エリザベス、十二歳
突然、たくさんの情報が流れ込んできて、立っている事も困難になった私は、自分の部屋へと運ばれて、寝台に寝かされた。
ここに来て、初めて聞いた声は、私の名前を必死に呼ぶ、心配そうなルベの声だったのだ。
『ルベ? ルベ、どこにいるの?』
ルベの気配すら、感じる事はできないが、心の中で呼びかけた。
『ベス。記憶がもどったか? どこかを痛めてはいないか?』
『うん、大丈夫よ。どこにいるの?』
どんな時も、一番にそばにいてくれるルベの魔力を、感じる事ができない。
『我はそこには行かれぬ。長く話す事はできぬのだ。ベス、神の山へ行け。忘れるな信じて良いのは、オオ――』
『ルベ? ルベどうしたの?!』
会話が途切れた後、いくら呼びかけても、ルベの返事はなかった。
私はルベとの会話に違和感を抱いた。
高魔力者同士の会話は、耳の中で声がするはずだが、頭の中に直接、声が飛び込んでくる気がしたのである。
そして、一番大きな違和感はルベの魔力も、私の魔力も、全く感じ取れなかった事である。
私はそっと、風の魔法を使ってみたが、魔力の流れも感じ取れず、発動する気配もなかった。
私はいつから、魔法が使えなくなっていたのだろうと考えながら、体の向きを変えた。
そこにあるサイドテーブルの上には、いつものオイルランプ。
ああ、この世界には魔法がない。
そう思った途端に、笑いが込み上げてきた。
私の前世には魔法がなかったから、ここでの生活は時代が古いのだと、単純に思い込んだのである。
我ながら、見事な適応力ではあるが、呆れるほど鈍感だと思った。
部屋に静かに入ってきたお婆さんが、私をのぞき込んで笑みを浮かべる。
「顔色が良くなったねぇ。気分はどうだい?」
お婆さんが熱を測るように、優しく私の額に手を置いた。
「大丈夫です。それより、私は……」
話さなければいけない事が、たくさんある。だが、私は何から話したら良いのか、判断ができずにいた。
その迷いが伝わったのだろうか、お婆さんが寝台の横にある椅子に腰掛けた。
「記憶が戻ったんだろう?」
「はい」
一番に、それを伝えるべきだったと、気が付いても遅い。
「流れ人はね、言葉が話せないのが普通なんだよ。ユウカが話をした時は、さすがに私も驚いたねぇ」
私はお婆さんの言葉の意味が分からずに、首をかしげた。
記憶がない者は言葉が話せないと、お婆さんは言った。
記憶が戻るまでは、体だけが大きな赤ん坊のようなもので、それなりの苦労はあるようだ。
この神社に代々伝わる記号表で、布に書かれている名前や、年齢を読み解くのだと見せられた。
しかしそれは、私が目にしたことのある、どの文字にも似てはいないと、お婆さんに伝えた。
「まあ、こちらに私がいるように、おそらく向こうにも、これを代々伝える人がいるんだろうねぇ」
私はドナート様を思い出したが、記号表を持っているのだろうか。
流れ人を受けるこの神社があるように、空間の向こうには流すための神社があると、お婆さんは先代に教わったのだと言う。
その世界の空気には毒があり、この世界を破壊すると伝えられているようだ。
「流されながら体の毒を抜かれるのは、かなり負担が掛かるから、命を失ってたどり着く者がいると私は聞かされているが、おそらくは違うだろうねぇ。空気が別物なんだと私は思っているよ。だから、頭にだけ症状が出るのだろうねぇ。空気の違いなんて誰に聞いても、分からないだろうがねぇ」
毒とはおそらく、魔力だろう。この世界は魔法がなく、使う事もできないとなれば、空気中に魔素がないと考えられる。
その環境に体を慣らすのは、どう考えても無理がある。
魔法を知らない人に、自分の推測だけで話す内容ではないと思うが。
「お婆さん、ベスと呼んでくれたのはなぜ?」
名前の記憶がない私が、その呼び名を言ったとも思えない。
「ああ、記憶がなくても流れ人は、自分の名前にだけは、なぜか反応するんだよ。だが、ユウカはエリザベスという名前に、全く反応はしなかったからねぇ。愛称で呼ばれていたのかと思ったんだ。体力もついて、そろそろ記憶が戻ってきても良い頃合いだったからねぇ。いろいろと呼んでみたんだよ。名前の最後の文字だったんだねぇ」
お婆さんはそう言うと、優しい笑みを浮かべた。
他の流れ人とは違い、箸を使いこなす私を見て、お婆さんは、何か秘密があると思ったようで、それを調べていたらしい。
「この国の王の祖先は、三人の歴史を持っていたと言われていてねぇ。その知恵がこの国を導いたとされているんだよ。ユウカが日本と言った時、どこかで聞いた事があるとは思ったが、王家の祖先をすぐには思い出せなかったねぇ」
お婆さんは、それを申し訳ないと言ったが、私のためにそこまでしてくれた事に感謝した。
それにしても、一人分の前世の記憶で、うんざりしていた自分が少し恥ずかしかった。
前世の記憶が三人分もあった人は、どうやってそれらを抱えて、生きていたのだろう。
日本人を幾度やったのかは分からないが、その知識を使って国を導いたのだとしたら、きっと賢い人だったに違いない。
生まれてすぐに、老いた感性を持っていたとしたら、そしてそれが、三人分だとしたらと考えると、この国の王家の祖先に私は敬意を抱く。
前世の自分の知識を使いながら、現世の自分の人生を前向きに歩いた人がいた。
