クロスファイト・2
「…………鳥を撃ちたい?」
こくりと、少女は頷いた。そうして彼女は、おずおずとした様子で顔を上げる。少女の視線の先には目を瞑った少年がいた。彼は森の切り株に腰を下ろし、弦を指で弾いたりして弓の手入れをしている。
「そんなことも出来ないって、ばかにされるんです」
「なぜ、出来ないと思うんだ」
「飛んでるから。動くものを狙って撃つのは、難しいんです」
その答えを受け、少年は小さく笑った。
「それは、俺たち弓兵の仕事だぞ。狙って、撃ち、当てる。的が動いていても、そうでなくても、弓兵はそれをやるんだ」
「知ってます」と、少女は拗ねたように言う。
少年は仕方なさそうに口を開いた。
「……確かに動くものに矢を当てるのは難しい。しかし、動き続けるものなどこの世には存在しない。鳥なら翼を休める時があるだろう。間合いを保って、じっと待つ」
「でも」
「相手の呼吸と、自分の呼吸を合わせるような感覚を持てばいい。待ち続けていれば、自然と分かってくる」
あなたならそれも容易いでしょうねと、少女は内心で思う。
「……君には、心構えが足りないんじゃないかと、俺は思っている」
「こころ」
「そう。心。君の家は、代々優秀な弓兵を送り出しているところだと聞いているが」
「い、家は関係ないです。私は私ですから」
少女がむくれて、少年は、今度は声を出して笑った。
「そうだったな。……鳥を撃つのが難しいと言ったな。なら、鳥と人では、どちらに狙いをつける方が楽だと思う?」
「人です。人は羽を持っていませんから」
「……俺は、鳥を撃つ方がいい。矢を放つということは、それが標的に当たるということだ。当たればそいつは死ぬかもしれん。命は平等だと言うやつはいるが、俺はそうは思わない。鳥と人では、やはり違うものだ」
「人殺しはいやですか?」
少女の声音には軽蔑の色が含まれている。殺人を忌避するのは人として正常で、あるべき形なのかもしれない。しかし、武器を持つと決めたならば必要以上に恐れてはいけない。恐れは指を震わせて、矢の行き先を狂わせる。冷徹な心こそが弓兵にとって最も重要だと、少女は教わり、信じていた。
「嫌だ。何も考えず、何も思わず命を奪うことは、死んでも。だが、撃つべき時は弁えているつもりだ」
「どんな時ですか、それ」
「……考えることだ。それが、心構えというやつなのだから」
ルチアーノは目を見開いていた。エイミは彼の表情を見ても、何も感じなかった。
「四年ぶりになりますね」
「……その声、お前、まさか」
「はい。エイミです。アップルショットの」
ルチアーノは見張り台から出られない。顔を見せた途端、撃たれてもおかしくなかった。群雲が風に流され、三日月がその顔を覗かせ始めた時、彼はごくりと唾を飲み込む。
「へえっ、お前があいつらに力ぁ貸してるってわけだ! 裏切り者がよ!」
「……バリスタは大きくなりましたね。人も増えた。どんな気分ですか?」
「ああっ!?」
エイミは無表情で喋り続ける。しかし、その声には明らかな侮蔑の色が含まれていた。
「よそ様の命を食って肥えた気分はいいものなのですかと聞いています」
歯ぎしりをして、ルチアーノは吠える。
「てめえっ、何様のつもりだ! 旦那に拾ってもらったのはてめえも同じだろうがっ」
「拾ってもらいましたが、私はバリスタに魂まで売り渡した覚えはありません」
「誇りでメシが食えるかよ!」
「いいえ。私はおいしくご飯を食べられています」
ルチアーノは頭に血が上っていて気がつかない。彼は、エイミの挑発によってこの場へ釘付けされているのだ。彼女はトーマたちの『指示した通り』に時間を稼いでいるに過ぎない。が、エイミの発言もその全てが嘘という訳ではなかった。理由がある。この場この時、昔なじみの男を殺してもいいと思えるほどには、だ。
「知らん間にいなくなってどこで野垂れ死にしたかと思えばよう、敵に回ったってわけだ! だったらもう容赦なんぞしねえ!」
