宮本
隣の席の宮本は、右腕を使わない。宮本とはこの四月初めて同じクラスになった。言葉を交わしたことはなかったが、高校を入学してから三年になるまでに、噂は何度か耳にしていた。
噂は人の口を回るごとに変貌していったので、どこまでが真実だったのか、あるいは初めから真実などなかったのかもしれないが、二年になった頃には『宮本は事故で右腕が使えなくなった』に落ち着いていた。親の虐待論や生まれつき説は、もう消え去ってしまったようだ。一時は事故の詳細まで噂が広まったが、いずれもあてにはならず宮本自身が何も言わないので『交通事故』で収束した。
三年になったばかりの頃は、机の並びが出席番号順だった。僕は窓際の列で、宮本は廊下側から二列目だったから、関わることはまるでなかった。五月に入ってすぐも、定期考査があったので同じことだった。
しかし五月の末、席替えをした今。彼の噂がよく出回ったのは、彼の持つ雰囲気が原因だったのだと僕は思った。
「旭川」
担任が僕を呼んだ。
「後で職員室に来い」
意味深な言葉に、友人が僕の素行をからかった。紛らわしい言い方はやめてほしかった。
昼休み、言われた通り職員室へ行った。三年になって職員室に入るのはこれが初めてで、年に数度の縁の慣れない空気に、僕は早いところ用を済ませて教室へ帰ろうと先生を探した。先生は自分の席で弁当を広げていた。
「おお、来たか」
先生は僕を見つけ手招きすると箸を置いた。
「なんですか」
「いや…何、お前宮本の隣になっただろ?」
言いにくそうにする先生に、僕は「はあ…」と曖昧に返事をした。先生は「わかるだろ?」とでも言いたげな視線を僕に向けたが、僕はそれより先生の食べかけの弁当が気になっていた。
「宮本は右手を使えないし……旭川、悪いけどお前宮本のこと手伝ってやってくれ」
そういえば席替えの前は、宮本の隣の席だった橋本が世話を焼いていたことを思い出す。
「先生、それって宮本が言ったんですか」
味気ない僕の声が職員室を静かにさせた。どうやら他の先生たちもこの話題に耳を傾けていたらしかった。それだけ宮本は先生たちの間でも注視されているのだろう。
先生は周囲を気にしながら「いや」と小さく声をもらした。さらに声を落とし、僕に耳打ちする。
「ここだけの話、宮本は先生たちの間でも問題になっていてな……。この間なんて、職員会議にも取り上げられたんだ。本人は何も言わないが、ほっとくわけにもいかなくてなあ」
ならば。橋本は手伝ってくれていたのだから、あのまま席替えをしなければよかったのでは、と思ったが、口にすると聞き耳を立てている他の先生にも僕の評判が悪くなるので、言いはしなかった。
「わかりました」
僕は人当たりのいい返事をした。
「わかってくれたか。いや、お前ならそう言ってくれると思ったよ。お前に頼んで正解だったな」
僕の一言で先生は笑顔で箸に手を伸ばした。話は終わりを迎えたらしい。
「でもわざわざ呼び出して言うなんて、先生も大変ですね」
僕の作り笑顔で、皮肉は労いに聞こえたようだ。先生は苦笑して頷いた。
教室に戻る途中、使われていない教室の扉が開いていることに気がついた。職員室と同じ二階の、廊下の一番奥だった。僕は階段を上らずそちらに足を向けた。
開いた扉の隙間から、できるだけ自然に中を覗いた。十中八九教師が何かをしているのだろうが、中にいるのがカップルだった場合に邪魔をしてはいけないと思ったからだ。しかしその心配は無用に終わり、代わりに一人で昼食をとっている宮本と目を合わせるという事態が起こった。彼はこんなところで昼休みを過ごしていたらしい。
驚きより納得が勝った。ただ驚いたほうが自然だったので、僕は目を見開いて固まった。
「入れば」
媚など微塵も知らない誘いだった。誘いには応じるのが得策だと僕は思っていたので、言われたとおりに中に入った。僕と同じように誰かが来ないよう、扉は閉めた。
「もしかしたら、来るかも知れないと思った」
宮本は弁当箱に視線を落としたまま言う。
「職員室に呼ばれてただろ、俺のことで。ここなら帰りの廊下で見えるから、戸を開けてたら気づいてくれると踏んでたんだ」
どうやら思惑にはまってしまったようだった。宮本は存外策士だったらしい。僕が職員室に呼ばれた原因も、彼は心当たりがあるようだった。
宮本は箸を左手に持っていた。
「他の人が来たらどうする気だったんだ?」
「俺がどうにかしなくとも、向こうが勝手にどうにかする」
