飛脚、関を越える
山を出で、街道の入り口に立ったとき、飛脚は呼び止められた。鋭い目をした武者の二人組であった。山賊の言う通り、関をやっていたのだ。武者の背には桔梗紋の旗が聳えている。飛脚の主家と京で戦になった相手方の紋様であった。
「もし、お主は何用でまかり通る」
来たか、と飛脚は身構えた。
「あっしは諸国を遊説して回る旅の僧でございまする」
関の手前の山間で、飛脚は僧服に着替えていた。
片方の武者はそれで納得したように飛脚を通そうとしたが、もう片方の武者が飛脚を留めた。
「待て、念の為でござる。今ここで念仏を唱えてみよ。お主が真の坊主ならばできぬはずはなかろう」
飛脚は焦った。飛脚は浄土宗も法華宗も、いかなる念仏も知らない。当然、唱えられるはずもなかった。
咄嗟に、こう言ってしまった。
「あっしの宗派は人前で無用の詠唱を禁じておりまする。御無礼ながら御免こうむりたい」
それで、二人の武者は眉を潜めてしまった。
「人前での詠唱を禁ずる宗派など聞いたことがござらぬ。お主、何処に属する?」
ますます飛脚は困ってしまった。飛脚はどの教えが人前での念仏を禁じていそうか検討もつかなかった。そこで、最近輸入されたばかりの宗教のせいにすることにした。
「あっしは伴天連のものでございます。伴天連では、無暗やたらの詠唱を禁じているのです」
なにせキリスト教は未だ風変りな者が興味を示すのみであり、非常に胡散臭い代物であった。民衆の間ではそのように見なされ、飛脚も当然この武者達は伴天連のあれこれを知らないだろうと踏んでいた。
しかし、勝手が違った。
「ばかを言え。僧服の伴天連などおるものか。それに、伴天連の教えは我が主もよく知っている。主は伴天連の教えを心得ており、そこには斯様な禁などござらぬ」
武者達の主、日向守惟任はキリスト教に関わったことが何度かあり、当然家臣達もおぼろげながらこの最新の宗教の概要を心得ていた。
「さてはお主、上総の回し者でござるな!」
これ以上は誤魔化し切れぬと、飛脚はぱっと僧服を捨て駆けだした。武者達も追う。一か八か武者達の間を駆け抜け、関を通過した。後ろからは刀を持った武者達が追いかけてくる。
飛脚は、肝を潰して走り続けた。いつ背中から切られるか分からぬ恐怖の中、とにかく走り続けた。振り返る際の減速を恐れ、飛脚は前のみを向いて駆けた。後ろから武者達の気勢をあげる声が聞こえなくなっても、走り続けた。
飛脚本来の駆け方とは長距離を駆けぬく為のものであったが、その為の呼吸のリズムも、懐の密書の心配もかなぐり捨て、ただ恐怖心から駆け続けた。
河川の水を押しのけ、再び山に入っては草をかき分け、追手から逃れるためだけに飛脚は足を動かし続けた。飯も睡眠も恐怖がそれをできなくしていた。
やがて備中の国に入り、筑前守が軍勢を率いる領土に入ったとき、ようやく飛脚は恐怖心から解放された。飛脚は、とんでもない距離を凄まじいスピードで駆け続けていたのだ。
それに気が付いたとき、飛脚は足の下方から膝、もも、そして頭に至るまでの疲労をどっと感じるようになった。気が付いたら、もう一歩も動けぬ体になっていた。しかし、届け先はすぐそこである。届ければ、莫大な褒美が貰えるだろう。
飛脚は最後の力を振り絞り、筑前の陣中を目指した。