんだ」


 兄アーノリルズは嬉しそうに顔を綻ばせる。

 マリュアンゼは困った顔で兄を(たしな)めた。


「お兄様、お母様に聞かれたら叱られますよ」


 この政略結婚の事業の立ち上げは、母がやっているものだ。勿論名前は父名義だが、実質的な事業掌握は母である。

 アッセム家は優秀な人間が多い。本来ならマリュアンゼもその内の筈なのだが、ズレている為数に入らない。


 兄もまた優秀だ。

 熊みたいな体格で豪快な人柄だが、領地経営の手腕は丁寧かつ迅速。因みに彼は見掛け倒しでそれ程強く無い。実はジェラシルの事はあまり言えない。マリュアンゼは内心で苦笑した。


 兄がジェラシルを嫌っていたのは知っていた。

 彼は見目が良い。そして騎士団で花形と言われる近衛騎士に従事している。細身で程よくついた筋肉と、気品ある身のこなしは妙齢の令嬢の注目の的であった。


 マリュアンゼはそんな令嬢たちによく貶められていたものだ。運動神経が良いので、水を掛けられた事も突き飛ばされた事も無いし、幼稚な悪口は退屈で、意にも介さなかったけれど。


 ついでにジェラシルは令嬢たちにモテる事が好きで、こっそり浮気をしているのも知っていた。モテる男は仕方無いのだとマリュアンゼは思っている。そして貴族というのはそんな上辺だけの清濁を併せ持った者たちだと言う事も、脳筋であるが故に感覚で理解していた。


 だからマリュアンゼはジェラシルを愛してはいなかった。

 それをすれば自分が傷つくだけだという事くらい、言われなくても分かっていた。


 けれど兄は妹を蔑ろにするイケメンに反発心を持っていたようで……少なくとも兄はジェラシルよりも妹を大事に思ってくれる人だから。


「お兄様、今日はどうしたんです? お休みを取って子どもたちと遊ぶと仰ってませんでしたか?」


 兄は既婚者だ。可愛いお嫁さんと双子を目にする度に、彼の顔はやに下がっている。

 そうして首を傾げるマリュアンゼに兄は気まずそうに顔を歪めた。


「実はお前に頼みがあるんだ」


 そう言ってアーノリルズは頭を掻いた。



「実は友人にお前の優秀さを話したら興味を持たれてな、実験に協力して欲しいそうだ。で────」


 兄は友人に上手い事言いくるめられ、妹を人体実験に差し出す約束をしてしまっていた。

 本人たちは気づいていない、その会話の中身を部屋の隅で聞いていた侍女は、胡乱な目で「脳筋」と口にした。


 ◇


 早速実験室に行こうと、支度の準備をしていたマリュアンゼは母に止められ、侍女に告げ口をされた兄は今床で正座をしている。


「何故人体実験なんて引き受けるの!?」


 今日も母のヒステリーは絶好調だ。兄は肩をすくめた。


「人体実験じゃなくて、人間の限界を……」


「同じ事です!!」


「俺に似て強靭で、ゴリラなんて目じゃ無い、森の覇者とも引けを取らない妹だと────」


「噂を増長させるな!!!」


 マリュアンゼは一応正座を免れているが、ソファの端で息を殺して成り行きを見守っている。いつとばっちりが飛んでくるかわからない。


「マリュアンゼ!」


「はいい!」


 急に母の首が九十度程回転し、マリュアンゼを睨みつけた。恐怖である。


「あなたも何故行こうとしているの!! 少し考えれば分かるでしょう?!」


「……お母様、相手は公爵様だそうですよ」


 その言葉に母は固まる。


「オリガンヌ公爵家のフォリム様だそうです」


 その家名に母は目をぱちくりと瞬かせる。


「アーノリルズ」


 名前を呼ばれ、兄はびくりと肩を跳ねさせた。


「オリガンヌ公爵というのは……あのオリガンヌ公爵で間違いなくて?」


「えーと、あの、現国王の王弟殿下のオリガンヌ公爵……です」


「マリュアンゼ────!!!」


「はははいいい!」


「何をしているの! 早く支度なさい!!」


 母は現金だった。


 ◇


 公爵家というのだから、もっと大きな屋敷を想像していたものの、辿り着いたのは、こじんまりとした屋敷だった。

 いや、ここに来る前に城のような公爵家の屋敷には寄ったのだが、中には入れて貰えなかったのだ。


 そして言われるままに、公爵家の用意した馬車に乗り今に至る。

 因みにマリュアンゼの中に怪しいとか疑わしいという類の感覚は無い。何よりマリュアンゼは自身の身体能力の高さを知っていたし、そこに疑いすら無かった。


 馬車を降り、はしたなく無い程度に左右を見回し、思わず感嘆する。


 (かわいい……)


 一応マリュアンゼは十八歳の娘で、その年頃の令嬢が持ち合わせる感覚だって備えていた。

 小さくて丸くて色取り取りで、御伽噺に出てくるお菓子の家のようだ。マリュアンゼは頬を紅潮させ胸の前で両手を組んだ。


 (ん……?)


