閑話一
「君が素直に王女殿下の意に従うなんて意外だったよ。」
ベルフォード王国の王都にある貴族街の一角に他の貴族の屋敷と比較しても大きめの一軒の屋敷。
その屋敷にある己に与えられた部屋の主人へと、招かれた友人であるアレクシェルが話しかける。
「あらん……うふふ、そうかしら?」
太陽が輝き明るかった世界を、夜の帳が包み始めた夕刻の薄暗い部屋の中。
胸元を強調した漆黒の部屋着のドレスを身に纏い、匂い立つような色香を漂わせるこの部屋の主人であるオリヴィア。
柔らかな座り心地が気に入っている長椅子の肘掛にもたれるようにしなだれかかる体勢でアレクシェルの声に答えた。
「ヴィア、君は君に熱い視線を送る殿方達に言わせると享楽主義の妖艶な令嬢。
ヒラリヒラリと舞う、その妖しくも美しき羽で男を惑わせる“享楽の黒揚羽”らしい。」
ギシリ、と微かな音がした方へとオリヴィアが流し目を送れば、同じ長椅子の反対側に座り、笑いを堪えるように口元に指を当てる男装の麗人、アレクシェルの姿が映る。
「ふふ……でも、私の親愛なる友人であるアレクの目には、私はどんな風に映っているのかしら?」
とおっても興味があるの、と悪戯な光を宿した菫色の瞳をアレクシェルへと向けたままオリヴィアは問いかける。
「ふむ……王女殿下には同性の感想として“鋼鉄の棘と猛毒を持った花”と例えたが、異性が君の本質を本当に例えるならば……“絡新婦”が相応しいと思う。」
「まあ!
私が“絡新婦”なんて……アレクったらひどいわ。」
“絡新婦”と例えられたことに抗議の声を上げながらも、その表情も、声音にも、アレクシェルを責めるような響きは全く含まれていなかった。
「ふふふ……でも本当のことだろう?
ヴィア、君が異性に対して魅力的に振る舞い、その心を絡め取るのは、全ては情報のため。
彼らの持つ情報を求めて周囲へ糸を巡らし、求める情報さえ得れば、気が変わったとばかりに振る舞い、あっさりと袖にする。
本当の意味で君は異性に餌を与えることはないだろう?
期待だけさせて、餌を味わうことの出来なかった者達が、嫌がらせに噂を流す。
それこそが“享楽の黒揚羽”と呼ばれる令嬢の真実なのだから。
……もっとも、ヴィアの場合は鋼鉄の棘とも言える身を守る術があるからこそ、友人としては多少の安心が出来るんだけどね。」
これでも君のことをいつも心配しているんだよ、と苦笑するアレクシェルに対して、オリヴィアは少しだけ気まずそうな様子で視線をそらす。
「……いつも貴女には感謝してるのよ。
出来るだけ私が出席する夜会にも来てくれていましたし。」
十六歳という年頃に見合った表情で、嬉しいような、拗ねたような、複雑な表情を浮かべるオリヴィア。
その姿は纏っていた年に見合わぬ色香が消え去り、年相応の素顔がのぞいていた。
「……っ。
そう……王女殿下のことでしたわね。」
己を純粋に心配してくれる幼馴染と言ってもいいかもしれない、数年来の友人であるアレクシェルの言動に感じた嬉しさや恥ずかしさを隠すように、オリヴィアは多少強引に話題の転換を図る。
「……王女殿下の執務室でお会いしたあの日、私は別に王女殿下へ忠誠を誓い、頭を下げた訳では有りませんもの。
今後を見通して必要最低限の縁を結ぶための下準備を整えただけですわ。」
小さく咳払いをして、いつも以上に意識して漂わせている蠱惑的な雰囲気を回復させようとしているオリヴィア。
「私は我が家の力を貸すなどという大それた決断を当主である父の許可なく出来ませんもの。
それに……お綺麗な王族の見本のような理想を語る、実力すら未知数の方に命の全てを賭けるような真似は安易に出来ませんわね。
一応、我が家の方針としては殿下が飛躍する可能性を考慮して多少の縁は欲しいというのが正直なところ。
それゆえに、私が賭けるのは私の責任が及ぶ範囲だけ。
殿下の立場が傾いたとしても、現時点で我が家が失うのは私だけで済みますもの。」
私がいなくなっても、ローゼンバーグ家は残りますわね、と何でも無いことのようにオリヴィアは微笑む。
「そう……失うものなど、枯れかけた花、もしくは羽の色を失いかけた惨めな蝶。
あの王子サマの騒動の流れで婚約破棄をした、貴族令嬢としての価値が下がりつつある“私”だけ……」
下らないと鼻で笑いながら自嘲の笑みを浮かべるオリヴィアへと、アレクシェルは小さなため息をつく。
「それは僕も同じことだよ。
まあ、もっとも……僕の場合は貴族令嬢と言う名の“花”としての価値は元々低かったけどね。
……どうやら、裏で糸を引いているかの御仁は、己の息子が王位継承権も、王籍も、全てを失ったことにお怒りらしい。
諫めることもしなかった側近候補達の婚約者に嫌がらせをする暇があるならば、さっさと失脚する準備を始めて欲しいものだね。」
アレクシェルは一度だけ会ったことのある、清廉な美貌の王妃とは正反対の華やかな美貌を持つ第一側室の姿を思い出す。
