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ライブチャットからの追跡者

掲載日:2026/01/19

優子は大学の講義が終わると、神奈川のマンションに帰った。

カバンを放り投げてベッドに倒れ込み、天井を見つめる。

財布の中身は心もとない。サークルの飲み会、友達とのカフェ、新しい服……遊びたい気持ちが募るのに、仕送りだけじゃ全然足りない。

「もう、限界かも……」

スマホを手に取り、最近SNSで流れてきた広告を思い出す。

プリティチャット。

在宅でできるチャットレディの仕事。顔出しなしOK、報酬は時給換算で結構いいらしい。

最初は「いやいや、無理でしょ」と思っていたけど、調べてみると意外と身バレ対策がしっかりしているサイトが多いと知った。

優子は意を決してサイトにアクセス。

登録は簡単だった。メールアドレスと簡単なプロフィール、本人確認書類の写真をアップロード。

数時間後には承認メールが届き、すぐに始められる状態になった。

鏡の前に立つ。

ロングの黒髪をまとめ、クローゼットの奥から引っ張り出した茶色いボブウィッグをかぶってみる。

普段の自分とは全然違う。

さらに、大きめの黒マスクを着けてみる。目元だけが覗く。

メイクもいつもより濃いめに、アイラインを強調してキャラっぽく。

パソコンをセットし、照明を少し落としてカメラアングルを斜め上からに調整。

部屋の背景には何も個人情報が映らないよう、白いカーテンだけ。




プロフィール名は「ちい」。

ノンアダルトと心に決めた。

初ログイン。

待機画面に自分の姿が映る。

ドキドキしながら「はじめてなので優しくしてくださいね♡」とステータスメッセージを打つ。

数分後、最初の男性が入室してきた。

【たかし42】「こんばんはー!ちいちゃん可愛いね、マスク姿もエロいw 何歳?」

優子ちいは深呼吸して、甘い声を出してみる。

「こんばんは〜♡ ちいは20歳だよぉ。たかしさんはお仕事終わったの?」

そこから会話が始まった。

たかしさんは意外と普通のおじさんで、仕事の愚痴を聞いてほしいだけらしい。

優子は相槌を打ちながら、時々「えー大変だねぇ、ぎゅってしてあげたいな♡」と甘える。

30分ほどで退室。

そして報酬通知が来た。

この短時間で……2,800円。

「え、マジで?」

目が点になる。

大学のバイトより断然効率がいい。

興奮と少しの罪悪感が入り混じるけど、お金が入る喜びが勝った。

その夜、優子はさらに2時間ほど配信を続けた。

マスクとウィッグのおかげで、誰にも本当の自分だと気づかれない安心感があった。

リクエストも来るようになった。「ちいちゃんの声かわいい」「もっと甘えて〜」

アダルト寄りの人もいたけど、「今日はノンアダでごめんね♡ 次回ね?」とやんわりかわす。

時計を見るともう深夜1時。

今日だけで1万近く稼げた。

ベッドに倒れ込みながら、優子は思う。

(これ……ハマっちゃうかも)

翌朝、大学に向かう電車の中で、昨夜のことを思い出す。

誰も知らないもう一人の自分、「ちい」。

ウィッグを被って、マスクをして、別人になって稼ぐ夜。

「遊ぶお金、ちゃんと稼げるじゃん……」

優子の新しい日常が、静かに始まっていた。

これからどんなお客さんが来るのか。

どこまでやれるのか。

少し怖いけど、ちょっと楽しみでもある。



優子ちいの配信が軌道に乗ってから、ちょうど1週間が過ぎた。

累計報酬はすでに4万8千円を超えていた。

大学の講義中も、友達とカフェにいる時も、頭の片隅で「あと少しで5万……」と数字がチラつく。

仕送りとは別に、自分の遊び資金がこんなに早く貯まるなんて、想像以上だった。

「これなら来月の旅行、絶対行けるじゃん……」

そんなウハウハな気分で、いつものように夜9時頃にログインした。

ウィッグを整え、マスクをしっかり着け、照明を調整。

今日の気分はちょっと甘えん坊モード多め。

ステータスに「ちい、今日はすっごく甘えたい気分なんだけど……だめかな?♡」と打っておく。

待機開始から10分ほどで、常連さんが何人か顔を出してくれた。

いつものように軽い雑談と甘えトークで小銭を稼ぎつつ、まったりしていたその時――

新しい入室通知。

【ゆうき】「こんばんは、ちいちゃん。初めてなんだけど、いいかな?」

名前だけ見ると、わりと若い感じ。

優子はいつもの甘い声で返した。

「こんばんは〜♡ ゆうきさん、はじめまして! もちろんいいよぉ。優しくしてね?」

【ゆうき】「ありがとう。急に声かけたのに優しくしてくれて嬉しいよ。

ちいちゃんのプロフィール見て、なんか癒されそうって思って入っちゃった」

優子はちょっと意外だった。

最近は「すぐエロいこと言え」「下着見せろ」みたいな人が増えてきていたから、こんな普通の挨拶が新鮮に感じた。

「えへへ、癒し系って言われると照れちゃうな〜。ゆうきさんはお仕事終わったの?」

【ゆうき】「うん、ちょうど今帰宅したところ。

残業が多くてさ、毎日クタクタなんだよね……。

だから、ちいちゃんみたいな可愛い子に甘えられたら、明日も頑張れそう」

優子は画面の向こうで小さく笑った。

この人、なんか普通に優しそう。

30代半ばの会社員って書いてあるし、きっと真面目なタイプなんだろうな。

そこから会話は自然に流れた。

ゆうきは自分のことをあまり自慢げに話さない。

むしろ、優子の話を聞きたがる。

「大学ってどんな感じ?」「最近ハマってるものある?」「好きな食べ物は?」

そんな他愛もない質問を、ちゃんと聞いてくれる。

優子もつい、素に近いテンションで答えてしまった。

「最近は抹茶スイーツにハマってるんだ〜。抹茶ラテとか、抹茶パフェとか……食べると幸せ〜♡」

【ゆうき】「抹茶好きなんだ。俺も抹茶アイス好きだよ。

今度一緒に食べに行けたらいいな、なんて……冗談だけど(笑)」

「えー、ゆうきさんってば〜! そんなこと言われたら、ドキドキしちゃうじゃん♡」

そんな軽いやりとりが続いた。

30分、1時間……気づけば2時間近く経っていた。

ゆうきはチップをポチポチ投げてくれる。

1回500円、1000円と、派手ではないけどコンスタントに。

そして何より、話していて疲れない。

むしろ、心地いい。

【ゆうき】「そろそろ寝なきゃなんだけど……ちいちゃんのおかげで、今日めっちゃリラックスできた。

また来てもいい?」

優子は思わず本音が漏れた。

「うん、ぜったい来てね。ゆうきさんのお話、すっごく楽しかったよ……待ってるから♡」

ゆうきが退室したあと、優子はしばらく画面を見つめていた。

今までの客は「可愛い」「エロい」「もっと」みたいな言葉ばかりだった。

でもゆうきは、優子の「人」として話しかけてくれた気がした。

「……なんか、変な感じ」

胸の奥が少し温かくて、ちょっとこそばゆい。

でも同時に、

(仕事だってわかってるのに、こんな気持ちになるなんて……)

優子はマスクの下で小さく息を吐いた。

稼ぐための「ちい」。

でも今夜、ほんの少しだけ、本当の優子が顔を出してしまった。

次のログインは、いつもの常連さんたちを相手にしながらも、

心のどこかで「ゆうきさん、また来てくれるかな」と待っている自分がいた。



それから、ゆうきは本当に毎日のように「ちい」の部屋に入室してくれるようになった。

最初は週に3〜4回だったのが、気づけばほぼ毎日。

仕事が終わった21時頃に「こんばんは、今日も来ちゃった」と入ってきて、

そのまま1〜2時間、ゆったりとした会話を楽しむ。

チップもコンスタントに投げてくれるし、決して無理なリクエストはしてこない。

優子にとって、ゆうきは「安心できる常連」になっていた。

警戒心が緩んだのは、自然な流れだった。

他の客はすぐにエロい方向に持っていこうとするのに、

ゆうきは「今日の講義どうだった?」「テスト勉強してる?」とか、

まるで普通の友達みたいに聞いてくる。

ある金曜日の夜。

大学のサークルの飲み会があって、優子はほろ酔いで帰宅した。

顔が火照って、いつもよりテンションが高い。

ウィッグをかぶり、マスクを着けてログインすると、案の定、ゆうきが待っていた。

【ゆうき】「おかえり、ちいちゃん。今日はなんか顔赤い? かわいいな」

「えへへ〜、実はね、今日大学の飲み会だったのぉ。

ちょっとお酒飲んじゃって……ふわふわしてる♡」

いつもより声が甘く、舌足らずになっている。

【ゆうき】「へえ、大学生らしいね。楽しかった?」

「うん、すっごく! ちょっと飲みすぎちゃったかも……帰りに1人で〇〇でラーメン食べたんだ~」

会話はいつも通り軽く始まったが、今日はゆうきが少し踏み込んでくる。

【ゆうき】「ちいちゃんって、大学でどんなサークル入ってるの?

なんか、楽しそうに話すから気になっちゃって」

「テニスサークルなんだ〜」

【ゆうき】「テニスか、似合いそう。家は神奈川って書いてあったけど」

「うん、神奈川の一人暮らし〜。大学は都内なんだけどね。

仕送りで、なんとかやってるよぉ」

ゆうきはさらに、優しく、でも確実にプライベートな質問を重ねてくる。

「一人暮らしって寂しくない? 彼氏とか、いないの?」

「えー、今はいないよぉ。

前にいた人は……なんか合わなくて、別れちゃった」

【ゆうき】「そっか。ちいちゃんみたいな可愛い子がフリーなんて、信じられないな。

どんな人がタイプ?」

優子は枕に顔を埋めて、くすくす笑いながら答える。

「優しくて、ちゃんと話聞いてくれる人……かな。

ゆうきさんみたいな? あ、言っちゃった♡」

ゆうきは少し間を置いて、

【ゆうき】「嬉しいな、それ。俺も、ちいちゃんみたいな子と話せて幸せだよ」

そんなやりとりが続き、気づけば2時間近く経っていた。

優子は酔いが回って、だんだん目がとろんとしてくる。

「ゆうきさん……なんか、今日すっごく眠くなっちゃった……

また明日ね? おやすみぃ……」

【ゆうき】「おやすみ、ちいちゃん。ゆっくり休んでね。

また明日、待ってるよ」

優子はパソコンを閉じて、そのままベッドに沈んだ。

頭の中はふわふわで、ゆうきの優しい声がまだ耳に残っている。

(ゆうきさん、ほんとにいい人だ……)

そのまま深い眠りに落ちた優子。


次の日から、優子は突然の高熱に襲われた。

朝起きたら体が鉛のように重く、喉が焼けるように痛い。

熱を測ると39度近く。

インフルエンザの流行期だったし、大学の友達が何人か同じ症状でダウンしていたのを思い出した。

仕方なく病院へ行き、陽性判定。

薬をもらって自室のベッドに沈み、1週間近く、ほとんど動けなかった。

学校は休み、もちろんチャットレディの仕事も完全にストップ。

パソコンすら開く気力がない。

ウィッグもマスクも、ベッドの横に放置されたまま。

熱が下がり始めてようやく体が動くようになった頃、

優子は久しぶりにスマホを手に取り、プリティチャットのアプリを起動した。

ログインすると、通知が山のように溜まっている。

未読メール:30件以上。

すべて、差出人「ゆうき」。

「……え?」

優子は一瞬、画面を凝視した。

最初のメールは、優子が最後にログインした翌日の朝。

【ゆうき】「おはよう、ちいちゃん。今日も待ってるよ。

昨日は急にオフになっちゃったけど、大丈夫?」

その次は夕方。

【ゆうき】「まだ来ないね……何かあったのかな。心配だよ」

そして、毎日、朝と夜に1通ずつ。

時には昼にも。

3日目:

【ゆうき】「ちいちゃん、熱とか出ちゃった? インフルとか流行ってるみたいだし……

ちゃんと薬飲んで、休んでね。俺、待ってるから」

5日目:

【ゆうき】「今日もいなくて寂しい。

ちいちゃんの声、聞きたくて……でも、無理しないで。

早く元気になってね」

7日目、昨日:

【ゆうき】「1週間経っちゃったね。

もしかして、俺のこと嫌いになっちゃった?

それとも、別の誰かと……?

いや、そんなわけないよね。ちいちゃんは優しいもん」

最後の1通は、今朝。

【ゆうき】「今日こそ来てくれるかな。

来なかったら……もう、俺、どうしたらいいかわからないよ」

優子はスマホを握ったまま、背筋がぞわっとした。

30通。

毎日、欠かさず。

内容は優しい言葉ばかりなのに、量と執拗さが尋常じゃない。

「これ……ちょっと、怖いかも」

今まで感じたことのない違和感が、胸に広がる。

ゆうきはいつも優しかった。

話を聞いてくれて、チップを投げてくれて、

プライベートな質問も、酔っていたあの日以降は控えめになっていたはずなのに。

でも、このメールの数を見ると、

「ただのいいお客さん」では済まない何かを感じてしまう。

優子はベッドに座ったまま、しばらく画面を見つめていた。

稼ぎの大部分は、最近はゆうきからのチップが占めていた。

(ゆうきさん、ほんとに私のこと心配してくれてるのかも)

という甘い考えが、頭をよぎる。

結局、優子は深呼吸して、ログイン画面を開いた。

待機モードに切り替える。

数分後――案の定。

【ゆうき】が入室。

【ゆうき】「ちいちゃん!!!

やっと……やっと来てくれた。

心配したよ。本当に……本当に心配だった」

声を出さずに、優子はマスクの下で唇を噛んだ。

「ゆうきさん……ごめんね。インフルエンザで、1週間寝込んでて……」

【ゆうき】「インフルか……大変だったね。

熱は? もう大丈夫? 薬は飲んだ? ちゃんと食べてる?」

質問が矢継ぎ早に飛んでくる。

優しい。

でも、どこか息苦しい。

優子は笑顔を作って、甘い声で返す。

「もうだいぶ良くなったよ〜。ゆうきさんが心配してくれて、嬉しい……♡」

【ゆうき】「よかった……本当によかった。

これからは、毎日ちゃんと来てね?

約束だよ」

優子は小さく頷いた。

「うん……約束」

画面の向こうで、ゆうきは安堵したように息を吐くのがわかった。

でも、優子の心の中では、

小さな警鐘が、鳴り始めていた。

この関係は、まだ「仕事」なのか。

それとも、もう少し深い――そして、危険な何かになりつつあるのか。

優子はウィッグを直しながら、思う。

(次に、どこまで踏み込んでくるんだろう……)

そして、この先の夜が、

少しずつ、変わり始めていた。



優子は体調がほぼ回復したその夜、

少し迷いながらも、いつものようにパソコンを開いた。

ウィッグを被り、マスクを着け、照明を調整。

心の中で「今日は短めに済ませよう」と決めて、

待機モードに切り替えた。

ログインから……わずか10秒も経っていない。

入室通知。

【ゆうき】

「……え?」

優子は思わず体を引いた。

画面に映る自分の姿が、ビクッと震えたのがわかった。

いつもは数分から10分くらい経ってから入ってくるのに、

今日はまるで、優子がログインするのを待ち構えていたかのように、

即座に入室。

まるで、通知を監視していたみたいに。

優子は喉が乾くのを感じながら、なんとか甘い声を絞り出した。

「ゆ、ゆうきさん……こんばんは♡ 早いね、びっくりしちゃった……」

【ゆうき】「おかえり、ちいちゃん。待ってたよ。ずっと画面見てたから、ログインした瞬間わかった」

「ずっと……見てた?」

優子はマスクの下で唇を噛んだ。

声に出さず、心の中で繰り返す。

(ずっと見てたって……待機画面、開きっぱなしだったってこと?)

待機中は他の客も見られるけど、

ゆうきが毎日、優子の待機画面をチェックしていたなんて……。

【ゆうき】「1週間も会えなくて、寂しかったんだ。

今日こそ来てくれるかなって、ずっとリロードしてたよ。

やっと会えて、嬉しい……本当に」

言葉は優しい。

でも、その「ずっとリロードしてた」という一言が、

優子の背筋を冷たくした。

「そ、そうなんだ……ありがとう、ゆうきさん。

私も、ゆうきさんに会いたかったよ♡」

嘘じゃない。

本当は、会いたかった。

でも今、この瞬間、

会いたかった気持ちと、怖いという気持ちが、ぐちゃぐちゃに混ざっている。

ゆうきはいつも通り、会話を始める。

【ゆうき】「熱はもう完全に下がった?

薬は飲みきった? ちゃんとご飯食べてる?

