ヒラリーの下宿屋
久しぶりの馬車である。グープより馬は軽やかに走る。
足元が砂ではないので、当たり前ではあるのだが。
二人乗りの馬車が好きなのは、ダニエル様の横が、一番落ち着くからである。
「どうしたのですか?」
「うん。ダニエル様の横が、一番安心だなと思って」
「そうですね。私もベスがそばにいると、安心ですよ」
私の安心と、ダニエル様の安心は、絶対に違うと思う。
二人とも前を見たまま笑ったから、ダニエル様も同じ事を考えているのだろう。
ルベはカーバンクルの姿で、私の膝で丸くなっている。
第六区の港町を離れると、木々の中に、深い緑の針葉樹が混じっている事に気が付いた。
ここは黒の大陸だと思うと、これからの旅も楽しみになってくる。
「ベス、寒くはないですか?」
「はい。マニージュ国が暑かったですから、こちらは過ごしやすいですよね。呼吸がとても楽です。今は春ですよね?」
季節が春から夏に向かっているが、気温が低くなっていくので、思わず確認をしてしまった。
「もうじき夏がきますが、黒の大陸は夏でも、朝夕は過ごしやすいのですよ。四区、五区、六区は青の大陸のネガーラ国と、気候は似ていますからね」
青の大陸で生まれ育った私には、それは嬉しい情報だが、気になる事がある。
「一区、二区、三区はどうなのですか?」
「青の大陸のバージムに、似ているでしょうね。ただ少し違うのは半年程、雪に覆われるところでしょうか」
「半年だけバージムに似ているのですね」
それは似ていると、言わない気がする。
バージムはサイユ村があった国。
私は塀の中で暮らしていたので、広大な自然や、そこに流れる美しい山や川も知らずに育った。
村長だった祖父や両親は、それでも外に出る機会はあっただろうが、双子の兄のウィリーは、それを見ることすら適わなかったのだ。
『どうした?』
ルベが私の手に、顔をすり寄せて聞いた。
私の心が揺れると、ルベはすぐに察知してしまう。
「バージム国のサイユ村を少し、思い出していたの。ほら、逃げるように出てきたので、バージムの自然ってあまり覚えていないのよ」
「そうでしょうね。あの村にある自然は、とても不自然でしたからね」
「不自然?」
サイユ村で育った私には、違和感はなかったのだが。
「サイユ村には、バージム国にはない植物や樹木があったのですよ。初代の村長のために、バージムの第一王子が、イーズリ国から取り寄せていたのです」
「後に初代の夫になった人ですよね?」
「サイユ村では、公然の秘密でしたけれどね」
死んだ王子が塀の中にいるとは、誰も思わないだろう。
城から派遣されていた警備の兵士は、それを口にする事は許されないのだから。
「今の私には、その二人の血が流れている?」
「ええ。ただ、前世の記憶を持つ人は皆、現世の親から何も受け継いでいない事は、判明されていますね。理由は分かっていませんが」
「ルベも分からないの?」
『それは……。ダニエル、ずるいであろう! 我は眠い』
ルベはそう言うと、短い両手で頭を抱えるように、丸くなった。
どうやら秘密ではなく、言いにくい事のようだ。
親から何も受け継いでいなくても、母が産んでくれた瞬間の記憶がある私には、理由など急いで知りたい事ではない。
六区を三日ほどで抜けて、二日前には五区に入ったが、国境がある訳ではなく、立て札があるだけだった。
日本の県境みたいな物で、当然、景色が激変する事もなかった。
素通りするには問題がないが、町や村に入る時には、お金が必要になる。
それも十歳以上は、金貨一枚となれば高額である。
素泊まりの宿なら、二日は泊まれる金額が一人分なのである。
ただ一度払えば一月間、同じ区であれば、どこの村や町にも入る事ができる。
もちろん、その区の住民と、その村や町に親族がいる場合、教会の神官は無料である。
私が一人ならば、野宿を選択すると思うが、ダニエル様は私の分の金貨一枚を支払った。
「ルベがいるから、次からは外で待っています」
「それでは、私が寂しいでしょう? 付き合ってくださいね」
私は呆れて横を向いた。
そんな風に言われたら、無駄遣いをするなとは言えなくなる。
五区の一番大きな町は、他の国の王都より小さいが、活気に溢れていた。
大小の店が並ぶ大きな通りを抜けると、すぐに民家があり、どこの家の玄関脇にも花が咲いている。
馬車は教会を通り過ぎてすぐの、一軒家の前に止まった。
ダニエル様が馬車を下りて、私を馬車から下ろしたところで、家の中から年配の女性がでてきた。
