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前編

 不真悠吾はバイト先のコンビニを出るや、数日ぶりの猛暑に思わず顔をしかめ、同時に朝食以降一度も水分を口にしていないことを思い出した。その場でUターンし、今出て来たばかりのコンビニに再度入った。ドア一枚隔てての天国が悠吾を出迎えた。店長は、いらっしゃいませ、の台詞を間延びした調子で言いかけ、顔を上げて客が悠吾だと確認するや即座に中断し、カウンターの上のスポーツ新聞に目を戻した。

「何だ、お前か」

「ええ、まあちょっと喉が渇きまして。正確には渇いてたことを思い出したんですけど」

 悠吾は店の奥に据えられた飲料のコーナーまで一直線に向かいつつ言った。

「駅はすぐそこじゃねえか。そのくらい我慢できないのか」

「ここならツケが通用するじゃないですか」

「払う気もないくせに。若者がコンビニにツケ払い要求するなよ。……たく、一体世の中どうなってんだ」

 店長は苦々しげに言うが、正直コンビニのカウンターにスポーツ新聞広げつつ店の商品の鮭おにぎりかっ食らってるような男に憂慮される日本社会の方が不憫だ、と悠吾は内心思ったが黙っておいた。それに冗談の一つも受けられないときた。

「いや全く。まあ個人的な見解を述べさせて貰うと、仕事中スポーツ新聞広げるようなコンビニも僕は他には知らないですけど」

「客が入ってから出て行くまでが仕事だろう。それ以外はどう過ごそうが俺の自由だ」

 滅茶苦茶である。そのうち「客がレジについてから釣り渡すまでが仕事だ」と言い出すに違いない。

「あの、お客さんいるのに新聞畳まないんですか?」

「ん、どこに? ……なんだ、いないじゃないか」

 店長は慌しく新聞から顔を上げ、店を一望してから新聞に目を戻した。どうでもいいけどまた腹が出た気がする。

「いや、僕の勘違いでした」

「たく、驚かせるなよ」

 どうやら悠吾は客として扱われていないらしい。

「店長、ファンタグレープは? 無いんだけど」

 悠吾は飲料コーナーを何度も確認しながら不満をこぼした。

「ああすまん、最後の一本俺が飲んだ。あれ美味いよな」

 頭の中で様々な負の思念が入り乱れたが、黙っておいた。

「……コーヒー牛乳にしときます」

「悪いな。ん、そうだ、この新聞いる? 読み終わったんだけど」

 店長はばらばらになっていたページを乱雑に集めて折り畳み、次の新聞にカウンターから手を伸ばしながら言った。

「あ、読み終わったんなら貰います」

 昨日の野球の結果が詳しく知りたかった。そういえば最近野球観戦に行っていないな、今度誰か誘って行こう、とぼんやり考えつつ悠吾はカウンターにコーヒー牛乳を置いた。昔懐かしの牛乳瓶ではなく、おなじみの紙パック。もっとも、悠吾の世代では既に小学生の頃は給食の牛乳は紙パックだったのだが。

「はいコーヒー牛乳が105円の……新聞代も合わせて240円ね」

「……やっぱいいです」

 いったいこの世の中でページ番号も乱雑、ところどころ鮭おにぎりの食べカスが挟まった新聞を定価で買いたがる人の割合はどれほどなのだろうか。

「明日は何時からだっけ?」

 会計を済ます。店長は今度は毎日新聞を開きながら、顔も上げず聞いてきた。

「十時から。聞く立場が通常と逆じゃないですか?」

「そうだ、あいつはもう来ないのか? 名前忘れたけど」

 指摘をスルーしつつ店長は聞いてきた。当然新聞から目は話さない。傍から見たらこれほど答え難い質問は無さそうだが、悠吾はなんとか見当をつけ、答えた。

「亮太ですか? さあ……」

「さあ、て適当だな、おい。そんなのでいいのか、この先。もう十七だろ」

 この男にそう言われても誰しも過剰に傷つくか説得力の無さに目敏く気付くだけである。

 渡会亮太は悠吾をこのバイトに誘った張本人である。同級生なのだが、最近になって他校の良からぬ連中と付き合い始めた、という噂を聞いただけで、最近では学校でも見かけない。バイトにも何の報告もなく来なくなった。携帯も番号を変えたらしく、連絡のつけようがない。無論学校の連絡網を使えばとれないことも無かったのだが、そこまでする気は起きなかった。「あいつが来なくなってシフトのやり繰りに苦労したよ」と店長はぼやいていたが、たまには苦労しないと他の社会人に失礼だと思う、という言葉を飲み込んだ覚えがある。

 もともと大した仲ではなかったし、そもそもそっちの系統の連中と関わると後々まで面倒だろうと勝手に目算をつけ、悠吾はその件については保留と決め込んでいた。

「まあ、期待しないほうがいいと思いますよ。最近変な連中と関わりあってるとかで、学校にも来てないし」

「ふーん。まぁ何だっていいけどよ、辞めるなら辞めるで連絡くれにゃあ困るんだって伝えといてくれ。それと若いうちは楽しみゃいいけど、学校にだけは顔出せよって」

「今度会ったら伝えときます」

 絶対「余計なお世話」の一言で一蹴されるだろ、と内心呟きながらも悠吾はとりあえず頷いておいた。

「ああそうそう、今日何曜日だっけ?」

 普通その日の日付と曜日くらい新聞の上の方に載ってるよな? と思いつつ悠吾は答えた。

「……土曜。健全な学生なら平日に真昼からコンビニでバイトなんてしないですよ」

「健全じゃなかったらバイトよりカツアゲ選ぶだろ」

「何だっていいですけど……それじゃ、また明日」

「おう、お疲れ。――いや、それにしてもこの子大丈夫かな? 助かるといいんだけど……」

 店長は新聞を読みぼやきつつ悠吾を見送った。きっと朝刊の端の方に小さく書いてあった、交通事故で植物人間状態になった中学生の女の子のことを言っているのだろう。悠吾も朝刊にざっと目を通した際に斜め読みしていた。植物人間なんて今時珍しくもないのだが、彼女は例外で、かれこれ五、六年の間ずっと入院している。家の方もそんなに裕福ではなく、ちっとも快方に向かう様子もない。安楽死という言葉も囁かれるようになって、今後どうなるのかが小さな話題になっている。それだけだ。

 悪いけど関心はない。コーヒー牛乳片手に店を出る。そこから徒歩数十秒の駅に着くまでに紙パックは空になっていた。駅の売店でファンタグレープを買うことを忘れなかったが、コーヒー牛乳の後に飲んだそれは当然のごとくマズかった。失敗を通してしか人は成長出来ないんだ、とファンタグレープの値段分の損害を自分に必要なものであったと納得させようと努力しつつ、悠吾は改札を通った。

 ホームに着き、バイブもオフにしていた携帯(自分は就職態度が滅茶苦茶なくせに店長は人にはうるさい)を取り出すと、メールの着信があった。将棋部で一緒の高宮俊作からだった。俊作は二年生ながら部長顔負けの実力の持ち主で、下手の横好きで将棋をやっている悠吾などは飛車角落ちにしてもらっても軽く負ける。いや、負けるというよりも途中で必ず降参する。対局が中盤に向かったあたりで悟るのだ、自分はこいつには勝てない、と。指す手の数は同じ、尚且つ相手は主力を欠いているというのに実に不思議である。メールの内容は、今度近くの百貨店を会場に開催される将棋の大会に一緒に行かないか、というものであった。以前付き合った時には確か予選で五分足らずで降参して帰ったんだっけな、と回想しながらも悠吾はOKの返事を返しておいた。

 何ゆえ悠吾などを誘ってくれるのかは分からなかったが、まあ別に良い。悠吾にだったら万一当たることがあっても間違いなく勝てる、と考えていたって、別に気にしない。

 すぐに返事が返ってきた。

『そうそう、気付いてるかは知らないけどさ、俺さっきからお前が見えてるんだけど』

 悠吾は慌てて周囲を見回した。

 目の端に誰かが手を振るのが見えた。同じホームの反対側の階段を下りたところに俊作の姿を認めると、悠吾は小走りでそちらに向かう。

「よう、どうしたんだこんな時間こんな場所で」

 自分も同じ質問しようと思ったのに、とぼ内心やきつつ悠吾は答えた。

「バイト。ほら、駅前のコンビニでやってるって言っただろ。……お前は?」

「やだなぁ、その辺りは察してくれよ、酷なやつめ。いつものアレだ」

 英語の補習か、と勘付き、悠吾は軽く頷いた。二人の通う高校はこの駅から行ける距離にある。考えてみれば学校が休みの日に将棋部員が学生服着て下校する理由なんて、なかなか他に見当たらない。将棋部は月、水、金の週三日間活動していた。

「まぁ愚痴るのはこれまでにしといてだ。バイト……誰かと一緒だったろ、度会だっけか。あいつ元気してる?」

 悠吾は近くにあった空き缶用のゴミ箱にファンタグレープの空き缶を投げたが、見事に外した。拾って今度はしっかりと捨て、戻りながら答えた。

「いんや、来てないな。知ってるだろ、あいつ最近は学校にも来てないし」

「……え、ほんと?」

「知らなかったのかよ……お前本当にそういうところ疎いな」

「だってクラス違うだろ。それにお前通してしか知らなかったし、あいつのこと」

 俊作は友人の層が薄い。故に情報網も小さい。別に悪いこととは思わない。いや、逆にたまに羨ましくなる。個人個人の友好関係の持ち方には二種類ある、と悠吾は思っている。浅く広い友好関係と、深く狭い友好関係。そして両者が互いを羨ましがる傾向にあることも。悠吾は前者だが、それ故に親友と呼べる存在がいなく、時折ガラになく淋しい気持ちになることがある。一方後者である俊作も、「悠吾は顔広いよな」と時々ぼやくことがあるが、それはお互い様なのだ、と悠吾は思うことにしている。「友達百人出来るかな」というフレーズは随分と小さいときに聞いたが、出来てたまるか、と悠吾は思う。そもそも友人なんて数えるべきものじゃない。