無理しないでね、ちいちゃん」

質問の連打。

心配してくれているのはわかる。

でも、今日はその一つ一つが、重く感じる。

優子はカメラに向かって小さく頷きながら、

心の中で警報が鳴り響いていた。

(早すぎる。

ログインした瞬間に来るなんて……

まるで、私の行動を全部見張ってるみたい)

会話は続く。

ゆうきは今日もチップを投げてくれる。

1000円、500円と、いつものように。

でも、優子は笑顔を作りながら、

指先が冷たくなっているのを感じていた。

「ゆうきさん、今日は……ちょっと疲れちゃってるかも。

短めにしよっか?」

【ゆうき】「え……もう?

まだ30分も経ってないよ。

ちいちゃん、俺のこと、嫌いになった?

それとも、誰か他の人に……?」

声が、少し低くなった気がした。

優子は慌てて首を振る。

「そんなことないよ! ただ、体がまだ本調子じゃなくて……

ごめんね、ゆうきさん」

【ゆうき】「……そっか。

じゃあ、今日は無理しないで。

でも、明日も来てくれるよね?

約束だよ」

「うん……約束」

ゆうきが退室したあと、

優子はすぐに待機をオフにした。

パソコンを閉じて、ベッドに倒れ込む。

心臓が、まだドクドク鳴っている。

(怖い……

でも、ゆうきさんが悪い人だって、決めつけるのも違うのかな。

ただ、すごく好きになってくれてるだけ……?)

頭がぐるぐる回る。

このまま続けていいのか。

優子は画面を見つめながら、

小さく呟いた。

「……どうしよう」

夜はまだ、深かった。

そして、明日のログインを、

優子は今、初めて「怖い」と思い始めていた。



次の日から優子はチャットからほんの少し離れた

というよりも、異常ともいえるゆうきの言動が怖くてログインできなかった

しかし、いつまでもこうしているわけにもいかず、3日ぶりにログインすることにした

先日のゆうきの即入室、待機画面を「ずっとリロードしてた」という言葉が、頭の中で何度もリプレイされる。

怖い。

でも、完全に無視するのもなんだか悪い気がして……結局、夕方近くになってから、恐る恐るパソコンを開いた。

サイトにログイン。

画面が切り替わった瞬間、新着メッセージの数字が目に入った。

80件。

優子は息を飲んだ。

一覧を開くと、1番上に並んでいるのはすべて同じ差出人。

【ゆうき】

ほぼ1時間おきにメッセージが送られ続けていた。

最初の数件はまだ優しい。

【ゆうき】「おやすみ、ちいちゃん。明日も待ってるね」

【ゆうき】「朝だよ。体調どう? 返事待ってる」

でも、時間が経つにつれて、トーンが変わっていく。

【ゆうき】「まだ来ないの? 忙しいのかな」

【ゆうき】「ちいちゃん、俺のこと無視してる?」

【ゆうき】「どうして返事くれないの……寂しいよ」

そして、夜中を過ぎてからのメッセージは、明らかに焦燥感がにじみ出ている。

【ゆうき】「起きてるよね? オンラインになってるの見てるよ」

【ゆうき】「なんでログインしないの? 他の男と話してるの?」

【ゆうき】「ちいちゃん、俺がいないとダメなんだよ……わかってるよね?」

【ゆうき】「返事くれないなら、俺、どうしたらいいかわからない」

最後の1通は、ログインする直前の10分前。

【ゆうき】「今ログインしたよね。待ってる。早く来て」

優子はマウスを握った手が震えるのを感じた。

画面の向こうに、誰かが息を潜めて見張っているような錯覚。

待機画面を開く勇気すら、出なかった。

「……もう、限界」

優子は小さく呟いた。

これ以上続けられない。

怖い。

ゆうきは優しかったはずなのに、今は恐怖でしかない。

稼ぎも大事だけど、自分の安全の方が大事だ。

決心がついた。

まず、ゆうき以外の常連さんに、短いお礼のメッセージを送ることにした。


いつもチップありがとうございました

楽しくお話できて嬉しかったです

突然ですが卒業します。ごめんなさい

またどこかで会えたらいいですね♡


数人に送り終えると、優子はアカウント削除のページを開いた。

確認画面。

「本当にアカウントを削除しますか?

すべてのデータ、報酬履歴、メッセージが消去されます。

元に戻せません。」

優子は深呼吸して、マウスをクリックした。

「削除する」

画面が一瞬暗くなり、

「アカウントが正常に削除されました」の文字。

報酬はちゃんと翌月に振り込まれるらしい

終わった。

パソコンを閉じて、ベッドに倒れ込む。

胸の奥が、ずしりと重い。

怖かった。


優子は天井を見つめながら、思う。

これで、すべて終わり。

「ちい」は消えた。

もう二度と、あのサイトには戻らない。

でも、心のどこかで、

「ゆうきさんは、これで諦めてくれるのかな……」

という小さな不安が、残っていた。

優子は電気を消した。

暗闇の中で、

静かに息を吐く。

新しい日常が、また始まる。



鈴木ゆうき、さいたま市在住の34歳会社員。

残業続きの毎日を、優しい笑顔の「ちいちゃん」で癒されていたはずだった。

でも、アカウントが突然消えた日から、何かが壊れた。

削除された通知を見た瞬間、ゆうきは画面を何度も更新した。

「まさか……」

ちいちゃんに送ったメッセージから、ちいちゃんのアイコンをクリックする

【存在しないアカウントです】

彼女は本当に、いなくなった。

それから、ゆうきは動き始めた。

優子が酔ってぽろっと漏らした情報を、すべてメモにまとめていた。


神奈川に一人暮らし

都内の大学に通う

テニスサークル

飲み会の帰りに行ったラーメン屋」の名前


そのラーメン屋は、他県にも展開するチェーン店だったが、神奈川県内にはわずか2店舗しかない。

ゆうきはネットのマップを開き、店舗の場所を確認した。

一つは山梨方面、もう一つは東京寄り。

「ここだ……」

ゆうきは有給を取った。


土曜日の夕方、駅の改札近くのベンチに座る。

カジュアルな服装で、スマホをいじりながら周囲を観察。

大学生くらいの女の子が通りかかるたび、心臓が跳ねる。

(ウィッグもマスクもしてない、本物の優子……

声はあの甘いトーンじゃなく、普通の声。

でも、目元とか、仕草でわかるはず)

電車が到着するたび、人波が吐き出される。

ゆうきは立ち上がり、改札口の少し離れた場所から見つめる。

テニスバッグを持った子、友達と笑いながら歩く子……。

一時間、二時間。

日が暮れ始めても、ゆうきは動かない。

ポケットの中のスマホには、優子のプロフィール写真(マスク姿)を拡大した画像が保存されている。

「絶対、見つける」

心の中で繰り返す。

彼女がいなくなった理由なんて、どうでもいい。

ただ、もう一度会いたい。

声が聞きたい。

「ゆうきさん♡」って、呼んでほしい。

駅前のコンビニでコーヒーを買い、ベンチに戻る。

夜のラッシュが始まっても、ゆうきはそこにいた。

優子は今日も、大学からの帰り道を歩いていた。

アカウントを消してから、心が少し軽くなった。

友達との飲み会も普通に楽しめるし、バイトを探そうかと考え始めていた。

でも、なぜか最近、駅周辺で視線を感じることがある。

気のせいだと思っていたけど……。

改札を出て、マンションに向かう道。

ふと、後ろを振り返る。

誰もいない。

でも、胸のざわつきが消えない。

ゆうきは、少し離れた街灯の下から、彼女の後ろ姿を見つめていた。

(……いた)

唇が、ゆっくりと笑みの形になる。

これで、ようやく。

「ちいちゃん」に、会える。



優子は、アカウントを消してから数週間が経っていた。

次第に「ちいちゃん」の記憶は薄れていった。

大学、サークル、友達との飲み会。

新しいバイトも見つけて、少しずつ普通の日常に戻っていた。

ゆうきのことは、もう「過去の変な客」くらいの認識に落ち着いていた。

でも、最近、妙な違和感が付きまとうようになった。

最寄り駅の改札を出て、マンションまでの道を歩くとき。

あるいは、朝の通学で電車を降りた瞬間。

視界の端に、いつも同じ男の姿がちらつく。

30代半ばくらい。

眼鏡をかけていて、グレーのパーカーかジャケットを着ていることが多い。

スマホをいじりながら、ベンチに座っているか、柱の影に立っているか。

特に目立った行動はしない。ただ、そこにいる。

最初は「同じ時間帯に通勤してる人かな」と思った。

でも、土曜日の昼間に買い物で駅に行ったときもいた。

日曜の夕方も、友達と別れて帰る途中で見かけた。

(……同じ人だよね?)

優子は意識的に後ろを振り返る回数が増えた。

男は決して近づいてこない。

目が合ったことは一度もない。

でも、存在感だけが、じわじわと濃くなっていく。

ある朝、通学途中の電車の中で、優子はスマホを握りしめながら考えた。

(ゆうきさん……?)

まさか。

そんなわけない。

住所も名前も知られてない。

今まで話した情報で特定できるはずがない。

でも、もし……。

優子は心臓の鼓動を抑えながら、駅に着いた。

改札を出る。

いつものように、少し早足で歩き出す。

そして、振り返った。

男はいた。

改札から少し離れたベンチに座って、こちらを見ていないふりをしてスマホを眺めている。

でも、優子が振り返った瞬間、わずかに肩が動いた気がした。

「……っ」

優子は足を速めた。

マンションまでの道を、小走りになる。

鍵を開ける手が震えた。

部屋に入ってドアを閉め、鍵を二重にかけ、チェーンをかける。

息を切らしながら、壁に背中を預ける。

(怖い……本当に怖い)

忘れかけていたはずの「ゆうき」の記憶が、一気に蘇る。

あの80通のメッセージ。

ログインした瞬間の入室。

「ずっとリロードしてたよ」

優子はスマホを取り出し、警察に相談すべきか迷う。

でも、証拠は何もない。

同じ人がいるだけ。

話しかけられたわけでも、追いかけられたわけでもない。

「ただの偶然……だよね?」

自分に言い聞かせるけど、声が震えている。

その夜、優子はカーテンをしっかり閉めて、電気を消した。

ベッドに横になっても、眠れない。

外の道路を、誰かが歩く足音が聞こえるたび、体が硬直する。

(もし本当にゆうきさんだったら……

どうする?)

優子は枕を抱きしめながら、思う。


明日も駅にはあの男がいるのだろうか。

優子は目を閉じた。

暗闇の中で、

小さな恐怖が、ゆっくりと広がっていく。



ゆうきは、さいたま市の自分のワンルームマンションに戻ると、すぐにカーテンを閉め、電気を薄暗くした。

机の上にノートパソコンを広げ、フォルダを開く。

そこには、優子がチャットで映っていた「ちい」の画像が、数十枚保存されていた。

待機画面のスクリーンショット、会話中のキャプチャ、彼女が少し体を傾けた瞬間のもの。

特に、目元だけを拡大してトリミングしたファイルがいくつも並んでいる。

そして、もう一つのフォルダ。

駅で撮った写真。

今日の夕方、改札を出て歩く彼女の後ろ姿を、遠くから望遠で撮影したもの。

顔ははっきり写っていないが、髪の長さ、歩き方、肩のライン。

そして、何より――振り返った瞬間に捉えた、わずかに見えた目元。

ゆうきは二つの画像を並べて表示した。

左:マスクとウィッグの「ちい」。黒いマスクの上から覗く、柔らかい二重の目。少し垂れ気味の目尻、長いまつ毛の影。

右:駅の写真を拡大したもの。マスクもウィッグもない、素の顔。風に髪が揺れて、目元が露わになった一瞬。

ゆうきは息を詰めて、画面を凝視する。

「……間違いない」

同じ目だ。

同じ、優しい曲線。

同じ、ちょっと眠たげな印象の瞳。

心臓が早鐘のように鳴る。

指先が震え、キーボードに触れるのも忘れて、ただ画面を見つめ続ける。

「ちいちゃん……本当に、君だったんだ」

声に出して呟くと、部屋に自分の声が響いて、少し恥ずかしくなる。

でも、同時に、胸の奥が熱くなった。

これで、確信した。

彼女はここにいる。

神奈川のこの街に。

毎朝毎夕、この駅を通っている。

ゆうきは椅子に深く座り直し、深呼吸した。

次はどうする?

話しかける?

いや、まだ早い。

彼女は怖がっているかもしれない。

急に近づいたら、逃げてしまう。

まずは、もっと近くで観察する。

彼女の生活パターンを知る。

大学からの帰宅時間、サークルの日、買い物のルート。

「ゆっくりでいい。

俺は、君を待てるよ」

ゆうきはスマホのメモアプリを開き、今日の観察記録を追加した。


18:32 改札出る

テニスバッグ持ってない → 今日はサークルなし?

コンビニ寄らず直帰

振り返った回数:3回(警戒してる?)


リストを眺めながら、ゆうきは小さく笑った。

「もうすぐだよ、ちいちゃん。

俺が、ちゃんと守ってあげるから」

外はもう真っ暗。

窓の外、遠くで電車の音が響く。

ゆうきはパソコンを閉じ、ベッドに横になった。

でも、目が冴えて、眠れない。

頭の中は、彼女の目元でいっぱいだった。

優子は今頃、部屋でカーテンを閉めて、怯えているかもしれない。

それを知っているだけで、ゆうきは少し、幸せな気分になった。

(怖がらせたくない。でも、君がいないと、俺は……)

ゆうきは天井を見つめながら、静かに呟いた。

「明日も、会いに行くよ」

そして、夜は更けていった。

優子のマンションの窓は、固く閉ざされている。

でも、ゆうきは知っている。

その向こうに、彼女がいることを。

二人の距離は、もう、指一本分くらいに縮まっていた。

あと少しで、触れられる。

でも、その「少し」が、どれだけ危険なものか――

優子は、まだ、知らない。



次の日から、優子は駅で怪しい男の姿を見かけることはなくなった。

朝の通学時間帯も、夕方の帰宅時も、改札近くのベンチにも、柱の影にも、あの30代くらいの男はいない。

コンビニの前を通る時も、公園の脇を歩く時も、誰も視線を感じない。

「……あれは、きっとたまたまだったんだよね」

優子は自分に言い聞かせながら、肩の力を抜いた。

あの80通のメッセージも、怖かった記憶も、薄れていく。

日常が戻ってきた。

テニスサークルの練習も再開し、友達とのカフェも増え、バイトのシフトも決まった。

夜は普通に眠れるようになった。

一方、ゆうきは、優子の視界から完全に姿を消していた。

彼はもう、駅のベンチに座って待つような真似はしなくなった。

「これ以上、自分の姿を彼女に見せるのは逆効果だ」

そう判断したのだ。

優子が安心しきって、警戒を解いた頃にこそ、次のステップを踏む。

ゆうきは、さいたまの自宅からではなく、

神奈川のこの街に近いビジネスホテルに週末だけ泊まることにした。


優子のマンションがあると思われるエリアを、ストリートビューと地図アプリで徹底的に絞り込む。

飲み会のあとに行ったラーメン屋の最寄り駅から逆算したルート上。

実際に足を運ぶ時は、服装を変える。

眼鏡をサングラスに替え、帽子を深くかぶり、マスクを着用。

決して追跡はせず、偶然を装って「通りすがり」のようにすれ違うだけ。


数日後、ゆうきはついに、優子のマンションを特定した。

夕方、彼女がスーパーの袋を提げて入っていく姿を、

道路の向こう側から、遠くの路地から捉えた。

建物は5階建てのオートロック付きマンション。

部屋番号まではわからないが、エントランスのインターホンに名前はなかった。

ゆうきはスマホでその建物の外観を撮影し、メモに追加した。


住所:〇〇市〇〇町×丁目

建物名:〇〇ハイツ

エントランス:オートロック、宅配ボックスあり

ちいちゃんが入るタイミング:18:45頃(スーパー帰り)

窓の位置:3階か4階の角部屋?(カーテンが薄いピンク)


これで、彼女の「家」がわかった。

ゆうきはホテルの部屋に戻り、ベッドに座って写真を眺める。

胸が熱くなる。

怖がらせたくない。

でも、彼女の近くにいられるだけで、こんなに満たされる。

「もう少しだよ、ちいちゃん。

俺は、君を絶対に離さないから」

優子は今、部屋でテレビを見ながら、のんびり夕食を食べている。

外の道路を歩く人の足音を、ただの日常の音として聞き流している。

彼女は知らない。

自分が「安心した」と思ったその瞬間から、

監視はより深く、静かに、確実に進んでいることを。

ゆうきは次の計画を練り始める。

マンションのゴミ捨て場をチェックする?

宅配ボックスに何が届くか観察する?

それとも、もう少し待って、彼女が一人で出かけるタイミングを狙う?


