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【短編小説】ピジョン老人ピース

掲載日:2025/12/16

 スマートフォンのアラームが鳴る数秒前に

目を覚ました。

「少しは眠れたか?」

 不機嫌そうな猫が訊く。

「緊張。よく眠れない」

 おれは働かない頭で返す。


 事務所のソファは柔らかいが、革の所為で妙な汗をかいている。

 伸びをして足元の観葉植物を蹴り倒しそうになった。掛布団かわりにしていた寝袋をどけてコップ一杯だけ水を飲み、大きなため息をつく。

「おれの朝メシは?」

 猫が鼻を鳴らす。

 おまえはいつから喋れたんだ?皿に温めたミルクを出してやるが、当たり前のように振る舞う。

「礼は無しか」

 おれだって本当はコーヒーを飲みたいし煙草を吸いたい。

 だけど今日は無理だ。

「フン、人間ってのは不便だな」

 猫が顔を磨きながら言う。

 その通りだ。

「健康を診断するのにこうもイライラしなきゃならないなんてな」

 肩をすくめて見せるが、すでに猫の興味はおれから離れ、部屋を飛び回る羽虫がその対象になっていた。


「じゃあ、またな」

 返事を期待せずに事務所を出たが、閉まりかけたドアの向こうで猫が「おう」と言う声が聞こえた。

 猫のことは分からない。

 だがおれは自分の健康だって分からない。

 カフェインの離脱症状で、脳みその奥で頭痛が始まろうとしている気配がある。

 健康診断だとか人間ドックとかの度に朝から不愉快な気分になるが、いったいどちらが本当の状態なのだろうか。

 日常的にコーヒーや煙草で何かを塗り潰しているのだろうか。それとも非日常である検査日が異常なのか。


 猫が喋る方が異常じゃないか?

「何か言いましたか?」

 看護師の女が聞き返す。

「いえ、何も」

 寝間着の様な検査着に着替えた人間たちの行列に加わり、血を抜いたり心電図を取ったり身長と体重を計測したり眼圧だの超音波検査だのレントゲンだのと調べる。

 下の異常値と上の異常値、その狭間に収まればいい。

 柵の中、籠の中、檻の中。


「次で終わりです」

 看護師が言う。

 その手には白い液体。もう片方の手には細かい粒剤。

 バリウム検査だ。

 おれが知る限りこの世で一番不愉快な検査だ。

 これを飲む為に朝から絶食しなければならないし、前日の夜も気を付けなければならない。


「飲まなきゃだめですよね」

 看護師は作業の手を止めて振り向くと、猫が宙空を見つめるような虚無めいた顔をした。

 おれは看護師の返事を聞く前に「訊いてみただけです」と打ち切って薬剤を飲んだ。

 やたら酸味の立った発泡剤が非常に不愉快で、さらにドロドロしたバリウムで飲み込む。

 ここでゲップをすると要らないおかわりを飲まされる。

 バリウムの味だとか食感も不愉快なのはもちろんだが、このバリウムと発泡剤で腹が膨れると言う事にも腹が立つ。


 人生の貴重な一食をスキップした上に、発泡剤とバリウムで腹が満たされるなんて虚しいことが許されていいのか?

 何かを喰ってあまり美味しくなかった、と思う方がまだマシだ。

 虚無以下の白い液体で塗り潰される胃袋と食欲。

 やはりこんなものは異常でしかない。

 水を切ったヨーグルトにプロテインを混ぜた朝食の方が正しいに決まっている。



「はい、それでは仰向けになって時計回りに回転して下さい」

 何が正しいかは技師が決める。

 おれはそれに従うだけだ。

 やたらに硬い台の上でグルグルと回らされ、天地を逆にされ、機械に腹を押される。

 発泡剤で浮かび上がりそうになる身体を検査台の縁にある手すりで抑えて耐える。


 ゲップをするとまた飲まされる。

 冗談じゃあない。

 天井にはゲップをしておかわりを飲まされた人間たちが張り付いたように連なっている。

 逆にゲップがでなくて降りられなかった人間たちだ。

 降りてこない事には下剤も飲めないので困った事になるだろう。


 検査を終えて医師との面談まで昼めしを食って時間を潰す。

 路地裏で缶コーヒーを飲みながら煙草を吸っていると目の前に白いものが降ってきた。

 鳩でも飛んだか、と見上げると下剤を飲んだ安心からか発泡剤で浮かび上がった老人が飛びながらバリウムを落としていた。

 老人は申し訳なさそうに手刀を切っていたが、とうぶんゲップが出そうにない。

 何度か断続的にバリウムを垂らしながら飛び去って行く老人を見送って大きなゲップをひとつ出した。

 カフェインが血管を押し広げていく。

 おれの頭痛は遠退いていく。

「これが健康だよな」

 老人に手を振る。

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