「まぁ、てわけであいつは来てない」

「ふーん……なあ、じゃ俺もそのバイト紹介してくれない?」

 俊作が思い切ったようにして言った。

「ええー、あんまりお勧めしないけど――」

 店長の性格を鑑み、悠吾は率直に言ったが、途端に俊作は酷く悲しそうな顔をした。悠吾は慌てて説明した。

「いや、店長の性格が酷いんだよ。それでもいいってんなら、俺は大歓迎だけどさ」

「したら今度ちょっと覗いてみるよ」

 少し元気を取り戻した様子で俊作は言った。

「でさ、そのコンビニの店長ってどんな奴なの?」

「ああ、それが酷くてさ……」

 休日の午後の私鉄にはバラエティー富んだ系統の人間が集まるものだ。俊作と他愛無い話を交わしながら悠吾は車両内をざっと見回した。優先席で携帯をいじる若者。頭にはタオルを大工のように巻き、ランニングシャツにラッパーのようなだぶだぶのジーンズを履いている。彼の頭上の窓に「優先席付近では携帯電話の電源をお切り下さい」という注意書きがこれ見よがしに貼り付けられているのがなんとも滑稽であった。きっと気が付かなかったに違いない。とりあえず好意的な解釈をしてそっとしておいた。悠吾の視界の真ん中には丁度化粧している二十代半ばの女性が座っていた。意中の男性以外にはどう思われても気にしないタイプなのだろうか。世間体という言葉は彼女にとっては死語に違いない、と勝手に断定した。柱越しに項垂れがちに座っているのはヴィジュアル系かぶれの男性だった。前髪を鼻のあたりまで伸ばしている系統である。黒のジャケットにタイトなジーンズ。どうでもいいけどステージ以外の場所で見るとこういう格好の人々は結構小さく見えるものだな、と悠吾は思った。少し離れた場所に座っている三人ほどのおばさんが大声で話しているのに目を見やると、そのうちの一人がすごい形相で睨み付けてきたので慌てて目を逸らし、それ以上の人間観察は止めることにした。

 乗務員が、悠吾が鼻でもつままないと真似出来ないような声で間もなく次の駅に停車する旨を伝えると、数秒後に電車は停まった。停車するとき車内は明らかに必要以上に揺れたが、大声で話していたおばさん連中が会話を止めて顔をしかめただけで、他には何も変わったことは起きなかった。その時、俊作と悠吾の間の話題は学校についてのことから部活のことに移行していた。

 二人が寄りかかっていた側のドアが開くので二人は一旦ドアから離れ、道を開けた。乗ってきたのは――渡会亮太だった。染めていなかった髪を今は赤に近い茶髪に染めており、首にはわけの分からないチェーンのようなものをぶら下げていた。亮太はちらと悠吾の方を見やったが、何も言わずに横を通り過ぎた。気まずい空気が流れたが、悠吾は軽く咳払いした。一応しっかり伝えておくと言ってしまったのだ。

「バイト先の店長からの伝言」

 背後で亮太が立ち止まったのが分かった。

「学校には出ろ、だそうだ」

 亮太は明らかに悠吾たちに聞こえるようにして舌打ちをし、それから軽く肩をすくめた。知ったことか、ということらしい。まあもっともではある。たとえ店長の言うことが正しくとも、表立って認めるのは紛れもない恥である。それに店長の説得くらいで復帰するくらいなら最初から学校やめちゃいないだろう。そもそも正直亮太が学校に来ようが来まいが、本人が来たくないのならそれでいいじゃないか、と悠吾は考えていた。

「ま、一応伝えといたからな」

 振り返って悠吾が言うと、亮太は今度は何の反応も示さず優先席に辺りまで歩いていった。どうやら優先席で携帯いじっていた例の若者と知り合いだったらしい。何やら二人で楽しげに話し始めた……ように見えたが、楽しげにしているのは若者の方だけで、亮太のほうは俯き気味に座り、愛想笑いを挟みながら小さく頷くだけだった。まあ会話の内容は知ったことではない。

「なんだあいつ、前とだいぶ印象変わったな」

 俊作が耳打ちしてきた。だいぶどころじゃない。前はあんなじゃなかった。まず考えられるのは当然のごとく外的な要因による変化なわけだが……悠吾と俊作がどちらからともなく亮太が話している相手の若者を見やると、若者特有の不快感丸出しの顔つきで睨み返してきたので、とりあえず目を逸らしておいた。関わるとあまり穏やかなことにならない。放っておこう……しかしその悠吾の思惑は直後にあっさりと破られた。

「まあ何だっていいけどさ」

 俊作は優先席の辺りにいる二人を背に少し大きめに声を上げていた。

「そういう系統の連中とは早めに手切っといた方がいいと思うけどな、俺は個人的に」

 ……やっちゃった。足を大きく通路に投げ出していた若者が突然大きな音を立てて立ち上がった。亮太はその一連の動きをただ空虚な目つきで見ていた。いつから最近の世代の連中の堪忍袋の尾は縁日のヨーヨー釣りの撚り糸並みに切れやすくなったのだろう、と同じ世代に生きながらも悠吾は思わずにはいられなかった。

「もういっぺん言ってみろ」

 若者は俊作の肩に手をかけ、乱暴に振り向かせた。

「僕は貴方に話しかけたわけじゃないんですけどね。他人の会話に横槍さすなんて、そちらこそ礼儀を知ったらいかがですか」

 俊作も引く様子はないらしい。亮太も黙って掛け合いを見ている。他の客も当然この状況に気付いてはいるのだが、皆だんまりを決め込むことにしたらしい。面倒に巻き込まれたくないという気持ちはよく分かる。自分だってそうなんだから。

しかしこれは尋常じゃないことになってきた、と悠吾は思った。さっきから俊作が若者に対して穏やかならざる感情を抱いてたらしいことには気付いていたのだが……なぜ今になって不満が爆発したのかは悠吾には理解し得なかった。俊作は亮太とはほとんど面識がないはずなのだ。悠吾が軽く咳払いするとやはりすごい目つきで若者は睨みつけてきた。

「なんだ、お前も俺に文句があるってのか」

 ある種の被害妄想なのだろうか、これは。文句も無くはないけれど、喧嘩するには状況と場所と、ついでに相手が悪すぎると思った、ただそれだけだ。

「えーとですね、勘弁してやってくれません? こいつ勉強はかどらなくて最近ストレス溜まってたみたいで……な?」

 俊作は「冗談じゃない」と言わんばかりの表情をしていたが、そのうち小さく

「すみませんでした」

 と溜息をつくように言った。

「――口には気をつけるんだな」

 若者はしばらくの間俊作を目から光線でも出しそうな勢いで睨みつけていたが、大きく舌打ちしてそう言うと定位置に戻り、足を組んだ。亮太はついに一言も口を挟むことはなかった。

 安堵したのも束の間、俊作はそっぽを向いて携帯をいじり始めてしまった。勉強のことを引き合いに出したのがまずかったろうか。でもあの場で丸く収めなければ面倒なことになったろうし、第一それで俊作が目を付けられるようなことになるということも考えられたのだ。自分なりに最善の策を取ったつもりだったのだが……。

 メールの着信があった。

『なんで止めた』

 の六文字だけだった。差出人は俊作だった。見上げると俊作は先ほどの「冗談じゃない」の顔つきをしていた。ちらりと亮太と若者の方を見やると、若者の方がいじっていた携帯をたたんで真に苛立たしそうな目つきをした。確かに今ここで会話してその片鱗を聞き取られたらこれこそ面倒だ。目の前に互いの姿を認めながらの奇妙な携帯を介しての会話が始まった。

『連中に楯突くのは百害あって一利なしだぞ』

『俺だってそのくらい知ってるさ。でも、だって許せないだろ』

 携帯の画面からまたちらりと俊作の顔を見やると、相変わらず俊作は口を一文字に結んでいた。

『じゃあ何か? あのままいってたらお前がボコされてたんだぞ』

『もともとそれが狙いだったんだ』

 正気を疑うような顔で悠吾は俊作を見やった。Mの傾向は俊作には無かったはずである。しょうがないな、とでも言わんばかりの表情で小さく溜息をつき、俊作は次のメールを高速で打ち始めた。

『さっきから会話聞いてたんだが、度会があのヤンキーに影響されてああなったことは明らかだった。渡会から金も借りてたらしい。……渡会の目の前であいつが俺を殴れば、度会のあいつに対する評価も変わるかもしれない。思い切って関係を切ろう、と決断させることもできたかもしれなかっただろ』

 いまだに納得がいかなかった。「かもしれない」? そんな不確かな可能性のために殴られるなど冗談ではない、と悠吾は思った。亮太もあの若者と付き合うのが嫌なら自分で関係を切るはずだし、そもそも他人の口出しすることではないだろう。そして何より、

『度会とは顔見知り程度の仲だろ? お前にそこまでする必要ないじゃないか』

 率直にそうメールを送ると、俊作は諦めたように大きく溜息をつき、

『もういいよ』

 と素早く五文字のメールを送ってき、携帯をたたんでポケットに入れた。明らかに軽蔑の篭っている目つきで悠吾を見やると、それ以降黙ってしまった。

 悠吾としては納得のいく説明が欲しかっただけなのだし、そもそも俊作にそんな思惑があったのなら、前もって一言言っておいてくれなければ止めに入るのは当然のことだろう。そして……結局なぜ俊作はこんなに不機嫌なのだろうか。全てが謎だった。それを説明するつもりが俊作にないというのなら、上等だ、向うがこれ以上何も話しかけて来ようとしない以上、先に話しかけた方が非を認めることになる。悠吾も小さく溜息をつき、その沈黙に付き合うことにした。

 ――最初に異変に気付いたのは無論運転手であったのだろうが、それにも関わらず、異変自体は車内の全員の身に平等に襲い掛かっていた。

 

 それは一瞬の出来事だった。足場が不安定に大きく傾くのを感じた。驚いて運転席へと続くドアの小窓から外を見ると、傾いた視界の中でビルが急速に接近してくるのが見えた。運転手が何やら賢明に様々な操作をしていたが、効果を奏していないのは明らかだった。ビルの磨かれた窓ガラスには、必死の形相の運転手の後ろの小窓から呆然とした顔でこちらを見ている自分の顔が映っていた。悠吾はただその光景をぼんやりとして眺めていたが、ビルが眼前に迫ったとき、視界が真っ暗になった。予想していた衝撃は襲ってこなかった。でもこの後どうなるかは誰にだって分かる。

