「君を愛していない」と言ったのはあなたでしょう?
「エレナ・フォルティア。君との婚約を破棄する」
大広間に、その言葉が響いた。
王都でも有数の夜会だった。
楽団の演奏が止まり、談笑していた貴族たちが一斉にこちらを見る。
私はグラスを持ったまま、婚約者であるアルベルト侯爵令息を見つめた。
彼の隣には、一人の令嬢がいた。
淡い桃色のドレス。
大きな瞳。
そして、私とは違って、人目を引く華やかな笑顔。
「僕が本当に愛しているのは、彼女だ」
アルベルトは彼女を伴いながらそう言った。
令嬢は恥ずかしそうに彼の腕へ寄り添う。
どこか優越感を感じられる。
「彼女は僕を理解してくれる。君とは違う」
「……そうですか」
私が答えると、アルベルトは少し眉を寄せた。
「それだけか?」
「……はい?」
その言葉に困惑とともに声を絞り出す。
アルベルトは続けて、捲し立てる。
「婚約を破棄されるんだぞ。何か言うことはないのか」
……なるほど。
どうやら彼は、私が泣き崩れることを期待していたらしい。
確かに小さい頃からの仲で、それなりに親愛は持っている。
けれど、私は泣かなかった。
もちろん悲しくないわけではない。
胸の奥が、ひどく痛かった。
幼い頃から、私はこの人と結婚するのだと教えられて育ってきた。
好きだった時期も、確かにあった。
だからこそ、目の前で別の女性を愛していると言われることは辛い。
それでも。
「……婚約を破棄なさりたいのでしたら、私はお受けします」
「……本当に?」
「はい」
アルベルトが目を丸くする。
どうせ、彼はこの言葉を引き下げる訳がない。
昔から、ずっと強情だったのだから。
私は小さく頭を下げた。
「今までありがとうございました」
それだけ言って、私はその場を離れた。
背中に、たくさんの視線が刺さっていた。
それらを努めて気にしないように、会場を後にした。
◇
「本当にそれでいいの?」
帰宅した私に、母は何度も尋ねた。
父も私の言葉を待っている。
その後に抗議や賠償金などの話し合いに向かうのだろう。
二人の視線を受けながら話し出す。
「いいのよ」
「でも……」
「お母様。私はアルベルト様に愛されていないの」
その言葉を口にした瞬間、不思議と胸の痛みが少しだけ大きくなった。
ほんの少しだけ。
「愛されていない人と結婚しても、きっと幸せにはなれないわ」
父も黙って頷いた。
「……そうだな」
それから両親は、それ以上アルベルトの話をしなかった。
気遣いがありがたかった。
翌日から、私の生活は大きく変わった。
婚約者のために参加していた夜会には行かなくなった。
彼の家に招かれることもなくなった。
週に何度か通っていた乗馬も、しばらく休んだ。
何か特別なことを始めたわけではない。
ただ、自分の好きなことをするようになった。
朝は少し遅くまで眠る。
母とお茶を飲む。
妹と街へ買い物に行く。
友人と庭で話す。
そんな、婚約者がいた頃にはあまりできなかったことを楽しんでいた。
「エレナ、最近楽しそうね」
友人のマリアがそう言う。
久しぶりのお茶会でのことだった。
「そう?」
「うん。婚約破棄された直後より、ずっと顔色がいい」
「……そうかもしれないわ」
私は笑った。
完全に吹っ切れたわけではない。
けれど、少なくとも。
毎朝、目が覚めるたびにアルベルトのことを考えることはなくなった。
そんなある日のことだった。
「エレナ!」
街で突然声をかけられた。
振り向くと、そこにはアルベルトがいた。
以前より少し疲れた顔をしている。
「久しぶりだな」
「……そうですね」
「少し話せないか?」
「……構いませんけれど」
アルベルトに案内された近くの店で向かい合う。
彼は何度か口を開きかけて、やめて、を繰り返してようやくゆっくりと話し出す。
「……君は、怒っているか?」
「いいえ」
否定の言葉は意外とすんなりと出てきた。
彼はその言葉に驚いている。
「恨んでいない?」
「恨んでいません」
「そうか」
彼は安心したように息を吐いた。
その後、どこか遠い目をしながら小さくため息を吐く。
その様子に、私は少しだけ違和感を覚えた。
「何かあったのですか?」
「……彼女と、少し揉めている」
私は何も言わなかった。
外野から何か言う資格をないだろうし。
「僕は、君といるより彼女といる方が幸せになれると思っていた」
「……はい」
「でも、どうもそうではなかったらしい」
「……そうですか」
「君なら、僕のことを理解してくれただろう?」
その言葉を聞いた瞬間。
私は会ってから初めて、少しだけ腹が立った。
「アルベルト様」
「なんだ?」