 けれど、この可愛い作りの屋敷に少しばかり似つかわしく無いものが掲げてある。どうやらエンブレムだ。

 二双槍と守護の盾、それに王家の花紋であるカサブランカが添えてある。公爵家の紋章だろうか。



「誰の許可を得てここに入ってきた」


 首を捻っていると低く唸るような声が背中を刺し、マリュアンゼは飛び上がった。

 慌てて振り返れば眉間に皺を寄せた美青年が腕を組んで立っている。


 マリュアンゼはキョロキョロと辺りを見回した。

 そういえば、自分を馬車から下ろし、ここまで案内してくれた従者は、公爵を呼んでくると言って立ち去ってしまった。


 マリュアンゼは侍女も無く一人だった。公爵から一人で来るように言い付かって馬鹿正直にその通りにしたが、一応公爵家の侍女が付いてきてくれた。彼女は屋敷内にお茶の支度をしに行ってしまったので、今はいないが……


「私は公爵様に呼ばれて来た、アッセム伯爵の娘マリュアンゼです。怪しい者ではありません」


「嘘をつけ」


 被せるように青年は切って捨てる。

 マリュアンゼは目を丸くした。


「アッセム家のマリュアンゼといえば、ゴリラ女と有名じゃないか。素手で大木をへし折り、手刀で薪を割ると聞いているぞ」


 ……凄い噂である。いくらマリュアンゼでも流石に大木は斧を使って倒した方が効率的だと思う。やってみたいと思った事はあるが、やった事は無い。


 向かいの美青年は、ふんと鼻を鳴らし、じろじろとマリュアンゼを観察する。


「どうやってここを探し当てた? 私が婚約を破棄し引き籠っているからと言って、どうして何の面識もなく、取り柄も無さそうなお前に慕情を抱くと思うんだ?」


「……失礼しました。私の勘違いです。直ぐに立ち去りますから、これ以上はご容赦下さいませ」


 マリュアンゼは踵を返した。

 何故なら直ぐに察したのだ────こいつ、面倒くさいと。


 そそくさと美青年の横をすり抜けようとすれば、さらに別の声が掛かった。


「フォリム!」


 マリュアンゼがフォリムの頬が引き攣るのを横目で見たのと同時に、彼に手首を掴まれた。


 声を掛けた人物とマリュアンゼ、共にはっと身を竦める。


「何しに来た」


 先程自分に問いかけたそれよりも、もっと低い声で少し離れたその女性にフォリムは声を掛けた。


 掴まれた手首にぐっと力が込められる。


「あ、あなたが別邸で愛人を囲ってるって聞いて! 私の為に、私が忘れられないからって、そんな!」


 マリュアンゼは成る程と得心した。

 彼女がヴィオリーシャ。オリガンヌ公爵の元婚約者だ。

 

 (国王の再婚相手)


 この国の王妃は三年前病死した。

 後継がいない事もあり、国王は再三再婚を勧められてきたが、王妃の喪が明けるまではと頑なに拒んだ。

 喪が明けて、さあそれではと家臣が迫った時、国王はヴィオリーシャの名前を口にしたのだそうだ。


 弟の婚約者。

 国のトップが女の一人二人諦められないのかと、周囲は諫めようとしたが、その話を聞きつけたヴィオリーシャが国王の気持ちに応えたのだ。


 皆の呆れる顔に気づかないまま。


 マリュアンゼもよく人から呆れられてきたものだが、この話ばかりは、母親から口を酸っぱくして言い聞かされた。


「人の男を盗らない。色目を使わない。婚約者がいる立場なら尚更、他所に目を向けてはいけません!」


 マリュアンゼは別にふしだらでは無い。けれど、ジェラシルはそれと同じ事をしても許されるのかと残念に思った。彼の事も、誰かが諌めてくれたら良かったのにとも。


 (フォリム様もそれと似た────もっと辛い経験をした事があるのね)


 顔を俯けたマリュアンゼに、ふっと影が落ちたかと思うと、長い腕に抱き竦められていた。


「愛人とは失礼な事だ。私の新たな婚約者だ」


「?!」


「な、何を言っているの? 誰なのその方??」


 マリュアンゼは、思わず背負い投げをしそうになる両手に力を込め拳を作り、身体を強張らせた。流石に公爵を投げ飛ばす訳にはいかない。


「────あ、フォリム様こちらに、マリュアンゼ様が先程お見えになって……」


 ここで、先程フォリムを探しに行った従者が戻って来て、この状況を見て目を丸くしている。


「マリュアンゼ……? そうだ、マリュー。私たちが密会している事が早くも噂になっているそうだよ。恥ずかしがる君に配慮して別邸で過ごしていたのに。君は嫉妬の女神にでも目をつけられているのかい? これじゃあどこにも隠れられそうにない」


 マリュアンゼは震え上がった。

 巻き込まれる────!


 この面倒臭そうな修羅場に、そして万が一新たな醜聞でもこさえて持ち帰りでもしたら……母の般若の形相が目に浮かぶ……


 マリュアンゼは首をぶんと振った。自分は婚約者でも恋人でも無い。咄嗟にヴィオリーシャへの弁明を口にしようと、顔を振り仰げば、頭上から舌打ちが聞こえて顎を取られた。

 ぐきっという自身の首が上げた鈍い悲鳴と共に、マリュアンゼは初めての口付けをフォリムとしていた。


 ◇


「死んでください」


 通された応接室。

 据わった目で告げれば、向かいの紳士もどきも少しばかり動揺を見せた。


 自分は未婚女性だ。なのに、ひ、人前で……

 思わず茹で上がる顔を叱咤し、キッとフォリムを睨みつける。


 その様子を目を細めて受け流すと、フォリムは楽しそうに口にした。


「殺せば良かったじゃないか」


 あっさりと口にするフォリムに、マリュアンゼはぐっと喉を詰まらせた。


 あの時────


 意識が飛びそうになったマリュアンゼよりも先にヴィオリーシャが気を失った。

 放心するマリュアンゼから身体を離し、平然と従者に指示を出すフォリムにマリュアンゼは意識するよりも身体が動き、フォリムを攻撃していた。が────


 彼は強かった。


 (歯が立たなかったわ……)