ルチアーノが立ち上がりざま、矢を放つ。ろくすっぽ狙いを定められておらず、矢は宿屋の壁に衝突した。エイミは撃ち返さず、息を整えた。
バリスタの建物に侵入したトーマとレオは一目散に上階を目指した。屋内には大した人数はいないと踏んでいたのである。また、エイミが足止めをしていることにより、ルチアーノを挟撃出来るとも考えていた。
「地位ある者は高い場所を好み、住む。どうするトーマ、先に誰をやるつもりだ?」
「スコルピをやろう。最上階の、奥の部屋にいるはずだ」
「了解だ」言って、レオは剣の柄を握り直す。彼は速度を上げ、トーマの前に出た。
誰にも出会うことなく、二人は目的の場所に辿り着く。息を殺し、顔を見合わせて扉を押し開けた。瞬間、レオが気勢を放つ。暗がりの中、風を切る音が聞こえた。トーマは身を低くして前進する。ベッドから上半身を起こし、弓を構えた男の姿を認める。スコルピではない。彼の右腕、トレシュだ。
外れを引いたかと、トーマは舌打ちた。
「何者かっ、賊が!」
トレシュは二本目の矢をつがえようとしたが、レオの方が幾分か素早かった。彼は剣を横薙ぎに振るい、トレシュの首を一太刀で刎ねる。鮮血が壁を叩き、断末魔を放つ暇すら与えなかった。レオは血ぶりしつつ、呼吸を整える。
「……さて、ギルドマスターはどこに行ったかな。まさか、襲撃を予期していたわけではあるまい。先の男、目覚めていたのは流石と言うべきだが、賊を迎え撃つには無防備過ぎた」
室内の様子を確かめたトーマはつまらなさそうに鼻を鳴らした。この部屋は、一人で使うには少し広いと感じたのである。
「ベッドが二つ。中年男が枕を並べて寝食共にしていたんだろ」
トーマはスコップで、ベッドの下を突いた。柔らかな何かを捉えた感触を受け、彼はひきつったような声で笑った。そうしてから、レオに目くばせする。彼はその意を受けて、ベッドに上に飛び乗った。剣を両腕で握ると、中心に切っ先を突き入れる。刃先は寝台を貫き、標的の体に届いた。苦痛を堪えようとしたのだろう。小さな呻き声が聞こえた。
「出てきたらどうですか。仮にも人の上に立つ男の最期が、そんな場所では惨め過ぎる」
ややあって、一人の男が這い出てきた。レオの一撃は、彼の下腹部を捉えていた。傷口からは血が止めどなく溢れている。
「スコルピさんですね?」
「……番が、回ってきたか」
「何を。いや、いいです。言い残すことはありますか? 歯車の一つでも噛み合えば、どなたかに伝えられるかもしれません」
スコルピは傷口を手で押さえていたが、無駄だと悟ったのだろう。軽くなった表情で息を吐き、口元を緩めた。
「これは決められていたことなのだろうなあ。出来るなら、俺たちの仇は討たなくてもいいと、うちの誰かに」
「確かに聞き届けました」
まだ生きているのなら、ルチアーノに伝えてやろう。そう考え、トーマは部屋を出て行こうとした。スコルピは、少しだけ驚いた様子であった。
「とどめを、刺さないのか」
トーマはスコルピを無視したが、レオは立ち止まり、彼に答えた。
「ふん。どうせ貴様は間もなく死ぬ。それまで悔いていろ。貴様らが手を出したのは微風ではなく、真実突風だったのだと」
「そ、うか。君たちは……」
小さく笑うと、スコルピはそれきり言葉を発さなくなった。
トーマが部屋を出ると、弓を構えたルチアーノが片膝をついていた。彼はダメージを負っているわけではない。怒りによって顔を歪ませ、震えていた。人が死に、人が殺されると、そうやって憤る者が現れる。トーマの溜飲が僅かに下がった。
「言伝があるよ、幸運なルチアーノ。スコルピからの言葉だ」
「て、てめえら……! おれが、おれがあんな馬鹿女に気を取られてなんかいなけりゃあ……!」
「『俺たちの仇は討たなくてもいい』。確かに伝えたよ。これで、心置きなくやり合える」
