5話
声を掛けようかとも思ったけれど、気付かないふりをした。声を掛けても仕方がないし、ひょっとしたら人違いの可能性もある。
僕は黙って扇子を選ぶことにした。夏本番に向けて新しく扇子を買おうと思ってきたのだ。将棋を始めるより前から扇子が好きだった。理由は自分でもよく分からない。
目を付けていたのは唐木の白扇子と大渋扇の緑だ。どちらもタイトルホルダーが実際に使っているものと同じものらしい。大渋扇の方が涼しげでこれからの季節によく合いそうではある。しかし、値段が少し高いのと名人が使っているということが気になってしまう。ミーハーだと思われてしまうのではないかという我ながらくだらない心配をしてしまうのだ。
片や唐木の白扇子は使っている棋王も通好みの棋士だし、値段も財布に優しい。なにより唐木の骨が力強く、それでいて触り心地も良さそうで魅力的だ。本当に悩ましい。僕はガラスケースの前で長考に沈んだ。
「おはようございます」
女性の声が思考を遮った。聞き覚えのある声だ。そして、僕はさっき見た知り合いと思しき人物が小野春花であることを確信した。
「ああ、おはようございます」
わざとらしく驚いたふりをして挨拶を返す。
「奇遇ですね。何してるんですか?」
「扇子を買おうと思って・・・」
少し震えた声で歯切れの悪い返事をする。彼女に話しかけられるとどうしても僕は怯んでしまう。彼女は僕と同じ駒原大学将棋愛好会に所属する一年生だけれども、正直に言って僕は彼女が苦手だ。




