福寿草
「スプレー菊をください」
その人は毎週日曜日の同じ時間帯にやってきて、同じ言葉を言う。
「スプレー菊ですね。包装はいつもと同じでよろしいでしょうか?」
自分もいつも同じ言葉を繰り返す。すると、その人はいつもの通り静かにうなずいた。それを確認してから、慣れた手つきで薄いピンク色の可愛らしい花を数本手に取る。茎を適当な長さに切りそろえてから、似たようなピンク色の包装紙とリボンで小さな花束を作る。
「お待たせしました」
そう言って花束を渡すと、その人は小さく頭を下げて代金を支払った。最初はお釣りを渡すことがあったが、何十回と繰り返されているうちに気が付けば余分な金額を渡されることがなくなった。レシートを渡すと、それをそっとポケットに入れる。そこでようやくその人は自分が手にしている花に視線を向けるのだ。少しだけ花を見つめて、少しだけ切なそうな顔をしてピンク色の花に笑顔を向ける。そして再び小さく頭を下げると、静かに店を出ていく。
「ありがとうございました」
その様子を見守りながら機械的に頭を下げて見送る。まるでシナリオに書かれているかのように無駄のない一連の流れを毎週繰り返す。他の客と同じように世間話をしようと声をかけようとしたこともあったが、その人が纏ったどこか愁いを帯びた雰囲気がそれを許してくれなかった。
そんなやり取りを何回繰り返しただろうか。正確な月日はわからないが、少なくとも季節が二回は巡っていた。最初はよく見かけるな、程度にしか思っていなかった。次にいつも同じときに来ていることに気が付いた。しばらくすると、話してみたいと思うようになった。でも、交わす言葉はいつも変わらなかった。
そんなある日、いつも通りに花束を渡そうとしたとき、ふと店の外の綺麗に晴れ渡った空が目に入ってきた。
「今日はいい天気ですね」
いつも同じことしか言わないのに、急に違うことを言ったせいかその人は一瞬驚いたような瞳でこちらを見る。それから花束を受け取り、外に視線を向けた。
「そうですね」
静かにこちらを振り返ったその人は今まで見たことのないような穏やかな表情で微笑んでいた。
その日から少しずつ世間話をするようになった。最初は天気の話ばかりしていたが、次第に店の前を通った猫のこと、近くの家の犬のこと、近所のおいしいパン屋さんのことなど、時間が経つにつれて様々なことを話すようになった。他愛のないことを一言二言話すだけで前よりずっと親しくなれたようで自然と笑顔が浮かんでくる。それに釣られたのか、はたまたただの社交辞令かはわからないが、少しずつ相手も笑顔を見せてくれる。それが嬉しくて仕方がなかった。
さらに季節が一巡りしたころ、ふと相手のことを知りたいと思った。思えば自分のことを話すばかりだった。しかし、いきなりそんなことを言い出したら相手にひかれてしまうのではないか、と思うと何もできなかった。
その日は鬱陶しいくらいの雨が降っていた。
「今日はひどい雨ですね。傘をさしていたのにこんなに濡れてしまいました」
いつものようにやってきたその人は少し困った顔で笑っていた。
「雨は嫌いですか?」
するりと出た言葉に自分で少し驚いた。なんとなく気まずくなって視線を降り続ける雨へと向けた。
「嫌い、というより苦手です」
その人は少し考えるようにしてそう言ったあと、やはり困ったような笑顔を浮かべて伏し目がちに雨空を眺めていた。
それからは少しずつお互いのことを話すようになった。好きな色、嫌いな食べ物、よく見るテレビ番組など、話題は多岐に渡った。一つ二つ情報を共有するたびに少しずつ親密になれているような気がした。様々な話をする中でだんだん相手が色々な表情を見せてくれる。怒った顔、困った顔、疲れた顔。新しい表情を見るたびに嬉しくなった。
そしてまた季節が一周したころ、日曜日を心待ちにしている自分に気が付いた。いつの間にと思う反面、前々から薄々と勘付いていたのだ。欠かすことなく毎週スプレー菊を買いに来るその人に少しずつ惹かれていたことに。そしてもう一つ、そのことに気が付いたからといって自分の想いを相手に告げるわけにはいかないこともわかっていた。その人が毎週買っていくスプレー菊、その花言葉は『私は貴方を愛する』。その花を長い間毎週欠かさず買いに来る意味を理解できないほど馬鹿ではない。今日も売れていくであろうスプレー菊の花を見つめながらそっとため息をついた。
いつもより少し忙しい日だった。いつもは花束を一つ作るごとに机の上を綺麗にしていたが、その日はそんな余裕がなかった。
「桃の花ですか」
その人はしまい忘れた花を目ざとく見つけるとその花の名を口にした。
「可愛いでしょう?花言葉は、『チャーミング』とか、『私はあなたのとりこ』などがあるらしいですよ」
自分のミスを指摘されたようで気恥ずかしくなったため、それをごまかすようにとっさに花言葉を出していた。ふと自分の手元にあるスプレー菊の花が視界に入って、少し切ない気持ちになった。
「確かに可愛らしいですが、桃の花には『天下無敵』という言葉もあります。見た目に反してなかなかにしたたかな花だと思いませんか?」
こちらの気持ちなど知るはずもなく、その人はいたずらっぽく笑った。
それからの会話は花について話すことが多くなった。店の中の花、道端に咲いている花、世界にある珍しい花。花屋をしている自分よりはるかに多い知識量に素直に賛辞を贈ると、その人は照れ臭そうに笑った。