 俊作とも仲がこじれたままだし、学校の皆にも別れを告げられていない。将棋だってもっと強くなりたいし、バイト代だってまだ貰っていない。読みたい漫画も本も山ほどあった。好きなバンドのニューアルバムもまだ買いに行っていない。……冗談じゃない。

「こんな訳の分からない死に方してたまるかよ!」

 思わず大声を上げると、それに感応したかのように、突然視界が開けた。悠吾は自らの目を疑った。悠吾は今、脱線した電車が突っ込もうとしていたビルの中にいた。大きめの窓には一面に、鎌首をもたげる大蛇のように先の方だけをこちらに向けている電車が見えた。電車は空中でその動きを不自然に止めており、運転席からは運転手が消えていた。小窓から外を眺めていたはずの悠吾自身の姿もそこから消えていた。悠吾はまるで何か一つ正常なものを求めるかのようにビルの中を見回したが、その期待は裏切られた。そこはある大手の電器会社の一階のロビー部分であることは分かったのだが、受付のところにいるはずの受付嬢もいなければ、このだだっ広いロビーの中には一切の人影を認めることさえ出来なかった。それに今は真夏の午後で雲ひとつなかったはずなのに、周囲は冬の真夜中のようなべた塗りの闇に覆われていた。このロビーだって、遠くの方は闇に包まれている。

 とりあえず建物の中に居ても何も始まらない。状況を整理するためにも悠吾はとりあえず外に出てみることにした。建物の照明が落ちている以上、自動ドアも開かないのではないか、と一瞬危惧したが、それは問題なく開いた。この状況の中で唯一正常なことに出会えたが、結局悠吾にはそれが逆に不気味に感じられてしまった。

 外に出た瞬間全ては元に戻るのではないか、これは質の悪い夢で、次の瞬間にも隣で立っていた俊作が自分のことを「次の駅だぞ」とでも言って揺り起こすのではないか、と悠吾は願っていた。しかし外に出ても何も変化は無かった。ネオンも街灯も全てその光を失っていた。そして周囲は暗闇に包まれているだけではなく、物音一つしなかった。車一台見当たらないし、周囲には人の気配一つない。ただ幽かな風が街路樹の葉を揺らし、不気味なかさかさとした音を起こすだけで、あとは静寂がこの街を完全に支配していた。助けを求めるように悠吾は空を見上げた。百歩譲って今が夜なのだとしたら――この世界が悠吾に与えた解答は中途半端なものだった。空には、ネオンの光に邪魔されていない分見事な満月が窺えた。しかし――星はひとつも見当たらなかった。雲に隠されているのなら雲の形が幽かに分かるはずなのだが、空には雲ひとつなく、大気は凍てつくように静かで澄み渡っていた。一切侵食されていない純粋な闇を見たのは初めてだった。その濃さと静けさに、悠吾は紛れもない恐怖を感じた。光を失う、というのはこういうことだったのか。月明かりがうっすらと視界を与えてくれるものの、住人を失い一切の光を奪われた街ほど不気味なものは無いように思えた。悠吾は街路樹の一つに背中を預け、横から脱線したまま止まった電車を眺めた。見た限り客は一人残らず車内から消えていた。月を背に、窓の部分を残して周囲の景色より一層黒く見えるそれはビルに襲い掛かる、何か得体の知れない化け物のように見えた。

 これが夢であるとしても、また厄介な夢を見たものだ、と悠吾は本心から思った。しかし、さすがにこれをあっさり現実と認めるほど子供じみてもいないものの、これを夢と確定するには今悠吾の置かれている状況は奇妙に現実的じみている気もしてしまうのだ。例えば、このわけの分からない世界に放り込まれる直前、悠吾は電車の脱線を確認していた。そして電車がビルに激突する瞬間時間は止まり、悠吾はいつの間にかビルの中から突っ込んでくる電車を見つめていた。無論あのまま時が刻まれていれば悠吾は死んでいたわけで……当然悠吾だけではない、運転手も俊作も亮太もあのヴィジュアル系かぶれも化粧を直していた若い女の人も三人で楽しげに話していたおばさんたちもひとたまりも無かったわけである。だとしたら悠吾は既に死んでいるのかもしれない。これは死後の世界で、悠吾は永遠にこの暗い街を一人で彷徨い続けるのかもしれない。

 いや、しかし、だとしたら同じ場所に運転手も俊作も亮太も皆いるはずだし、第一電車はまだビルにぶつかってはいない。つまりここが死後の世界である、という推論は非現実的に過ぎるのだろう。非現実以外の何かを探すこと自体難しい世界で現実性を考えるのは馬鹿らしくも思えたが、何らかの理由があって悠吾が今こうして闇と静寂の支配する街に立っているのは明らかなのだ。しばらくその場で突っ立って考え込んでいたが、しかし他に悠吾がこのような状況に置かれている理由は思いつかなかった。

 立ったままで思いつかないのなら――悠吾はとりあえずこの街を歩いてみることにした。もしかしたらここには自分以外の人間がいるかもしれないし、脳を活性化させるためには歩くのが良いと聞いたこともある。ふとした拍子で何かを閃き、悠吾はポケットから携帯を取り出し、勢いよく開いた。闇に慣れた目には携帯の液晶が放つ光が妙に眩しく見えた。期待なんてしていなかったが、やはり圏外の表示が出ていた。悠吾は

「まあ、だろうな」

 と不思議と納得した気分になって携帯を閉じ、ポケットにしまった。そういえば、この世界で初めて何か予測出来たのだということに気付くと、たかが電波が通じないことを確認したに過ぎないことを自分で知りながらも、この世界の核心に一歩近づけたような気がするのが不思議だった。

 とにかく自分が死んでいようが生きていようが狂っていようが、他の人がこの世界にいることを本心から願うばかりだ。悠吾が最も恐れるのは暗闇でもこの訳の分からない世界そのものでもなく、この世界が悠吾に強要する孤独であり、退屈であった。悠吾は月光が建物に阻まれにくい大通りを選びつつ、歩き始めた。あちこちの高層ビルの窓に映る満月が、こんな状況のなかでも不思議と、とても綺麗に見えた。そういえば、三色のいずれの光も点していない信号機も悠吾は初めて見た。交通の無い街での信号機は取り残されて寂しげに佇む、存在意義を失ったモニュメントに過ぎなかった。


 しばらく歩き続けると、一度は深い思考に沈められたはずの恐怖が蘇ってきた。周囲を見渡すも、月明かりのお陰か、不思議と視野は遠くまで澄み渡っている。しかしそれが悠吾をさらに深い落胆と絶望へと追いやった。見渡す限り、月光の他の光は見当たらない。他の人間の気配一つしないのだ。周囲で空気が動くのも、かすかに風が吹いているせいに過ぎないし、迎え入れるように悠吾に向かって入り口を大きく開いているゲームセンターや百貨店や二十四時間営業のはずのコンビニまでが、手を入れるとそのまま全身が吸い込まれていきそうな深く濃い闇を湛えており、また何かの拍子にどちらかの方向によろめいたら、その中から黒く長い腕が身の毛もよだつような素早さでにゅっと伸びてきてそのまま悠吾を引きずり込んでしまいそうな気さえした。

 洋服店のショーウィンドウに並ぶマネキンたちも薄暗い店内では何だか奇妙に生々しく見えてしまって、それにも関わらず悠吾はそれらから目を離すことが出来なくなってしまった。婦人服の店だった。それぞれのマネキンは値札のついた高級そうな服を着合わせ、様々なポーズを取らされていた。それぞれの顔には目の代わりに単なる窪みがあり、それらは真紅の口紅を塗ったのっぺらぼうのようであった。それらから無理やり視線を剥がして前進することも恐らく出来なくは無いだろう。しかし、突然、誰も見ていないことに気付くとマネキンたちが動き出し、何も見えない二つの空虚な目を悠吾に向け、手を前に伸ばし、ぎこちなく足を動かしながら追いかけてくるのではないか、という嫌な想像が頭をよぎってしまい、どうにも動けなくなってしまった。人間というのはどうして恐怖を感じるとこうまで想像力がたくみになってしまうのだろうか、と悠吾は歯を喰いしばりながら人間の習性を呪った。マネキンが動くはずがないのは分かっている。だが、止まらないはずの電車が空中で止まってしまっているという現実を鑑みると、何が動き始めてもおかしくないような気持ちにもなってきてしまう。

 かすかな風が街路樹のイチョウの葉を撫でていった。心地よい音が流れる。

 かさかさ。かさかさ。かさかさ……ぎぎ。

 ――ぎぎ? それは丁度長い間グリスの注されていない歯車が回るとき起こすような音だった。『ぎぎ』って何だよ……。思考がどうもそれらしい結論に至る前に悠吾はマネキンたちから視線を外し、全速力で走り出していた。視界の隅でマネキンの一つの首が動いたような気がしてならなかった。走り始めると明らかに背後で空気が大きく動いたのが感じられた。

 心拍が早鐘のように鳴り響く。冗談じゃない。何だってこんな目に遭わないとならないのだ。悠吾は何か悪いことをしただろうか? とっさに俊作の諦めたような溜息や変わってしまった亮太の舌打ちが思い浮かんだが、悠吾はそれを振り払った。自分で撒いた種で不機嫌になっているのだから、その始末は自分でつけるべきだ。何だって悠吾に火花が飛んでくるのだ。悠吾はただ自分が毎日を楽しく過ごせればそれでいいのだ。それなのに訳の分からない事故に遭って(厳密に言うとまだ遭う直前らしいのだが)これまた訳の分からない世界に連れてこられて、今は何故かマネキンに追い掛け回されている。背後を振り向く余裕も勇気も無かった。普通の学生生活を送る上でそうそう経験しない恐怖という感情が今や悠吾をぱっくりと呑み込もうとしているのだ。