そんな生き方を素直に、羨ましいと思った。
「私の名前は、エリザベスです。遠島悠華は、私の前世の名前なんです」
「現世の記憶を失った時、前世の記憶だけが残ったのだろうねぇ。ユウカの前世が日本人で良かったと私は思っているよ。ああ、エリザベスと呼ばないとね」
「ベスと呼んでくれますか? 親しい人には、そう呼ばれていたんです」
「そうかい。ならばベスと呼ばせてもらおうか」
お婆さんは私の視線を受け止めて、うなずいてくれた。
「私は、前世の記憶を持って生まれてきた事が、とても嫌だったの。日本人で良かったと言ってくれて、ありがとうございます。前世の私であるユウカは、十六歳の時に火事で命を落としました。ユウカの最後の景色が、火の海ではなく、この神社での幸せな日々になりました」
唇をきつく噛むが、その震えは止まらずに、涙がこぼれる。
お婆さんは私を抱きしめて、そっと背中をさすってくれた。
「ベス、それ以上は言わなくても良いよ。この神社は流れ人が神の山に登る入り口。出口ではないからねぇ、二度と会う事はないんだよ。全てを知ってもこの先、困難に出会ったユウカを、こうして抱きしめてやれるのは、悔しいがどうやら私たちじゃなさそうだねぇ」
お婆さんはそう言って、手鏡を見せてくれた。
おでこには赤い小さなアザ。
「これは……」
「神の許しがおりたようだ、さあ、神の山に向かうんだよ。そして待っている人の元に戻りなさい。そのためにきたんだろうからね」
「お婆さん、ありがとう、ありがとうございます」
「礼を言わなければいけないのは、私の方だねぇ。こうして、流れ人と楽しく過ごす事ができた。ありがとうねベス。ありがとうユウカ」
「お婆さん……」
もう一度、お婆さんに抱き付いて、私は泣きじゃくった。
ようやく記憶は戻ったが、そのせいでこの優しいお婆さんと別れるのは、つらいと思った。
翌朝。
お婆さんがプリモさんとテレサさんに、全てを話してくれたようで、二人は私の小豆ほどのアザを見て、肩を落とした。
「なんだって、こんな可愛い子の顔にアザを付けるんだろう。ひどいじゃないか」
「目の色が金色になるよりましだろう? アザなんか髪の毛で隠れるからな」
「女の子の顔に、悪さをするなって話だよ。アザなら足の裏でも良いじゃないか」
お婆さんは孫夫婦の会話を、お茶を飲みながら、面白そうに聞いていた。
「ベスの支度は、いつ整えてくれるのだろうねぇ。私がしようかねぇ」
「それは駄目ですよ」
「ああ、それは譲れない」
プリモさんとテレサさんが、山へ行く支度をしてくれるようである。
「そういえば、流れ人は裸足で歩くのだが、ベスは初めから下駄で上手に歩いたねぇ。わらじを履いた事はあるかい?」
「下駄は年に一度か二度、お祭りで履いた経験がありますが、わらじは見た事がありません」
「なんだと?! ああ、どうせその小さな足用に作ってやるつもりだったんだ。見ているといい。山を下駄で登るのは無理だからな」
「そうだね。わらじはすぐに駄目になるから、数は持たせるつもりだけれど、布で補強をしながら履くと、足になじむからね。プリモに教わるといいよ」
テレサさんが用意をしてくれたのは、ワラでできた笠と、油紙でできたポンチョのような外とう。
それは小さく折りたためて軽く、荷物ごと覆ってくれるので、ぬらさずに済むという便利品だった。
お婆さんが用意をしてくれたのは、ワラでできた背負い袋で、その中には神様に届ける、真新しい布地が油紙に包まれて入っていた。
私には、お世話になったお返しが何もないので、卵と植物油と米酢を使ったマヨネーズの作り方を、テレサさんに教えた。
日本でもラベーナでも使われているソースは、きっとこのショウカ国でも受け入れられると思ったのだ。
名前は流れ人の事を考えて、ラベーナで呼ばれている、卵ソースと伝えた。
香辛料は同じ物がないが、ショウカ国らしい味に、卵ソースは進化すると思うと楽しい気持ちになる。
生の野菜や、焼き魚に卵ソースを付けて食べている姿を見ると、気に入ってくれたようである。
旅立ちの朝。
下の鳥居の前にいたのは、牛車だった。
「牛……」
「神の山まで、三日も歩くのは疲れるからな。車で送るよ」
「ありがとうございます」
車で送るよって、広い意味があるのだと知った。
牛車は遅い。
ものすごく遅い。
徒歩の人が追い抜くほど遅い。だが、体力はある。
旅の宿に一晩泊めてもらっただけで、神の山の入り口に到着した。
背負い袋に重いほど、食料や水を持たされて、懐には一本の小刀を持っていた。
小刀は、背負い袋の中にある、甘ウリの皮をむくための物だが……。
「お婆さんによろしくお伝えください。プリモさん、テレサさん、ありがとうございました。帰り道はお気をつけて」
「うんうん。私はベスの幸せをこっちで祈っているからね」
「俺の初めての流れ人が、ベスで良かったよ。元気でな」
私は手を振って、その鳥居を潜った。
分かっていたが、それでもやはり、振り返らずにはいられない。
サイユ村を後にしたあの日のように、私は一人だと自覚しなければ、前へは進めない。
再会のない別れに、伝えきれなかった感謝の気持ちが、まだ心の中には詰まっている。
私は思いきり息を吸い込んで、吐き出した。
「ありがとうございました。私、行きます」
鳥居に背を向けて、私は上に向かう細い獣道を歩き始めた。