 マリュアンゼは唇を噛み締めた。

 何が強いって……分からない。

 けれど打ち出す攻撃を全て受け流され、次手(つぎしゅ)に迷いの生じたマリュアンゼの隙を見逃さず、気づいた時には拘束されていた。


 赤子にでもなったような気分だった。

 力に物を言わせる男も、知恵を絞り技巧を尽くす猛者たちにも、マリュアンゼは勝ってきた。

 思い通りに身体を動かして、自分の読んだ結果に結びつかなかったなんて初めてだ。


 (悔しい……)


 知らずフォリムを睨みつける。

 それを受けてフォリムは肩を竦めてみせた。


「褒められた態度じゃないな、マリュアンゼ嬢。私は公爵だ。先程の振る舞いも、到底許されるものではないよ」


 マリュアンゼは、はっと目を瞬かせた。


「そ、それは……」


 先に無体を働いたのはフォリムなのだが、素直な脳筋マリュアンゼは動揺に瞳を揺らす。


「それにしても、本当に強いんだな。ジョレットが勝てなかったと言うのも頷ける」


 その言葉にマリュアンゼは先程の、屋敷に不釣り合いな印象のエンブレムを思い出した。


「あ、あなた、もしかして騎士団団長────?!」


 ジョレットは騎士団副団長で、剣術大会で優勝者────マリュアンゼと手合わせをした近衛の精鋭だ。


「か、勝てなかったのはこちらの方です……あの方はとても強くて」


 マリュアンゼが勝てなかった者は片手で数える程しかいない。その中の一人。マリュアンゼが心震わせる者の一人なのだ。思わず瞳が煌めく。


「私は彼より強いけどね」


 何でもないように口にするフォリムに、のぼせかけた頭が冷えた。

 騎士団のエンブレムは二双槍と守護の盾を輪が囲む。

 近衛は輪が二重。カサブランカを掲げられるのは、王族であるフォリムだけなのだ。

 初見では王族の────オリガンヌ公爵家の家紋だと思い、気づかなかった。


 騎士団団長は、何故か匿名だった。

 平和な世でその名を掲げる必要は無いと、表に出て来ない人物。高貴な人物だと噂で聞いた事があるが、成る程。確かに……とはいえ……


「いずれにしても、私は公爵閣下のお望みの人物像では無いようですから、この件は無かった事にした方がよろしいかと」


 兄には悪いが、実験の話は受けられない。何故ならもう二度と顔も見たくないのだから。

 

「そうだね」


 足を組みソファに肘をついたまま公爵は首肯した。

 けれどマリュアンゼが立ち上がると同時に声を掛けた。


「でも君は今から私の婚約者だ。明日もここに来なさい」


 その言葉にマリュアンゼは一度足を止めたが、そのまま足を進めた。


「聞こえたかいマリュー(・・・・)


 ばっと振り返れば楽しそうに笑うフォリムと目が合った。


「仕方ないだろう。ヴィオリーシャの前で婚約者宣言して口付けたんだ。君だって……」


 その言葉にマリュアンゼは勢いよく答えた。


「お断りします!」


 そしてさっさと退室して行った。


 ◇


「……よろしいんですか?」


 従者が困惑の表情を浮かべ口にする。


「……いいんじゃないか?」


 どっちみち誰か必要だったのだ。

 それに自分に挑み続けるあの目……悪く無かった。


 フォリムはふと思い出す。

 命を燃やすように情熱的で、綺羅星のようで……

 

 (面白そうじゃないか)


 思わず口元に浮かぶ笑いを噛み殺す。


「……と、いう訳だから、当面ここに女を入れるな」


 そう言って笑顔を向ければ、従者は一瞬胡乱な目を向けてから、恭しく頭を垂れた。


 ◇


「マリュアンゼ────!!」


 翌早朝から母の絶叫に叩き起こされ、マリュアンゼは窓から逃げるべく窓枠に足を掛けたところで、寝室のドアが勢いよく開いた。


「マリュアンゼっ!」


「おおお母様、落ち着いて下さい!」


 どう見ても、三階の窓から飛び降りようとしているお前こそ落ち着けと侍女は内心突っ込んだが、以前この規格外令嬢は屋根から飛び降りて足腰を鍛えようとしていたので、あまり当てはまらない。


 つかつかと歩いてくる母親に目を泳がせるマリュアンゼの肩に両手を置き、夫人は一言。


「良くやったわマリュアンゼ! グッジョブ! よ!」


 母は玉の輿に喜んだ。


 ◇


 嫌がるマリュアンゼを着飾らせ、アッセム夫人は満面の笑みで娘を迎えの馬車に押し込んだ。


「どこに行くのよ……」


 再び付き添い無しで馬車に放り込まれ、マリュアンゼは憮然とした。

 昨日の屋敷に連れて行かれたら逃走してやる。

 そう思ったところで、扇の向こうから覗く母の目は、声音と全く違い笑って無かった事を思い出す。その目で絶対に公爵に気に入られてらっしゃいと送り出された記憶が頭を過ぎる。