 ――やばい、息が苦しくなってきた。

 悠吾は試しに一瞬立ち止まり、両膝に手をついてぜえぜえと空気を肺に大きく取り込みながらも、背後の空気に耳を澄ませた。……何も聞こえない、と安堵した瞬間、『ぎぎぎ』という音がそれをぶち壊した。続いて『カッカッカッカッ』というハイヒールが地面を蹴る音。背中を突き飛ばされたかのように悠吾は勢い良く再び走り始めた。考えてみれば尋常でない速さで彼らは迫ってきている。マネキンが歩くところを想像してみると、各関節をぎしぎしと言わせながら一歩一歩ゆっくりと進むようなイメージがあるのだが、これはまるで怪談系の話でよくある学校の人体模型のような速さである。しかし悠吾が抱いていた印象とのギャップがどうであろうと、マネキンは実際にその速さで付いてきているのだ。捕まってから文句を言ったところでどうにもならないし、第一文句を言う間もないかもしれない。しかし実際に改めて、飛びそうになる帽子を片手で抑え、なりふり構わずハイヒールで、猛スピードで走って来るのっぺらぼうの姿を想像すると、これはますます、たとえいくら疲れたからといっても、スピードを落とす訳にはいかなくなった。

 ぎぎぎ。カッカッカッカッ。ぎぎぎ……。カッカッカッカッカカカカ。

 マネキンはペースを上げてきたらしい。一体どこまで追いかけてくるつもりなんだ……。悠吾はいい歳をして泣きそうになりながら、それでも走り続けた。左右を長方形の入り口をした洞穴のようなさまざまな建物が通過して行く。精神的な極限状態に置かれた悠吾には、それらはまるでこの競走劇を一つの娯楽として高みの見物に酔いしれているようにさえ見えて、妙に恨めしく思えた。

 だが暫くして一つの事実に思い当たった。このまま走り続けてもいつか悠吾は体力を使い果たし、捕まるのだ。何しろ相手はマネキンである。どう考えたって体力を使い果たして膝に手を当ててぜえぜえ喘ぐ姿なんて想像できない。しかし、かといって左右にある無数の建物の一つの中に飛び込む気にもなれなかった。先ほどの黒い手の想像が頭をよぎっただけでなく、大抵の建物は当然のごとく入ってしまえば行き止まりなのだ。もしもマネキンが建物の中まで追い掛けてくれば万事休すである。

 一か八か、次の交差点を直進すると見せかけて悠吾は突然右に曲がり、たまたま角にあったコンビニの横すれすれを走った。すぐ横をぽっかりと開いた闇が通過したが、何も起こりはしなかった。ただ通過する時だけ奇妙に耳鳴りと悪寒がしただけだったが、それは尋常ならざるものだった。今回はまだこの鬼ごっこを見物したくて、たまたま見逃してくれたのかもしれない。とにかく、二度と建物に近付かない方が良さそうだと悠吾は肝に銘じた。悠吾は素早くコンビニから離れ、通りの真ん中に戻った。後ろからは――何の音も聞こえてこなかった。何だか分からないが振り切れたらしいと分かって、悠吾は思わずその場にへたり込んだ。マネキンには目がついていなかった。悠吾の位置を感知している要因としては音波に頼っていることが考えられたが、交差点では足音はあちこちの建物に反響して悠吾がどこに逃げたのかは分かるまいと思ったのだが、どうやら当たりだったらしい。もっともあんな超自然的な現象にはもっともらしい説明をつけようとするべきではないのかもしれない。悠吾の想像のつかない方法で彼らは悠吾の位置を感知していたのかもしれないのだから。何しろこれは一か八かだった。悠吾が道を曲がったのを素早く感知されたら回り込まれて捕まっていただろうし、第一建物の入り口の近くを通過するのは並大抵以上の勇気を要した。何はともあれ逃げ切れたことを何度も自分に言い聞かせながら、悠吾は大きく、深く、安堵の溜息を吐いた。思い出したように街路樹のイチョウが風にゆられてかさかさという音を立てるのが耳に入り始めた。心拍が少しずつ正常に戻っていく。助かった。助かった……。しばらくの間は動けそうになかった。

 少しの間休んでから、また少し歩いてみることにしよう。どうもこの街には人間を敵として見ている部分が多々にあるらしい。それに、あのビルの自動ドアも難なく開いた。マネキンが自動ドアを使用することはあまり考えられない。あのドアは必要だから作動しているのだ。ということはここに来た人間は悠吾が最初ではないはずだ。誰か他の人がいるかも知れない。僅かな希望に心を委ね、悠吾は深く息を吐いた。悩むのはこの街を一通り歩き回ってからでも遅くあるまい。無論、洋服店の近くを通るのはもう御免だったが。


 しばらく休んでから、悠吾は立ち上がった。相変わらずの闇と静寂が不気味に悠吾を圧迫してくる。面白い、それならこちらも抵抗を見せてやろう。そう思い立ち、ジーンズの尻ポケットに手を伸ばした。その中には自宅の鍵やロッカーの鍵などをまとめたささやかな鍵束が入っていた。確かキーホルダーの一つがレーザーポインタ付きのものだったはず――月明かりにかざして、苦心しながらレーザーポインタだけを外すと、残りを元の場所に収めた。スイッチを入れると、赤い光線が十数メートル遠くの地面まで伸び、そこに赤い点を作った。本当なら懐中電灯が良いのだろうが、鍵束よりも重いキーホルダーを付けるのはどの道間違ってる気がしたので、懐中電灯のキーホルダーではなく(そんなものがあるとしたならの話だが)、レーザーポインタのものを購入したことへの後悔はなかった。無論レーザーポインタより小型のライトのようなものの方が更に良かったであろうことは言うまでもない。赤い光線はこの闇に包まれた街の中ではあまりにも心細かったが、無いよりはましというものである。それにこれを高く翳して歩いたら、もしかしたら他の人の目に留まることもあるかもしれないのだ。それに思い当たると、悠吾は

「誰かいませんか?」

 と大声で繰り返しながら歩くことにした。考えてみれば、最初からそうすれば良かったのだ。しかし、実際に声を張り上げてみると、空気が澄みすぎているせいか、他に何の音もしないためか、悠吾の声は不自然に良く響いてしまい、幾重の山彦に近いものを作り出した。それがまるで自分の声でないように奇妙に歪み始めたので、逆に気味が悪くなってしまい、それはやめることにした。

 やがて、ずっと遠くの角を曲がってきた人影を見つけると、悠吾は歓喜してその人影へ走っていった。結局レーザーポインタは他の人間に探してもらう役には立たなかったわけだが、そんな些細なことは今となってはどうでもよかった。人影の方もこちらに向かって確実に近付いてくる。次第に人影が近付いてくると、それがどこかで見覚えがあるような気がしてきた。その予感は数メートルのところまで近付いたところで的中したことが分かった。それは電車で乗り合わせたヴィジュアル系かぶれの青年だった。

「良かった……他にも人がいたんですね」

 悠吾はぜえぜえと息をしながら、それでも安堵と喜びに満面の笑顔になって言った。今日だけで多分一か月分くらいは走ったことだろう。青年は相変わらず前髪を鼻の辺りまで垂らしていて、細いジーンズに黒いジャケットを着ていた。当たり前なのだが、さっきまでと同じ格好だった。でもその当然のことが悠吾には何よりも嬉しかった。同じ境遇から同じ世界に連れてこられた人間がいる。俊作もここにいるに違いない。何よりも、悠吾は一人でこの世界に取り残されたわけではないのだ。

 しかし、しばらくして青年が何も反応を示さないことに悠吾は気付いた。とても嫌な予感がする。まったく、この街では一瞬たりとも悠吾に平穏というものを与えるつもりは無いらしい。冷や汗が背中を流れるのが嫌でも分かった。

「あの……どうしたんですか? 具合でも悪いんですか?」

 悠吾あ恐る恐る聞きながら青年の表情を窺った。そしてそうしたことを後悔した。青年は焦点の合わない目で遥か遠くを見つめていた。そして悠吾が話しかけたのにも関わらず、それにも気付かない様子で、足を早めることも遅めることもなく、悠吾のすぐ横を通過していった。その目は一切瞬きせず、見開かれたままで、その顔からは生気が消え失せていた。そして、歩き方もおかしかった。両手は体の横につけられたままで、それぞれの足が前に出る時、まるでもう一本の足がそれに引きずられているかのように、足の甲の方が地面をこすって、ざざ……という音を立てる。一歩歩き出すたびに頭がカクッカクッと上がったり下がったりを繰り返す。どう見ても異常だった。魂が抜けた人間はこのような歩き方をするのだろうか、と思わせるような歩き方だった。青年はそのままスピードを変えずに歩いていった。悠吾には彼にこれ以上声を掛ける気になれずに、ただ青年が闇の中に

 ざざ……ざざ……。

 という音を残して消えていくのを見つめるだけだった。やがて奇妙な歩き方をするヴィジュアル系かぶれの青年は見えなくなった。

 あれは一体、何だったのだろう。悠吾はからからになった喉に生唾を飲み込みながら考えた。とりあえず危害は加えてこなかったが、あれはどう見ても電車でいあわせた青年だった。電車の中での様子は、喋るところを聞いたわけではないが、至って普通だった。とてもじゃないがあれが青年の普通の歩き方で、それで青年はたまたま最初から盲目の上に耳が聞こえなかったのだ、などという仮説が成り立つはずはない。つまり青年はこの街に来て大きく変わってしまったことになるのだ。

 その要因が容易に想像出来てしまうのが怖かった。多分青年はあのマネキンに捕まったか、左右に無限に広がる建物の一つの中に引きずり込まれてしまったのだ。そして廃人のようにされてしまった。青年はきっとこれからも永遠にこの街で歩き続けることを余儀なくされるのだ。そう想像すると悠吾は身震いした。本当にロクな想像が出てこない。背後からは相変わらず青年の靴の甲が地面を引きずる音が未練がましく聞こえてきた。彼には気の毒かもしれないが、悠吾には何も出来はしないし、出来たとしてもする気は起きない。ひとまず今は自分の身を守るので精一杯なのだ。

