ポン酢が先に来ない
五月の夕方。
スーパー『マルエー』は、 今日も主婦達でいっぱいだった。
「タイムセール始まりまーす!」
店員の声が響く。
その中を、 小さな女子高生がカゴを持って歩いていた。
山空天。
高校一年生。
身長は低め。 前髪ぱっつん。 いつも眠そうな目。
どこにでもいそうな普通の女子高生――に見える。
ただし。
ポン酢を見ると性格が変わる。
「今日はちょっと寒いから鍋がいいねぇ」
天は一人でぶつぶつ言いながら、 鍋コーナーを見て回る。
まだ五月だった。
周囲の客は半袖でアイスを買っている。
でも天の頭の中は完全に冬だった。
「白菜ちょっと高いねぇ……でも鍋には必要なんだよ」
完全に夕飯を考えるお母さんみたいだった。
すると。
天の動きが止まる。
「あっ」
棚の奥。
一本だけ残っていた。
『ゆず香るまろやかポン酢』
新発売。 数量限定。
テレビでも紹介された人気商品だった。
天の目がキラッと光る。
「残ってたよ……!」
そっと手を伸ばす。
だがその瞬間。
別の手も同時に伸びてきた。
「あっ」
相手は男の子だった。
白いパーカー。 少しぼさっとした髪。
同じ高校の制服。
二人の手が、 ポン酢の上で止まる。
店内BGMだけが流れていた。
♪お肉が安いよマルエー♪
気まずかった。
先に口を開いたのは男の子だった。
「……どうぞ」
「えっ」
「俺、別にそんなポン酢好きってわけじゃないし」
天は固まる。
そんなことある?
このポン酢を前にして譲れる人が存在する?
「ほんとに?」
「うん」
「後悔しない?」
「しないよ」
天は恐る恐るポン酢を持ち上げた。
なんだか、 すごく大事な物を受け取るみたいに。
「ありがとう……」
「いや、そんな真剣な感じになる?」
男の子はちょっと笑っていた。
帰宅後。
天はさっそく鍋を作り始めた。
母が後ろから声をかける。
「天〜、また鍋なの?」
「今日は特別な日なんだよ」
「なんの日?」
天は静かにポン酢を掲げた。
「“ゆず香るまろやかポン酢”の日」
「知らないわよそんな日」
鍋がぐつぐつ煮える。
天はワクワクしながら、 小皿にポン酢を注いだ。
ふわっと柚子の香りが広がる。
「……いい匂いだねぇ」
その顔は、 完全に幸せそうだった。
そして一口。
しゃぶしゃぶした豚肉を、 ポン酢につけて食べる。
「……」
天の動きが止まる。
母が不安そうに聞いた。
「ど、どうしたの?」
天は静かに顔を上げる。
「これ……すごいよ」
「なにが?」
「ポン酢が先に来ない」
「???」
「ちゃんと豚肉と仲良くしてる」
母はもう慣れていた。
天は昔から、 ポン酢の話になると少し変だった。