 娘とは────子とは……親には逆らえないように刷り込まれているものなのだ。


 (上手い事逃げよう)


 けれど、万人に通用していた無敵の運動神経があの公爵には通じないのだ。マリュアンゼは渋面を作った。


 (頑張って逃げよう)


 それしか思いつかなかった。


 ◇


「すまないな、ヴィオリーシャがどうしても会いたいと言うものだから」


 そう言ってこちらを玉座から見下ろす男は、間違いなくこの国の国王だった。隣には王妃であるヴィオリーシャが座している。

 マリュアンゼは引きつりそうになる顔を叱咤し、必死に笑顔を貼り付けた。


 二人は国教上は既に夫婦だが、王室の取り決めにより、ヴィオリーシャは未だ王妃(仮)である。


 確か王妃の戴冠式を待たずに夫婦の申請を出したんだとか。普通の浮かれた平民夫婦のようだ。ある意味親しみ易い感性とも言えるが、一国の王がこれでいいのかと思うのはマリュアンゼだけでは無いだろう。


 実際王妃教育は難航しているようだ。

 何でも力業で解決に持ち込みたい自分が言うのもなんだが、あまり国妃というものを理解していない。昨日公爵の屋敷に単身乗り込んで来た事を取っても、短慮としか言いようがない。


「あなたが本当にフォリムの恋人なの? だってあなたゴリラみたいだって専らの噂じゃない。フォリムがあなたみたいな人を選ぶなんて考えられない。まさか脅したんじゃないでしょうね」


 短慮


 まさしくその通りのようだ。

 マリュアンゼはニコリと笑顔を作った。


「王妃様、昨日はご挨拶出来ずに大変失礼致しました。私はアッセム伯爵家が娘、マリュアンゼと申します。昨日公爵閣下のお屋敷にお邪魔しましたのは、兄に言付かっての為にございます。誤解無き様、くれぐれもご配慮下さいませ」


「まあ……」


 その言葉にヴィオリーシャは、ほっと息を吐いた。


「そうよね。いくらなんでも、まだ私と別れてひと月ですもの。あの人がそんなに立ち直りが早いとは考えられないわ」


 ……そうだろうか……


 一度しか会って無いが、攻撃を躱す時のあのムカつく顔。あの男絶対に性格が悪い。立ち直るどころか、既に感情というものを切り捨て、犬猫にでも食わせている可能性だってある。


 それよりヴィオリーシャは切り替えが鈍過ぎないだろうか。

 国王夫妻は新婚一ヶ月だが、その前に半年程婚約期間と言うものが存在している筈だ。なのに未だ公爵の婚約者気分が抜けないでいる……


 そんなヴィオリーシャを、国王も何とも言えない顔で眺めている。


 すると背後からくつくつと笑い声が聞こえて来た。


「そうですよ、王妃様、オリガンヌ公爵がマリュアンゼ等を婚約者────失礼、恋人になどする筈がありません」


 どこかで聞いた事のある声に振り向けば、ジェラシルがいやらしい笑みを浮かべこちらを見ている。


「あら、あなたこんなところで何をしているの? 弱いくせに」


 マリュアンゼの正直な感想に、思わずと言った風にジョレットが吹き出した。


 (あら、副団長様もいらしてたのね)


 途端に気分が舞い上がる。


「こ、この! お前みたいなゴリラ女から王族を守る為に俺たち近衛がいるんだろう! 無礼な口を叩くな!」


 真っ赤になって怒り出すジェラシルを、同僚たちも気の毒そうにしながらも、頬を引き攣らせて見ている。


「だったら尚更あなたじゃあ力不足でしょうに。いるだけ無駄だわ」


 切って捨てた瞬間ジェラシルは腰の剣に手を掛けた。

 それにぴくりと反応すると同時に怒声が飛んできた。


「止めろ!」


 皆が一斉に声が聞こえて来た方を見る中、マリュアンゼは一時ジェラシルの剣に目を留めてから、そちらを向いた。

 ジェラシルの一人二人、武器を持って掛かってこようと怖くは無いが、抜刀でもされて面倒事に巻き込まれるのは御免である。


 改めて入り口付近のその人を見遣れば、息を切らしたオリガンヌ公爵がこちらにつかつかと歩み寄って来ていた。


「兄上! どういう事です!」


「ど、どうとは??」


 玉座に張り付く様に座っていた国王は、今度は身体を強張らせ弟の言動に警戒している、というか────怯えている。


「彼女を伯爵家に迎えに行ったら、既に別の馬車が来て連れて行ったと。馬車にカサブランカの家紋があったから公爵家のものと勘違いしたそうですよ」


 キッと睨むフォリムに国王は目を泳がせた。


「わ、私はヴィオリーシャが、お前の恋人を見たいと言うから……」


「仮にも一国の王が、くだらぬ事に時間を費やすべきではないでしょう。私が誰と婚約をして、あなたにどんな迷惑を掛けると言うのです? 二度としないで頂きたい」


 そう言うとフォリムはマリュアンゼの手を取り、恭しく口付けた。こちらが目を丸くしている間に玉座を振り返り、その口で言う。


「……という訳なので、私の方の心配は無用ですのであしからず」


 にやりと笑い、颯爽とその場を立ち去った。勿論マリュアンゼを連れて。


 ◇


 (やっと解放された)