 結局悠吾は二つの発見をするに至った。まず一つは、電車に乗り合わせていた人間がこの街にいること、そしてもう一つは、この街は悠吾たちにとってとても危険な場所であるということ。二つ目は実質的には再確認に過ぎなかったのだが、それでももう一つの発見は大きかった。つまりこの街には俊作も亮太もいる。とにかくまともな状態の誰かと合流して、この世界についての情報を共有するのが現在の最優先事項だ。ここまで来て一気に自分の緊張が高まるのが悠吾には分かった。何しろどこかでミスをするとあの青年のようなただ事ならない状態にされてしまうことが分かったのだ、楽天的にいられるはずがない。冗談じゃない、勝手に事故に巻き込まれて、訳の分からない街に連れてこられて、これまた訳の分からないマネキンに追い掛け回され、それでもって何が何だか分からない状態のままこの街を彷徨い続けるのなんて御免だ。何が何でも生き残ってみせる。悠吾は再びポケットからレーザーポインタを取り出し、歩き始めた。悠吾の決意に気付いているのか、それとも完全に無視しているのか、風は同じ強さで街路樹の葉を揺らし、左右にぽっかりと開いた無数の漆黒は相変わらず、まるで悠吾が隙を見せるのを待ち兼ねているかのように、虎視眈々とこちらを眺めていた。


 またしばらく歩いていると、いい加減空腹がこたえはじめた。一体何時間の間歩き続けたろうか。そろそろ足も悲鳴を上げつつあった。度重なる緊張によって喉もからからだった。悠吾はとりあえず次の十字路で座り込み、ポケットの中を漁ってみたが、収穫はゼロだった。それこそあちらこちらに自動販売機は置いてあった。それらは暗い中でも映画館のスクリーンのごとく眩く光を放っているはずなのだが、街は自販機にも光を放つことを禁じているようだった。しかし自動ドアが難なく作動したことを鑑みると、きっと自動販売機も動くのではないか、という予感が悠吾にはあった。それでもそれらに近付きたいと思えなかったのは、当然であるとはいえ、ひとえにそれらが必ず何らかの建物の入り口の隣に置かれているからであった。建物に近付いて最悪の事態に陥るくらいなら、この飢えも渇きももう少しなら我慢できる、と悠吾は自分に何度も言い聞かせていた。

 しかしいつまでこの我慢が続くのかは悠吾自身には計り知れなかった。当然いつか限界は来る。例えば、視界が霞んできたら危険信号だろう。しかしふらふらになってから行動を始めても、万一全力で逃げ出さざるを得ない状況に追い込まれた時、命取りになる。ある程度の体力を残した状態を維持しなければならないのは当然のこととして、その目安に気付いたときには既に手遅れであるという可能性が高いということに気付くと、悠吾は深く溜息を吐いた。どうやら今すぐ行動を起こすのが最善らしい。そう改めて決まると、突然武者震いが悠吾を襲った。怖い。悠吾は実に素直にそう思った。周囲の目から開放されると良くも悪くも様々な感情が剥き出しになるものなのだ、と悠吾は実感した。過激な感情の表現自体疎まれる今の日本社会から解放されて初めて学んだことの一つだった。

 とにかく、やる他ない。まさかジュース一本のために命を懸けることになろうとは思いもしなかった。本当ならとんだお笑い種のはずなのだが、冗談じゃない、笑ってなんかいられない。財布の中の小銭入れを覗くと、五百円玉が一枚と百円玉が一枚、それに十円玉が三枚に五円玉と一円玉が何枚か入っていた。手近な自販機を見つけると、悠吾はレーザーポインタで照らしつつ、目を凝らして品揃えと値段を確認した。半リットルのボトル入りのコーラが百五十円だった。本当なら缶入りのファンタグレープが飲みたかったのだが、一度の購入にかかる危険を考えると、一度に少しでも多くの水分を補給できた方が良い。悠吾は五百円玉だけを手に握り、他の小銭を財布に戻した。百五十円ぴったりは無いし、小銭を入れる手間を鑑みると、少しでも少ない枚数で買えた方が危険を減らせるだろう。

 悠吾は意を決して、その自販機に近付いていった。それはあるラーメン屋の前に置いてあった。近付くにつれ、暖簾の合間から見える闇が更に確かなものとなって悠吾を精神的に揺さぶった。堪えきれず、悠吾は自販機まで突っ走った。街は悠吾がラーメン屋に近付きつつあるのにとっくに気付いているはずだ。だとしたら少しでも時間を短縮した方がいいだろう。悠吾は自販機に辿りつくと、手探りで慌しくコインの投入口を探し、五百円玉を入れた。本来なら購入可能な飲料のボタンが赤くともるはずだったが、何も起きなかった。その時、

 ちゃりん。

 という音が足元でした。さっと汗がひくのが分かった。自販機では頻繁に発生する不具合が、まさかこのタイミングで発生するとは。自販機が小銭を認知しかねて、下からそのまま小銭が出てきているのだ。普段なら取るに足らないアクシデントなのだが、この状況では致命傷になりかねない。下の釣りの受け取り口の方に、しゃがみこんでしまわないようにしながら、素早く手を入れた。その時の弾みで直ぐそこにあるラーメン屋の入り口に、ほんの一瞬、視線が向いてしまった。そして、それから目が離せなくなってしまった。マネキンが襲ってきたときとまったく同じだった。目を離すと、マネキンがそうだったように、何か得体の知れないものが悠吾に襲い掛かってくるに違いない。冗談じゃない……。悠吾はそのまま手探りで五百円を入れ、何でもいいから滅茶苦茶に何度もボタンを押した。コーラのボトルを選んでる場合では、とてもではないが、ない。ガコン、と飲み物が吐き出される音がし、悠吾は刹那の安堵を覚えた。悠吾は受け取り口の中に手を入れ、冷たい缶をしっかりと掴んだ。そして、急いで自分の手元に持ってきた。釣りがチャリチャリと出てくるのが分かったが、それを取っている場合でないことはあまりにも瞭然としていた。その間、ラーメン屋の暖簾から目を離してはいないはずだった。一、二の三で荒い息を整えてから、視線を切って走り出そうと思ったその時、暖簾がいかにも自然に、ふわっと押し上げられた。明らかに風によるものではない。誰かが出てくる。何か真っ暗で邪悪なものが。まるで「すぐそこに誰かいるから、ちょっと捕まえてくるよ」という声が聞こえてきそうだった。心臓を氷の針で一突きされたような冷たく鋭い驚愕が一瞬で悠吾を支配し、それは同時に反射的に体の向きを変えていた悠吾の背中を突き飛ばした。

 走れ! 悠吾は、胸元の冷たい缶をしっかりと握り締めながら、全力で走った。後ろで大きな空気の動きを感じる。何かがついてきている。冗談じゃない。なんだって一日のうちのこんなに走らないといけないんだ。足だって……こんなにふらついてるっていうのに――

 次の瞬間、悠吾は自分の足に躓くようにして転んでいた。しっかりと握っていたはずの缶が悠吾の手の届かないところまで転がっていく。命懸けで買ったジュースなんだ、そう簡単に手放してなるものか……その一心で我に返った悠吾は素早く立ち上がり、素早く缶を拾い、再び走り始めた。そうだ、このまま逃げ切るのだ。折角ジュースは買えたのに、飲む前に捕まるようなヘマはしてはならない。何度もふらつきながらも、悠吾は走り続けた。何度も何か背筋の凍るように冷たいものが背中をかすった。それでも悠吾は死ぬ気で走り続けた。しかし今度の敵はあのマネキンほどしつこくはなかったらしい。しばらく走って耳を澄ますと、もう追ってきている様子は無かった。きっと自分の縄張りの建物からはそんなに離れられないのだろう、と悠吾は勝手に解釈して、その場にへたり込んだ。

 よく見てみると、その缶は悠吾の大好きなファンタグレープだった。たまには運にも恵まれなきゃな、と悠吾は皮肉っぽく笑った。缶を開け、中身を一気に流し込むと、水分が自分の体の中を循環していくのがよく分かった。相変わらず最高に美味かった。全部飲んでしまいたかったが、半分缶の中に残しておいた。自販機に近付くのは本当はこれで最初で最後にしたいところだったが、そういうわけにもいかないのだ。まとめて全部飲むよりは長くもつはずだった。座り込んで周囲を眺めてみると、周りの建物はそれぞれ恨めしげに、難を逃れた悠吾のことをじっと眺めているように見えた。ざまあみろ、と心の中で呟き、悠吾は刹那の優越感に浸った。

 好物のファンタグレープのおかげで、悠吾はだいぶ元気を取り戻せた。相変わらずの空腹は悠吾をしつこく苛み続けたが、喉の渇きが癒せた分それに耐えるのは大分楽であった。いずれ食べ物も口にせねばならないのも事実だったが、悠吾はとりあえずそれについては今は考えないことにした。食べ物についてずっと考えていると、余計に腹が減るのが早まりそうだった。

 そういえば店長はどうしてるかな……と悠吾はふと思った。別にどうもしていない、どうせきっと今度は店のツナマヨネーズおにぎりにでもがっつきながら新聞読んでるんだろうな、と思うと、突然向うの世界が恋しくなってきた。一体いつになったら悠吾はこの街を出られるのだろう。早くこの街を出て、バイトにも復帰して、将棋ももっと練習しないと――そこまで考えて、悠吾は突然ある残酷な事実に気付いてしまった。そもそも今現在の状態で悠吾が現実に戻ったとして、戻った瞬間どの道悠吾は即死する運命にあるのである。いつまでもこの不自然な街に悠吾が取り残されるとは考えにくい。ということは、悠吾はこの街で何かをしなければ、この街に喰われるか、時間切れで死ぬかのどちらか、ということになる。それとも死は避けられず必ず訪れるのかもしれない。冗談じゃない。悠吾は苛立たしげに舌打ちした。しかし、実際にどうすればいいのかなんて見当もつかない。でも、だからといってギブアップするにはまだ早すぎる。最後の瞬間まで足掻いてやる。とにかく今は他の連中と合流しなければ。今までの緊張に加えて、今では激しい焦燥が同時に自分を苛むのが分かった。タイムリミットなど最初から無いのかもしれない。悠吾は街に喰われないように逃げ回りながら、延々と自分のすべきことを探し続けなければならないのかもしれない。しかし、それには一切の確証がない。そもそもこの街は一つたりとも確かなものを与えてはくれないのだ。そして、もしタイムリミットがある可能性が1%でもあるのだとしたら、行動し続けるほかないのだ。悠吾は手にしていたファンタグレープを一気に喉に流し込んだ。どんな心境でも、やっぱりこれは美味い。タイムリミットは二ヵ月後かもしれないし、もしかしたら一週間後かもしれない。三日後かもしれないし、次の瞬間かもしれない。大好きなファンタグレープを半分も残したまま死んだらそれほど無念なことはないのだ。深く溜息を吐くと、缶を高く真上に放り投げ、悠吾は歩き始めた。何だか分からないが、このままでは悠吾は確実に死ぬらしい。だとしたらじっとしてなんかいられない。背後で缶の落ちる音が妙に大きく響いた。