宮本の言葉はそれまでの彼の経験を臭わせた。どんな噂にも動じなかった彼が、目の前にいた。
「どうにもしないのはお前くらいだ」
彼に味方はいないのでは、と思わせる口調だった。しかし不思議と親しげにも聞こえた。
「前から話したかったんだ」
宮本が言った。僕はいくつか浮かんだ選択肢から、無難なもので返答する。
「話してくれたらよかったのに」
僕の笑顔に、宮本は訝しげに片目を細めた。失礼だけど、素直なやつだと思った。
「お前、教室だとずっとそんな調子だろ」
言い草からして、宮本は僕の人任せな選択を見抜いているようだった。
作り笑いも、相手に対する反応も、友人間で僕が剽軽な役柄を演じていることも、彼はきっと見抜いていた。見抜かれた悔しさより、僕は宮本という人間に興味を持った。
「気づいたのは君が初めてだ」
「気づくように仕向けたのに? よく言うよ」
宮本は呆れたように天を仰いで、空になった弁当箱をしまいはじめた。右手が使えないのだから当然だが、片手だけで包んでいく動作は、年季と器用さを感じた。
「別に仕向けてないけど」
誤解をしていたようだから、僕は一応言っておいた。すると宮本は初めて僕を正面から見据えて、「嘘だ」と僕を否定した。
「じゃあ油断してたんじゃないのか?」
「……それはあるかもしれない」
一瞬、何を言われたのかわからなかったが、すぐに宮本が言わんとしていることがわかった。
僕は人と話すとき、ほとんどの場合上辺だけで対話している。面白くもないのに笑い、嬉しくもないのに礼を言う。話す相手に合わせて口調を変え、意見も変わる。飲みたくもないジュースを一緒に買い、一人で行けばいいトイレに付き合う。それである程度丸く収まった生活を送っていた。そうすることが日常で、僕の本心は常に隠すか、オブラートに包んだやさしい言葉に変わっていた。
俗に言う「世渡り上手」だと思う。友達は多く、敵は少ないほうだった。当り障りのない人格を装っているのだが、不思議と周囲の人間は気づかない。
僕はいつしか演じることさえおろそかにしていた。宮本が指摘したのは、多分そのことだった。
僕は手近な席に腰を下ろした。
「…でも、油断だけじゃなく疲れたのかもしれない」
一年、二年、はじめのうちは絶やさなかった笑顔も、三年にはほとんど必要なかった。クラス替え後も見知った顔が既にあり、友人との構図もほぼ出来上がっている。初めて話す人には笑顔をつくったが、こ自分から誰かに話しかける回数も減った、自覚はある。
気づかない周囲に呆れたふりをして、本当は取り繕うのに疲れて気づいてほしくて、それが表に出ていたのかもしれない。
そう考えると、僕より先に僕の真意に気づいた宮本に、抱くのは好意だった。
宮本が「そうだろ?」と的中を促す笑みをつくった。
「最初は本気で良い子なんだと思ってた」
「良い子?」
反復すると、そうだと宮本が頷いた。彼は弁当箱をすっかり片付け、机の上にあるのは彼の左手と鞄だけになっていた。
「大体いつも笑っていて、友達も多くて、嫌味がなくて。なのに、最近あまり笑わなくなったから、何かあったのかと思った。でも見ていてわかった。何かあったから笑わなくなったわけじゃなくて、お前はもともと笑わないやつだったんだ」
確かに、僕の顔の筋肉は昔から硬かった。話したこともない上、教室内での共通点もなかったのに、よくわかったなというのが感想だった。いや、話したことがないからこそ彼にはわかったのだろうか。
「嘘っぽいやつだとは思ったけど、わかった後も笑った顔に嫌味は感じなかったから、考えてるやつだと思った」
「別に、考えてないよ」
過大評価している、宮本は。それでも、知った風に話してくれるだけで、胸の内にあたたかいものが生まれた気がした。
僕は知らずに宮本の次の言葉を心待ちにしていた。
「上辺や人当たりだけで世話をしてくれるやつは好きじゃない。心配してくれる心はありがたくもらっておくけど、俺には世話なんてほとんど必要ない」
まして、頼んだこともないのに職員会議で話し合わなくていい。宮本が付け足した。
ああ、やはりいらぬ世話だったようだ。それもそうだ。なぜなら僕は橋本や先生に助けられている宮本は何度も見たが、助けを求めて困っている宮本を見たことは一度もなかった。
「右手を使わなくなってから、人の気持ちがよくわかるようになった」
肩から意思をなくした右手を、宮本はダラリと揺らした。