 フォリムは馬車の中で背を預け、深く息を吐いた。

 ヴィオリーシャとは長年婚約関係だった。

 子どもの頃一目惚れをされて、ずっと付き纏われていたのだ。

 こう言う言い方をすると万人に非難されるが、こちらとしてはその通りなのだから、仕方がないと思うのだ。


 愛せなかった。

 何かしらの情を示す事にも苦痛を感じ、何度も逃げたくなったが、彼女は有力公爵家の令嬢で、無碍には出来ないまま時間だけが過ぎて行った。


 けれど、いよいよ結婚まで秒読みと言う段階で、兄がずっとヴィオリーシャに恋心を抱いていたと聞き、驚きと同時に嬉しかった。

 ああ、やっと解放されるのだと。


 ヴィオリーシャもまた喜んだ。

 何故なら彼女は、自分がフォリムに好かれていないと分かっていたからだ。それでもフォリムに執着していた。それがまた重かった。


 けれど、人から受ける愛────愛される事を知った彼女は、フォリムへの執着をあっさり捨て、直ぐに兄と婚約を結び直した。


 そして彼女はそのまま変な方向へ行った。

 兄と出会った事で、愛される自信がついたのだ。

 それが何故か、フォリムも本当は自分が好きだったのだと言う解釈になり、今に至る。


 愛されなかったが故に愛に溺れた。

 今も一人もがいているように、フォリムには見える。

 必死に伸ばす兄の手に目もくれず、未だ血走った目で自分を捉え続けている。

 

 そろそろ勘弁して欲しい。


 そう言う意味で自分もさっさと結婚したかったが、見渡す女性がほぼ、ヴィオリーシャに見える程に末期症状だった。


 友人であるアーノリルズに話を持ちかけたのは、そんな事が理由だ。彼の妹────

 武芸に秀でた脳筋令嬢。


 馬鹿の方が扱いは楽だと踏んだ。

 また、アーノリルズの人柄には助けられる事が多く、そんな奴の妹であるなら、ヴィオリーシャや他の令嬢に持てなかった何らかの情を抱けるかもしれないと考えた。


 なんかもう行き詰まっていた。

 友愛でも親愛でも家族愛でも何でも良いから、愛しいと思える存在を探していた。

 例え相手が熊のような友人と生き写しの妹であっても……あの時は何とかなるような気がしたのだ。


 ◇


 殺気と共に放たれる拳を顔の前で受け、フォリムはふと微笑んだ。

 相変わらず良い腕だ。

 目を向ければ三角に釣り上がった燃え盛る瞳とかち合う。


「何であんな事を言うんですか! 国王の前で! 誤解されるじゃないですか!」


「婚約者だと言っただろう」


「お断りした筈です!」


 この際母の期待は見なかった事にする。


「お前は確か先日ジェラシルに婚約破棄をされたばかりだろう? もう他に相手がいるのか? それとも好いた相手でも?」

 

 マリュアンゼはぐっと詰まった後、気まずそうに目を背けた。


「しかしですね、こういう事は……」


「先程アッセム夫人に会った際、君をよろしく頼むと言われたんだがな」


「母は誰にでも言うんです!」


 思わずジト目で即答する。

 実際、ジェラシルにも言った。彼の人となりは気にせず……というか見えていなかったのだろう。

 見目の良い彼が微笑めば、大抵の女性はくらりとくるらしい。


 アッセム家の事業は順調だ。

 領地経営も兄が実力を発揮し、父は城で役職に就いている。

 実は名家なのだ。

 それでも、脳筋と呼ばれる自分を貰うのは不名誉を賜るのと等しい。名家の令息が金に目が眩んだと言われるのを良しとする筈がない。だから自分の元に来た求婚は、切羽詰まった家からのものばかりだった。


 けれど父はそんな縁談を認めはせず、自分を守ってくれた。


 (お父様みたいな人が良かったわ)


 そうしてやっと見つけた家がフォンズ伯爵家だったのだ。

 同等の爵位に、表立った疵もない。彼は嫡男だし、マリュアンゼが嫁ぐ事に何の問題も無かった。


 母は必死に父を説得して、父も伯爵やジェラシルに会って、良しとしたのだ。


 (でも結局あの親子は第一印象が凄く良いだけの……)


 会う度に感じる違和感はマリュアンゼしか感じていなかった。親同伴で婚約者に会うなんて普通はしない。

 ふつふつと湧くこの鬱屈は、家族や友人からも時々受けるものに似ていたから、だから、我慢して取り繕った。


 本来なら婚約期間とはお互いを見極める時間。それに目を背けた結果、こうなった。

 実は婚約破棄後に母が泣いてた事も知っている。

 自分とジェラシルの相性が良くないのでは無いかと、時々気にしていたことも。


 彼は華やかな人だったから、とぼけた感性で猛獣のようにダンスフロアを走り回るマリュアンゼを嫌った。美味しそうにお菓子を食べれば窘められた。劇を見に行って好ましい感想を言えないと疎んじた。……自分たちは、合わなかった。


