初めての経験
私の知っている森は、活字と映像だけだったのだ。
木と土が蒸れた湿度のある濃い匂いは、急に深くは吸い込めない。
いつでも初めての経験は、意識をした時点で躊躇をしてしまう。
森の空気を、心地良いと思えるようになると、視野が広がる。
空から葉の隙間を越えて届く光の、なんとまぶしいことだろう。
森には音があるのだろうか。
私は目を閉じて、馬車の音に隠れている音を探す。
「神官様、人の声が聞こえませんか?」
『泣いているのは幼子だ』
神官様は馬車を止めて大杖を出した。
「ベスを頼みます」
馬車から飛び降りた神官様は、道の右側に姿を消した。
「ルベもう一人いるわ! 逆側よ!」
『ああ。囲まれているな。戦えぬ人間か』
「お願い助けに行って! できるでしょ?」
『ベスが一人になる』
「何かあったら、私は叫ぶから! 早く!」
『ここから動くなよ。結界を張っていく』
「うん」
私は居ても立っても居られずに、馬車を降りた。
子供の泣き叫ぶ声が大きくなった。
神官様は大丈夫だろうか。
見えないから、少し不安になる。
私は神官様の戦う姿も、ルベの戦う姿も見た事がない。
森の奥を気にしていた私は、自分の置かれている状況に気が付いた。
それは気が付いたのではない。瞬時に理解させられたのである。
私はそれを本で見た事がある。
暗褐色の肌と筋肉質な体はとても大きい。
オークである。
そのイノシシを思わせる顔に付いている目が、私を捕らえている。
神官様とルベは戦っているに違いない。
約束はしたが、声など出ない。
膝も震えて、立っているのも不思議なのだから。
とにかく、オークを止めなければ。
その時、オークは斧を振り上げて、私に向かってきた。
武器を持っていない私にできる事は、生活魔法を風で飛ばす事だけである。
頭に浮かんだのはテレビで見た、ウォータージェットカッターだった。
今は、考えてはいられない。全力でカッターをオークに使うしかない。
「当たった!」
そのまま私の世界は暗転した……。
私はこの具合の悪さを知らない。かつては虫垂炎とインフルエンザ以外は、売薬で治る健康体だったのである。
目の玉も指先も内臓だっただろうか。動かせない。
『ダニエル。ベスが目覚めたぞ』
ルベの声がした。
「ベス! ベス、分かりますか?」
神官様、申し訳ありませんが、まばたきで理解してください。
「ベス。これから、スプーンでポーションを、口に入れますからね。ゆっくりのむのですよ」
今、何て言ったの? あるの! そんな物は存在するの?!
ポーションは、ゲームの中だけだと思っていたのに……。
ポーションは世界中の青葉を、アクも抜かずにすりつぶしたような味がした。
そんな物は見た事もないが、きっとポーションと同じ味がするはず。
魔力の流れが知りたい人にはお勧めしたい。体中を動き回る熱いポーションを。
とりあえずは、逃げ出せないので、飲み込むしかない。
口は忙しいが、目には余裕がある。
私は天蓋付きのベッドを初めて見た。
ここは、どこだろう?
それを聞くのはもう少し、後になりそうである。
それにしても、この荒行はいつまで続くのだろうか。
そう言えば……。
「オーク! オークがでた!」
『出た時に言え』
「知っていますよ。もう、大丈夫ですね?」
体を起こされて、浅い丼を持たされた。見ただけで分かるそれは、ポーションに違いない。だって緑色だもの。
濃度を確認するために、一応振ってみたが、間違いはない。
教会でも薬はこの丼のような鉢を使っていたが、これは飲みにくい。コップではいけないのだろうか?
飲みたくない理由を考えたが、飲まなければいけない理由の方が勝っていた。
私の頭は、民主主義だった……。
「ちゃんと飲まなければ、起き上がれませんよ?」
「はい」
ポーションでおなかがいっぱいになった私は、驚いた。
薬とは、こんなに早く効いて、良い物なのだろうか。
起き上がった私を待っていたのは、説教だったのだから、薬はやはり、ゆっくり効いて欲しいと思った。
"起き上がれませんよ" と神官様は言ったが "起きたら説教です" と言ってくれれば、頑張ってポーションなんか、飲まなかったのに……。
生活魔法の水を、オークにぶつければ良かったのだろうか?