ゆうきは窓の外を見ながら、微笑んだ。

「ゆっくり、ゆっくり……

君の日常に、俺が入っていくよ」



優子は、マンションの部屋でいつものように夕食を済ませ、ソファに座ってスマホをいじっていた。

外はもう暗く、窓のカーテンはしっかり閉めているけど、もうあの「視線」の不安はほとんど消えていた。

最近、駅で怪しい男を見かけなくなってから、心のどこかが軽くなった。

(よくよく考えたらさ……)

優子は小さく笑って、独り言のように呟く。

変装してたんだよ、私。

ウィッグ被って、マスクして、声もちょっと高めに変えてた。

神奈川県って広いし、都内の大学なんて無数にある。

テニスサークルだって、どの大学にもあるようなものだし。

それに、私、SNSなんて一切やってないんだよね。

顔写真なんて、友達とのグループLINE以外に出したことない。

「特定なんて、できるわけないじゃん……」

そう思うと、胸のざわつきが完全に消えた。

あの80通のメッセージも、ただの「熱心な客」だったんだろう。

アカウント消した時点で、向こうも諦めたはず。

そんな些細なことで、住所まで辿られるなんて、ドラマみたいすぎる。

優子は立ち上がって、キッチンでお茶を淹れた。

カップを手に、ベッドに腰掛ける。

明日はテニスの練習があるから、早めに寝ようかな。

バイトのシフトも入ってるし、普通の生活が楽しい。

窓の外から、車の音や遠くの電車の音が聞こえる。

ただの日常の音。

誰も見ていない。

誰も追ってこない。

優子は電気を消して、布団に潜り込んだ。

スマホのアラームを設定し、枕に顔を埋める。

「もう大丈夫……」

安心感が、体全体を包む。

深い眠りが、すぐに訪れた。


一方、鈴木ゆうきは、ビジネスホテルの部屋で、

優子のマンションの外観写真を眺めていた。

今日も、彼女が帰宅する時間を確認した。

18:42にスーパーの袋を持ってエントランスに入る。

3階の角部屋、薄いピンクのカーテンが一瞬揺れた。

間違いない、あそこだ。

ゆうきはノートに今日の記録を追加する。


帰宅時間:18:42

服装:白いパーカー、黒いレギンス(テニス練習後?)

買い物:スーパーの袋から野菜と牛乳が見えた

部屋の灯り:19:10頃に消灯(就寝?)


リストを眺めながら、ゆうきは静かに息を吐く。

彼女は安心している。

それがわかる。

歩き方が軽くなった。

振り返る回数が減った。

視線を気にする仕草がなくなった。

「いいよ……

そのままでいて。

俺は、急がないから」

ゆうきはパソコンを閉じ、ベッドに横になる。

頭の中は、優子の日常でいっぱい。

彼女が知らないところで、

自分の存在が少しずつ近づいていることなど、想像もしていない。

優子は今、夢を見ている。

テニスコートで友達と笑い合っている、平和な夢。

外の世界は静かだ。

でも、マンションのエントランスの影で、

誰かが、じっと灯りが消えた窓を見上げている。

優子が安心したその瞬間から、

ゆうきの計画は、次の段階へ移っていた。

もう、駅で待つ必要はない。

優子は知らない。家が特定されていること。

ラーメン屋の名前が、決定的な手がかりだったこと。

そして、安心が、最大の隙になることを。

夜は、まだ深い。

優子の寝息だけが、部屋に響いている。



優子はバイト帰りで少し疲れていたが、マンションのエントランスに入ると、いつものように郵便受けの前で足を止めた。

いつもなら、投函口からスーパーのチラシや不動産の広告が2、3枚はみ出しているのに、今日は何もない。

中が妙にすっきりしている。

「……あれ?」

不思議に思いながら、鍵を差し込んで郵便受けを開ける。

中にはチラシすら一枚もない。

代わりに、茶封筒が一通、ぽつんと入っていた。

封筒の表面には何も書かれていない。

宛名も、差出人も、切手もない。

ただの無地の茶封筒。

誰かが直接、手で投函したものだ。

(……誰から?)

管理会社からの通知かも。

封筒を手に取り、マンションのエレベーターに乗りながら、裏返す。

やはり、何も書かれていない。

重さはほとんどない。薄い紙一枚くらいか。

部屋に入り、鍵を閉めてから、ソファに座って封筒を開けた。

中には、一枚の写真が入っていた。

写真は、優子自身だった。

夕方の駅前。

スーパーの袋を提げて、マンションに向かって歩いている後ろ姿。

少し振り返った瞬間を捉えたものらしく、横顔がはっきり写っている。

髪が風に揺れて、目元が露わになった一枚。

優子の手が震え始めた。

写真の裏には、黒いペンで、丁寧な字で一文だけ書かれていた。

「ちいちゃん、元気そうでよかった♡

また会おうね」

優子は写真を落とした。

床に落ちた写真が、静かに横たわる。

部屋の中が、急に寒くなった。

カーテンを閉めているのに、外から誰かが覗いているような気がする。

(……ゆうきさん?)

優子はスマホを握りしめ、警察に電話すべきか迷う。

でも、証拠はこれだけ。

一枚の写真と、たった一文。

ストーカーだと証明できる?

優子は立ち上がり、窓に近づいてカーテンを少しだけ開けた。

外の道路は静かで、街灯がぼんやり光っているだけ。

誰もいない。

暗闇の中で、膝を抱えて座り込む。

涙が、ぽろりと落ちた。

「どうしよう……」

声にならない声で呟く。

「ちいちゃん」は、もう消したはずだった。

なのに・・・

写真の裏の文字が、暗闇の中でかすかに浮かんでいるようだった。

「また会おうね」

優子は震えながら、思う。

(逃げなきゃ……でも、どこへ?)

夜は、まだ始まったばかりだった。

そして、ゆうきは、どこか近くで、

優子の灯りが消えた窓を見上げている。

微笑みながら。



優子は暗い部屋の中で、膝を抱えたままスマホの画面を凝視していた。

写真を落としてからどれくらい経っただろう。

震えが止まらない手で、スマホを拾い上げ、検索アプリを開く。

指が勝手に動く。

「[〇〇軒] 神奈川」

検索結果がずらりと並ぶ。

チェーン店だから、全国に何十店舗もあるはずなのに……

神奈川県内の店舗一覧をタップすると、

たった二店舗。

「これ……これがいけなかったんだ」

優子は画面をスクロールしながら、喉の奥で小さく呻いた。

東京に近い方の店舗は、駅から徒歩5分。

都内の大学に通っていて、その帰りにこの店に行くということは

最寄り駅はすぐに絞り込める。

「迂闊だった……本当に、迂闊すぎた」

あの時、酔ってたからって、プライベートなことをぽろぽろ話した。

一つ一つは小さな欠片だけど、全部繋がったら・・・

部屋番号まで特定されたってことは、

もう、マンションのエントランスで待たれてるだけじゃ済まない。

宅配ボックスを見られた?

ゴミ捨て場で名前を見られた?

優子はスマホを握りしめたまま、立ち上がる。

部屋の中をうろうろしながら、考える。

このままじゃ、危ない。

でも、警察に相談しても「一枚の写真だけじゃ……」って言われるかもしれない。

証拠が薄い。

引っ越す? お金がない。

実家に帰る? 大学はどうする?

頭がぐるぐる回る。

でも、一つだけ、はっきりした決意が浮かんだ。

「もう、ここにはいられない」

優子は急いでクローゼットを開け、旅行用のスーツケースを引きずり出す。

とりあえず、数日分の服と必需品を詰め込む。

パソコン、充電器、化粧品……

そして、あの写真。

証拠として、ジップロックに入れてスーツケースの底にしまう。

今夜は友達の家に泊まることにする。

LINEで「急だけど、今日泊めてくれない?」と送る。

返事はすぐに来た。「もちろん! なんかあった?」

「ううん、ちょっと体調悪くて……」

嘘をつく自分が嫌になるけど、今は仕方ない。

スーツケースを閉め、部屋を見回す。

ここで過ごした数年間の記憶が、急に遠く感じる。

カーテンを少しだけ開けて、外を覗く。

道路は静か。

誰もいないように見える。

でも、優子は知っている。

どこかで、見られている。

鍵を二重にかけ、チェーンをかける。

スーツケースを引いて、エレベーターに乗る。

1階に着いた瞬間、胸が締め付けられる。

エントランスの外、街灯の下に、

ぼんやりとした人影が立っている気がした。

優子は息を殺して、反対側の出口から出る。

タクシーを拾い、友達のマンションに向かう。

車の中で、窓の外を見つめながら思う。

(ゆうきさん……

なんで、こんなことするの?

ただのチャットだったのに)

涙が止まらない。


夜の神奈川の街を、タクシーは走っていく。

優子の新しい逃避行が、静かに始まっていた。

一方、ゆうきは、マンションの近くの路地から、

タクシーが去っていくのを、じっと見送っていた。

スマホの画面には、優子の部屋の灯りが消えた時間が記録されている。

「どこに行くのかな……

でも、俺は待てるよ」

ゆうきは小さく微笑んだ。

「また、会えるよね、ちいちゃん」



優子はタクシーの後部座席で、スマホを握りしめたまま、深く息を吐いた。

友達の家に泊まる予定だったけど、ふと頭に浮かんだ考えが、胸を締め付けた。

(もしゆうきさんが、私の友達のところまで追ってきたら……?

友達に何かあったら、絶対に許せない)

危害が及ぶかもしれない。

友達の顔が浮かんで、優子は慌ててLINEを開いた。

「ごめん! やっぱり大丈夫になったから、今日は泊まらなくていいよ。

急にキャンセルして本当にごめんね……明日大学で話そう」

送信。

すぐに既読がつき、「え、大丈夫? 何かあったら言ってね!」という返事が来た。

優子は「うん、ありがとう♡」とだけ返して、スマホをポケットにしまった。

タクシーはマンションの近くで止まった。

優子は周囲をきょろきょろ見回しながら、急いでエントランスに入る。

エレベーターに乗って部屋に戻り、ドアを閉めた瞬間、力が抜けた。

床に座り込んで、膝を抱える。

(警察……?)

一瞬、頭をよぎったけど、すぐに首を振った。

ライブチャットの仕事をしてたこと、全部バレるかもしれない。

親に知られたら、大学に通うのも難しくなるかも。

証拠も写真一枚だけじゃ、動いてくれない可能性が高い。

「ただの嫌がらせかも」って言われて終わりそう。

(もう、ここにいるのは無理)

実家に帰るしかない。

実家は千葉県内だけど、大学からは電車で1時間ちょっと。

通学圏内だし、仕送りも続けてくれるはず。

親には「ストーカーに遭ってるみたいで怖いから、一時的に帰りたい」って濁せばいい。

詳細は言わなくていい。

決めた。

優子はスマホを取り出し、引っ越し業者の検索を始めた。

「神奈川 格安 引っ越し」「単身 即日 引っ越し」「週末 安い 引越し業者」

いくつか候補が出てきた。

口コミが良くて、安いところをピックアップ。

単身パックで2〜3万円くらいのところが多い。

週末は混むけど、急ぎで予約できる業者を探す。

「これ……ここなら、土曜の朝に作業してくれるみたい」

見積もりフォームに、住所と荷物の量を入力。

すぐに仮予約の連絡が来た。

「週末に決行しよう」

優子はスーツケースに詰めた荷物を確認し、

残りの服や日用品を段ボールにまとめ始めた。

パソコン、教科書、化粧品……

大事なものは全部持ってく。

家具は実家に置いてあるし、必要最低限でいい。

夜中まで作業を続けて、ようやく一段落。

部屋を見回すと、がらんとしてきた。

(これで、終わり)

でも、心のどこかで、

「ゆうきさんは、これで諦めてくれるかな……」

という不安が消えない。

優子はベッドに横になり、カーテンの隙間から外を覗いた。

道路は静か。

誰もいない。

でも、知っている。

どこかで、見られているかもしれない。

優子はスマホのアラームをセットし、目を閉じた。

明日は大学を休んで、親に電話する。

「急だけど、帰りたい」って。

週末には引っ越し。

新しい住所は、親の家。

大学には通える。


ゆうきは静かに微笑む。

「どこかに行こうとしてるのかな……

でも、大丈夫。

俺は、君の居場所を、ちゃんと知ってるから」

優子のマンションの窓は、暗い。

でも、ゆうきの視線は、

まだ、そこに注がれている。

週末が来る。

優子は逃げようとしている。



優子は四街道駅の改札を出て、深く息を吸った。

空気が違う。

都心のコンクリート臭や人の喧騒がなく、代わりに土と草の匂いが鼻をくすぐる。

周りは木々が密集し、畑が点在する長閑な風景。

遠くに高速道路の高架が横たわり、時折トラックの音が低く響いてくる。

子供の頃から見慣れた景色なのに、今はなぜか新鮮で、少しだけ心が落ち着いた。

「ただいま……」

小さく呟いて、駅前のバス停に向かう。

わざと別の駅――千葉駅で一度降りて、バスと電車を何度か乗り継いだ。

尾行されている気がして、何度も振り返った。

誰もいない。

念のためキャップを深くかぶって歩いた。

過剰かもしれないけど、今はこれくらいでちょうどいい。

実家までの道は徒歩15分ほど。

懐かしい畑の脇道を歩きながら、優子は思う。

(ここなら……追ってこれないよね)

実家の門が見えた瞬間、胸が熱くなった。

玄関の引き戸が開き、母親が顔を出した。

「優子! おかえりなさい」

母親の声は心配そうだったけど、目尻が下がって優しい。

父親もリビングから出てきて、無言でスーツケースを受け取ってくれた。

「ストーカーみたいな人に……ちょっと怖くなって。

大学は通える距離だし、しばらくここにいさせてほしいの」

詳細は言わなかった。

ライブチャットのことはもちろん、写真のことも。

ただ「怖い思いをした」ってだけ。

両親は深く追及せず、

「とにかくゆっくりしなさい」「何かあったらすぐ言ってね」と、温かく迎え入れてくれた。

夕食は母親の手料理。

実家の味噌汁の匂いが、懐かしすぎて涙が出そうになった。

テレビのニュースが流れ、父親がいつものようにぼそぼそとコメントを言う。

普通の、変わらない日常。

自分の部屋に上がると、昔のままのベッドと机。

窓から見える高速道路の高架が、夜のライトアップでぼんやり光っている。

優子はカーテンを閉め、ベッドに倒れ込んだ。

「ここなら、大丈夫……」

でも、心の奥で小さな声が囁く。

(本当に?

ゆうきさんは、どこまで知ってるんだろう……)

ラーメン屋の名前から最寄り駅を特定されたこと。

マンションの部屋番号まで。

あそこまで執着した人が、諦めるだろうか。


翌朝、優子は大学へ向かう電車に乗った。

四街道から都内まで、1時間ちょっと。

窓の外を流れる景色を見ながら、優子は決意する。

(もう、絶対に近づかせない。

新しい日常を、ちゃんと作る)

でも、電車が千葉駅に近づくにつれ、

ふと、後ろの席に座る男の視線を感じた気がした。

振り返る。

誰もいない。

ただの気のせい。

優子は深呼吸して、目を閉じた。

実家に帰ってきた安心感と、

まだ消えない小さな恐怖が、

胸の中で静かに混ざり合っていた。

ゆうきは今、何をしているのだろう。

優子は知らない。

知りたくもない。

でも、

どこかで、

「ちいちゃん」の記憶を、

ゆうきはまだ、抱きしめているのかもしれない。

四街道の空は、今日も穏やかだった。



優子は実家に戻ってから、数日間を静かに過ごしていた。

郵便受けから抜き取られたのは、幸いチラシだけだった。

名前や住所が明記された本物の郵便物――銀行の明細や大学の通知、公共料金の請求書などは、最近オンライン化していて紙で届かなくなっていた。

それでも、優子は実家で息を潜めるように生活した。

朝は母親と一緒に朝食を食べ、午後は大学のオンライン講義を受ける。


一方、ゆうきは神奈川のビジネスホテルをチェックアウトし、さいたまの自宅に戻っていた。

週末の土曜日。

優子のマンションの前を、遠くから何度か通りかかった。

エントランスのオートロックは静かで、3階の角部屋の窓に灯りはつかない。

日曜も、月曜の朝も、夕方も――誰も出入りしない。

「いない……?」

ゆうきはスマホのメモに追加する。


週末以降、優子確認できず

部屋の灯り:消えたまま

エントランス通過者:該当者なし


友達の家に泊まっているのかもしれない。

でも、こんなに長く?

