風の終わり・2
人目を掻い潜り、自分たちの部屋に戻った時、ジュリは息を吐き出した。ここにも、トーマたちはいない。黒い屋根の寮はとうに燃え落ち、こちらの寮にまで火の手が伸び始めていた。急がなければなるまいが、かと言って、行く当てなどない。
気力を失いかけ、トーマのベッドに腰掛けた時、廊下から足跡が聞こえた。ジュリは得物を抜き、開け放しのドアを睨めつける。
「……ここにいたか」
「根暗かよ。おどかしやがって」
安堵したジュリだが、ウェッジの肩に矢が突き刺さっているのを認めて、眉根を寄せた。
「やられたのか。おい、動けるか?」
「……問題ない。が、まずいな。こちらの寮にも追っ手が迫っている。すぐに逃げるぞ」
「待てよ。他のやつらは生きてんのか?」
ウェッジは頷き、歯を食い縛って、矢を抜き取る。傷口から血が吹き出て、彼は顔をしかめた。
「トーマたちは先に街を出る準備を進めている。馬車を呼んでいるそうだ」
「……ちっ、ガキの遣いもろくに出来なかったってことかよ」
ジュリはウェッジに肩を貸し、廊下を進み始めた。あちこちから叫び声が聞こえてくる。逃げ切れるのかと、彼女の心を不安が蝕み始めた。
「ガランのやろうは?」
「……中庭で、他の者を助けている。あとで追いつくと言っていた」
「よし。とりあえず、こっから出りゃあいいんだな」
頷き、ウェッジは辛そうに吐息を漏らした。
突風同盟はもう終わりなのだと、中庭での戦闘を見て、ジュリは目を瞑った。ここで得たものの全てが塵となる。……寂しいと、思った。今まで生きてきて、こんなにも満たされていた事はなかったのだ。食うものにも困らず、間抜けだが、気のいい仲間たちに囲まれて。いつしか、温かい気持ちが胸の内にじんわりと広がっていた。その温かさは、今、激しい炎に巻かれて、消えようとしている。
「ただじゃすまさねえ。絶対、あいつら全員ぶち殺してやる……!」
「裏に回れっ、まだ手薄のはずだ!」
孤軍奮闘であった。中庭に辿り着いたガランが目にしたのは、事切れたザッパであり、仲間たちであった。感傷に浸る暇はない。ガランは負傷した者を庇い、包囲されている中でも、比較的手薄なところからギルドの人間を逃がしていた。彼は矢面に立ち、波のように押し寄せる襲撃者たちを食い止めようと必死である。
ガランの二刀は並大抵の者ではどうにもならなかった。彼にはブランクがあったが、それでも突風同盟では実力者と数えられる。
「囲めっ、ガランだ! あいつをやりゃおしまいだからよ!」
熱風が吹き、ガランたちの体力を奪う。中庭に踏み止まるギルドのメンバーは、目に見えてその数を減らしていた。皆、逃げ出し、あるいはその背を切りつけられ、撃たれていたのである。数で優っていても、突風同盟には気勢がなかった。一方で、襲撃してきた者たちにはもはや失うものなどない。奪い尽くすだけである。だから、彼らは一歩も引かなかった。ひたすらに襲い、戦い続ける。
ガランは、握力が弱まっていくのを感じていた。それでも尚、彼は剣を握り続ける。誰よりもこの場所を愛し、ここに属する者たちを好いていたからだ。
トーマたち三人は街の、西側を目指していた。ガランが呼んだという馬車が、街から少し進んだところで待機しているのだ。彼らは街の出入り口近くでガランたちを待つ事に決めた。
「……誰もいませんね。恐らく、まだこの辺りまでは手が及んでいないのでしょう。私たちは、運が良かったですね」
レイネが言ったが、トーマたちは頷けなかった。運がよかったなどと、間違っても口には出来なかったのである。運がよかった者がいるなら、そうではない者がいる。そして、運が悪かった者は今宵、襲撃者たちの手にかかって死んだのだ。ガランが夜警を請け負っていなければ、自分たちはとうに殺されていただろう。そう考えると、トーマもレオも、助かったなどと安堵の息は吐けなかった。