 しばらく歩き続けると、とうとう悠吾は最初の目標をクリアするに至った。

「俊作、だよな?」

「え――」

 悠吾の声に、悠吾に背を向け、呆然と立ち尽くしていた少年は振り返った。それは確かに高宮俊作だった。

「無事だったんだな……」

「ああ、まあ、俺は、何とかな」

 歯切れの悪い喋り方をしつつ、俊作はうなだれた。口元には自嘲の笑みらしきものが浮かんでいた。妙に嫌な予感がした。

「『俺は』って?」

「度会が捕まっちまった」

 俊作はぽつりと言った。何かが胸の奥でちくりと痛んだが、悲しみが沸いてこないのが不思議でもあり、当然であるようにも思えた。

「そうなんだ」

「そうなんだ、って、お前なあ! 人が一人死んだんだぞ! なんだってお前はそんなに冷徹でいられるんだよ!」

 俊作は途端に顔を上げ、電車の中でそうしたように激昂した。悠吾の知っている俊作はこんなに短気ではなかったはずだ。そしてあの時と同じように、悠吾には、何故俊作が怒っているのか理解しかねた。たかが同級生だろう? それに大した仲でもなかったのだ。亮太が弱かった、それだけのことで、その全責任は亮太にあるのだ。俊作には何の落ち度もないのだから、『ああ、やつは気の毒だった。俺は気を付けよう』と考えていればいいのだ。それが正常な思考回路だろう? たかが同級生のためにわざわざ立ち止まって悲しむ理由が見当たらなかったし、そもそも他人のことなど気にしていられる状況でないことは俊作にも分かっているはずだ。自分の身を守るのだけでも精一杯なのだから。冗談じゃない、この街の空気は人間までも狂わせる魔力でもあるのか? 大体、

「お前が悲しんだところで何が出来るって言うんだよ? こんな化け物みたいな街に喰われちまったら、残った連中が何をしようが亮太は帰ってこないだろう?」

「違う……そういう問題じゃないだろう?」

 俊作はとても悲しそうな顔をした。なんだろう、なんだか自分が途方もない過ちを犯しているような気がした。だが、その予感に対する解答は悠吾の中には用意されてなどいなかった。

「じゃあどういう問題だっていうんだよ? 教えてくれよ!」

 悠吾はすがるように言ったが、俊作は呆れ果てたような表情になった。そして、救いようがない、とでも言いたげな口調で俊作は言った。

「そんなもの……人に教えてもらうべきものじゃないだろう?」

 そして、俊作は逃げるようにして悠吾に背を向け、早足で歩き始めた。

「おい、どこに行くんだよ?」

「決まっているだろ、渡会を助けに行く」

 呆れた。呆れ果てた。

「お前、頭でも打ったのか? この街の危険さがお前には分かっていないんだろ? 死ぬぞ、死ぬんだぞ!」

 声が裏返りかけた。もう何が何だか分からない。でもこのまま放っておくと、俊作は死ぬ。お節介かもしれないとは思ったが、悠吾は警告していた。いや、ただ俊作の同意を得たい一心だったのかもしれない。自分の正しいと信じてきた生き方がたった一人の同級生のためにもろくも崩れ去りつつあるのに、悠吾は耐えようのない危機感と恐怖感を感じ始めた。しかし俊作は足を止めなかった。俊作は自分の生き方を続けるのに微塵の後悔も未練もない、と全身で体現するかのように、堂々と歩き続けた。悠吾は大きく舌打ちをした。

「もういい! 勝手にしろ! この街に喰われてから後悔したって遅いんだぞ! お前は間違ってる! 間違っているんだ! やめるのなら今のうちだぞ!」

 悠吾はいつの間にか頭の中が真っ白になっていた。自分でも何をわめきたてているのか分からなくなっていた。俊作は軽く肩をすくめるだけで、最後に軽蔑の眼差しで悠吾をちらりと見やると、闇の中に消えていった。

 ――もういい、知ったことか、俺は警告した、それをあいつは蹴ったんだ。あの後どうなろうと、もう俺の知ったことじゃない。

 悠吾は自分に何度も言い聞かせた。何だかとても悲しい気持ちになった。悠吾はそれを無視した。そして、思い出したかのように歩き始めた。俊作が死のうが亮太が喰われようが知ったことか。付き合っていられない。こうなったら何としても、自分だけでも生き延びてやる……。その時、背後から声がした。

「醜いですね」

 ――何だって? 振り向くと、見知らぬ少女が、白いワンピースを着た少女が佇んでいた。電車でも乗り合わせた覚えはない。歳は悠吾より一つか二つ下のように見える。彼女は悲しげな目をして悠吾を眺めていた。またこの目だ。僅かな哀れみを含んだ、悲しげな目。なんだって皆こんな目で悠吾を見るのだ。悠吾は何か悪いことをしたか? 否、自分の『正しい』考え方に則って行動しただけだ。誰にも悠吾が間違っているなんて言わせない。他のやつらがおかしいんだ、皆頭がどうかしているんだ……。

「な、何なんだ、お前は。お、俺のどこが醜いっていうんだ」

 しかし、声はかすれて出た。悠吾は自分の今までしてきた生き方が急速に説得力を失っていくのを感じた。

 ――頼む、もうこれ以上俺を痛めつけないでくれ。俺はただ……楽しく毎日を過ごしたいだけなんだ、だから俺のことは放っておいてくれよ……。

 悠吾は自分の一番弱いところが露になっていくのを感じた。沢山の同級生との表面上の付き合い、楽しくもなんともない、『付和雷同』と『長いものには巻かれろ』を地で行く、淋しくとも安定した友好関係を楽しむふりをすることで必死に忘れようとしてきた、自分の『本音』が、悠吾の中で渦巻き始めた。

 ――なんで皆俺のことを否定するんだ。誰だって楽しく人生を過ごしたいのは当然だろう? どうして皆その欲望を素直に受け止めずに、いや、それどころかそう考えることを道徳的に醜いことだと考えるんだ。

「そうだ、他人なんかどうだっていい。要は自分が楽しければいい。人間には誰しも自分の人生を楽しむ権利があるはずで、その権利を剥奪する権利など他の連中にはない。人生が楽しめないとしたら、それはそいつ自身の問題で、俺の知ったことじゃない。……違うのか? それは間違っているのか?」

 悠吾がまくしたてるのに少女は軽く首を傾げて聞き入っていた。悠吾がぜえぜえと息をつくと、彼女は軽く肩をすくめただけで、他に何の反応も示さなかった。

「なあ、どうなんだ? 俺は間違ってるのか? 正しいのか? はっきりしてくれよ!」

「それは私の決めることではないですから」

 少女は困ったようにして小さく呟いた。突き放され、絶望が全身を駆け巡るのが分かった。悠吾は絶句した。

「で、でもあんたは俺のことを醜いと言った。じゃあやっぱり俺は間違っているんだろう?」

 もう自分が間違っていようが正しかろうが、それについてはなんだってよかった。とにかく、答えが欲しかった。

「何度も言うように、私には判じかねます。貴方が正しいのか誤っているのかを決定する権利は、貴方にしかありません」

「ちょっと待ってくれ……だとしたら――」

 ――誰も俺が正しいかどうかは教えてくれない、のか?

「貴方は迷っている。そうですね?」 

 悠吾は頷くほかなかった。その通りだ。自分が今まで迷うことなく従ってこれたはずの信念が大きく傾き始めている。ただただ途方に暮れる他なかった。

「貴方にはお友達の心境が理解できない。それは彼が貴方とは全く違う考え方をしているからで、同時に彼も貴方のことが理解できずにいる」

「……その通りだ。でも、だったらどうすれば俺は答えを見つけることが出来るんだ? 君は知っているんだろう? いや、知っているに違いない」

 悠吾は今すぐにでも答えが欲しかった。

 ――でも自分自身が答えを与えてくれない以上、どうすればいいっていうんだ? 