数日で戻ってくるはずなのに、気配が完全に途絶えている。

「まさか……実家に帰った?」

ゆうきはパソコンの画面を睨む。

これまで集めた情報は、


神奈川県内の一人暮らし

都内の大学

最寄り駅

マンションの建物と部屋の位置


これで住所までは特定できたが、

本名はわからない。

大学名も特定できていない。

実家の場所など、なおさらだ。

「優子」という名前すら、知らない。


「面倒だな……」

ゆうきは小さく舌打ちした。

でも、すぐに表情を戻す。

まだ、諦める段階じゃない。

彼女は大学に通っているはずだ。

通学ルートさえわかれば、どこかで会える。

ゆうきはパソコンを閉じ、ベッドに横になる。

頭の中には、優子の後ろ姿と、写真の横顔が浮かんでいる。

「どこにいても、俺は見つけるから」


四街道の実家では、優子が夕食の後片付けを手伝っていた。

母親が「最近、元気になったみたいね」と笑う。

優子は「うん、ちょっと安心したかも」と返す。

窓の外、高速道路のライトが流れていく。

遠くの街の灯りが、優子の過去を照らしているようだった。

優子は知らない。

ゆうきが、まだ諦めていないこと。

名前も大学も実家も知らないまま、

執念だけで、彼女の影を追っていること。

実家の静かな夜に、

優子は小さく息を吐く。

「もう、会わないよね……」

でも、心の奥で、

かすかな予感が、消えずに残っていた。

ゆうきは、どこかで待っている。

優子の日常に、再び入り込む日を。



ゆうきは、優子のマンションの前を、夕暮れ時の薄暗い路地から見つめていた。

今週で3週間目。

毎週末、さいたまから電車を乗り継いでここに来る。

平日は会社員として普通に働き、土日だけ神奈川に滞在。

もう、ホテルの常連客みたいになっている。

「今週も帰ってこなかったら……しばらくはここに来るの、止めるか」

そう自分に言い聞かせながら、エントランスの郵便受けコーナーへ近づく。

オートロックの外から覗き込める位置で、優子の部屋番号の郵便受けをチェックするのが、最近の習慣になっていた。

投函口から見える封筒を確認する。

……2枚の封筒が入っている。

一つは白い封筒、もう一つは薄い黄色のもの。

どちらも、投函口から少しはみ出していて、文字が読める。

ゆうきは息を詰めて、素早く抜き取り目を凝らした。

白い封筒の表面に、黒い文字で印刷された宛名。

「西川千尋 様」

……ちいちゃん。

心臓が跳ね上がる。

「ちい」→「千尋」。

ぴたりと符合する。

彼女が適当に付けた名前じゃなかった。

本当の名前の一部だったんだ。

もう一つの黄色い封筒は、転居届の控えのような書類。

差出人は「〇〇市役所 転出届受付係」。

転居先住所が、はっきりと印刷されている。

岡山県岡山市北区〇〇町×丁目 〇〇アパート 302号室

岡山……?

ゆうきは一瞬、頭が真っ白になった。

実家が何県にあるかすら見当もついていなかった。

神奈川で一人暮らしをしている大学生。

それだけが情報だったのに、

突然、岡山という遠い県の住所が現れた。

さらに、黄色い封筒の横に、もう一枚の薄いパンフレットが挟まっているのが見えた。

表紙に「岡山県立大学 編入学案内」と書かれている。

願書の控えらしき紙も、一緒に。

(転居……?

いや、編入?

大学を移るつもりなのか?

それとも、実家が岡山で、そこに帰って編入する?)


本名:西川千尋(ちいちゃん→千尋)

転居先:岡山県岡山市北区〇〇町×丁目 〇〇アパート302

岡山県立大学 編入学願書&パンフレット


胸が熱くなる。

これで、ついに。

名前と住所を手に入れた。

実家かどうかはわからないが、少なくとも彼女が向かう先だ。

「ちいちゃん……千尋ちゃんか。

可愛い名前だね」

ゆうきは郵便受けから目を離し、マンションの3階の角部屋を見上げた。

灯りはついていない。

でも、もう必要ない。

彼女はもう、ここには戻らないのかもしれない。

岡山へ行く。

それなら、俺も岡山へ行けばいい。

ゆうきは小さくほくそ笑んだ。

(夢にも思わないだろうな。

こんなに簡単に、手がかりを置いてくなんて)


ゆうきはマンションを後にし、駅に向かって歩きながら、次の計画を立て始めた。


岡山行きの新幹線を調べる

岡山県立大学の編入学情報をネットで確認

アパートの住所を地図で特定

千尋の顔写真を合成して、大学周辺で探す準備


「もうすぐだよ、千尋ちゃん。

俺は、絶対に君を見つけるから」

夜の神奈川の街を、ゆうきは軽い足取りで去っていった。

一方、四街道の実家で、優子は夕食後に母親とテレビを見ていた。

窓の外は木々と畑の暗闇。

高速道路の高架が、遠くで光っている。



優子は四街道の実家で、夕食後の静かな時間にスマホを手に取った。

転居届の控えと岡山県立大学のパンフレット、そして願書のコピー。

すべて、彼女が自分で用意した「囮」だった。

本当の岡山の住所は、大学時代の先輩で今は岡山県警に勤めている知り合い――佐藤さんの住む警察寮のもの。

優子は数日前、勇気を振り絞って佐藤さんに連絡した。

「実は……ストーカーっぽい人に追われてて。

住所を偽装して、追跡を誤魔化したいんだけど……

警察寮の住所を使わせてもらえないかな?

もちろん、絶対に迷惑かけないようにするし、もし何かあったらすぐ連絡するから」

佐藤さんは少し驚いた様子だったが、優子の声を聞いてすぐに察した。

「わかった。危ない目に遭ってるなら、協力するよ。

でも、警察寮だから不動産情報には一切載らないし、地図アプリでも『一般住宅』みたいにしか表示されないはず。

ただし、絶対に本名で手続きしないでね。偽名で転居届のコピーを作って、郵便受けに残すだけなら大丈夫」

許可をもらったあと、優子は市役所で転居届の「控え」を偽造したわけじゃない。

ただ、佐藤さんが「転居届を出したことにして、控えのコピーを送ってあげる」と、

本物の書類のコピーを(個人情報部分を一部マスキングして)郵送してくれた。

パンフレットと願書は、ネットでダウンロードして印刷したもの。

すべてを茶封筒に封入し、マンションの郵便受けに自分で投函したのは、

ゆうきが来るのを待ってのことだった。

(ネットで検索しても、警察寮の住所は出てこない。

ぱっと見、普通の集合住宅にしか見えないはず……)

優子はスマホでその住所を検索してみた。

ネットのマップでは、確かに「〇〇アパート」みたいな名前で表示されるが、詳細はほとんどない。

不動産サイトにも載っていない。

存在しない住所じゃないから、すぐにバレる心配はない。

でも、警察寮だから、外部の人間が簡単に訪ねて調べるのは難しい。

「これで……本当に、追ってこなくなるよね」

優子は窓の外を見た。

高速道路の高架が、夜の闇にぼんやり浮かんでいる。

実家の静けさが、ようやく心に染みてくる。

一方、ゆうきはさいたまの自宅で、ノートパソコンに新しいフォルダを作っていた。

フォルダ名:「千尋ちゃん_岡山」

中身は、


転居先住所のスクリーンショット

岡山県立大学の公式サイトのキャプチャ(編入学案内ページ)

ネットのマップでピン留めしたアパートの位置

岡山までの新幹線時刻表

「西川千尋」という名前で検索した結果もちろんヒットなし


ゆうきは椅子に深く座り、満足げに息を吐いた。

「岡山か……遠いけど、行けるよ。

千尋ちゃんが編入するなら、大学周辺で待てばいい。

名前が『千尋』だってわかっただけでも、収穫だ」

彼は地図を拡大し、アパートの周辺をぐるぐる見回す。

近くにコンビニ、大学へのバス停、スーパー。

通学ルートはすぐに想像がつく。

「来週、岡山に行ってみようかな。

下見だよ、下見」

ゆうきは小さく笑った。

優子が仕掛けたフェイクだと、夢にも思っていない。

むしろ、この「転居先」が本物だと信じきっているからこそ、

次の行動を決めている。

優子は実家のベッドで、布団にくるまりながら思う。

(もう、追ってこないよね……

岡山に行ったら、そこで終わりだよね)

でも、胸の奥で、かすかな違和感が残る。

ゆうきは、どこまで執着する人間なのか。

名前を手に入れたら、満足するのか。

それとも、もっと深く掘り下げてくるのか。

優子は目を閉じた。

四街道の夜は静かだ。

高速道路の音だけが、遠くで響いている。

ゆうきは今、岡山行きの切符を検索している。

優子の作った「囮」が、

逆にゆうきを遠くの街へ誘導している。



ゆうきが岡山に着いてから、ちょうど1ヶ月が経っていた。

岡山市北区の安いビジネスホテルを拠点に、毎日同じルーティンを繰り返していた。

朝:岡山県立大学の正門近くのカフェでコーヒーを飲みながら、通学生の顔をチェック。

午後:大学周辺のバス停やコンビニを巡回し、「西川千尋」という名前の学生を探す。

夕方:アパートの前で張り込み。302号室の窓に灯りがつくのを待つ。

夜:ホテルの部屋に戻り、今日の観察記録をノートに追加。

でも、成果はゼロだった。


「西川千尋」という名前で大学に在籍する学生は、編入学のリストにも、一般学生のSNSにも、一切ヒットしない。

アパート302号室の郵便受けは空っぽのまま。誰かが住んでいる気配すらない。


ゆうきは最初、

「まだ編入手続き中だから、大学に顔を出してないのかも」

と思っていた。

でも、1ヶ月経っても何の動きもない。

新幹線代とホテル代が、貯金をどんどん削っていく。

会社には「長期出張」と言い訳しているが、上司の視線が怪しくなってきた。

ある夜、ホテルのベッドで天井を見つめながら、ゆうきは初めて疑問を抱いた。

「……おかしいな」

転居届、パンフレット、願書。

すべてが本物に見えたはずなのに、

なぜ、こんなに何もないのか。

岡山県立大学の編入学は、確かに存在する。

でも、「西川千尋」はどこにもいない。


もしかして……全部、偽物?

その考えを振り払うように、ゆうきは頭を振った。

「いや、そんなわけない。

俺は間違ってない」

でも、心のどこかで、

小さな亀裂が入り始めていた。

一方、四街道の実家では、優子はすっかり穏やかな日常を取り戻していた。

朝は母親と一緒に庭の草むしり。

午後はオンラインで大学の講義を受け、夕方は近所の散歩。

バイトも、地元のコンビニで週3日。

ゆうきのことは、もう完全に忘れていた。

あの写真の恐怖も、郵便受けの茶封筒も、遠い過去の悪夢のように感じる。

そんなある日の夕方、

スマホが鳴った。

画面に表示されたのは「佐藤先輩」。

「もしもし、優子? 元気?」

佐藤さんの声はいつも通り、落ち着いていて優しい。

「はい、先輩! おかげさまで、こっちは全然平気になりました。

本当に、ありがとうございました。あの住所、使わせてもらって……」

「うん、こっちも何も変わったことないよ。

郵便物も来てないし、誰かが訪ねてきた気配もない。

警察寮だから、外部の人間が入ってくるのは難しいしね。

それで、その後どう? 変わったことない?

まだ怖い思いしてたりしない?」

優子は少し考えて、笑った。

「もう、全然。

ゆうきさんのこと、ほとんど思い出さなくなっちゃいました。

先輩のおかげで、フェイクが効いたみたいです。

もう、追ってこないですよね……きっと」

佐藤さんは小さく息を吐いて、言った。

「そうだといいけど。

でも、念のため、変なことがあったらすぐ連絡して。

もし本気で探してるなら、

ここに来る可能性はあるからね。

私はいつでも対応できるけど、優子自身も気をつけて」

「はい、わかりました。

本当にありがとうございます、先輩」

電話を切ったあと、優子は窓の外を見た。

高速道路の高架が、夕陽に染まっている。

穏やかな景色。

(もう、大丈夫だよね)

優子はそう自分に言い聞かせた。

でも、佐藤さんの言葉が、

かすかな波紋を残した。



ゆうきはさいたま市のワンルームに戻ってから、すでに2ヶ月が過ぎていた。

会社員としての日常は、以前と変わらず続いている。

朝7時に起床、電車で通勤、残業をこなして夜9時頃帰宅。

休日は洗濯と掃除、たまに近所のラーメン屋で一人飯。

表面上は、なんの変化もない「普通の生活」。

でも、心の中は穏やかではなかった。

ベッドに横になると、毎晩のようにあの目元が浮かぶ。

マスクの上から覗く、柔らかい二重の瞳。

甘い声で「ゆうきさん♡」と呼ぶ「ちいちゃん」。

岡山で1ヶ月探し回ったのに、何も得られなかった挫折感。

それでも、未練がましく、指が勝手に動く。

夜遅く、スマホを手に取り、プリティチャットのサイトを開く。

アカウントはもうない。

ログイン画面で「ちい」の名前を検索しても、当然ヒットしない。

それでも、待機中の女の子たちのプロフィール写真を、スクロールしながら眺める。

ウィッグを被った子、マスク姿の子、甘えん坊を売りにしている子……。

「似てるかな……?」

時々、目元が少し似ている子を見つけて、心臓が跳ねる。

でも、すぐに違うとわかる。

声が違う。

笑い方が違う。

「ちいちゃん」じゃない。

ゆうきはため息をついて、スマホを投げ出す。

翌日の夜も、また開いてしまう。

未練が、執着が、静かに胸を蝕んでいる。

岡山の住所は偽物だったのかもしれない。

転居届も、大学のパンフレットも、全部仕組まれたものだったのかもしれない。

そう思うと、悔しさと同時に、

「千尋ちゃんは、俺を騙したんだ……」という思いが湧いてくる。

でも、それでも、

どこかでまだ、

「また会えるかもしれない」という淡い期待が、消えない。


一方、四街道の実家では、優子は穏やかな日々を送っていた。

あれ以来、佐藤先輩からの連絡もない。

警察寮の住所に誰も来なかったらしい。

フェイクは完璧に効いた。

優子は窓辺に立ち、

高速道路の高架を眺めながら思う。

(もう、終わったんだよね……)

夜の空に、星がちらほら見える。

実家の静けさが、優子の心を優しく包む。


ゆうきはさいたまの部屋で、

チャットサイトの画面を閉じられずにいる。

二人の日常は、

再び、完全に別々の軌道を走り始めたように見える。

でも、

ゆうきの心に残る小さな火種が、

いつかまた、燃え上がる日が来るのか。

今は、まだ、誰も知らない。

2ヶ月目の夜は、静かに更けていく。

優子は実家の布団で穏やかに眠り、

ゆうきはスマホの画面を、

もう一度、開いてしまう。



半年が過ぎた。

四街道の実家での生活は、すっかり優子の「当たり前」になっていた。

朝は母親と一緒に朝食を食べ、電車で1時間ちょっとかけて都内の大学へ。

講義が終われば、友達と軽くカフェに寄ったり、テニスの練習をしたりして、夕方には実家に戻る。

オンライン講義の日も増えたけど、通学自体が日常のルーチン。

あの頃の恐怖――「ちいちゃん」の影、ゆうきの執着、郵便受けの茶封筒――は、もうほとんど思い出さなくなっていた。

佐藤先輩とたまにLINEで近況報告する程度。

「元気?」と聞かれれば、「うん、全然平気!」と笑って返す。

ストーカーのことは、優子の中で完全に過去のものになっていた。

ある土曜日の午後。

優子は実家で少し暇を持て余していた。

「ちょっと買い物行ってくるね」

そう言って玄関を出ようとしたら、母親が「あ、お父さんが車使ってるわよ」

仕方なく、スニーカーを履いて近所のスーパーへ向かうことにした。

久々にこの辺を歩くのもいいな……。

子供の頃から何度も通った道。

田んぼの脇を抜け、畑の緑が広がる住宅街。

風が少し冷たくて、秋の匂いがする。

優子はイヤホンを外して、ただ歩く音と自分の足音だけを聞きながら、のんびり進んだ。

ふと、前を歩く女性が目に入った。

30代くらい。

髪は肩くらいまでで、少し長め。

スマホを片手に持ち、画面を凝視しながら歩いている。

一人でブツブツと小声で話している。

友達とビデオ通話でもしているのかな?

「……防災マ〇コです……」

優子は一瞬、耳を疑った。

(え? 今、何て……?)

女性はスマホに向かって、恥も外聞もなく笑いながら続けている。

声は小さくて、はっきりとは聞こえないけど、

「防災マ〇コです」みたいな言葉が、確かに混じっていた気がした。

優子は思わず苦笑いした。

(ネットスラング? それとも友達とふざけてるだけ?

なんか、変な言葉だな……)

気にしないようにして、女性を自然に追い抜いた。

横顔をチラッと見る。

人中の長い30代の女性。

化粧も薄めで、表情は柔らかく、ただ楽しそうに通話しているだけ。

人中が長めの地元の人だろう。

この辺に住んでる誰かが、友達とくだらない話で盛り上がってるだけ。

優子は肩をすくめて、先を急いだ。

スーパーに着いて、カゴに野菜と牛乳を入れながら、

ふとさっきのことを思い出す。

(防災マ〇コ……って、何だろ。

ネットで検索しようかと思ったけど、

「いや、絶対変な検索履歴になるからやめとこ……」

優子はレジで会計を済ませ、袋を提げて帰路についた。

道中、さっきの女性はもういなかった。

ただの通りすがりの人。

地元の風景に溶け込んだ、なんでもない一瞬。

家に着いて、母親に「ただいまー」と声をかけながら、

優子は思う。

(こういう、くだらない日常が一番幸せだな)

ゆうきの影は、もう本当にどこにもない。

岡山のフェイクも、効いたまま。

佐藤先輩の協力も、完璧だった。

優子はキッチンで野菜を洗いながら、

小さく鼻歌を歌った。

外では、高速道路の音が遠くで響いている。



ゆうきはさいたまの部屋で、ベッドに寝転がったままスマホをいじっていた。

残業明けで疲れていたけど、頭の中はまだ「ちいちゃん」の残像がちらついて、眠れそうになかった。

気晴らしに動画投稿サイトを開き、適当にショート動画を流す。

おすすめが次々と流れてくる中、突然、妙な動画が止まった。

画面に映ったのは、30代くらいの女性。

人中が長めで、髪は肩くらいまで伸ばしたストレート。

スマホを自撮りしながら、道を歩いている。

声が大きめで、はっきり聞こえる。

「はーい、みんな元気ー? 今日は四街道の防災マ〇コ散歩ですよぉ〜!