ルチアーノの反応を無視して、トーマはスコップを素振りした。手に馴染む感触に、彼は嬉しさを覚える。これからまた一人殺せるのだと思うと、鼓動は高鳴った。
「あ、ああああああっ、殺す! 殺してやる! ぶっ殺してやる!」
「トーマ、お前がやるのか?」
「ああ」と、遅れてきたレオに返答し、トーマは得物を構える。彼はだらりと腕を下げ、矢をねめつけた。
咆哮と共に矢が放たれる。トーマは姿勢を低くし、スコップで廊下の一部を削り取りながら駆けだした。彼はスコップを真ん前に振り被る。削り取った廊下の木材が飛び散った。
かん、と、高い音が響く。トーマの額目がけて進んでいた矢は、飛び散った木材とスコップの匙部に防がれた。彼は矢の速度を捉えたわけではない。ただ、飛んでくる方向さえ分かれば防御は出来る。ルチアーノは舌打ちした。彼自身の能力の高さが裏目となった。
ルチアーノは二射目を放つべく矢を番える。トーマは大きく前へと踏み込んだ。彼我の距離は数メートル。最接近するまでに数秒と掛からないだろう。その間、三回は矢を放てる。ルチアーノには自信があった。また、標的は近づけば近づくほど狙い易くなる。
「があ……っ!」
額。太腿。右腕。三か所を狙うべく的を見据えた。声と共にまず一射。先と同じところを狙った矢は、またもスコップによって防がれる。ルチアーノは後方へと跳んで下がりながら次の矢を番える。瞬間、背中に違和を感じた。何か突き刺さったようだ。ちくりとした痛みを感じる。
矢は勝手に飛び出した。トーマの太腿を狙ったはずのそれは、あらん方向へと飛んで壁にぶち当たる。
ルチアーノは焦燥に駆られながらも、トーマから距離を離して次の矢を準備しようとした。しかし思うように手が動かない。平常心を失ったわけではない。肩が思うように言うことを聞かないのだ。何本もの矢がルチアーノに突き刺さっていたからだ。
「あ、ああああ、あああああああああっ、クソっ、クソ! あいつかよ!」
トーマは薄い笑みを浮かべる。振り被ったスコップはルチアーノのこめかみを捉えた。鈍い音と共に彼は倒れ込む。背には十を越える矢があった。しかしまだ生きている。トーマは得物の先端でルチアーノの頭蓋を叩いた。内容物を撒き散らした彼は、やっと動きを止める。最後の最後まで弓を撃とうとしていたらしく、ルチアーノの指は弦をいっぱいに握り締めていた。
す、と、気配が薄れていくような感覚を覚える。トーマは物陰をねめつけるも、そこには誰もいなかった。が、正体は分かった。エイミ・アップルショットである。一対一の戦いを邪魔されたと怒るつもりはない。むしろ助かったと、彼は安堵の息を吐き出した。
自分たちの痕跡を消したトーマとレオは、バリスタから出て物陰に身を潜めた。すぐにでも宿に帰って眠りたかったが、エイミのことが気になっていた。
「あいつ、何のつもりだったんだろう」
「職人気質だな。仕事が終わるや否や、何も言わずに姿を消すとは。ふん、面白い」
トーマは思案する。
叶うなら、自分たちのしていることには、可能な限り人の手を借りたくなかった。手が増えればその分だけ足がつきやすくなる。今回はエイミに助けられたが、彼女の心根までは見通せない。
「不安だな、俺は」
「しかし気にしていても仕方あるまい。……そうだな、まずは、酒でも呑むか」
「ええ……?」
レオは屈託のない笑みを浮かべていた。
「祝杯というやつだ。今日も無事、生きて帰られた事実に感謝する。悪くないだろう」
「まあ、いいか。ああ、そうだ。その時に、バリスタの残りのメンバーをどうするか決めようか」
「……だからそういうことは忘れろと言うに」
血の香を街に吹く風で清めながら、トーマとレオは酒場に向かう。ただし、全ては拭えないだろう。安酒の臭気で誤魔化すか、あるいは、一層濃くなるか。
後方支援を主とする巨大ギルド、バリスタ。事実上の崩壊を迎えるのは間もなくのことであった。