再び季節は巡った。店の中にある花は一通り話題に上ったが、その中でスプレー菊に触れることはついになかった。募っていく気持ちをどうすることも出来ずにもてあましている自分の臆病さに思わず自嘲の笑みがこぼれる。叶わぬと知っていて想いを告げられるほど自分は強い人間ではなかった。
その日は珍しく配達を頼まれていた。その帰り道に時計を確認するとあの人がやってくる時間が近づいていた。もうすぐ会えると思うと自然と笑顔が浮かんでくる。自分のことながら現金だな、と思ってしまう。ふと、視界の端に小さな白色と桃色で彩られた花が映った。不意にその花の花言葉が頭をよぎる。少し罪悪感を覚えたが、その花の茎を数本折って持って帰った。店に戻って薄桃色の包装紙で小さな花束を作ると、人目に付かないようにカウンターにそっと隠した。あとはいつものように店番をしていたが、いつもの時間にその人がやって来ることはなかった。
「アツモリソウをください」
そろそろ店じまいをしようと思ったとき、聞きなれた声がした。店の入り口に目をやると、その人が静かにたたずんでいた。
「いらっしゃいませ。スプレー菊………ではなく、アツモリソウですか?」
いつものように反射で答えようとして、普段との違いに気づいた。一瞬自分の聞き間違いかと思ったが、その人はゆっくりとうなずいた。いつもとは少し違う雰囲気に戸惑いながら、紅紫色の花を数本手に取る。いつもと同じような花束を作ろうとして、ふと自分が持っているのがいつもと違う花であることを思い出し、急にどうしていいかわからなくなった。
「どのような花束になさいますか?」
ほかの客にはいつも言っていることだが、その人にはもう長いこと言っていなかった言葉を口にする。
「少し華やかな感じでお願いします」
言われた言葉にうなずいて、他の花も交えていつもより大きな花束を作っていく。いつものピンク色の包装紙にアツモリソウに似た紅紫色の包装紙を重ねることで花が浮いてしまわないようにする。少し離れたところから見て全体のバランスを整え、出来上がった花束を相手に見せる。
「このような感じでよろしいでしょうか?」
その人は花束を少し眺めた後ふわりと笑って頷いた。そして、いつもより多めの代金を支払ってその人は花束を受け取った。
「それでは」
そう言ってゆっくり頭を下げてその人はこちらに背を向けた。出口に向かって歩を進めるその人の後姿を見ながら、なんとなくこれがこの人を見る最後になるのだと感じた。呼び止めたいけど、その理由が自分にはなかった。それが悔しくて視線を落とすと、薄桃色の小さな花束が目に映った。
「あの」
店を出ようとその人が扉に手をかけた瞬間に花束をつかんでその背中に声をかけた。
「どうかしましたか?」
その人はドアから手を離してこちらを向いた。そしてじっと目を見つめてくる。
「これ、よかったら貰ってください」
声が震えそうになるのを抑えて笑顔を作りながら花束を差し出す。
「ユキノシタの花ですか」
その人は一目見ただけでその花を言い当てた。そして、少しだけ考えるように目を伏せると、ふいに視線を花束に向けて少し困ったように固まってしまった。この花の花言葉は『切実な愛情』。昔この花について話したときそのことにも触れている。叶わないと知っていてなお諦めきれない気持ちをこっそりこの花にのせて渡そうと思ったが、やはり気が付かれてしまったようだ。
「いつも買っていただいているお礼です。お店の花じゃなくて申し訳ないのですが、綺麗に咲いていたので」
すぐには受け取ってもらえないことに泣きそうになりながら言葉を付け加えると、その人ははっとしてこちらに手を伸ばした。
「確かに綺麗に咲いていますね」
その人は花束を受け取るとじっとそれを見つめていた。その表情からはなにも感情を読み取れなかった。
「ありがとうございます」
最後に小さく頭を下げて、その人は静かに店から去って行った。時計の音だけが響く店の中で、花を受け取ってもらえた喜びと静かに終わりを告げた恋に対する虚無感に、ただ茫然と立ち尽くしていた。
最後にあの人が訪れてから季節が一度だけ廻った。今まであの人が通っていた期間から考えるととても短い時間のはずなのに、なぜかひどく長いものに感じられた。最初は日曜日になるとあの人が来るのではないかと期待していたが、最近ではすっかり諦めもついて穏やかに日々を過ごしている。
その日は朝からもの凄い雨が降っていた。雨が降ると自然と客足は遠のき、店は暇になる。店内の掃除でもするか、と道具を取りに店の奥へ引っ込むと、ドアが開く音がした。
「いらっしゃいませ」
掃除道具を取るのをあきらめて店に戻ったとき、驚いて固まってしまった。
「お久しぶりです」
苦笑しながらそう言ったその人の表情はひどく落ち着いていて穏やかだった。どうしていいかわからなくて視線をめぐらしていると、ふとその人の手にある一輪の花が目に入った。
「花屋なのに花を持ってきてしまってすみません」
その人は視線に気づくと少しだけ気まずそうに視線を外した。それから再び視線を戻し真っ直ぐにこちらを見つめるとおもむろに口を開いた。
「この花をどうしてもあなたに渡したくて」
差し出された花は綺麗な紫色をしていた。
「アヤメの花」
小さな声で呟いたのに、その人にはしっかりと聞こえていたようで、嬉しそうに頷いて肯定を示してくれた。
「この花の花言葉覚えていますか?」
少し不安そうに問いかけられ、回らない頭で必死に考える。この花の花言葉は『愛』。そしてもう一つ『あなたを大切にします』。
「覚えて…います」
頬に涙が伝っていくのを感じながら差し出された花を受け取った。ドアの外ではいつの間にか雨が上がり、綺麗に晴れ渡った空が広がっていた。