下ネタを連発しながら、笑い声を上げている。

タイトルには「まこまんまん 四街道防災マ〇コ散歩part3」とある。

チャンネル登録者数はそこそこいて、コメント欄も賑わっている。

「まこまんまん」……どうやらこの人の配信ハンドルネームらしい。

見た目は全くタイプじゃなかった。

下品だし、声が耳に残るタイプ。

ゆうきはため息をついて、スクロールしようと指を動かした。

その瞬間――

動画の後ろから、別の女性が追い抜いていく。

一瞬だけ、横顔がフレームに収まる。

ゆうきの手が止まった。

……え?

画面を一時停止。

指で拡大する。

画質は荒いが、間違いない。

髪の長さ、歩き方、肩のライン。

そして、何より――目元。

マスクもウィッグもない、素の顔。

でも、あの柔らかい二重の目。

少し垂れ気味の目尻。

長いまつ毛の影。

「ちいちゃん……」

声に出して呟いた瞬間、ゆうきはベッドから跳ね起きた。

動画を巻き戻して、何度も再生する。

追い抜く女性は、ちいちゃんだ。

間違いない。

ゆうきはスマホを握りしめ、チャンネルページを開く。

「まこまんまん」のプロフィール。

動画のタイトル「四街道散歩」


四街道に、実家がある。

半年の空白が、一瞬で埋まった。

ゆうきは震える指で、動画をダウンロードした。

スクショを連打。

優子の横顔を、拡大して保存。

「ちいちゃんはここにいる」

心臓が早鐘のように鳴る。

未練が、執着が、一気に燃え上がる。

岡山じゃない・・・

四街道だ!

ゆうきは立ち上がり、パソコンを開く。

電車で千葉方面のルートを調べ始める。

四街道駅周辺の地図。

高速道路の高架が見える道。

あの「まこまんまん」の動画を参考に、優子の歩くルートを逆算。

「もうすぐだよ……

本当に、もうすぐ」

ゆうきは鏡の前に立ち、自分の顔を見る。

半年ぶりに、笑みが浮かんだ。


彼女は知らない。

あのおばさんが、

ゆうきに、

手がかりを与えてしまったことを。

四街道の夕暮れは、静かに訪れていた。

高速道路のライトが、優子の部屋の窓を照らす。

ゆうきは、電車の時刻表を睨みながら、

小さく呟いた。

「待っててね、ちいちゃん。

今度こそ、会いに行くから」



ゆうきは、総武本線の四街道駅に降り立った。

午後3時過ぎ。

ホームは意外と空いていて、土曜日の昼下がりらしいのんびりした空気が流れている。

改札を出ると、すぐに駅前のロータリーが広がり、バス停やタクシー乗り場が並ぶ。

遠くに高速道路の高架が見えて、動画で見た風景とぴたりと重なる。

「ここか……」

ゆうきはマスクを深く引き上げ、キャップを目深にかぶり直した。

眼鏡のフレームを指で押し上げながら、周囲をゆっくり見回す。

駅前はコンビニと小さな商店街。

動画の「まこまんまん」が歩いていた道は、きっとこの先の住宅街へ続くはずだ。

スマホを取り出し、地図アプリを開く。

「まこまんまん」の最新動画の位置情報を参考に、ピンを打った場所へ向かう。

徒歩で15分ほど。

畑の脇道、高速道路の下をくぐる道、緑の多い住宅街。

歩きながら、ゆうきは胸の鼓動を抑えきれなかった。

半年ぶりのこの感覚。

期待と緊張が混ざって、喉が乾く。

道は次第に細くなり、田んぼと一軒家の並ぶ静かな住宅街になる。

風が吹いて、草の匂いがする。

動画で見た風景が、次々と現実になる。

「あの畑……

あの電柱……

間違いない」

ゆうきは足を止めて、動画を再生する。

画面の中の「まこまんまん」が歩く道を、今、自分が歩いている。

そして、あの瞬間――追い抜かれる女性の横顔。

ゆうきは深呼吸して、ゆっくり歩き続ける。

実家のある家は、まだ特定できていない。

でも、この辺りだ。

この道を歩いているはずだ。

優子は今、どこかでこの空気を吸っている。

ゆうきはコンビニの前に立ち、ペットボトルの水を買ってベンチに座る。

周囲を観察するふりをして、通り過ぎる人を一人一人チェックする。

大学生くらいの女の子、買い物袋を提げた主婦、犬を連れたおじさん……。

誰も、優子じゃない。

でも、ゆうきは焦らない。

ここにいる。

実家がある。

通学ルートもある。

毎日、少しずつ近づけばいい。

スマホの画面に映る「まこまんまん」のチャンネル。

ゆうきは小さく微笑んだ。

「ありがとう、まこまんまんさん」

夕陽が傾き始め、高速道路の高架がオレンジ色に染まる。

ゆうきは立ち上がり、駅とは反対方向へ歩き始めた。

今日は下見だ。

明日から、本格的に。

(ちいちゃん……

もう、すぐそこにいるよね)

ゆうきはキャップを直し、ゆっくりと住宅街の奥へ進む。



ゆうきは四街道駅から少し離れた、駅前のファミレスに腰を落ち着けた。

窓際の席を選び、コーヒーを一口飲んでからスマホを広げる。

画面には「まこまんまん」の動画を一時停止させたまま、優子が追い抜いていく瞬間を拡大している。

背景に映る畑の形、高速道路の高架の角度、電柱の位置、道の曲がり方――すべてをメモに書き写す。

「ここは……駅から南東方向、徒歩15分くらいの住宅街だな」

地図アプリにピンを刺す。

動画の投稿時刻は午後1時頃。

優子が買い物袋を提げて歩いていた様子から、

スーパーかコンビニからの帰り道。

四街道駅周辺のスーパーは限られている。

地図で検索すると、駅から南へ5分ほどのところに大きなスーパーがある。

動画の道はそのスーパーから実家へ向かうルートと完全に一致する。

「実家は、このルート上。

徒歩圏内……せいぜい20分以内だ」

ゆうきは小さく頷く。

西川千尋という名前は、もう完全に偽名だと確信していた。

岡山の住所も転居届も、すべて囮。

でも、凝り方が上手い。

「千尋」→「ちいちゃん」の響きに寄せているあたり、

適当に付けた偽名じゃなく、ちゃんと「ちい」のイメージを残そうとした痕跡がある。

それが、逆にゆうきを苛立たせ、そして興奮させた。

「賢い子だな……でも、それで俺を騙せたと思うなよ」

ゆうきは作戦をノートアプリに箇条書きでまとめる。

待ち伏せ候補リスト


スーパー前(最優先)

優子が買い物に行く頻度が高いはず。

土曜日の午後1〜3時頃が狙い目(動画投稿時刻から推測)。

駐車場ではなく、徒歩客が多い入り口付近のベンチで待機。

服装は毎回変える(今日は眼鏡+キャップ、明日はマスク+パーカー)。


高速道路高架下の道

動画で一番はっきり映った場所。

実家への最短ルート。

夕方5〜7時頃(帰宅時間帯)を狙う。

対向車線側から自然にすれ違うふりをして接近可能。


駅周辺のバス停・コンビニ

大学通学ルート。

平日の朝7〜9時、夕方5〜7時。

電車を降りた瞬間や、コンビニで飲み物を買うタイミングを狙う。

ただし人目が多いので、最初は遠目で確認だけ。


まこまんまんの散歩ルートを逆利用

まこまんまんが定期的に投稿する道をチェック。

彼女の動画がアップされるタイミングで、優子が映り込む確率が高い。

コメント欄で「この道、よく歩く子いるよね?」みたいな書き込みを入れて、地元民の反応を探る(匿名アカで)。



ゆうきはリストを眺めながら、ゆっくり息を吐く。

焦らない。

半年待てたんだ。

あと少しでいい。

「まずはスーパー前からだな。

明日の日曜、午後2時頃に……」

コーヒーを飲み干し、ゆうきは席を立つ。

外はもう夕暮れ。

四街道の空は、ゆっくりと暗くなっていく。

ゆうきは駅とは反対方向へ歩き始める。

実家のあるはずの住宅街へ。

ゆうきはキャップを直し、

小さく呟いた。

「明日から、ちゃんと会いに行くよ。

ちいちゃん」

四街道の夜が、静かに訪れていた。

高速道路の高架の下で、

ゆうきの足音だけが、ゆっくりと響く。


優子は大学へは、ほとんど親に駅まで車で送ってもらっている。

父親が休みの日は、母親が「一緒に買い物ついでに」と言いながら送ってくれる。

帰りも、夕方の電車で四街道駅に着くと、誰かが迎えに来てくれることが増えた。

買い物は、両親がまとめて週に1〜2回済ませるようになった。

あの日のスーパーへの徒歩は、結果的に「最後の散歩」になってしまった。

家の周りを歩くこと自体が、ほとんどなかった。

近所の散歩も、犬の散歩をする父親がやっている。

それが、功を奏した。


ゆうきは四街道に何度も足を運んだ。

スーパー前のベンチで、午後2時から4時まで座り続ける。

高速道路高架下の道を、夕方5時から7時まで往復する。

駅前のバス停やコンビニを、朝の通学時間帯に張り込む。

スーパーの入り口で、買い物袋を提げた女の子たちを何人も見かけた。

高架下の道で、夕陽に照らされた後ろ姿を何度も追いかけた。

でも、どれも違う。

目元が似ていない。

歩き方が違う。

声が聞こえない。

ゆうきは次第に苛立ちを募らせた。


スーパー:確認回数15回 → 該当なし

高架下道:夕方張り込み12回 → 該当なし

駅周辺:朝夕各10回 → 該当なし

動画チェック:最新20本 → 優子なし


「どうして……

実家にいるはずなのに」

ゆうきは四街道のベンチに座り、スマホの画面を睨む。

キャップを深くかぶり直し、ため息をつく。

心の奥で、諦めの色が少しずつ濃くなっていく。

でも、まだ完全に消えない。

あの目元が、頭から離れない。

ゆうきは立ち上がり、駅に向かって歩き始めた。

今日は、もう帰る。

明日も来るか、来ないか――それは、まだ決められない。


一方、実家では優子がリビングでテレビを見ていた。

母親が「今日はお父さんが迎えに行ってくれるって」と言って、優子は小さく頷く。

「ありがとう……」

外の道を歩くことは、もうほとんどない。

それが、優子の平穏を守っていた。

ゆうきは電車に揺られながら、四街道の街並みを窓から見つめる。

高速道路の高架が遠ざかっていく。

「まだ、諦めない……」

四街道の夜は、穏やかに訪れる。



ゆうきはさいたまの部屋で、スマホを握りしめながら「まこまんまん」のライブ配信を再生した。

全くタイプじゃない。

知性の欠片もないトークも、声も、顔も――すべてが肌に合わない。

でも、優子の手がかりを少しでも得るために、フォローして通知をオンにしていた。

今日の配信は、キッチンとベッドが映るだけの普通のマンションの部屋から。

まこまんまんはカメラに向かって、いつものように笑いながら話す。

ゆうきは画面を睨む。

四街道は一時的な帰省だったのか。


まこまんまん自身は埼玉在住。

もう、この女から新しい情報は得られない。

苛立ちが募る。

ゆうきはコメント欄に指を走らせる。

匿名アカから、アンチコメを一つ。

「下ネタばっかでつまんねーよ。配信止めてくれ」

送信。

すぐにまこまんまんが反応して、「アンチさん、ありがとう〜! でもマ〇コは止まらないわよ♡」と笑う。

ゆうきはため息をついて、フォローを外した。

これで、もう見ない。

スマホをテーブルに置き、ゆうきは椅子に深く座り直した。

天井を見つめながら、頭を整理する。

半年以上の追跡。

岡山のフェイク、四街道の特定、まこまんまんの動画。

でも、まだ優子に会えていない。

実家は徒歩圏内だとわかったのに、彼女の姿はどこにもない。

歩いて買い物に行かない?

親の車で送迎されてる?

「次……どうする」


四街道駅から大学へ向かう電車内で、似た顔を探しつつ

実家エリアの深掘り

四街道の住宅街を細かく分区(動画の道を中心に、半径1km以内)。

週末だけじゃなく、平日有給を使って四街道滞在を増やす(ホテルを千葉駅近くに固定)

もし見つけたら、すぐに接近せず、まずはルートを把握。

最終手段:ピンポイントで実家を特定したら、匿名の手紙を投函(「ちいちゃん、元気?」みたいな)。


ゆうきはリストを眺め、胸が熱くなるのを感じた。

諦めかけたけど、まだ終わらない。

優子はここにいる。

四街道に。

俺の執念は、まだ負けない。

ゆうきはスマホを閉じ、ベッドに横になる。

明日はまた、四街道へ。

外のさいたまの夜は静かだ。

ゆうきの心だけが、激しく波打っていた。


一方、四街道の実家では、優子が夕食の後片付けを手伝っていた。

母親が「明日の大学、送ってく?」と聞く。

優子は笑って「うん、お願い」。

彼女は知らない。

ゆうきの作戦が、

また一歩、深みを増したことを。



優子の大学生活は、四街道の実家に戻ってから、大きく変わっていた。

朝はいつも父親か母親のどちらかが車で四街道駅まで送ってくれる。

あの頃の恐怖が、遠い記憶のように感じる瞬間だった。

大学に着くと、キャンパスはいつも通り賑やかだ。

テニスサークルの友達とは、練習の合間にカフェで雑談。

「最近、優子全然帰りが遅くなくなったね。実家暮らしって楽?」と聞かれると、

「うん、親が送ってくれるから楽チンだよ〜」と笑って返す。

本当の理由――外を歩くのが怖いから、というのは、誰にも言わない。

講義はオンラインと対面を半々。

オンラインの日は実家の自室でパソコンに向かい、

対面の日は電車で帰宅しても、駅で迎えが来てくれる。

サークルの練習は週2回。

テニスコートで汗を流す時間が、一番の息抜きだった。

ラケットを振るたび、

「これでいいんだ」

という安心感が、少しずつ体に染み込んでいく。

バイトは地元のコンビニに変えた。

シフトは週3日、夕方5時〜9時。

実家から自転車で10分。

夜道は暗いけど、母親が「迎えに行くよ」と言ってくれる日が多い。

レジ打ちをしながら、常連のおばちゃんたちと世間話をする。

「優子ちゃん、最近元気そうねえ」

そんな言葉が、優子をほっとさせる。

夜は実家のリビングで、家族とテレビを見る。

母親が作ったおかずを食べながら、

「今日の講義、面白かった?」と聞かれる。

優子は「うん、心理学の先生が変な実験の話してて笑った」と答え、

みんなでくすくす笑う。

ある日、テニスの練習後、友達が「優子、なんか最近大人しくなったよね。

彼氏できた?」とからかう。

優子は笑って首を振る。

「ううん。ただ、家族と一緒にいるのが好きなんだ」

それは、本当の気持ちだった。

四街道の実家から、

電車で1時間ちょっとの大学。

送迎と家族の温かさが、

優子を静かに守り続けていた。

ゆうきの影は、もうどこにもない。

優子は、そう信じていた。

キャンパスの桜が散り、

新緑が芽吹く頃。

優子の大学生活は、

ゆっくりと、確実に、

新しい季節を迎えようとしていた。



ゆうきは、さいたまのワンルームを引き払う決断を、意外とあっさり下した。

会社には「実家近くに引っ越すので、通勤は変わりません」とだけ伝えた。

実際、四街道から職場までは総武線で1時間弱。

通勤時間はほとんど変わらない。

家賃はさいたまより少し安く、築浅の1Kマンションをネットで見つけた。

駅から徒歩12分、高速道路の高架が見える静かな住宅街。

優子の実家推定エリアから、徒歩圏内。

契約書にサインした瞬間、ゆうきは小さく息を吐いた。

「これで、毎日一緒・・・」

チャットレディ時代、ゆうきは一度もカメラをオンにしなかった。

マイクだけ。

声は普通のトーンで、甘い言葉を囁くこともなく、ただ優しく聞く側に徹していた。

だから「ちいちゃん」――優子は、ゆうきの本名も顔も何も知らない。

一方、ゆうきは彼女の目元、声、歩き方、笑い方まで、すべて記憶に刻んでいる。

「有利すぎる……」

引っ越し当日、ゆうきは荷物をダンボールに詰め、業者に預け、さいたまから四街道へ電車で移動した。

新居の鍵を受け取り、部屋に入る。

狭いけど、清潔。

窓から高速道路の高架が見える。

優子の実家エリアと同じ景色だ。

ゆうきはカーテンを開け、遠くの街並みを眺めた。

夕陽が傾き、車のライトが流れ始める。

ここに住めば、


朝の通学時間帯に駅で待てる

夕方の帰宅ルートを毎日チェックできる

スーパー、コンビニ、バス停――すべてが日常の範囲内


偶然を装ってすれ違うだけでも、すぐに接触できる。

話しかけるタイミングは、コンビニで飲み物を買う瞬間、

駅のホームで電車を待つ瞬間、

高架下の道で買い物袋を提げて歩く瞬間。

「向こうは俺の顔を知らない。

俺だけが、彼女を認識できる」


ゆうきは部屋の電気を消し、窓辺に立った。

外はもう暗い。

高速道路のライトが、川のように流れていく。

優子は今頃、この街のどこかで夕食を食べている。

家族と笑いながら、テレビを見ているかもしれない。

「時間の問題だよ、ちいちゃん」

ゆうきは小さく微笑んだ。

四街道の新しい夜が、静かに始まった。

部屋の窓から、

優子の実家エリアの灯りが、ぼんやりと見える。

移住初日の夜。

ゆうきはベッドに横になり、

優子の横顔を思い浮かべながら、

ゆっくりと目を閉じた。

明日から、本当の追跡が始まる。

優子は知らない。

ゆうきが、

今、同じ街に住んでいることを。

同じ空気を吸い、同じ道を歩いていることを。



優子はコンビニのバイトを終え、店を出たところでため息をついた。

新しく買った自転車のライトが、点灯しない。

スイッチを何度も押しても、ピカッともしない。

「何で新品なのに……マジで最悪」

仕方なく自転車を店の駐輪場に置いて、徒歩で帰ることにした。

実家までは徒歩20分ほど。

夜の住宅街は静かで、街灯がまばらに道を照らすだけ。

イヤホンを耳に挿し、軽い音楽を流しながら歩き始めた。

住宅街の細い道を曲がったところで、

前方から一人の男が歩いてくる。

キャップを深くかぶり、マスクをしている。

眼鏡のフレームが街灯に反射して光る。

普通の帰宅途中の会社員、という雰囲気。

優子は特に気にせず、左側を空けてすれ違おうとした。

その瞬間――

男の足が、一瞬だけ止まった。

優子は反射的に視線を上げた。

男の目が、こちらをまっすぐ捉えている。

足の動きが不自然に乱れ、肩が微かに上がる。

優子は胸の奥で、何かがざわついた。

(……何?)