今日は朝から雨が降っていた。登校時間の早い者は濡れることはなかったが、予鈴間際に登校してきた者の多くは髪を濡らした。僕もその一人で、一限目は制服の上着を椅子にかけ、乾かしていた。傘は持っていなかった。
昼休みの後、五・六限、終礼と、宮本と言葉を交わすことはなかった。
橋本が宮本と並んでいたときは、プリントを後ろに回す作業すら介助していたが、僕は一切手を貸さなかった。初めに宮本のことを頼まれ責任感を覚えていたのか、遠くから橋本がじれったそうな視線を僕に向けていた。
宮本の左側は窓だったので、彼を手伝うものはこの二時間、いなかった。
終礼が終わり、僕はどこの部にも所属していないので、即帰ろうと鞄を手にした。しかし窓を乱暴に叩く雨音が、もう少ししてから出ようという気にさせた。
友人たちが教室を後にする中、図ったように隣の席の宮本だけが残っていた。人気のない教室の隅に、二人だけが肩を並べているのは異様な光景だった。同時に、教室は広いのだから、もう少しスペースを有効活用したほうがいいとも思った。
「帰らないのか」
強めの調子で宮本が言った。微妙な発音で、問われたのか呟かれただけなのか判別がつかなかった。それでも二人きりになった時点で、話しかけられると想定していた僕の返答はスムーズだった。
「傘がないんだ」
「忘れたのか」
「いいや。降るのは知っていたけど家を出るときは降ってなかったから持ってこなかったんだ」
僕は傘が嫌いだった。降っているときはいい。だが雨の止んでいるときに傘を手に持つのが嫌だったのだ。電車の座席に腰掛けたときなどは、真剣に邪魔だと思う。
事情を聞いて、宮本は微かに笑った。宮本が残っている理由を問うと、彼は口を笑みにしたまま答えた。
「傘はあるけど、持つ手がない」
自嘲を孕んだ口振りだった。
面食らった。不意を打たれた気分だったが、机に吊るされた宮本の鞄は手提げだから、持ち手を腕に通して持てば、空いた手で傘はさせるのではと一呼吸おいて思った。
「お前、家はどこだ」
宮本が言った。僕は電車で通学しているので、家の最寄駅を答えた。宮本も電車組だったらしく、彼の降りる駅は僕の降りる二つ手前の駅だと知った。
彼は鞄から黒っぽい折り畳み傘を出し、僕に手渡した。
「開いてくれ。これに入って帰ろう」
持つ手よりも、まず傘を組み立てることができなかったらしい。素直にそう言わなかったのは、彼のプライドが許さなかったのか、はたまた深い意味などさらさらないのか。いずれにせよ、彼が人を頼るのを初めて見た。ボタンでとめられた折り畳み傘を僕に差し出したのは、それとも彼のお情けだろうか。
雨に濡れずに済みそうなので、僕は傘を受け取り宮本と昇降口へと向かった。
学校から最寄りの駅までは徒歩七分、と入学したての頃先生が言っていた。多少の差はあれども、全校生徒の歩く速度を平均すればそのようなものかもしれない。僕はいつももっと早く移動していたが、今は雨のため随分ゆっくり歩いていた。
道路を渡ろうと、車が行き過ぎるのを、僕と宮本は待っていた。信号機などない小さな横断歩道だ。そのわずかの間に、居心地の悪い沈黙が生じた。僕は親しくない相手と二人きりになったとき、気まずくないよう適当な会話を欠かさないようにしていた。しかし宮本は僕の言動が偽りだということを知っているのだ。下手なことは口にできない。そう思うと余計沈黙が重く感じた。歩くという動作すらない今、心地悪さが浮き彫りにされた気がする。せめてもの救いは、僕が傘をさしていることと、うるさいくらいの雨音だった。
わき目に宮本を窺うと、生温かい沈黙を平然と受け流す余裕があった。少なくとも、表情からはそう読み取れた。
気にしたほうが負けなのだ。僕はそれを踏まえて、余裕のあるふりをした。次第に、本当に気にしない余裕が気持ちと一致した。
五月末――一ヶ月余りも関係を持たなかった僕らには、すぐに打ち解けるという気配はなかった。互いにクラス内での位置を確立していて、関わらないものだと僕は割り切っていた。それが突如、隣席になったことからこうして一緒に下校している。一つの傘に収まっている肩は、数時間前まで他人だった距離とは比べものにならないくらい近い。
車が行き過ぎて、僕は宮本に合わせて歩き出した。傘は、僕より宮本を優先してさした。
「車で送り迎えじゃないんだな」
僕が言った。宮本は頷いた。
「足ならともかく、手だからな」
それでも、身体障害と名がつくのではないだろうか。
「それに、うちの親は放任主義だ」