 けれど一度家同士で結んだ縁を切る事がどんな影響を与えるか……多分家よりもマリュアンゼの方を心配して悩んでいたと知っている位には、母の事を分かっているつもりだ。

 それでも脳筋に、婚約破棄と行き遅れという醜聞を加えるよりも、継続を選ぶべきだと判断した。……何も間違えていない。



「それならこうしよう」


 むすりと口を引き結び思考に暮れるマリュアンゼに、フォリムは人差し指を立てた。


「婚約期間中に、君が私を倒せたら────参ったと言わせたら、この婚約は白紙に戻そう」


 ◇


 以来、マリュアンゼは毎日オリガンヌ公爵別邸に通い、せっせとフォリムに挑んでいる。

 母は娘の熱意に感激し、ドレスを何枚も新調した。あちらに着けば、すぐに乗馬服に着替えるのだが、その話は勿論していない。


 そう言えば実験云々の話はどうなったんだろうと、聞いてみたところ、どうやら公爵の興した事業が製薬に関わるものなのそうだ。

 で、女性を対象にした薬品の治験に付き合ってくれる人を探してしたらしい。


 平民では無く貴族女性を選んだのは、既に国から認可が降りる段階まで進んでいるものなので、あとは薬品の信頼性を高めたかったのだそうだ。


 ……公爵には女性の友人がいないらしい。

 成る程と思った。気安く頼める相手がいなかったのだろう。得心が思わず顔に出ると、公爵はムッとしていたが。


「君は本当に運動神経が良いんだな」


 そう言って重心を崩しながらも、フォリムはマリュアンゼをぽいと放った。


「せ、説得力がありません」


 這いつくばった状態で、ぜいぜいと肩で息をしながらフォリムをぎりっと見上げると、楽しそうな顔が返ってくる。

 

「今日はここまでにしよう」


 そう言って一応手を貸してくれようとするのだが、マリュアンゼは悔しくて借りた事がない。

 がばりと身を起こしたところで、横から人の気配を察し、研ぎ澄まされた神経のまま、勢いよく振り向いた。


「おや……マリュアンゼ嬢」


 驚いた顔の騎士団副団長ジョレットに、マリュアンゼもまた目を丸くした。そのまま流れるように差し伸べられる手を咄嗟に取り、ぐいと身体を引き上げられた。


「あ、ありがとうございます……っ」


「いいえ」


 にこりと微笑まれて頬が熱くなる。

 しかし自分は汗臭い。こんなに近くでは……

 慌てて手を取り返し、目を泳がせていると、侍女がお湯の準備が出来たと迎えに来てくれたので、挨拶をして急いで辞去した。



「なんとも可愛らしいお嬢さんですね」


 マリュアンゼの背中から視線を移せば、同じくその背を見送るジョレットの穏やかな微笑みに、何故か昂った身体も冷えた。


「何か用か?」

 

 持て余した両腕を組み、憮然と問う。


「ええ。というか用も無いのに来ませんよ。いつまで引きこもってるんです? 団長」


 フォリムはふん、と息を吐いた。


「騎士団はお前の好きにしていいと言ってあるだろう」


 実質運営はジョレットがやっている。

 部下からの信頼も厚く何の問題も無い。

 名ばかりの自分がしゃしゃり出るよりも、余程団員の結束は強まるだろう。


「近衞騎士として、ヴィオリーシャ様にお仕えする事がお嫌ですか?」


「……嫌に決まってるだろう……」


 確かにそれが一番の理由ではあるが。


 フォリムは嘆息した。

 騎士団団長の役職を返上し、領地と事業経営にのみ従事したい。城から遠ざかりたい。

 だが、団長という地位を任せられる者がいなかった。


 叩き上げだけで成り上がれる程、今は戦争の脅威というものが無い。何代か前の英雄の子孫の中で、資質のありそうな者もいなかった。


 何より平和ボケした今の世で、騎士団で成り上がるなど難しいに尽きる。その絶好の好機は、先日乱入してきたどこかの令嬢が掻っ攫っていった。


 多くの猛者の嫉妬を受けながらも、戦女神のように戦いを楽しみ笑う彼女に羨望を向ける者もいた。

 ジョレットもまたその内の一人だ。

 大会のあの時、フォリムは遠目に彼女を見ていた。ゴリラというよりも猿みたいだと思った。


 柔軟な動きで全身を鞭のようにしならせる、彼女の筋肉は赤だろうか、白だろうか? 重心を腰に据えられる器用さに舌を巻き、あの細腰では折れないかと、最後には何故か心配までし出した。

 男に生まれてくれていたなら、是非騎士団に、自分の後継に欲しいと思った。


「ヴィオリーシャ様は取り乱しておりましたよ。あなたが誰かを好きになるのが許せないのでしょう」


 自分が得られなかった物を手にする事が許せないのだろう。あれも一応元公爵令嬢。多少のプライドは持ち合わせているだろうから。


「別に好きになった訳では無いさ」


「まあそうでしょうね」


 自分で口にした言葉だが、人に知ったように言われると何故か気に入らない。

 ムッと顔を向けるとジョレットは困ったように肩を竦めた。


「とりあえず、来月のスケジュールの確認をお願いします」


 笑顔で躱され、何となく面白く無かった。


 ◇


 フォリムは応接室のソファで足を組み肘を突いていた。

 ソファに座ると大体この姿勢をする。品位は無いが身体は楽だ。そのままその先にある一組の男女をじっと眺めていた。


 すっかり二人の世界で会話を楽しむマリュアンゼとジョレットにフォリムは内心舌打ちしていた。


 (さっさと帰れ)


 今までは用件のみで立ち去っていた癖に、最近居座る時間が長いのは、自分の気のせいでは無いだろう。

 ……割と高確率で、屋敷に連れ込んでいた女性とかち合っていたのは理由にはなるまい。ヴィオリーシャ避けという意味では、マリュアンゼだって同等なのだから。


 確かに面白い娘だと思う。

 そしてジェラシル程度では手に負えない娘だろうとも。

 

 恐らくジョレットも、剣術大会であの目を向けられたのだろう。

 挑み、燃える、あの瞳。

 ジェラシルは恐怖し逃げた。

 ジョレットは、興味を持った。

 そして恐らく知ったのだ。あの痺れるような感覚は、他の令嬢では味わえないと。


 (ちっ……)


 自分は何を考えるている?