男はすぐに視線を逸らし、普通に歩き続ける。

優子もそのまま通り過ぎた。

でも、心臓の鼓動が速くなっている。

あの反応は、普通じゃない。

ただのすれ違いで、あんな風に固まる人なんていない。

優子は振り返らなかった。

でも、背中に視線を感じる。

いや、感じる気がするだけかもしれない。

でも、確信があった。

(あの人……知ってる?

いや、知らない。

でも、何か……)

優子の中では、完全に初対面。

神奈川で見たゆうきとは繋がらない。

それなのに、なぜか体が警戒している。

優子は足を速めた。

いつもの帰り道を、急に右に曲がる。

実家へ直行するルートを外し、近くの小さな公園へ向かう。

公園の入り口に着くと、女子トイレの明かりが点いている。

中に入り、個室のドアを閉めて鍵をかけた。

息を殺して、耳を澄ます。

外は静か。

足音は聞こえない。

でも、優子はスマホを握りしめ、母親にLINEを送った。

「今、バイト帰りだけど自転車ライト壊れて歩いてる。

ちょっと寄り道してるから、遅くなるかも」

返事はすぐに来た。

「わかった。気をつけてね。暗い道は危ないから、明るいところ通って」

優子は個室の壁に背中を預け、深呼吸した。

(ただの気のせい……だよね?

でも、あの反応……)

トイレの蛍光灯が、チカチカと点滅する。

優子はもう少し時間を置いてから、外に出ることにした。

公園の外灯が明るい道を選んで、遠回りして実家へ帰ろう。

外へ出ると、公園のベンチに誰もいない。

道を歩く人の影もない。

優子はスマホのライトを点け、急ぎ足で歩き始めた。

あの男は、もうどこにもいなかった。

でも、優子の胸のざわつきは、

消えなかった。


一方、ゆうきは住宅街の角を曲がったところで、立ち止まっていた。

心臓が、まだ激しく鳴っている。

「ちいちゃん……

本当に、ちいちゃんだった」

マスクの下で、唇が震える。

眼鏡の奥で、目が潤んでいる。

半年以上待った。

移住までした。

そして、今日、初めて、

本当に会えた。

ゆうきは深呼吸して、ゆっくりと歩き出す。

追わない。

まだ、追わない。

ルートはわかった。

実家はこの方向だ。

「次は……もっと自然に」

ゆうきはキャップを直し、

夜の四街道の道を、

静かに進んだ。

優子は実家の玄関で、

「ただいま」と声をかけながら、

背後の闇を一度だけ振り返った。

誰もいない。

でも、

今夜の違和感は、

優子の心に、

小さな棘を残した。



優子は実家の自室で、ベッドに座ったままスマホを握りしめていた。

公園の女子トイレで息を潜めてから30分以上経っていた。

外の足音は聞こえなかったけど、胸のざわつきが収まらない。

あの男の反応――一瞬の硬直、視線が刺さるような感覚――が、頭の中で繰り返される。

(ただの偶然……だよね?

でも、あんな反応する人、普通いないよ……)

深呼吸を何度も繰り返して、ようやく指が動いた。

連絡先から「佐藤先輩」をタップ。

呼び出し音が数回鳴ったあと、落ち着いた声が聞こえた。

「もしもし、優子? どうしたの、こんな時間に」

優子は声を低く抑えて、ゆっくり話した。

「先輩……ごめん、急に。

今日、バイト帰りに自転車のライトが壊れて歩いて帰ってて……

途中で、男の人とすれ違ったんだけど……なんか、変だったの」

佐藤の声が、少し緊張した。

「変って、どう変?

話しかけられた? 追いかけられた?」

「ううん、追いかけられてはいない。

ただ、すれ違った瞬間に、男の人が一瞬止まって……

私を見て、びっくりしたみたいな顔したの。

足が止まって、肩が上がって……

なんか、知ってる人みたいな反応で。

でも、私には全く見覚えがない人。

マスクしててキャップかぶってて、眼鏡かけてて……」

佐藤は少し間を置いて、静かに言った。

「ふうん……。

優子が感じた違和感は、無視しない方がいいよ。

あの頃のストーカー、諦めてない可能性もある。

でも、すれ違っただけじゃ証拠にならないし、

警察に言うにも『気のせい』って言われちゃうかも。

今は実家にいるんだよね? 親御さんに迎えに来てもらった?」

「うん、今は家に帰ってきてる。

でも、なんか怖くて……

先輩、岡山の住所の件、まだ誰も来てないよね?」

「うん、全然。

警察寮だから、外部の人間が入ってくるのは難しいし、

誰かが訪ねてきた記録もないよ。

あのフェイクは効いてるはず。

でも、もし本当に執着してるやつなら、

特定した方法は分からないけど、四街道の方を探してる可能性もある。

優子、最近外を歩くの控えてる?」

「うん、ほとんど歩いてない。

親が送ってくれるし、買い物も親が行くし……

今日みたいに歩いたの、久しぶりだった。

だから、もしあの人だったら……偶然すれ違っただけかも」

佐藤は優しく、でもきっぱりと言った。

「偶然かもしれないけど、念のため気をつけて。

これから数日は、絶対に一人で夜道歩かないで。

自転車も、ライト直すまで置いといて。

何かあったら、すぐに私に連絡して。」

「うん……ありがとう、先輩。

本当に、ごめんね、こんな時間に」

「いいよ、いつでも連絡して。

優子が無事なら、それでいいから」

電話を切ったあと、優子はスマホを胸に押し当てた。

部屋の電気を消して、窓のカーテンを少しだけ開ける。

高速道路の高架のライトが、遠くで流れている。

外は静かで、誰もいない。

でも、あの男の反応が、

頭から離れない。

(もし、あの人だったら……

なんで今頃?

優子は布団に潜り込み、目を閉じた。

でも、眠りは浅かった。


一方、ゆうきは新居の部屋に戻り、

玄関のドアを閉めた瞬間、壁に背中を預けて息を吐いた。

「ちいちゃん……

本当に、ちいちゃんだった」

マスクを外し、眼鏡を拭きながら、

鏡に映る自分の顔を見る。

半年以上経って、少し痩せた。

髪も伸ばして、眼鏡のフレームを変えた。

彼女は気づかなかったはずだ。

でも、俺は一瞬でわかった。

あの目元、あの歩き方。

ゆうきはベッドに座り、今日のメモを更新した。


接触成功(すれ違いのみ)

反応:優子、警戒した様子(ルート変更?)

次回:距離を詰めすぎない。自然な会話へ移行

服装変更:明日からサングラス+違う帽子


ゆうきは小さく笑った。

有利なのは、まだ変わらない。

彼女は俺を知らない。

俺だけが、彼女を認識できる。

四街道の夜は、静かに更けていく。

ゆうきは窓辺に立ち、

高速道路のライトを見つめながら、

静かに息を潜めていた。



ゆうきは四街道の新居に落ち着いてから、数日で次の手を打った。

通販サイトのギグワーク――配送のスポットバイト。

アプリで登録し、すぐに承認された。

空いた時間に自分のペースで働ける。

特に週末の土曜か日曜にシフトを入れると、周辺エリアの配達案件が来る。

四街道を含む近隣の住宅街を担当すれば、

1日で80〜120個くらいの荷物を車で回れる。

報酬はそこそこだが、それより重要なのは、

「住所と名前が書かれた荷物ラベルを間近で見られる」ことだった。

優子がいつ卒業するかして引っ越すかわからない

せめて実家の住所と本名だけは特定しておきたい

ゆうきは中古の軽自動車を購入し、

土曜日の朝から本格的にスタートした。

アプリが割り当てるルートはランダムだが、

四街道の住宅街を指定して申請を繰り返せば、

高確率で推定実家エリアに振り分けられる。

最初の週末、ゆうきは荷物を積み込みながら、

心の中で繰り返した。

「西川千尋……おそらく苗字も名前も偽名だ、

だが本人が出れば」

しかし配送は基本置き配指定が多い。

インターホンを鳴らさず、玄関前に置いて写真を撮って完了。

対面で受け取る家は少ない。


1日目。

ゆうきは高架下の道沿いの家々を回る。

荷物ラベルに「西川千尋」の名前は出ない。

代わりに、普通の家族の名前ばかり。

山田、鈴木、佐藤……

でも、ゆうきは諦めない。

置き配の写真を撮りながら、

家の表札、郵便受けの名前、

玄関のドアに貼られたステッカーを、

すべて記憶に焼き付ける。

2日目。

日曜の午後。

アプリがまた四街道の南東エリアを割り当てた。

ゆうきはゆっくり車を走らせ、

一つ一つの家をチェック。

優子の歩き方、目元を思い浮かべ、

「ここにいるはずだ」と自分に言い聞かせる。

置き配だから、優子が顔を出さないのは当然。

でも、毎日回っていれば、

いつか本当の名前が出てくる。

いつか、対面の家で、

優子がドアを開ける瞬間が来る。

ゆうきは車に戻り、次の住所へ向かう。

ハンドルを握る手が、少し震えていた。

「時間の問題だ。

毎日、この街を回れば……

本名も、実家の正確な住所も、

全部わかる」

夕陽が高速道路の高架を赤く染める頃、

ゆうきは配達を終えて新居に戻った。

アプリの報酬を確認しながら、

今日のメモを更新する。


配達件数:102件

該当家なし

表札確認:西川姓なし(類似姓2件)

次回:日曜も同じエリア申請

目標:1ヶ月以内に実家特定


ゆうきは窓から外を見た。

四街道の夜景が広がっている。

優子の実家は、この街のどこか。

毎日、ゆうきは彼女の家の前を通っている。

彼女は知らない。

配送員の軽自動車が、

自分の家の前に停まっていることを。

優子は今頃、夕食のテーブルで家族と笑っているだろう。

置き配の荷物が玄関前に置かれ、

母親が「来たわね」と言いながら中に入れる。

優子は知らない。

その荷物を運んだ男が、

ゆうきだということを。

ゆうきはスマホを閉じ、

小さく呟いた。

「もう少しだよ、ちいちゃん。

今度は、絶対に逃がさない」

四街道の夜は、

ゆうきの執念と、

優子の平穏が、

同じ空気の中で交錯していた。

配達の軽自動車が、

静かに、次の週末を待つ。



配達を始めてから、すでに1ヶ月が過ぎていた。

ゆうきは毎週末、軽自動車に荷物を満載して四街道の住宅街を回る。

アプリが割り当てるルートはランダムだが、

四街道南東エリアを指定して申請を繰り返せば、

8割以上の確率で推定実家圏内に入る。

でも、成果はゼロだった。

荷物ラベルに「西川」の文字は一度も出ない。

表札、郵便受け、玄関のドアプレート――

毎日チェックするが、似た響きの名前すらほとんどない。

対面受け取りの家は少なく、

出てくるのは母親世代のおばさんか、

父親世代のおじさんばかり。

優子がドアを開ける瞬間は、一度もなかった。

置き配指定の家が大半を占める。

玄関前に段ボールを置いて写真を撮り、

「完了」のボタンを押すだけ。

中から声が聞こえることもない。

家族が出ることもない。

ただの静かなドアと、

「置き配ありがとうございます」のステッカーが貼られた玄関だけ。

ゆうきは車内でハンドルを握ったまま、

ため息を漏らす。

「甘かったか……」

そもそも、優子が通販で荷物を注文しなければ意味がない。

実家暮らしで親がまとめ買いをするなら、

優子名義の荷物なんてほとんど来ないかもしれない。

仮に注文したとしても、

配送業者がランダムに割り振られる。

ゆうきのシフトと重なるとは限らない。

重なったとしても、置き配なら顔も見えない。

対面でも、実家なら家族が出る可能性が高い。

苛立ちが募る。

毎週末、汗だくで荷物を運び、

何十軒も回って、

何も得られない。

報酬は入るが、それより心の消耗が激しい。

ゆうきはスマホのメモを開き、

今日の記録を追加する。


配達件数:98件

該当家なし

対面受け取り:37件(すべて家族)

表札確認:西川姓ゼロ

考察:優子名義の荷物が来ていない可能性大。親がまとめ買い?

次回:エリアを少し広げて申請。もしくは別の方法を考える


ゆうきは軽自動車のエンジンをかけ、

次の配達先へ向かう。

道中、高速道路の高架が見える。

あのすれ違いの日から、

優子の姿は一度も見ていない。

歩く姿も、車で送られる姿も。

「このままじゃ……

いつまで経っても会えない」

苛立ちが、静かな怒りに変わる。

配達という方法は、

名案だと思ったのに、

今はただの空振りループにしか見えない。

ゆうきは車を停め、

ハンドルに額を押し当てた。

「どうすれば……

確実に、彼女に近づける?」

考えがぐるぐる回る。

配送を続けるか、

別のバイトを探すか。

もしくは、もっと大胆な手段に切り替えるか。

ゆうきの車は、

優子の実家の近くの道を、

今日もゆっくり通り過ぎていく。



ゆうきは軽自動車をコンビニの駐車場に滑り込ませ、エンジンを切った。

土曜日の午後3時過ぎ、配達のピークを抜けたところで、休憩する

車の中で缶コーヒーを飲みながら外を眺めていたら

店の中から、女性スタッフが出てきた。

エプロンをかけ、ゴミ袋を両手に提げている。

髪は後ろで一つに束ねていて、毛先が首のあたりで揺れている。

マスクをしっかり着け、メガネをかけている。

マスクのせいか、レンズが白く曇っていた。

彼女はゴミ捨て場へ向かい、袋を放り込む。

その動作の最中、メガネがずれて、レンズが曇ったまま視界を遮る。

女性は――

一瞬だけ、メガネを外した。

ゆうきの手が止まった。

コーヒーの缶が指先で軽く鳴った。

その目は、間違いなく「ちいちゃん」だった。

柔らかい二重のライン、少し垂れ気味の目尻、長いまつ毛の影。

マスクで隠れた下半分は見えないが、上半分の印象だけで十分だった。

半年以上追い続けた、あの「ちいちゃん」の目元。

彼女はすぐにメガネをかけ直し、曇りを袖で拭いて店内に戻っていった。

ゆうきは息を詰めて、その後ろ姿を追う。

エプロンの胸元、名札が揺れている。

「富田」

名札には、そう書かれていた。

ゆうきはゆっくり息を吐き、コーヒーを一口飲んだ。

熱さが喉を通るのも感じない。

胸の奥が、熱く疼く。

「富田……か」

西川千尋は完全に偽名だった。

岡山の住所もフェイク。

でも、ここにいる。

四街道のこのコンビニで、バイトをしている。

実家暮らしの大学生が、近所のコンビニで働いている。

それが、すべてを繋げた。

ゆうきはスマホを取り出し、メモに追加した。


バイト先:このコンビニ(四街道駅から徒歩圏内、実家推定エリア内)

名札:富田

特徴:髪を後ろで束ね、毛先首元くらい。マスク常時着用、メガネ

シフト:土曜午後確認(おそらく夕方まで?)