どちらかというと無責任な印象を受けた。
「その割に、過保護だけどな」
「なんだそれ」
僕は冗談と割り切って、軽く流した。
宮本の親はどうだとしても、確かに毎日のこととなれば片手が使えないくらいで送迎もないか。反面、誰かに手伝ってもらわなければ、折り畳み傘を組み立てることもできない不便さを不憫に思う。
もうすぐ梅雨だ。
密かに、明日も雨なら傘は僕が持とう。そう思った。片手しかないのなら、手はしっかり鞄を握ればいい。
僕は雲に覆われた空を見上げた。
翌日、雨だった。
放課後になり、宮本が昨日と同じく帰ろうとしないのを確認して、僕はそっと声をかけた。
「昨日のお礼に、傘くらい持ちますよ」
宮本は一瞬大きく目を見開いて、えらそうに口角を上げた。
自分の傘を持っていたけれど、宮本と二人で入ろうと思ったら百円の小さなビニール傘では事足りないので、大きい宮本の傘に入った。今日は折り畳み傘ではなかった。柄の部分にセロハンがついていて、傘を持つ彼の左手の指がそれを剥がしたそうにうずいていた。
宮本は左手で鞄を持つので、僕は右側を歩いた。
「本当は、自分で傘持てるんだ」
脈絡もなく宮本が呟いた。独り言にも聞こえたから、僕はうん、とだけ相槌を打った。
「でも、雨の日に一人で傘を差すのは嫌だ」
ならカッパを着れば? と言おうかと思ったけれども、宮本の横顔があまりにも真剣だったので、水を差すことはしなかった。
「片手で腕に鞄をかけて傘を持つと、なんでこんなに窮屈に歩かなきゃいけないんだって鼻で笑いたくなってくる」
手が傘でふさがっていると、鞄が重さで腕に食い込んでも、持ち直すこともできない。まあつらいだろうなと他人事程度に想像する。
しかし彼の右腕が使えないのは事実なのだから、言ってしまえば仕方ないことなのだ。そういった問題は常について回るのに、何を鼻で笑いたくなるところがあるのか。見当もつかなかった。
宮本は時折、とても自嘲的な面を見せる。ひるむことない態度をとるが、同時に触れると折れそうなところがあった。爆発しそうでもあった。僕は笑うが、宮本は強く出る。僕とは違った形で感情を表に出さない人だった。
雨の中、町を行き交う人は少なく、過ぎる人の顔も互いの傘で隠れている。傘の中に雨音と宮本の声だけが響いた。
「折り畳み傘、あれはめったに使わない。自分では組み立てることすらできないのに、それでも鞄に入れてるんだ」
「傘だけか?」
僕が発言らしい発言をやっとすると、宮本は意味がよくわからなかったらしく、反問した。
「傘だけって?」
僕は今日まで見た限りの宮本の不便な点について語る。
「そりゃあ他にも、いろいろあるだろ?」
ノートをとるとき、片手で紙を押さえることができない。消しゴムなんてかけづらそうだ。体育のとき、着替えを片手でしないといけない。弁当箱を片手で包む様は器用だと思ったが、手馴れるまでにどれくらい時間がかかったのだろう。
宮本は納得したように頷いた。そして首を左右に振る。
「そうじゃなくて、傘ってこう……一人の空間になるだろ?」
傘の内側の、弧を描いている部分を宮本が視線でなぞった。
「傘をさして一人で歩いていると、視野が狭くなって外と遮断された気になって、余計なことまで考える」
なるほど、と。今度納得するのは僕の番だった。
「そういうことがあるから、一人でいるのは嫌いなんだ」
「誰かといるのが好きって風にも見えないけど」
僕が口を挟むと、宮本は口元だけで笑った。
「ああ。好きじゃない」
なんとも難しいやつだと思った。
片手が使えないことで彼もこれまで苦労し、複雑な思いがあるのだろうか。単に僕が理解に欠けるだけなのだろうか。
しかし実のところ、僕の目には、宮本はあまり腕が使えないことに囚われていないように見えていた。
「上辺だけのやつは嫌いだ。でも、お前みたいなやつは嫌いじゃない」
宮本は足元に視線を落として苦笑した。その横顔に、一瞬心臓をくすぐられた気がした。
変なやつ、と口では返したが、心の中で気恥ずかしさが勝ってしまったからだった。
以後、僕と宮本の仲は急速に縮まった。関係自体に「変わった」という感覚はない。まるでずっと以前からそうであったように、付き合いは「しっくり」とした。
座席も隣で授業中も一緒にいるから、学校生活の大半は宮本と一緒に過ごした。
僕は宮本の前では笑顔がなくなる。彼は口数が増えた。頼まれた時だけ手を貸す。不便こそあれ、彼は誰より自由でいる。