 少女は小さく溜息をついた。

「その質問も、貴方は私にするべきではありません。私にも見当がつかないのです。今世の中の大半の人々は、大多数の他人が信じる道、例えば法だとか規則を『正しい』と信じているようですが、何が正しいかの判定基準は本来自分で見極めるべきものであって、与えられるものではないのです。無論、自分自身が正しいのかどうかも然りです」

 激しい落胆が悠吾を襲った。少女の言葉は悠吾の頭の中を素通りしていくだけだった。そんなもの、何の救いにもならない。いくら思考を深めても、解答へと続く糸口の一つさえ探し出せないのだ。

「では、貴方が自分自身を見つけ出せることを祈ります。お気をつけて――」

 少女は微かな笑みを浮かべ、去って行こうとした。悠吾は慌てて追いかけようとした。

「ちょ、ちょっと待ってくれ!」

 まだ聞きたいことが――

「私から貴方に話せることは、これ以上ありません」

 が、彼女は毅然と言い放ち、闇の中に消えた。悠吾はその場にがっくりと崩れた。

 正しい? 間違っている? 自分を探す? 見つける? 分からない、なに一つ分からない……。地に手をつき、うなだれたまま、何度も首を振った。自分の中には確かに迷いがある。でもその本質は、自分の中にあるはずなのに、霧に隠されたようにもやいで、掴み取れないのだ。一体何故自分は迷っているのだろう。何かがあるはずだ。何かが――

 四つん這いになっている悠吾の背筋を寒気が襲った。何かが後ろにいる。恐る恐る左右を見渡して、悠吾は自分の愚かさを呪った。どうやら悠吾は通りのどちらかの端に限りなく近い位置にいるらしい。逃げられる訳がない。敵はもう真後ろ、悠吾は背中を見せ、しかも明らかに無防備な姿勢でいる。悠吾は舌打ちした。

 ――ちょっと待ってくれよ。俺はこれから自分が正しいかどうかを見極めないといけないんだ。こんな訳の分からない死に方するなんて、冗談じゃ――

 何か恐ろしく強い力が悠吾の首根っこを後ろから掴み、そのまま視界が驚異的な速さで後退した。背中が地面に強く摺られ、激しく痛んだ。一秒もしないうちに、悠吾は完全なる闇の中に引きずり込まれた。戸が乱暴に閉められる音がした。途端に意識が底なしの沼に沈められていくがごとくゆっくりと薄れていった。有無を言わさぬゲームオーバーの瞬間だった。

 しかし、悠吾の意識は完全には消え去らなかった。紙一重のところで、悠吾は自分が辛うじて意識を保っているのに気付いた。寝ぼけに近い、なんとも中途半端で宙ぶらりんな状態だった。視界はほぼ重い目蓋に塞がれていたが、それでもガラスのドアからは外の様子は窺えた。月明かりに淡く照らされた街が見える。信号が寂しげに立っている。風が街路樹の葉を揺らす。誰一人通らない。しばらくして、悠吾は自分が自由に動けることに気付いた。ゆっくりと立ち上がる。激しくアスファルトに擦られた背中が痛んだし、意識がはっきりしない以上ふらつきもしたが、悠吾は建物の出口までたどりつけた。しかし、いざドアに手をつけても、押せば抵抗なく開くはずのドアは、押しても引いてもビクともしなかった。なんとか脱出できないかと、悠吾は何度もドアをどんどん、どんどん、と叩いた。

「出せ……ここから出せ! 俺にはまだやらないといけないことが残っているんだ!」

 返事の代わりに、強烈な悪寒が背筋を走った。それは次第に大きくなってくる。何かが音もなく近付いてくる。それも一つじゃない。悠吾はドアに両手をついたまま硬直した。悠吾が逃げようとしているのに気が付いて、この建物の住民が動き出したのだ、というのはあまりにも瞭然としていた。寒気がどんどん酷くなっていく。渇いていたはずのTシャツが一瞬にして冷や汗でびしょびしょになった。酸素の足りない水の中で苦しがる金魚のように荒く口で息をしながら、悠吾はみるみる自分の口の中がからからに渇いていくのを感じた。何かが右手首を掴んだ。その衝撃だけで骨折でもするかと思うような、容赦のない掴み方だった。尋常じゃない強さでそれは悠吾を建物の奥へと引きずりこもうとしている。右腕がちぎれるような痛みを訴えた。今度こそやつらは悠吾を逃がさないつもりだ。そう思うと悠吾は左手でドアノブを掴み、その力にまともに抵抗しようとした。右腕が更に強く後ろに引っ張られる。あまりの激痛に悠吾は思わず引き絞るような呻き声を上げた。折れる。抜ける、いや、千切れる。本当にそう思わずにはいられなかった。自分の右肩からミシッという音が確かにした。痛みが最高潮に達し、悠吾は堪えようもなく、痛烈な悲鳴を上げた。でも左手はドアノブから離さなかった。

 ――死んでも離すものか!

 あまりの激痛に視界さえ霞んできた。失神さえさせられそうな痛みだった。その時、誰かの姿が視界の端に映った。――亮太とつるんでいた、俊作が突っ掛かっていった若者だった。

「助けて、助けてくれ!」

 悠吾は痛みを堪えつつ、必死で声を振り絞った。悠吾の体勢はほとんど水平になりつつあった。両足も得体の知れない何かに掴まれ、悠吾を引きずり込もうとしている。残っている四肢は左腕のみで、それはドアノブを懸命に掴んでいた。でもそろそろ限界だ。

 ――頼む、気付いてくれ!

 そう念じた瞬間、若者の目がこちらに向いた。視線が合う。助かった! 若者はしばらく悠吾の方を見つめていた。ほとんど感情の篭らぬ目つきだった。そして――若者は何も見なかったかのように、視線をそらし、ポケットに両手を突っ込み、歩き始めた。

「おい、どこに行くんだよ! 助けてくれよ! なあ!」

 しかし、悠吾の必死の叫びにも若者は一切反応しなかった。足を早めることもなく、止めることもなく、若者は視界から消えた。

 ――畜生! 呪ってやる……殺してやる! 見てろよ! 絶対に憑き殺

 闇の中で左手をもう一つの何かが掴んだ。指が一本ずつドアノブから剥がされていく。しかしそんなことはお構いなく、悠吾はただただ若者の消えていった方向を凄まじい般若のごとき形相で睨みつけているだけだった。恐怖も緊張も激痛も全て忘れ、悠悟はただの憎悪の権化と化していた。最後の一本の指が引き剥がされた。

「放せ! 放せぇえぇ!」

 この世のものとは思えない絶叫を残し、悠吾は途方もない速さで闇の中に引きずりこまれていった。

 その時、ドアがなんとも呆気なく、ゆっくりと押し開けられた。悠吾の右腕と両足を掴む力が一瞬の間緩められた。その隙に逃げ出そうとしたが、その刹那それまでの数倍の力が掛けられ、悠吾は激しく呻いた。

「お邪魔します」

 入ってきたのは、ついさっきまで近くにいた、白いワンピースの少女だった。完全なる闇のはずの建物の中で、彼女は仄かに光を放って見えた。悠吾の体の各所をしっかりと掴んで離さない力は、緩められはしないものの、それ以上悠吾を奥に引きずり込もうとはしていないようだった。彼女の出現に、この建物の住人たちは彼女の存在を無視できずにいるように見えた。

「た、助けてくれ!」

 藁にもすがる思いで悠吾が懇願すると、少女は僅かに俯き、しばし考えるような表情をしてから、顔を上げ、聞いてきた。

「貴方は貴方を助けなかった若者を憎んでいる。そうですね?」

「あ、当たり前だろう! あいつは俺を見捨てやがったんだ、許せるわけが――」

「貴方はお友達が同級生を助けに行くのを止めようとし、更に彼を激しくけなしましたね。渡会君、でしたか? 彼は貴方に裏切られたと思うかもしれない。貴方がお友達の説得に成功していたら、彼は間違いなく死んでいたのだから」

 彼女はそう言うと、次の悠吾の発言に期待するかのように黙りこくった。悠吾は心の奥で何かが疼くのを感じた。だがそれが何かは分からない以上、無視するほかなかった。

「ふん――知ったことか。他人のことなんていちいち気にしていられるか!」

 が、その発言は少女を満足させはしなかったらしい。困ったように軽く溜息を吐くと、彼女は小さく咳払いした。

「まあ、この程度のヒントは許容範囲でしょうか――いいですか、貴方はとても大事なことを忘れています」

 悠吾は不満ながらも口をつぐみ、先を促した。

「まず、あの若者は貴方によく似ています。彼を侮辱することは貴方自身を侮辱するに等しい」

「冗談じゃない、あんな人間のクズなんかと――」

「彼がそうなら、きっと貴方も然りなのでしょう」

 しかし少女は悠吾に最後まで言わせず、即座に切りかえした。悠吾は激しい苛立ちが自分を苛むのに気付きながらも、耐えた。彼女はとても大切なことを伝えようとしてくれているのだろう。

「貴方は他人の面倒に巻き込まれるのが大嫌いで、何がなんでもそれは避けたいと考える。そうですね?」

 悠吾は小さく一度頷いた。

「自分で起こした不始末なんだから自分で始末をつけるのが当たり前だろう?」

「だとしたら、やはりあの若者を責める権利は貴方にはないことになりますね。彼を呪うのも憑き殺すのも、まあ貴方の勝手ではありますが、それは貴方の正しいと信じる道を真っ向から裏切ることになります」

 少女はさらりと言ってのけた。

「冗談じゃない、何でそうなるんだ? あいつは俺を見殺しにしようとした、殺人者も同じだ! 呪われても文句は言えまい」

 苛立ちが最高潮に達し、悠吾が吠えても、少女は「やれやれ」とでも言わんばかりに細かく首を振るだけだった。

「更に言わせて貰うと、貴方が正しいと信じる理論に則って考えると、貴方を助けようとした私は間違っていることになります。今すぐにでも私はここを出るべきということになる」

「何だそれは? 滅茶苦茶だ! 矛盾しているにもほどがあるぞ!」

 両手が自由だったら、混乱したときのいつものくせで頭を滅茶苦茶に掻き毟っているはずだった。少女はとても困ったような顔をしたが、しばらくしてぽつりと呟いた。

「結局ここまで言わなければならないのでしょうか」

「なんだ? 早く言ってくれ!」

 そう言われて少女は意を決したようにして断言した。

「いいですか、どうやら貴方は間違っている」

「――おい、さっき言ってたよな? 誰かが正しいかどうかはその本人しか決められないと?」

「貴方の場合はそれがあまりにも瞭然としすぎているのです。本来正しい人間は自分の考え方に僅かなりとも迷いは持っていないものなのです」

 そう言われて、悠吾は、悠吾が何を言おうと足を止めなかった俊作を思い出していた。あれが正しい人間の姿なのだろうか? 対して、悠吾の信念は俊作に軽蔑の視線を投げかけられただけで簡単に大きく揺らいでしまった。