次回:配達シフトをこのコンビニ周辺に固定申請。

もしくは、客として頻繁に来店(自然に顔を合わせる)


配達の仕事は続ける。

いや、続けるしかない。

バイト先がわかった今、帰りを尾行し家を突き止めることができる

荷物の届け先に「富田」があれば、より安全に住所を特定することができる

毎日このコンビニに来ればいい。

客としてコーヒーを買い、

レジで顔を合わせ、

少しずつ会話を増やせばいい。

ゆうきはコーヒーを飲み干し、エンジンをかける

「富田さん……

ちいちゃん」

唇が、ゆっくりと笑みの形になる。

車を発進させ、次の配達先へ向かう。

バックミラーに映るコンビニの看板が、遠ざかっていく。

優子は店内に戻り、レジに戻った。

マスクの下で小さく息を吐く。

今日のシフトはあと2時間。

彼女は知らない。

駐車場に停まっていた軽自動車の運転席で、

自分の目元を、

誰かが、

はっきりと認識したことを。

ゆうきはアクセルを踏みながら、

小さく呟いた。

「これで、ようやく……

本当のスタートだ」

四街道の午後の陽射しが、

軽自動車のボンネットを照らす。

配達の仕事は、まだ続く。

今度は、空振りじゃない。

優子の日常に、

ゆうきの影が、

静かに、確実に、

入り込み始めていた。



ゆうきは、四街道のそのコンビニに通うようになった。


最初は週に2回、配達の休憩がてら。

次第に毎日、夕方5時〜7時頃のシフト時間に合わせて訪れるようになった。

軽自動車を駐車場に停め、キャップを外し、マスクも外し、眼鏡だけをかけた素の顔で店内に入る。

商品はいつも同じ。

ホットコーヒー、または抹茶ラテの缶。

レジは、優子の担当を狙う。

他のレジが空いていても、わざと列に並び直す。


優子はマスクを着け、メガネをかけていることが多い。

髪を後ろで束ね、名札に「富田」と書かれたエプロン姿。

客の顔をいちいち覚えている余裕はない。

大勢の常連や通りすがりの人の中から、

「この人、前に夜道で見た人かも」

と気づくのは難しい。

まして、夜道ですれ違った時は暗くて顔がはっきり見えなかった。

今、目の前にいる男は、

完全にマスクもメガネも外した、普通の30代半ばの会社員。

髪は少し伸びて、印象が変わっている。

優子の中では、完全に初対面の客の一人だ。


ゆうきはレジに商品を置き、穏やかな声で話しかける。


「いつもありがとうございます。

今日も抹茶ラテ、ありますか?」


優子は機械的にバーコードを読み取りながら、

笑顔で返す。


「はい、在庫ありますよ〜。

袋にお入れしますか?」


「いえ、すぐ飲むので大丈夫です。

……この辺、静かでいいところですね。

最近引っ越してきたんですけど」


優子は少しだけ顔を上げ、

「そうなんですか。

四街道、意外と住みやすいですよ。

通勤は大変ですか?」


「いや、都内まで1時間くらいで、ちょうどいいですよ。

……バイト、お疲れ様です」


「ありがとうございます〜。

お会計、380円になります」


ゆうきは小銭を出しながら、

優子の目元を、じっと見つめる。

マスクで隠れた下半分は見えないが、

目尻の柔らかい曲線、長いまつ毛の影。

間違いない。

ちいちゃん。


優子は気づかない。

この客が、毎日来るようになったことすら、

まだ「常連さん」の一人として認識していない。

違和感も感じない。

大勢の客の中の一人。

ただの、丁寧な会社員。


ゆうきはレシートを受け取り、

小さく頭を下げて店を出る。

駐車場に戻り、車内でコーヒーを開ける。

熱い液体を一口飲んで、

ゆっくり息を吐いた。


「毎日、少しずつ……

顔を覚えてもらえばいい。

名前を聞くタイミングを待てばいい」


メモに今日の記録を追加する。


- 接触回数:今日で5回目

- 会話内容:引っ越し話、バイトお疲れ様

- 反応:優子、普通の客として対応。違和感なし

- 次回:もう少し個人的な話題を振る(「抹茶好きなんですか?」など)


ゆうきは車を発進させ、

コンビニの看板をバックミラーで確認しながら、

小さく微笑んだ。


有利なのは、まだ変わらない。

彼女は俺を知らない。

俺だけが、彼女を認識できる。


優子はレジに戻り、

次の客の商品をスキャンする。

今日も普通のシフト。

あの夜道の男のことは、

もうぼんやりとした記憶の端っこに追いやられている。


ゆうきは毎日、このコンビニに来る。

コーヒーを買い、

軽い会話を重ね、

少しずつ、

優子の日常に溶け込んでいく。


優子は知らない。

レジの向こうにいる客が、

「ゆうきさん」だということを。

毎日、彼女の笑顔を買っている男が、

あの頃の「常連」だということを。



優子はレジの後ろで、商品の補充をしながら、ふと視線を上げた。

また、あの男がいる。

今日も、夕方6時頃。

ホットコーヒーと抹茶ラテの缶を手に、店内をゆっくり歩いている。

他のレジが空いているのに、わざわざ自分のレジの方へ近づいてくる。

いや、近づいてくるというか……

空くのを待っている。

(また……?)

優子はマスクの下で小さく息を吐いた。

この1週間で、5回目か6回目になる。

最初はただの常連さんだと思っていた。

引っ越ししてきたばかりで、このコンビニを気に入ってるんだろう、と。

でも、だんだん違和感が積み重なってきた。

いつも買うものが決まっている。

コーヒーか抹茶ラテのどちらか。

なのに、レジが空くのを待つように店内をウロウロする。

雑誌コーナーで立ち読みしたり、

ドリンクコーナーで同じ棚を何度も見返したり。

他の客が自分のレジに来て会計を済ませても、

男は動かない。

自分のレジが空いた瞬間、

まるでタイミングを計っていたように、

自然に列に並ぶ。

(狙ってる……?

私のレジを)

優子は商品をスキャンしながら、

視線を男の顔にチラッと向ける。

眼鏡の奥の目が、柔らかく笑っている。

「お待たせしました〜。

お会計、380円になります」

「ありがとう」

男の声は穏やかだ。

優子は機械的に返事をする。

「袋にお入れしますか?」

「いえ、大丈夫です。

……バイト、忙しそうですね。

いつも丁寧で助かります」

「ありがとうございます」

会話はいつもこれくらい。

でも、今日は少し違う。

男がレシートを受け取る手が、

一瞬、優子の指先に触れそうになった。

偶然か、意図的か。

優子は反射的に手を引いた。

男は軽く頭を下げて店を出る。

優子はレジのカウンターに両手をつき、

小さく息を吐いた。

(……なんか、嫌な感じ)

胸の奥で、何かがざわつく。

チャット時代の記憶が、ゆっくりと蘇ってくる。

「ゆうきさん」

優しい声で、毎日来てくれた常連。

でも、あの80通のメッセージ。

ログインした瞬間の入室。

「ずっとリロードしてたよ」

そして、夜道ですれ違ったあの男。

一瞬止まった足。

肩が上がった反応。

顔は暗くてはっきり見えなかったけど……

今、レジの向こうで見た顔と、

どこか重なる。

(まさか……?

いや、違う。

違うと思い込もうとして

でも、声のトーンが……)

優子はマスクの下で唇を噛んだ。

頭がぐるぐる回る。

チャット時代の「ゆうきさん」の声。

穏やかで、優しくて、

でも、どこか執着を感じさせた声。

今の男の声と、似ている。

(狙ってる。

絶対に、私のレジを狙ってる)

シフトが終わり、優子はバックヤードでスマホを握りしめた。

佐藤先輩に連絡しようか迷う。

でも、証拠は何もない。

ただの常連客。

レジを待ってるだけ。

違和感は、優子だけが感じていること。

心の中で呟いた。

(……もし、あの人だったら。

どうしよう)


ゆうきは駐車場で車に乗り込み、

エンジンをかけた。

今日の会話が、頭の中でリプレイされる。

彼女は気づいていない。

まだ、完全に「ただの客」だと思っている。

でも、少しずつ、

顔を覚えてもらっている。

声に慣れてもらっている。

ゆうきはバックミラーでコンビニの看板を見る。


四街道の夜は、

優子の不安と、

ゆうきの静かな喜びが、

同じ空気の中で混ざり合っていた。

優子は家に着き、

部屋の電気を消して、

布団に潜り込んだ。

でも、眠りは浅かった。



優子はシフトの終わりに、バックヤードで店長と他のスタッフ2人を呼び止めた。

夕方の忙しさが一段落したタイミングで、誰もいない休憩スペースに集まる。

優子は深呼吸して、声を低く抑えながら切り出した。

「店長、他の皆さん……ちょっと大事な話があって。

最近、私のレジに必ず並んでくる男性客がいるんです。

30代半ばくらいで、いつもコーヒーか抹茶ラテを買う人。

最初はただの常連さんだと思ってたんですけど……

だんだん、明らかに私のレジを狙ってる感じがして」

店長(40代後半の女性)は眉を寄せて、すぐに頷いた。

「どんな感じで狙ってるの?

話しかけてくる?」

「話しかけてくるのは普通の会話くらいなんですけど……

他のレジが空いてても、わざと私のレジが空くのを待ってるみたいで。

店内をウロウロして時間を稼いでるんです。

それに、レシートを渡す時に、手を触れようとしてくることがあって……

一瞬だけ指先が触れそうになるんです。

偶然かもしれないけど、何回か続いてるから、気持ち悪くて」

他のスタッフの一人(20代前半の女性)は目を丸くした。

「え、それヤバくない?

私も今日、似た人見たかも。

抹茶ラテ買って、優子ちゃんのレジに並んでた人?

なんか、視線が長く感じた……」

店長は腕を組んで、すぐに決断した。

「わかった。情報共有ありがとう、優子ちゃん。

これからは、優子ちゃんのレジに並ぼうとしたら、

他のスタッフが自然に声をかけて、別のレジに誘導するようにする。

レシート渡す時は、カウンターの上に置いて、手を近づけないようにね。

もし、また触れようとしてきたら、すぐに私か他のスタッフに合図して。

店内の防犯カメラもあるから、後で確認もできるし」

もう一人のスタッフ(30代男性)は頷きながら言った。

「俺も、駐車場とか店の外で変な動きしてたら、声かけるよ。

優子ちゃん、一人で帰る時は絶対に迎えに来てもらってね。

夜道は危ないし」

優子は少し肩の力が抜けた。

「ありがとうございます……

本当に、変な感じで申し訳ないんですけど、

なんか怖くなってきて。

これまで、詳しいことは言えなかったんですけど……

昔、神奈川に住んでた時に似たようなことがあって、

それで実家に戻ってきたんです。

だから、ちょっと過敏になってるのかもしれないけど……」

店長は優子の肩を軽く叩いた。

「過敏なんかじゃないよ。

違和感を感じたら、それだけで十分。

私たちも守るから、一人で抱え込まないで。

何かあったら、すぐに言ってね。

シフトも調整できるし、店長として警察に相談する手もあるから」

優子は小さく頭を下げた。

「ありがとうございます……

本当に助かります」

バックヤードを出て、

優子はスマホを握りしめた。

胸のざわつきはまだ消えないけど、

少しだけ、心が軽くなった。

店長とスタッフに話したことで、

一人じゃないと思えた。

これで、あの男がまた来ても、

みんなが気づいてくれる。


店長とスタッフの目が、

彼女を守り始めていた。



ゆうきは四街道の新居から、軽自動車でコンビニへ向かった。

公共料金の支払い通知が届いていた。

引っ越し直後でバタバタしていたせいで、口座引き落としを設定するのを忘れていた。

「そろそろ引き落としにしないと面倒だな……」

と思いながら、コンビニ払いの用紙を持参して運転する。

夕方6時半頃。

いつも優子のシフト時間帯に重なる時間だ。

駐車場に車を停め、マスクを外し、眼鏡を直して店内に入る。

レジカウンターをチラッと見る。

優子はいない。

他の女性スタッフが一人でレジを担当している。

優子の姿はバックヤードにも見当たらない。

棚の補充もしていない。

(今日はちいちゃんいないな……

休みかな? それとも休憩中?)

ゆうきは内心で小さく舌打ちした。

でも、すぐに気持ちを切り替える。

公共料金の支払いは、名前が印字されている。

もし優子がレジにいたら、

彼女は「ゆうき」という名前を見て、

一瞬で思い出すかもしれない。

チャット時代の常連「ゆうき」

あの頃の声と、今の顔を結びつけるきっかけになる。

(まあ、自分の本名を見られるなら、他のスタッフの方が都合がいいか……)

ゆうきは列に並び、順番が来るのを待つ。

他のスタッフがバーコードを読み取り、金額を確認する。

「公共料金のお支払いですね。

合計4,280円になります」

ゆうきは現金を出しながら、

穏やかに微笑んだ。

「はい、お願いします。

……混んでますね。

スタッフさん、大変そうです」

スタッフは機械的に返事をする。

「そうですね〜、夕方は特に。

ありがとうございます」

レシートを受け取り、ゆうきは店を出る。

駐車場に戻り、車内で控えを眺めた。

自分の名前が、はっきりと印刷されている。

「これで、彼女がレジにいたら……

名前で気づかれたかもな」

でも、今日は優子がいない。

少し残念だが、

逆に安心した部分もある。

まだ、完全に正体を明かすタイミングじゃない。

もう少し、顔を覚えてもらって、

声を馴染ませてから。

ゆうきはエンジンをかけ、

車をゆっくり発進させた。

バックミラーにコンビニの看板が映る。

優子は今頃、休憩中か、休みを取っているのかもしれない。

実家で家族と夕食を食べているのかもしれない。

「次は、もっと自然に……

名前を呼べるくらいまで、近づくよ」

四街道の夜道を、

軽自動車は静かに走っていく。

高速道路の高架のライトが、

ゆうきの車を照らす。

優子は今日、休みだった。

母親と一緒に近所のスーパーへ買い物に行き、

帰宅して家族で夕食を食べている。

コンビニのレジに立つことはなく、

あの男の存在も、今日は頭にない。

ゆうきは新居に戻り、

レシートを机の上に置いた。

自分の名前を指でなぞる。

「鈴木ゆうき……

いつか、彼女にこの名前を、

ちゃんと聞かせてあげよう」

夜は深まる。



優子はシフトに入った日の夕方、バックヤードで着替えを済ませてレジに向かった。

店長が少し離れたところで補充作業をしている中、

いつも優子のレジを狙う男の情報を共有してくれた女性スタッフ(20代前半のあかりちゃん)が、

さりげなく近づいてきた。

「あ、優子ちゃん。今日もあの男来るかもね……」

あかりちゃんは声を低くして、

「昨日、公共料金の支払いに来たんだけど、

なんか視線が優子ちゃんのレジの方ばっかりでさ。

今日も来たら、絶対レジ変えようね」

優子は小さく頷いた。

「あかりちゃん、ありがとう……

本当に助かる」

すると、あかりちゃんは少し大げさに「はーっ!」というため息をついて、

レジカウンターの奥の机に、

公共料金受領の店控え(領収書の控え用紙)をポンと置いたまま、

そのまま補充作業に戻っていった。

「優子ちゃん、ごめん! それ仕舞い忘れちゃった〜!」

と言いながら、

目で合図を送ってくる。

(……あ)

優子はすぐに察した。

机の上に置かれた紙は、

昨日来た男の支払い控えだ。

名前が印字されている。

あかりちゃんはわざと置きっぱなしにして、

「見ておいたら?」という意味で残してくれたのだ。

優子は周囲に気づかれないよう、

スマホを手に取り、

さっと紙を撮影した。

フラッシュはオフ、音も消して。

撮影が終わると、すぐに紙を元の場所に戻し、

何事もなかったようにレジに戻った。

控えに印字されていたのは、

鈴木 ゆうき

お客様番号

支払い内容:電気料金 4,280円

優子は胸がざわついた。

「鈴木ゆうき」……

チャット時代の常連「ゆうき」の名前。

(……やっぱり、あの人……?)