「私はあなたを理解、介護するために今まで共に過ごしてきたのではありません」
「……」
「そもそも、私よりも婚約相手に相応しい相手がいる、といって婚約破棄したのはアルベルト様です。ちょっと理想と違うからって、すぐに諦めないでください」
アルベルトが黙った。
私は話を続ける。
「ですから、もう戻るつもりはありません」
「エレナ」
「失礼します」
私は席を立った。
◇
それから二週間後。
社交界では、ある噂が広まっていた。
アルベルトと、彼の新しい婚約者が別れたという。
理由は、彼女が侯爵家での生活を嫌がったからだという。
華やかな夜会が好きだった彼女にとって、侯爵家の堅苦しいしきたりは耐えられなかった。
アルベルトは彼女に合わせようとしたらしい。
……もしかしたら私の話が効いていたのかもしれない。
だが、それがさらに問題を大きくした。
そもそもなんであんな女を選んだの、と母親と衝突し、苛立ちから様々な事業を失敗、父親とも衝突し、ついには侯爵家の中で彼の立場まで悪くなったらしい。
そして決定的だったのは、とある夜会だった。
「あなたの婚約者になんてなるんじゃなかった!」
彼女が人前でそう叫んだという。
それを夜会で叫ぶ意味を分かってなさそうな彼女も大分不味そうね……。
「私はあなたの言う通りに生きるために婚約したんじゃない!」
アルベルトも負けずに言い返した。
「だったら最初から婚約なんてしなければよかった!
お前など選ばなければ良かった!!」
その言葉に、貴族たちが凍りついた。
婚約破棄を宣言したばかりの二人が、今度は互いに相手を責め始めたのだ。
結果。
二人の婚約は、わずか二か月で終わった。
彼ら自身の評判と共に。
◇
「エレナ」
ある夕方。
庭で花を眺めていると、父がやってきた。
「何?」
「アルベルト侯爵家から、もう一度婚約を考え直さないかと話が来ている」
私はしばらく黙った。
「……そう」
「断っておいた」
「……ありがとう」
「お前が嫌なら、それでいい」
父はそう言って笑った。
「私は、お前が一度傷ついた相手のところへ戻る必要はないと思っている。当然だが。
だから相手からいくらいい条件を積まれたとしても今後も絶対に断る」
「お父様……」
「お前の幸せが1番だ」
胸が温かくなった。
「ありがとう」
「礼を言われるようなことではない」
父はそう言って、屋敷の中へ戻っていった。
その翌週。
私は久しぶりに街へ出た。
すると、偶然。
「エレナ?」
聞き覚えのある声がした。
振り向く。
そこには、一人の青年が立っていた。
「……カイル?」
幼い頃からの知り合いだった。
伯爵家の次男で、今は王都で商人の手伝いをしているらしい。
「久しぶりだな」
「本当に久しぶりね」
「最近、よく街で見かける」
「そうなの?」
「うん」
彼は少し笑った。
「前より楽しそうだと思ってた」
「そう?」
「ああ」
カイルは少しだけ迷ったあと、私を見る。
「もしよかったら、今度一緒に食事をしないか?」
私は目を瞬いた。
「二人で?」
「嫌ならいい」
「……ううん」
少しだけ考える。
そして。
「行ってみたいわ」
カイルが笑った。
「本当?」
「ええ」
その笑顔を見ていると、不思議な気持ちになった。
暖かいものが胸を満たす。
もう過去を思い出しても、苦しくなくなっていた。
私は前を向けるようになっていた。
数か月後。
街の広場で、アルベルトとすれ違った。
彼は私を見て立ち止まった。
以前のような自信に満ちた表情はなかった。
「エレナ」
「お久しぶりです」
「……幸せそうだな」
「はい」
隣にはカイルがいた。
彼は何も言わず、ただ私の少し後ろに立っている。
アルベルトがそれを見て、目を伏せた。
「僕は……間違えたのかもしれない」
私は首を横に振った。
「そういうことではないと思います」
「じゃあ、何だ?」
「私たちは、合わなかっただけです」
それが一番近い答えだった。
彼が本当の極悪人だったわけではない。
私が特別だったわけでもない。
ただ、彼は一時の感情によって、私より別の人を選んだ。
だから私は、その選択を受け入れただけ。
ただ、それだけ。
「さようなら、アルベルト様」
私は頭を下げた。
そして、隣にいるカイルを見る。
「行きましょう」
「ああ」
二人で歩き出す。
背中に視線を感じた。
けれど、振り返らなかった。
私はもう、誰かに選ばれなかった自分を嘆く必要はない。
私を選ばなかった人の隣に戻る必要もない。
婚約を破棄されたあの日。
私は何かを失ったと思っていた。
けれど違った。
あの日、終わったのは婚約だけ。
そして私は。
ようやく、自分の人生を始めることができたのだ。