「なるほど――だとしたら、俊作のあるような姿が正しい人間の姿なんだな? 俺は俊作の生き方を見習えばいいんだ」

 やっと合点のいったことに妙にすっきりした悠吾はそう言ったが、少女は呆れたように何度も首を横に振った。

「いえ、だから先程も説明したように、何が正しいかの基準は人それぞれ、他人からの受け売りの正しさは偽りのものでしかないのです」

「それは――つまりどういうことなんだ?」

 正直、例え少女の話が核心をついているのだとしても、その抽象的な概念には悠吾にはあまり興味がなかった。

「別にお友達の生き方を真似しなくてもいい。貴方は自信をもって誇れる新たな自分自身をこの街で見つければいい、ということです」

 少女はいとも簡潔に纏め上げてくれた。なるほど。最初からそう言ってくれればいいのに。高ぶっていた感情が大分落ち着いてきた。でも、一つ疑問が残った。

「人間とは絶えず変わり続けていくものだろう? 変わりたいだけならこの街でなくたって出来そうなものじゃないか? それに、例えこの街で自分が迷わず従える考え方を見つけたところで、現実世界に戻ったらすぐにいつもの自分に戻ってしまうんじゃないか?」

「ええ、確かに人間は不変と言われます。でもその変化は貴方の生活する環境や貴方が関わる人々による半ば強制的なものが大部分であり、自分から望んで起こる変化はそのうちのごく僅かに過ぎません。そうは思いませんか?」

 ――言われてみればそうなのかもしれない。淋しさを隠すための大勢の同級生との表面的な付き合いをする中で、いつしか自分自身の意見が一つのグループの全体的な意見に摩り替えられてしまっているような錯覚を覚えたようなことは多々としてあったものだ。それに子供の頃どんな環境で過ごしたかで人は大分変わるものだ、と悠吾の歳の頃からだって分かる。貧乏な家に産まれたら忍耐強く、精神的に強靭になるだろうし、裕福な家で育てられたら軟弱にはなるかもしれないが将来はそこそこ明るいのかもしれない、という具合に。それら諸々の思いを含めて頷いて見せると、少女は続けた。

「確かに貴方は現実世界に戻って変わってしまうかもしれない。でも、現実世界に戻ってから貴方が変わるか否か、変わるとしても新しい自分を信じられるかは、全て貴方にかかっているのですから、一概には言い切れませんね」

「なるほど――ところで」

「他にも質問がありましたら、どうぞ」

「助けてくれない?」

 悠吾は辛い体勢のまま、弱々しく笑みを浮かべ、言った。少女も釣られて堪え気味に少し声を上げて笑った。

「では、私の信念に従って助けさせて貰いますが、貴方には拒否する権利がありますし、もしこの行為が貴方の信念に反するのなら貴方は妥協する必要があります。どうしますか?」

 答えは分かりきっている、と言わんばかりに少女は悪戯っぽく言った。悠吾も、この状況におかれながらも、釣られて笑ってしまった。

「俺の信念はたった今君が完全に叩き壊してくれたじゃないか」

「では、遠慮なく――聞いての通りです、どうか彼を放してやってはくれませんか? そうすれば私も出て行きますので」

 拍子抜けした。そんなことで放してくれるわけが無いだろう、と思った瞬間、一斉に悠吾を引っ張っていた力が、しぶしぶといった様子で抜けていき、悠吾は自由になった。

「ありがとうございます。では、失礼しました。――さっ早く」

 少女は軽く頭を下げると、ドアを開け、悠吾を促した。

「いや、先にどうぞ?」

 しかし少女は「ダメだ」とでも言わんばかりに首を細かく横に振った。

「さ、急いで」

 首を傾げつつ、言われるがままに悠吾が先に出ると、少女はさっとドアを閉めた。

「――今のは?」

「万一私が先に出ていたら、今度こそ貴方は問答無用で建物の奥にまで引きずりこまれていたでしょうね。そうなったら私でも手がつけられません」

「いや、つまり、どういうことなんだ?」

「彼らは精神的に不安定になった人間のみを狙います。逆に付け込むところのない人間には手を出せず、むしろ近付くことを拒むのです」

 なるほど、だとしたらマネキンに恐怖を覚えたり、俊作に打ちのめされた時に限って攻撃してきた意味が分かるというものだ。

「で、俺たちはどこに?」

「貴方の自分探しの旅へ。途中まで付き合ったので、とりあえず私も迷惑でなかったら最後まで手伝わせて貰いますが、よろしいですか?」

 一も二も無く悠吾が頷く。

「勿論、こちらとしても本当に助かる。よろしく頼むよ」

 少女は淡い笑みを浮かべた。しばらく二人はそのままその場に佇んでいたが、悠吾がふと思い出して聞いてみた。

「で、どこに?」

「それは貴方の決めることでしょう? 私は貴方について行くだけです」

 ああ、確かに。自分の旅なのに、他人に行き先を聞いている自分に気付き、悠吾は思わず笑ってしまった。

「とりあえず、見当もつかないんだ」

「でしょうね。誰でも最初はそうです。まあ、最後までそうですけど」

「ということで、とりあえず俺が今まで来た道を戻ってみようと思う。事故現場に戻れば、何かが分かるかもしれない」

「貴方がそう思うのなら、そうしましょうか」

 大変心強い仲間を得て、悠吾は歩き始めた。少女も歩幅を合わせてついてきた。なんとしても新しい自分を見つけよう。そして自信を持って現実世界に――

「ちょっと待った」

 悠吾は立ち止まった。絶望がじわじわと悠吾を苛み始めた。少女は首を傾げて先を促す。

「そもそもこの街は何なんだ? どうすれば現実に戻れるんだ? そもそも俺は現世に戻った瞬間死ぬ運命にあるみたいなんだ」

「死に際に立っているのは、この街の誰もが同じですよ。それについては心配する必要はありません」

 心配する必要がないと言われても――死に際に立って落ち着いていられるものだろうか、と悠吾は奇妙な思いがした。少女は続けた。

「この街の規則はゲームのルールのように単純で過酷です。月が欠けてから再び満ちるまでの間を生き延び、その後に現実世界とこの街とを繋ぐ場所に行く。すると、現実世界に戻ることが出来ます」

 悠吾の場合は恐らく電車の中の一番前の車輌、運転席真後ろの小窓のところなのだろう。やっと全ての合点がいった。死に際まで追い詰められた悠吾がこの街に放り込まれたのは、生き残るためのチャンスを得るためなのだ。思わず生唾を飲み込む。ここまで来て死ぬわけにもいかない。何としても生き延びる必要がある。

「それと、建物の中にいるやつら、あれは一体何なんだ? どうやら俺たちを狙っているみたいだが、だとしたら何で出てこないんだ?」

「私にも彼らの正体は分かりません。目的は知っての通りでしょう。ただ分かっているのは、彼らが私たちを憎んでいるらしいこと、それと彼らが光を激しく嫌うことです。それがたとえ月光のような微弱なものであっても」

 それなら建物の中に篭っていて出てこないのも理解できた。

「――いや、ちょっと待てよ。さっきマネキンに追いかけられたけど、あれは月明かりに当たっても大丈夫に見えた。それはどうしてだろう?」

 少女は思わず、といった感じで吹き出し、口元を押さえた。恥ずかしさとともに悠吾は少し不機嫌になったが、どうやら顔に出てしまったらしい、少女は慌てて弁解した。

「あ、ごめんなさい……でも、マネキンが動くわけないでしょう?」

 まあ確かに。確かにそうだろう。言うまでもない。でも本当に動いたのだ。

「でも確かに――」

「貴方はマネキンが追いかけてくるのを見たんですか?」

 言われてみれば、悠吾は逃げる際にマネキンの首が動いたような「気がした」だけで、それに音は聞こえはしたけど、走っている最中一度も後ろを振り向かなかった。ということは――

「もしかして、あれは幻覚だった、とか?」

「そういうことでしょうね。彼らは何度も言うように人々の恐怖や不安に付け込むのが得意ですから。幻聴を起こすくらいお安い御用ですよ」

 少女はまだ笑いを堪えかねながら言った。なんだ、悠吾は完全に遊ばれていたのか。そう考えると、自分でもおかしくなってきた。あの時一度でも振り向いていればよかったのだ。それを、誰も追いかけていないのに必死に逃げたりして、端から見ればまるで肝試しの途中逃げ出す小学生みたいだったことだろう。

 しばらく歩き続けると、不安げな顔をして少女は言った。

「あの……決意に水を注すようで申し訳ないんですけど、お友達は助けなくていいんですか?」

「……助けた方がいいと思う?」

「まあ、さすがに死んでしまうのは気の毒に思えます。貴方はどう思いますか?」

 悠吾は自分自身に聞いてみた。先ほどまであんなに滾っていた俊作への怒りは嘘のように引っ込んでいた。悠吾の堅く信じてきた信念が打ち砕かれたせいだろう。そして一遍は「死んでしまえ」とさえ思ってしまった俊作や亮太が途端に恋しくなった。この思いは悠吾が作り出した信念から生まれるものではなく、悠吾の本心からのものであるに違いない。だとしたら答えは一つだ。

「助けようと思う」

「そうですか。では行きましょうか」

 少女は嬉しそうに笑い、先に立って早足で歩き始めた。それは誰だって他の人と意見が合えば嬉しいものだろう。だが今の悠吾には、その喜びを味わうためだけにわざわざ自分の意見を変えるような本末転倒な行為がとても空虚なものに思えてきて、それをしていた昔の自分を恥じた。

 いや、しかし今は二人を助けることに集中せねばならない。やると決めたら、急がねば。手遅れになる可能性だって十二分にあるのだ。その時になって悠吾は二人が危険に晒されていることを『忘れていた』ことを激しく恥じ、自分を責めた。自分はどうかしていたのではないか。そこまで思考が勝手に展開されるのに悠吾は任せることにした。これが自分の思考なのか……凝り固められた間違った古い信念から解放され、自分の本音が分かり始めた。それは新鮮でありながらも少し怖くもあった。前の自分はもっと冷酷で自己中心でありながらも、同時に冷静で明晰だったはずだ。自分の身を危険に晒すことなど考えられもしない自分だったのだ。それが今では自分から二人を助けに行こうとしている。それで、自分が自分でない気がしてきたのだ。

 それでも――前の自分は死んだのだ、これが自分の本音でありそれに従うことが自然なのだ。環境と体験が作り出した、誤った信念を、幾度となく首を傾げながらも妄信する生き方の方がよほど不自然だったのだ。これからは自分の本当の心がどのようかを見極めなければならないのだ、怖いだなんて言っていられない。何しろ万一失敗したら死は免れないのだ――悠吾はそう自分に言い聞かせることにした。

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