優子はレジのカウンターを握りしめた。

マスクの下で、唇が震える。

夜道ですれ違った男、

毎日レジを狙ってくる男、

そして今、名前までわかった。

あかりちゃんが遠くからアイコンタクトを送ってくる。

「大丈夫?」という目。

優子は小さく頷き、

スマホをポケットにしまった。

シフトが終わるまで、

優子は平静を装ってレジを続けた。

でも、心の中では、

あの頃の恐怖が、

ゆっくりと、

だが確実に、

蘇り始めていた。

(店長に相談しよう……

警察にも、そろそろ……)

優子は母親の迎えを待つ間、

スマホの写真を何度も見つめた。

「鈴木ゆうき」の文字が、

画面の中で、

静かに光っていた。

ゆうきは今頃、新居の部屋で、

今日のメモを更新している。

「公共料金払い完了。

名前を見られていないはず」

と、満足げに書いているだろう。

でも、

優子はもう、

彼の本名を知った。

二人の均衡が、

少しずつ崩れ始めていた。



優子はシフトが終わった後、母親の車で実家に戻る道中、スマホを握りしめていた。

バックヤードで見た公共料金の控えの写真が、頭の中で何度もリプレイされる。

「鈴木ゆうき」

チャット時代の「ゆうきさん」

ぴたりと符合する。

夜道ですれ違った男。

毎日レジを狙ってくる客。

すべてが、一つの線で繋がった。

(もう、偶然じゃない……)

胸がざわついて、息が浅くなる。

連絡先から「佐藤先輩」をタップ。


「もしもし、優子?」

佐藤先輩の声は、いつものように落ち着いている。

優子は声を低く抑えて、急いで話した。

「先輩……ごめん、急に。

今日、バイト先で……あの男の名前わかっちゃったんです」

佐藤の声が、少し緊張した。

「名前? どうやって?」

優子は息を整えながら、説明した。

「公共料金の支払いに来てて……

他のスタッフが、わざと控えの紙を置きっぱなしにしてくれて。

写真撮ったんです。

名前は『鈴木ゆうき』。

チャット時代のハンドルが『ゆうき』だったから……

間違いないと思うんです。

毎日、私のレジを狙って来てて。

レシート渡す時に手を触れようとしてくるし……

もう、怖くて」

佐藤は少し間を置いて、静かに言った。

「わかった。

優子、よく話してくれたね。

まず、落ち着いて。

今、実家にいるよね?

一人で外に出ないで」

「うん……今は母親に車で送り迎えしてもらってる」

「よし。

その写真、送ってくれる?

優子はスマホを操作して、撮影した控えの写真を佐藤先輩に送信した。

送信完了の通知が鳴る。

「送りました……

先輩、どうしたらいいですか?

警察に相談した方がいい?

でも、ライブチャットのことは……」

佐藤は優しく、でもきっぱりと言った。

「ライブチャットのことは、言わなくていいよ。

ストーカー被害として相談すれば十分。

『毎日バイト先に来てレジを狙う客がいて、手を触れようとしてくる。

夜道ですれ違った時も変な反応だった。

名前と支払者番号がわかった』って事実だけ伝える。

警察に写真を見せれば、本人確認もできるはず。

四街道署に相談するのが一番早い。

私も、岡山の署から連絡入れておくよ。

『知り合いの大学生がストーカー被害に遭ってる可能性がある』って。

連携取ってもらえるようにする」

優子は小さく息を吐いた。

「ありがとうございます……

本当に、先輩がいなかったら、もう……」

「いいよ。

優子が無事なら、それで。

明日、シフト入る?

入るなら、店長に全部話して、今日は休むか、誰かと一緒にいるようにして。

私、明日四街道署に連絡入れておくから。

優子も、もし怖かったら、すぐに110番。

遠慮しないで」

「うん……わかりました。

先輩、本当にありがとう」

電話を切ったあと、優子はスマホを胸に押し当てた。

優子は深呼吸して、

布団に潜り込んだ。

外では、高速道路の音が遠く響く。

もう、一人で怯えていない。



警察は、ストーカー被害の増加を深刻に捉えていた。

全国的にSNSやオンラインでの出会いが原因のトラブルが増え、

相談者を軽んじた結果、女性の相談件数が急増している。

無能と世間では

優子の詳細な情報提供は、すぐに捜査のきっかけとなった。

田中刑事が優子の話を聞いたその日のうちに、

署内で緊急ミーティングが開かれ、

ゆうきの名前と払い込み番号から即座に照会した。

「鈴木ゆうき、34歳、さいたま市在住だったのが、

最近四街道市に転居届を出してるな……」

田中はパソコン画面を睨みながら呟いた。

免許証の写真は、優子の記述と一致。

前の住所はさいたま市のワンルームマンション。

そこから、ゆうきの職歴や行動履歴を洗い出し、

ストーカー規制法の適用を検討した。

次に、ライブチャットのサイト「プリティチャット」へ照会をかけた。

優子の提供したアカウント名「ちい」と、ゆうきのハンドル「ゆうき」のメッセージ履歴を、

サイト運営会社に開示依頼。

運営会社は比較的協力的で、数日でデータが届いた。

メッセージの内容は、優子の証言通り。

ゆうきのメッセージがエスカレートしていく様子が、

時系列で残されていた。

さらに、メッセージに紐づいたメールアドレスから、

プロバイダーへ照会をかけた。

契約者の特定には、裁判所の令状が必要で、

少々時間がかかる見込みだったが、

田中は「急ぎで申請する」と約束した。

「メールのIPアドレスから、ゆうきさんの行動パターンがわかるはず。

四街道への引っ越しが、優子さんを追うためだったら、

立派なストーカー行為だよ」

神奈川のマンションで投函された手紙については、

田中は少し顔を曇らせた。

「これは、出力された文章だし、指紋が付いていないと証拠として弱い。

でも、写真の件と合わせて、脅迫の意図を立証できる可能性はある。

マンションの防犯カメラ映像も、神奈川署に依頼して確認します。

投函の瞬間が映ってるかもしれない」

最後に、優子の近所のパトロールを強化することを約束した。

四街道市内の住宅街、特にコンビニ周辺と実家ルートを、

パトカーと自転車巡回で重点的に回る。

「何かあったら、すぐに連絡して」

優子は署を出て、胸の奥が少し軽くなった気がした。

家族には「SNSで知り合った人から変なメッセージが来て、

ストーカーっぽくなった」とだけ伝えることにした。

親はSNSの詳細なんてわからないし、

心配はするけど、深く追及しないはず。

実際、母親は「そんな怖いことがあるの!?

もう、絶対に一人で出歩かないで」と言うだけだった。



2週間が経った。

優子はコンビニのシフトを完全に休むことにした。

店長に「ストーカー被害の相談で警察に行ってるんです。

今は安全のために、しばらく出勤を控えたい」と事情を説明したところ、

店長はすぐに理解してくれた。

「何かあったら、いつでも連絡してね」

他のスタッフも「あかりちゃん」が率先して、

「優子ちゃんの代わりは私たちが回すよ。

無理しないで!」と励ましてくれた。

優子は実家で過ごす時間を増やし、

大学はオンライン中心に切り替え、

外出は母親か父親の送迎のみ。

コンビニの前を通ることも、近づくことも避けた。

一方、ゆうきは毎日のようにコンビニに通っていた。

夕方6時頃、駐車場に車を停め、店内に入る。

レジカウンターに優子の姿がない。

他のスタッフが対応する。

1日目、2日目……そして2週間目。

(……いない)

ゆうきはコーヒーを買うふりをして、

レジの女性スタッフ(あかりちゃん)にさりげなく声をかけた。

「最近、いつもいる女の子見ないんですけど……

体調でも崩したんですかね?」

あかりちゃんは笑顔を崩さず、

丁寧に、しかしきっぱりと言った。

「申し訳ありませんが、スタッフの個人情報やシフトについては

お答えできないんです」

ゆうきは一瞬、表情を固くしたが、

すぐに穏やかな笑顔に戻した。

「あ、そうなんですね。

心配しただけなんですけど……

わかりました。

ありがとうございます」

レシートを受け取り、店を出る。

車に戻って、ハンドルを握った手が少し震えていた。

(バイト辞めたのか?

それとも……俺に気づいて、休んでる?)

焦りが胸に広がる。

これまで毎日顔を見ていたのに、

急に姿を消された。

実家に引きこもってるのか。

警察に相談したのか。

それとも、引っ越しでもしたのか。

ゆうきは車を発進させた。

四街道の住宅街をゆっくり走る。

(焦るな……

まだ、時間はある)

ゆうきは深呼吸して、

新居に戻った。

警察の捜査が進んでいることを

ゆうきは知らない。


優子は実家の部屋で、

スマホの画面を眺めていた。

佐藤先輩からのメッセージ。

「四街道署から連絡あったよ。

ゆうきさんの住所確認済み。

ライブチャットのデータも開示された。

もう少しで、事情聴取に入れるはず。

優子はもう、外に出なくていい。

安心して待ってて」

優子は小さく息を吐き、

布団に潜り込んだ。

2週間の空白が、

ゆうきを焦らせ、

警察の網を狭めていた。



ゆうきは土曜日の午後、いつものように配達のルートを回っていた。

軽自動車の荷台に積まれた段ボールの中から、

一つのラベルに目が止まった。

宛名:富田明子様

住所:千葉県四街道市〇〇町×丁目××番地

ゆうきの手が、一瞬止まった。

(富田……?

明子……お母さん?)

心臓が早鐘のように鳴り始める。

これは、ただの偶然じゃない。

優子の実家かもしれない。

「富田明子」という名前は、優子の母親の可能性が高い。

ゆうきはルートを少し調整し、

その住所の家へ向かった。

住宅街の細い道を抜け、高速道路の高架の下を通る。

車を路肩に停め、荷物を抱えて玄関へ。

インターホンは鳴らさず、置き配指定を確認。

玄関前のマットの上に、静かに段ボールを置く。

写真を撮り、アプリで「完了」ボタンを押す。

そして、ゆっくりと顔を上げた。

家を見上げる。

2階建ての一軒家。

白い壁に、ベージュの屋根。

玄関の横に小さな植木鉢。

2階の窓に、薄いピンクのカーテンが揺れている。

優子の部屋かもしれない。

今、優子はあの窓の向こうにいるのかもしれない。

ゆうきは息を詰めて、

数秒間、じっと見つめた。

ゆうきはゆっくりと車に戻った。

エンジンをかけ、

少し離れた場所に車を停めて、

スマホを取り出す。

地図アプリを開き、

さっきの配達先住所を入力。

ピンが立つ。

ストリートビューに切り替える。

画面に映るのは、今自分が立っていた家の外観。

玄関の表札はぼかされているが、

植木鉢の位置、カーテンの色、

家の形――すべて一致する。

ゆうきは画面を拡大し、

2階の窓を凝視した。

「ちいちゃん……

ここにいるのかな?」

唇が、ゆっくりと笑みの形になる。


母親は荷物に気づき、

「届いてるわね」と言いながら荷物を回収する。

優子は知らない。

その荷物を運んだ男が、

自分の家を見上げていたことを。

ゆうきは部屋に戻り、

ベッドに座って、

ストリートビューの画面を何度もスクロールした。

窓、カーテン、玄関。

すべてを記憶に焼き付ける。


四街道の夕暮れは、

優子の家を優しく照らしていた。

ゆうきの執念が、

その光の中に、

静かに忍び込んでいた。



家族でリビングに集まり、いつものようにテレビを見ていた。

画面ではバラエティ番組が流れ、母親が時々笑い声を上げ、父親が「またこのネタか」とぼやきながらコーヒーを飲んでいる。

部屋の隅に置かれた昔ながらの石油ストーブが、赤い炎を弱々しく揺らしながら、

徐々に火力が落ちていく。

やがて、ストーブ特有の嫌な臭い――灯油が不完全燃焼したときの、むっとするような匂い――が部屋に広がり始めた。

優子は鼻を軽くしかめて立ち上がった。

「ちょっと臭いね……私が灯油補充してくるよ」

母親が「ありがとうね〜」と笑顔で返し、父親は「気をつけてな」とだけ言ってテレビに目を戻した。

優子はリビングを出て、玄関脇の廊下へ。

そこに置いてある灯油のポリタンクに近づき、蓋を開けて中を覗く。

残りは半分くらい。

手動タイプのポンプがタンクの横に立てかけてあるが、

今日はなんだか面倒くさく感じて、

「電動のポンプ使おうかな……」と独り言を呟いた。

電動ポンプは、外の物置にしまってある。

優子はスリッパを履き替えて、玄関のドアを開けた。

外はもう真っ暗で、冷たい夜風が頰を撫でる。

庭の灯がぼんやりと地面を照らし、

物置までの短いアプローチを淡く浮かび上がらせている。

優子はドアを閉め、

物置に向かって歩き始めた。

庭の砂利が足の下で小さく音を立て、街灯の淡い光が地面に細長い影を落としている。

外の空気は冷たく、頰を刺すように感じる。

物置で電動ポンプを見つけ振り返る。

ふと、木々の辺りに人の気配を感じた。

優子は足を止めた。

庭の端に植えられた松の木の陰。

街灯の光が届きにくい場所で、黒い影がぼんやりと立っているように見える。

目を凝らす。

……いる。

木の陰に、人が立っている。

背丈は男性くらい。

動いていない。

ただ、こちらを向いている。

優子の心臓が、急に大きく鳴り始めた。

(……誰?

お父さん?

いや、お父さんはリビングにいる……)

影は敷地の境界線を越えて、うちの敷地内に入っている。

木の根元に隠れるように、でもはっきりと存在している。

優子は息を詰めて、動けなくなった。

足が地面に張り付いたように固まる。

喉が乾いて、声が出ない。

逃げなきゃ、と思うのに、体が言うことを聞かない。

影が、ゆっくりと動いた。

一歩、二歩。

木の陰から出てくる。

庭の灯の光が、ようやくその顔を照らす。


優子は一瞬、息が止まった。

「ちいちゃん……

やっと会えた」

ゆうきの声は、静かで、優しい。

チャット時代の声と同じ。

でも、今は現実の空気の中で響いている。

優子は後ずさろうとしたが、足がもつれてよろける。

ゆうきはさらに近づいてくる。

ゆっくり、まるで驚かせないように。

「怖がらせてごめんね。

ただ……話したかっただけなんだ」

優子の視界が揺れる。

喉がようやく動いて、

小さな声が漏れた。

「……来ないで」

ゆうきは立ち止まった。

でも、目は優子から離れない。

笑みが、ゆっくりと広がる。

「もう、逃げないでよ。

俺、ずっと待ってたんだから」

庭の灯が、二人の影を長く伸ばす。

高速道路の音が、遠くで低く響く。

優子の手から、ポリタンクが落ちそうになる。

物置までの距離は、もうない。

ゆうきは、もうすぐそこにいる。

優子は動けない。

ただ、

心の中で、

叫んでいた。

(助けて……誰か……)

夜の庭は、静かだった。

ゆうきの足音だけが、

ゆっくりと、

近づいてくる。



その時、庭の木々の間から赤い光がちらりと見えた。

パトカーの赤色灯だ。

優子は一瞬、息を飲んだ。

ゆうきも気づいたのか、動きが止まる。

赤い光が木々の間を不規則に点滅し、サイレンは鳴っていないが、

近づいてくるエンジン音が低く響いてくる。

優子は家に逃げるよりも、敷地の外へ出ることを選んだ。

家に戻れば、立ち位置的にゆうきに捕まってしまうかもしれない。

リビングの家族に危険が及ぶかもしれない。

外へ出れば、パトカーに近づける。

助けを呼べる。

優子はサンダルを履いたまま、庭の砂利を蹴って走り出した。

テニスで鍛えた足は、その辺の女の子より速い。

サンダルが脱げそうになるが、構わない。

振り返らずに、ただ前へ、前へ。

「助けてー!!

ここにいる! 助けてください!!」

声が夜の住宅街に響く。

喉が裂けそうなほど叫ぶ。

赤い光が近づいてくる。


ゆうきは、優子の背中を見つめた。

逃げようとする優子の姿に、

笑みが凍りつく。

「ちいちゃん……待って」

でも、声は届かない。

優子はもう、敷地の境界を越えていた。

道路へ飛び出し、赤い光に向かって全力で走る。

パトカーが急停止し、ドアが開く。

制服の警察官が二人、飛び出してくる。

「そこの人! 止まって!」

ゆうきは動いた。

優子を追いかけようと、一歩踏み出す。

しかし、次の瞬間――

警察官の一人がゆうきに向かって走り寄る。

「あなた! 止まってください!」

ゆうきは振り返った。

赤い光が顔を照らす。

警察官の目が、厳しくこちらを捉えている。

「待て! 動くな!」

ゆうきは後ずさった。

足がもつれる。

逃げようとしたが、

もう遅い。

警察官がゆうきの腕を掴む。

もう一人が無線で「確保しました」と報告する。

優子は道路の真ん中で立ち止まり、

息を切らしながら振り返った。

ゆうきが地面に膝をつき、

両手を後ろに回されている。

赤い光が、ゆうきの顔を何度も点滅させる。

優子は膝から力が抜け、

その場に座り込んだ。

サンダルは片方脱げ、足の裏が砂利で痛む。

でも、もう怖くない。

母親と父親が玄関から飛び出してくる。

「優子!」

優子は涙をこらえながら、

小さく手を振った。

「大丈夫……

もう、大丈夫……」

パトカーの赤い光が、

夜を照らし続ける。

ゆうきは地面にうつ伏せにされ、

手錠をかけられた。

顔を上げ、優子の方を見る。

その目は、まだ諦めていないように見えたが、

もう、届かない。

警察官がゆうきをパトカーに乗せる。

ドアが閉まる音が、夜に響く。

優子は家族に抱きかかえられながら、

家に戻った。


すべてが、終わった。

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