確かに美しい女では有ったとアレクシェルは思うが、それ以上にその瞳が、唇が、仕草が、存在が発する欲に塗れた隠しきれない雰囲気が己とは決して相容れぬと直感的に感じ取った。
「……証拠は無いけれど、かの御仁の親愛なる友人一同を介して、僕やヴィアだけでなくシェパール公爵令嬢を含む全員の面白い噂を流してくれているよ。」
「ふふふ……お陰様でこちらの足元ばかりを見た、とても面白い婚約話が次々と舞い込んでいますわ。」
婚約者を痛ぶる趣味のある気性の激しい令嬢、飽き性で浪費癖のある男好きの令嬢……。
どちらも所詮はただの噂でしかないが、そこに尾ひれ背びれを付いてしつこく流れるのが噂というもの。
しかも、複数の見目麗しい、才能ある高位の貴族令嬢達の一斉の婚約破棄が、令嬢達に過失は無くとも話題にならない訳が無かった。
結婚適齢期に婚約者を相手の過失で失い、新たな候補者を探そうにも迷惑千万な噂を流されては良縁など望めるはずが無かった。
それこそ新たな婚約話として舞い込むのは、血筋や地位は高いが二十、三十以上年齢の離れた人物、人格的に問題のある人物、繰り返し離婚している人物や地位はあるが金銭的に困窮している人物……そんな問題を抱えたものばかりで有った。
「だからこそ、陛下より直々に王女殿下の護衛の命が僕とイザベラには与えられた。
しばらく婚約者を望めない、婚期を逃す確率の高い僕達の時間を無駄に過ごさせないという有効活用だね。」
騎士団に所属した新人が突然抜擢された騎士を志す若者が皆一度は憧れる王族の護衛という名誉ある仕事。
だが、アレクシェルの表情には憧れの仕事を与えられた高揚感は微塵も無く、ただ静かに凪いでいた。
「私を含む他のご令嬢方は護衛という活躍の舞台は難しいのよねぇ……。
そういう意味では、一縷の望みを賭けて王女殿下の話に乗ってみても面白いと思いましたの。
あの香りの良いシャボンは一枚噛んでも悪くは無さそうですし、宰相閣下が絡むならば公共事業の方も何とかするでしょうから。」
ふっくらとした紅い唇から悩ましげなため息を吐き出し、すぐにオリヴィアはうっそりと笑う。
「ねえ、私の大好きなアレクシェル。
これからもあの王女様のことを色々……ふふふ、イロイロ教えてくださる?
そう…………例えば、綺麗なお手本のような理想を語る王女様の可愛らしい本音とか、ね?」
ゆっくりと華奢な身体をもたれていた長椅子の肘掛けから起こし、オリヴィアはアレクシェルへと近付いていく。
「ふふ……僕の麗しく、大切な友であるヴィアの可愛い我が儘を僕が断ると思うかい?
ただ……もしも僕が一人の騎士として、王女殿下を主と定めたその時はたとえヴィアの願いでも聞けなくなってしまうかもしれないよ。」
それでも良いかい?、とチャシャ猫のような笑みを浮かべるアレクシェルへと、オリヴィアは意表を突かれたのか目を丸くしてしまう。
「……アレク……貴女のその言葉の方が私が王女様の求めに素直に頷いたという事実よりも、余程意外なことだと思いませんこと……?
貴女の師である元帥閣下の影響か、貴女は純粋に己を高め、強き方々と戦うことを好んでいます。
だからこそ、その才能を認められて最低限の令嬢の役割を与えられ、それ以外の部分では騎士として好きに生きることを許されている……。
王位争いについても興味が無いから、王位継承者を好き勝手評価していたのではなくて?
そんな貴女が自らもっとも王位に近い、争いの中心になるであろう王女様に近付くなど……何を考えていますの?」
驚きに丸くなった菫色の眼をスウッと細め、オリヴィアは挑発的な笑みを浮かべて問い掛ける。
「ふふっ……特に深い意味は無いよ、ヴィア。
陛下の勅命で王女殿下の護衛を任された身だからね。
なんとなく言ってみただけだよ。」
「…………」
クスクスと悪戯が成功した子供のように無邪気に笑うアレクシェルの顔を、オリヴィアは本心を探るようにジッと見詰める。
短くは無い数年の付き合いの中でオリヴィアは知っていた。
アレクシェルという人物は幼い頃よりその才能を認められ、大の大人達も泣いて許しを請うような苛烈で厳しい鍛錬を生き延びた猛者であることを。
その上、熱血、愚直、正道をゆく騎士団長の父親は生涯ただ一人の主を定め、命が尽きるその時まで忠誠を尽くすことこそ、騎士の本分、誉れと繰り返し幼いアレクシェルへと教え込んだ。
そんな呪い……ではなく、熱心な父親の教えはアレクシェルの心の奥底に刻み込まれている。
アレクシェル自身は気が付いていないのか、気が付かぬふりをしているのか、無意識に主と成り得る存在を探していることにオリヴィアは気が付いていた。
「王女殿下の護衛の一人として、これから色々と大変そうだね。」
今後の王女の動向から目が離せない、と機嫌よく笑うアレクシェル。
その横に座るオリヴィアは、無意識に主を求める友の心を満たす人物がいつかは現れてくれることを、友の幸をただ静かに祈るのだった。