 猿に愛着でも持ったか。


 自嘲気味に口元を歪めれば、ジョレットがマリュアンゼの手に唇を寄せ、別れの挨拶を口にしていた。


 ◇


「役が終われば頂けませんか?」


 帰りに見送りをしろとジョレットにせがまれれば、そんな台詞が出てきた。

 何を……とは聞かなくとも察せた。


「……お前の好みとは違うだろう」


 気づけばそんな言葉を返している。


「そんなもの……自分でも知らなかっただけですよ」


 そう言って部下は少年のように笑った。


 ◇


 翌日兄に呼び出された。

 ヴィオリーシャがどうしても話がしたいと言い出したそうだ。兄はヴィオリーシャの言う事を何でも聞く。はっきり言って振り回され過ぎだ。王という立場を分かってるのだろうか。


 城の上等な応接室で渋面を作っていると、兄とヴィオリーシャがやってきた。


「待たせて済まないな、フォリム」


「いえ、先日は失礼致しました。兄上、義姉上」


 兄姉への挨拶を口にしながら、臣下の礼を取る。

 ヴィオリーシャへの牽制。

 すると、ヴィオリーシャがクスクスと笑い出した。

 眉間に皺を刻み顔を上げれば、ヴィオリーシャが意地の悪い顔で笑っている。……なんだと言うのだ。

 困ったように兄も笑い、まあ掛けろとソファを勧められた。


 向かいに座る彼らとの間のテーブルに、お茶が用意されたの見て、フォリムは口を開いた。


「お話とは……?」


「お前の婚約の事だ」


 フォリムは再び眉間に皺を寄せた。


「またその話ですか? 私の婚約者は────」


「勘違いするな。応援すると、喜んでいると言っているんだ。私も、勿論ヴィオリーシャも」


 その言葉にフォリムは眉間の皺を深めた。

 応援? ヴィオリーシャが?

 思わずそちらを振り返れば、ヴィオリーシャは澄ました顔でお茶を飲んでいたが、フォリムの視線を感じてニコリと笑った。


「ええ、応援しているわ。頑張ってね」


 その台詞にフォリムは胡散臭そうに顔を顰める。


「本当に応援しているのよ、ようやっと王妃教育に集中出来る位には、私の気持ちは落ち着いたわ」


「何故……」


 そう問わずにはいられない。

 だったら今までは何だったと言うのだ。

 固い声で出したその疑問符にヴィオリーシャはツンと顎を逸らした。


「そうね、教えてあげるわ。私は別に性悪じゃあありませんから」


 どう見ても捻くれた笑顔で勝ち誇る義姉に、フォリムは肩の力を抜いた。どうせ大した事では無い癖に、ロクでも無い事なのだ。


「あなたが私と同じになると思ったら、溜飲が下がったの」


「……は?」


 言われた言葉の意味が分からずに目を丸くする。


「分からないわよね、あなたには。婚約者に全く顧みられないという事がどういう事か。……誤解しないでね。あなたのエスコートは完璧だったわ。でも、私が捧げた心の一欠片でもあなたは私に返してくれた? ……他所の……未亡人の方と恋人だった事もあったでしょう?」


 フォリムは一旦口を噤んだ後、答えた。


「……恋人がいた事は無い」


「そうね……婚約者がいるのにそんな事しないわよね。でも例え一時の戯れでも、私には嫌だったわ……」


「……」


 少しばかりバツの悪い気分になる。

 フォリムはヴィオリーシャより五歳年上だ。

 婚約者とは言え未婚女性に手を出す事は出来なかったが……流石にいい年をして、そういう事に全く縁が無いという事も無かった。


「あの時……」


 ふとヴィオリーシャが宙を見て、呟く。


「玉座に座っていた私からはよく見えたの。……あの子の……視線の先が……」


 そう言って今度はフォリムに目を合わせ微笑んだ。


「あなたの見ていたものも……私はね、あなたの事をそれくらい見ていたの。だから……」


 震え出すヴィオリーシャの手に兄が自分のそれを重ね、二人はそのまま見つめ合った。


「ざまあみろって思ったわ」


 兄と目を合わせながら、ヴィオリーシャは泣きそうな顔で口にした。


「あの子が見ているのはあなたじゃない。だけどあなたは自分で気づいていないだけで、きっとあの子の事────だから、振られればいいのよ、あなたなんて! 好きな人に見てもらえないまま他の誰かに攫われて、惨めに泣けばいいんだから!」


 思わずはっと息を飲む。


 そしてそう言って泣き出すヴィオリーシャを、兄はキツく抱きしめ頭を撫でた。


 フォリムは無言のまま立ち上がり、そのまま城を後にした。


 ◇


「……君は優しいね」


「優しくないわ! 私は、私の心はこんなに意地悪で、醜くてっ!」


 夫にしがみつきながらヴィオリーシャは声を張った。

 優しい夫は自分の頭をずっと撫で続けてくれている。

 

