ボクじゃダメなの?
とてつもなく強い磁石に引き寄せられたような感覚だった。
僕は一瞬で恋に落ちた。
二度見しただけでなく立ち止まった。
彼女も歩みを緩めて振り向いた。
ショッピングモールでのすれ違い、これは偶然を装った必然だ。
声をかけなければ一生後悔する。
「あの……」
「はい」
麗子と交際を始めて気になることが二つあった。
一つは彼女の履くピンヒール。
麗子が先に立って階段を上るときなど、ひと足ごとに刺激的な真っ赤な靴底が目に入る。
チロチロと男を誘惑する魔性の女の舌のようだ。
赤い靴底が特徴のあの有名なブランド名は何だったか、どうしても思い出せない。
彼女に聞けばすむことだが何となくはばかられる。
ブランド品については恥をかいたことがあってちょっとしたトラウマなのだ。
最初に付き合った女性が愛用の靴をイタリアのフェラガモだと言って自慢したことがあった。
「へえ、そんないい靴ができるんだ」
ファッションに無頓着な僕はフェラガモをカルガモなどの鴨の仲間だと思って話がかみ合わなかった。
麗子について気になるもう一つは時折ふっと遠くに目をやることだ。
例えば、喫茶店でたわいもない話に興じて笑い合った後。
例えば、ジャズバーでお気に入りの曲を聴いているとき。
まるで幸せに浸り切るのを恐れて断ち切るかのように。
平日のデートタイムは僕の仕事がひけて麗子が店に出るまで。
水商売ということ以外、麗子は自分の素性を明かさない。
これだけの美女だから銀座のクラブ勤めということも十分あり得る。
「あなたのお給料じゃ無理よ」
そう言って僕に恥をかかせないために店を教えないのかもしれない。
今日は僕の行きつけのバーへ直行。
麗子はシガレットケースから細身の煙草を取り出した。
「君もそうだけど煙草を吸う女性は声がハスキーだね。女は喉が弱いのかな」
「禁煙は何度もチャレンジしたけど意志が弱くて」
「意志は強いじゃないか、絶対お店に来ないでなんて。君のこともっと知りたいんだがな、親にも紹介したいし」
麗子はふっと例の遠くを見るような目をして煙を吐いた。
「ご両親に紹介? 水商売で働いてて男と駆け落ちしたこともある私を?」
「駆け落ちは初耳だ」
「彼が闇金の取り立てに追われてて一緒に逃げたの。でもビジネスホテルに1泊しただけでサヨナラ」
「どうして?」
「夜中に彼のトイレの音が聞こえたの、ジョボジョボジョボって。それで冷めちゃった。ま、もともと結ばれるはずもない仲だったってこと」
麗子はいたずらっぽくそして半ば寂しげに煙草の煙で輪を作った。
「感覚の問題は大きいよね。僕がある女性と別れたのは風のせいだった。海辺でデートしてるときに強い風が吹いてきたんだ」
「それで?」
「真正面から風を受けて彼女が顔をしかめたんだ。その顔がすごく不細工だったんで熱がいっぺんに覚めちゃった」
「別れを切り出すにしてもそれが理由だなんて言えないわね」
「うん、適当な理由をつけたけど納得するはずもなくて何度かアパートに押しかけて来た。心を鬼にして居留守を使ったよ」
「ボタンの掛け違えみたいなものね。ちぐはぐで取り返しがつかない」
あのときドアを開けていたらなし崩しに元の鞘に収まるか修羅場になるかのどちらかだっただろう。
そんな想像を巡らしているとドアに絡む別の体験が思い出されて気が滅入ってきた。
「どうしたの?」
「何年か前のことだけど帰宅して何気なく窓からマンションの脇の路地を見下ろしたら外灯の陰から僕の部屋を見上げている男がいたんだ。それが2日続いた」
「男ならストーカーとかじゃないわね。知らない人?」
「藤野という奴だった。親友ってほどじゃなかったけど学生時代の友達。僕がいるのが分かってるのに上がって来ないのがちょっと気味悪くて放っておいたんだ」
麗子も僕もバーテンにモスコミュールのお替りをオーダーした。
「3日目にインターホンが鳴った。ドアを開けると『久しぶりだな、元気?』って言うんだ。僕はここ2日間のことがあったんで『おう、藤野か。元気だよ、何か用?』って返事すると『いや、たまたま近くを通りかかったもんだから』って」
僕はここで言葉を切ってグラスを一口飲んだ。
「ちょっと顔を見たかっただけだと言って帰ったんだけど、数日後に自殺した」
えっ?と麗子はグラスから唇を離した。
「後で知ったけどお金にかなり困っていたみたいだ。2日間ためらったあげくインターホンを押したんだろう。あのとき『まあ上がれよ』って言ってたらどうなってたのかなってずっと引っかかってる」
麗子は無言でグラスを傾けた後、また遠い目をしてつぶやいた。
「それもボタンの掛け違えかしら。言いそびれたら取り返しがつかない」
そろそろ腰を上げる時間だ。
会って別れるとき、断っても麗子はかたくなに電車の駅まで僕を送る。
店の場所を知られないための用心としか思えない。
今日は飲み足りないので裏をかいてサプライズをしかけよう。
麗子の見送りを受けた後、僕は急いで別の改札口から出て麗子を追った。
付かず離れずの距離で麗子の後を付いて行く。
どんな店だろう、僕が入店したときの反応が楽しみだ。
麗子が入っていった店は予想に反して高級クラブではなかった。
懐は助かるが問題は全く別のところにあった。
「いらっしゃあい! ニューカマー様約1名!」
店内に足を踏み入れたとたん髭の剃り跡の青いママがハスキーな声を上げた。
その声で客たちも一斉に興味深そうな視線を僕に絡ませてくる。
カウンターの中でママの隣りに立っていた麗子だけが僕を見て固まった。
入口付近で突っ立ったままの僕はすぐに覚った。
この店に女性は誰一人としていない。
僕は明らかに場違いな客だ。
麗子がカウンターを出て僕の側に立った。
「飲んでいく?」
小さな声でそう言った麗子の思いつめたような顔が今も脳裏に焼き付いている。
人間のあんなに真剣な顔を僕は後にも先にも見たことがない。
僕は麗子から目をそらして無言で店を出た。
客たちの無遠慮な笑い声が漏れ聞こえた。
僕は後ろ手に閉めたドアに背をもたせかけたままでいた。
そのくせ麗子のピンヒールの音がドアごしに近づいてくると信号が点滅し始めた目の前の横断歩道を駆けて渡った。
あれからもう20年近くが過ぎたのだ。
書斎でパイプをくゆらしながら感慨にふけっているといきなり呼びかけられた。
「ねえ」
ギョッとして椅子に座ったまま首を振り向けると高校生の娘がドアを半開きにして顔をのぞかせている。
「お風呂わいてるよ。お母さんがガス代もったいないから早く入ってって」
「分かった、すぐ入るけど部屋に入るときはノックをしろよ」
返事のかわりに娘はペロッと小さく赤い舌を出した。
ふいに僕は麗子のピンヒールを思い出した。
「ルブタン! そうだ、あれはクリスチャン・ルブタン」