「ダニエル様、お待ちしておりましたよ。まあ、ルベウス様が、抱かれていらっしゃるとは。では、そちらがエリザベス様でしょうか? とにかく中へどうぞ」
女性は先に中へと入って行った。
玄関横に階段があり、真っすぐな廊下の左右に扉はある。正面の部屋は広く、片面には台所があった。
部屋の真ん中にあるテーブルには、十二脚の椅子がある。
大家族なのだろうか。
「懐かしいですね。変わっていませんね、ヒラリー」
それは家の事だろうか。それとも女性の事だろうか。
「家も私も若くはありませんよ」
両方の事だったようだ。
「ご挨拶が遅れました。初めましてエリザベスと申します。どうぞベスとお呼びください」
「ご丁寧に、ありがとうございます。私はヒラリー。ご覧の通り小さな下宿屋をやっています」
大きなテーブルは、大家族用ではなかったようだ。
大きめのカップに、ミルクティーが注がれ、蜂蜜がテーブルの上に置かれた。
「好きなだけ入れてくださいね。五区自慢の蜂蜜です」
「はい、ありがとうございます」
ミルクの香りにかすかに残っていた茶葉の香りは、蜂蜜を入れた途端に消えてしまったが、その代わりに甘い花の香りが広がった。
この大量のミルクに、茶葉は必要なのだろうか。確かにおいしいが。
「ベスと一週間ほど、お世話になります。私は教会の仕事がありますから、日中はこの子を頼めるでしょうか」
「ええ、ええ。喜んで。女の子のお世話なんて、めったにできませんからね」
「いつも、むさ苦しい男ばかりですみません」
私は下宿屋の知識がない。
食事付きのアパートと考えていたが、違うのだろうか。
大人の会話が続いているので、ルベに聞いてみようか。
『ルベ、この下宿屋って、宿屋じゃないのに、突然きても泊まれるの?』
『ああ、ここは一部の主神官だけが、自由に使えるのだ』
ヒラリーさんの父親は、教会の管理人をされていた方で、最後の勤め先が五区の教会だったのだとルベは言った。
とても信頼されていた方だったらしく、退職後、この下宿屋を建てた時に、ある主神官が専属の契約をしたようである。
ヒラリーさんが、ご両親からこの下宿屋を継いだ後も、その主神官やダニエル様の部下たちが、この下宿を利用しているらしい。
「ダニエル様がお見えになったのなら、ジョンにも会えるのでしょうかね。ここ一年位、顔を見ていませんが」
「ええ。ジョンは二区からここに向かってますから、五日程で着くでしょう。私が任務中ですから、無理をさせています」
「ダニエル様の元で働く方たちは、それを意気に感じる人ばかりですから、見ていてこちらも、気持ちが良いですよ」
「私は手がかかりますから、それなりに大変なようですがね」
どうやらジョンさんとは、各大陸で会った部下さんたちの仲間のようである。
ダニエル様と私に与えられた部屋は、二階の一番奥にあった。
「私が丁度ベスの年頃に、この部屋をよく使わせてもらいました」
懐かしそうに、部屋を見回しているが、ヒラリーさんはこの下宿で一番大きな部屋だと言っていたのだ。
「一人でですか?」
「いいえ、私の師と一緒でした」
「師って、師匠の事ですよね。勉強とか魔法を習っていたのですか?」
ダニエル様が白の学園に入る前の事だろうか。
「特に何も教えてくださいませんでした。ただ、ともに息をしていなさいとおっしゃった。師のおかげで今の私はあると思っています」
悪いが、その手の話は苦手である。
山寺の和尚にも、仙人にも会った事はないが、もし、出会っても会話が成立するとは思えない。
彼らの望む答えを、私はきっと持ってはいないと思うのだ。
私の頭の中には、長い杖を持ち、白い髪と髭を長く伸ばして、雲に乗って飛び回る陽気なおじいさんがいる。
私の師は生まれた時から、ダニエル様なのである。
父さんと母さん以外で、私が信じていたのはダニエル様だけで、それは今でも変わってはいない。
ルベは私にとって師ではない。
守り神みたいな存在で、全幅の信頼を置いていると言っても過言ではない。
「ダニエル様の師匠は、今もお元気なのですか?」
「ええ。四区で神官をしていますよ。ベスにも紹介しますね」
「怖い方ですか?」
「いいえ。私は声を荒げた姿を、目にした事もありませんよ」
四区は隣の区である。そして、ルベが私に見せたいと言った場所でもある。
ここには、七日間お世話になるので、きっとその後で、向かうのだろう。
これから初めて見るであろう風景と、既に私の脳内で仙人になってしまった、ダニエル様の師匠。
しまった。わくわくが止まりそうにもない。