「優しいよ」


 その言葉にまた涙が溢れる。

 自分の気持ちに引導を渡すと共に、彼に今までのお詫びを込めて少しだけ……


 ぎゅっと夫の服を握りしめた。

 ずっと自分の弟に執着していた女を妻に望んだ馬鹿な男。

 ……彼にも馬鹿になって欲しかった……少しでも自分に……でも……


 それはもう他の誰かの役目となった。

 彼が自分と同じ景色を見る事になると知ったあの時に、生まれた優越感が今までの恋心を上回った。……勝ったと思った。そうして緩やかに解けていった、彼への執着。


「今までごめんなさい……」


「いいよ」


 この人に助けられておきながら、本気で向き合って来ていなかった。今度こそずっと待っていてくれたこの人と……


「私は君と婚約するずっと前から君が好きだったんだ。ずっと、君を待っていた。……振り向いてくれて嬉しいよ。それだけだ」


 ヴィオリーシャは泣きながら笑った。


 馬鹿な夫に馬鹿な妻。

 きっと自分たちはお似合いに違いない。

 夫の背に腕を回し、心の底から愛しいと思った。


 ◇


 フォリムは馬車の中で深く息を吐き出した。

 何かが一つ片付き、そして新たに託された何か。

 それを持て余したまま、屋敷までの道のりを目を閉じて過ごした。

 けれど閉じた眼裏に浮かぶのは、煌めく瞳で自分を見据えるあの少女だった。


 ◇


 マリュアンゼは今日も元気に別邸へ向かう。

 背負う母の期待は纏めて横に放ってある。

 馬車を降り部屋を借り乗馬服に着替えていると、昨日のフォリムの様子を思い出す。彼は少しだけ変だった。

 それはただの勘なのだが、マリュアンゼにとっては大事な感覚だった。


 (……怒っていたわ)


 フォリムは意地悪だが、あまり感情を出さない人だった。

 ただ昨日は、何度かマリュアンゼに対して苛立っていた。理由はよく分からない……けど……


 (チャンスかもしれないわ!)


 感情の乱れには隙が生じるものだ。

 マリュアンゼはぐっと拳を作った。


 彼は強い。勝ちたい。

 マリュアンゼの中で婚約破棄という目標と、認められたいという感情が少しずつ混ざり始めていた。


 ◇


 右に左に撹乱して、フェイントを入れて────昨日と同じ動き……でも、やっぱり追えていない────ここ! 打ち上げた拳を顎に向けて放てば、一瞬焦りを見せたフォリムの顔が視界の端に写り、思わず口の端を吊り上げた。

 

 その後はよく分からない。

 気づいた時には妙な浮遊感が身体を襲い、自分が浮いている事に気づいた。受け身を取らねばと身体を動かそうとするも、腹にじんじんと鈍い痛みが響き、マリュアンゼは頭から落下した。


 ◇

 

 (あ……ぶなかった……)


 落ちるマリュアンゼに慌てて飛びついて地面を転がった。

 懸命に撃ち込む拳と繰り出される脚は……自分と離れる為の彼女の懸命なもがき。それに今更打ちのめされた心に引きずられ、自身の身体の動きが鈍った。


 ヴィオリーシャの言葉なんて聞く耳持たなかった。今までずっと。

 けれど最後に刺されたのはナイフでは無く棘で、抜けずいつまでもジクジクと痛んだ。


 ヴィオリーシャはずっと自分を見ていた。

 それがうんざりする程の事実である事は、長年囚われていた自分が一番知っている。


 (囚われた)


 最後の最後に囚われた。呪いのような予言の言葉に。

 それなのにフォリムは何故か場違いな事を考えた。


 (もし昨日のように、ジョレットが来ていたら……)


 きっとあいつが助けていた。

 横から掻っ攫われて────

 知らず腕に閉じ込めた身体を抱き竦め、ぐっと目を瞑る。


「参った……」


 渡したく……無い。

 すると腕の中でマリュアンゼがピクリと反応し、ガバリと身を起こした。


「参ったって言った!」


 自分の上でマリュアンゼが嬉々とした顔を向けてくる。

 何を言わんとしているのかを察し、物凄く気分が悪くなる。


「……言っていない……」


「言いました! これで婚約は白ふぃりひて……」


 喜びに紅潮させる白い頬を左右に引っ張りそれ以上は言わせない。


「言ってないと言ってるだろう。大体どの辺で君が私に勝利していたんだ」


 ぐっと詰まるマリュアンゼを押し除け、座り直す。

 同じ目線でじっと見つめれば、むっと頬を膨らませ睨み返された。

 フォリムは思わず頭を抱えた。


 (分からん)


 自分の事なのに自分の心が分からない。

 

 ただ……あの煌めく瞳が、誰かに向けて唯一の光を宿したら……

 そんな想像をしたら心がざわめいた。


 そしてこんな乱れた心のままでは、やがて自分は負かされてしまうかもしれない。

 それは都合が悪い。だから自分に出来るのは、勝ち続ける事だけで。


「婚約を白紙にして下さい!」


「……断る」


 けれど負ける気が無いという事は、見ている未来は決まっていたのだけれど。


 気づいているけれど、見ない振りをしている自分の心。


 胸を掻き乱すその情の名前が何であるかを、フォリムが知るのは、あともう少しだけ先の話。


新年初投函

今年も良い年でありますように

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