「見た事のないウォーターカッターでしたが、良くがんばりました。見事でしたよ? ただ、二度と結界の外に出てはいけませんよ?」
神官様の優しい言葉で、緊張が解けた。
膝の上のルベが、私を見上げた。
『泣くな。ダニエルも我も、ベスを失ったと思ったぞ。我の結界は、あんな雑魚に破られはしない。安心して茶でも飲んでいろ』
「うん。生まれて初めて魔物を見た。怖くて声もでなかったの。ありがとうございます。助けてくれたのね?」
『ダニエルが見事だったと、言っただろう? ベスが自分で、オークを倒したのだ。大きな魔力を感じて急いで戻ったら、ベスは魔力が欠乏して倒れていた』
「神官様、ルベ。ごめんなさい。また、迷惑をかけて」
「私は、ベスに迷惑をかけられた事は、一度もありませんよ。サイユ村は特殊な村でしたからね。これからは、いろいろな初めてに出会うでしょう。きっと良い事ばかりではありません。それでも、私はベスに世界中を、見せてあげたいと思うのですよ」
神官様の言葉が嬉しくて、私は笑顔で大きくうなずいた。
『ベスが心配した人間は、皆、無事だぞ』
「ほんとうに? 良かったぁ」
無事でなければ報われない。
具合の悪さも堪えたが、説教も結構、堪えていたのだから。
森の国境の町側にある小さな村から、若い夫婦が子供を連れて森を抜け、領主の町へ向かう途中だったらしい。
森には魔物はいるが、オオカミがせいぜいで、街道に現れる事は、あまりないらしい。
クワを持って夫は立ち向かい、妻子を逃がそうとしたようである。
神官様は三人の傷を治し、馬をなくした家族とともに、領主の町まできたようである。
「私は何日寝ていたのですか?」
「三日程ですよ。子供は普通、一日も寝ていれば治るのですが、ベスは魔力が高いですからね。おまけにあれ程の魔力をいきなり使ったのです。体が驚いてしまったのですよ」
「すみません」
私は小さくなって謝るしかない。
「急ぐ旅ではないので、体が回復してから出掛けましょう」
「神官様。立派なベッドがあるここは、どこですか?」
教会にしては、ベッドどころか内装までも高級な気がした。
「ここは、領主が用意してくれた宿です。お屋敷では気詰まりですから、遠慮したのです。助けたご夫婦の奥方が、領主の血縁者だったようです。この町では一番良い宿ですよ」
この世界の高級ホテルというところだろうか。
「ジルと泊まった宿の一等とは、全然違いますね」
多分、等級には規定がないのだろう。
「そうですね。宿は誰でも泊まる事ができます。町にある宿の一等室は、お金があれば宿泊できるでしょう。王都では、地位のある方やその紹介がなければ、宿泊できない宿があります。ジルが泊まった宿は、それよりはるかに条件が厳しいでしょうね。その一等室はその町では一番安全な所でしょうから、目をつぶりましたが、正直に言うと、驚きましたよ」
ジルはとんでもない宿に泊めたようだが、私はあの宿が気に入っていた。
次の日には、すっかり元気になっていたが、神官様のお許しが出ないので、おとなしくしていた。
二日目に、ようやく外出を許されて、町を歩いた。
もちろん、日本では見た事のない町並みだったが、大きな道に並ぶ古い店は、二階が住居なのだろうか、生活感がある。
子供たちが元気に走り回っている光景は、どこでも平和な気がする。
「落ち着いた町ですね」
「そうですね。ここの領は農家がほとんどですから、町も穏やかなのでしょう。近くの森でオークがでたので、一時は大騒ぎでした。兵士が森に行って、安全の確認作業が終わりましたから、落ち着きを取り戻したのでしょう。そうそう、ベスに謝礼が出ましたよ。ルベに預けてありますから、後で見せてもらいなさい」
無一文の私の衣食住は、全て神官様が面倒を見てくれているのだ。
もらえる訳がない。
「要らないです。神官様が使ってください。私の食費の足しに少しでもなるといいのですが」
「初めて自分で稼いだお金です。大切に使いなさい。ベスにはこれから、ちゃんと仕事をしてもらいます。生活費はそこからいただきます」
その言葉でどんなに気持ちが楽になっただろうか。
「どんな仕事ですか?」
「私の仕事の手伝いですよ」
神官様のお手伝いとは、管理人をしていた父さんや母さんのような事を、するのだろうか。
「教会の仕事ですか?」
「いいえ。教会を新しくする町があるのです。神官が本部に行っている間、領主が子供たちの教育者を雇うのですが、治療院がないのですよ」
「それで、神官様が?」
「ええ。一人では無理ですからね。ベスに助けてもらいたいのです」
「はい。頑張ります。では、急がないと病気の方が困りますね?」
私は旅では役に立たない。自分が役に立てる場所がある事に、心が弾んだ。
「大丈夫ですよ。十分に間に合います。私たちが行くまで、神官は町を出ませんからね。神官補は教会の神のそばで仕えますが、治療の経験が浅いのです」
私は首をかしげた。聞いた事がない言葉だった。
「神官補? 村にはいませんでしたよ?」
「村や町の大きさにもよるのです。神官にはいずれ神官になる見習いが付くのです。彼らを神官補というのです。国境の町の教会にいたでしょう? 緑色の神官服で、祈っていた者が」
「はい。そういえばいました。あの教会の神官様は黒い服でしたけれど」
「教会にいる神官は黒と決まっているのです。分かりやすいですからね。旅をしている神官は私のように紺色です。この服は色々と不便ですから、目的地に着くまでは、たいていは私服ですがね」
神官の服は特別で、汚れにくいのだと母さんが言っていた。
不便とはおそらく、人の目の事だろう。
神官服を着ている人は、目に付きやすい。実際に、徒歩で人混みを移動すると、頼まれ事が多い。
神官様は少し不真面目なところがある人なので、手紙を書いて教会に行かせる。
確かに、そこで何かをしたら、行列ができそうではある。
町の大きな通りは馬車が走るので、石が敷いてあるが、脇道は土の道である。
神官様と入ったのは食料品店だった。
ビニールがない世界で、紙も安価ではないから、量り売りである。
高級品は木を薄く加工して紙のようにした物で包む。普通食料品は、葉で包むか、容器を持ち込んで入れてもらう。
そのまま口に入れる物は、店内に置かれているか外に近い場所では、器に入って売られている。
神官様は乾燥果実を買いたかったようだ。乾燥果実は料理に多く利用されるが、菓子としても食べられる。
神官様は店にある、小さな陶器の器を買って、私の手にのせた。
器の中には、かわいいあめ玉が入っていた。
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
神官様はそう言うと、優しい笑みを浮かべた。