「早く、皆来ないかな」
ぼそりと、トーマが呟く。街の出入り口でガランたちを待っているが、彼らよりも先に、ここに追っ手がやって来ないとも限らない。……そも、本当にガランたちがここまで来られるか分からなかった。
心配そうなトーマの横顔を見遣り、レオは溜め息を吐く。
「安心しろ、農民。ガランは、やつは来ると言ったのだ。それに、やつは強い。その辺のやつに後れを取ることもないだろう」
「うん。そう、だよね」
ガランも、ウェッジも、ジュリも、皆無事で、必ず一緒に生き延びる。トーマは少しだけと自分に言い聞かせて、疲労感と眠気に後押しされるかのように、ゆっくりと目を瞑った。
ウェッジは痛む体に鞭を打って、新たな弓を番えた。ジュリと共に寮を出ようとしたのだが、既に出入り口は襲撃者たちが固めていたのである。裏口にも回ったが、表よりも敵の数が多く、仕方なく、二人は出入り口付近の物陰に身を隠していた。
「……どうするか」
ガランに救助を求めようともしたが、彼は今も中庭で戦っている。自分たちのところまで近づく事は出来ないと思えた。ここは、自分の力だけで切り抜けるしかない。ウェッジは、敵の数を確かめる。出入り口には、重装備の剣士が四人と、弓矢を携えた男女が三人見えていた。時間が経てば、相手の数は増えるだろう。行動に移すなら今しかなかった。
「弓兵をやりゃあなんとかなるかもな」
と、ジュリが小さく口を開く。ウェッジも彼女の言葉に対して頷いた。自分たちは比較的軽装であり、重装備の剣士が相手なら逃げ切れる。が、弓兵相手だとそうもいかない。常に後方を警戒しながら走り続けるのは難しかった。
ウェッジは口の中で何事かを呟き、片膝で自分の体を支える。
「……俺が射掛ける。ジュリ、先に行け。お前の足なら逃げられるはずだ」
「あ?」
ふざけるなと、ジュリはウェッジの胸倉を掴んだ。そこで彼女は気づく。ウェッジは、肩にだけ傷を負っていたわけではなかった。黒っぽい格好のせいで気づくのが遅れたが、至るところに血が染み込んで、乾いていたのである。
「動けねぇのか?」
「……長くは持たないだろう」
「オレが。……オレのせいか。一人で突っ走ったから……」
ふるふると、ウェッジは首を振った。心配そうで、申し訳なさそうな顔をしたジュリが珍しくて、彼は口元を緩める。
もう、苦痛は感じなくなっていた。体から力が抜けていくのを感じる。
「……トーマたちを、頼む」
皆、いいやつだ。トーマは優しくて、こんな自分にも温かく接してくれた。だから、今の状況には長く耐えられないだろう。誰か、一人でも多くの者が彼の傍にいてくれればいい。ウェッジは、そう思っていた。
「レオは強いが、あいつは……トーマは、優しすぎるから。それに、俺は突風同盟にいるのがばれている。バリスタが、襲撃に参加しているから」
長い逡巡の末、分かった、と、ジュリは短く言い切る。
「……ありがとう」と、ウェッジは微笑んだ。
矢が放たれる。ジュリはそれを横目で見遣ってから、強く地を蹴り出した。
「……なぜっ」
「わりぃな」
ジュリは鞘からナイフを解き放ち、後ろを向いていた弓兵の首を薙ぐ。大量に噴出する血液が、巻き起こる熱風に炙られていた。
ウェッジの放った矢は別の弓兵の眉間に突き刺さっており、彼は、ジュリが逃げ出さなかった事に驚きながらも、新たに矢を番え、それを撃った。瞬く間に三人の弓兵が絶命し、フルアーマーの剣士たちはようやくになって得物を構える。
物陰から飛び出したジュリは剣士四人に囲まれてしまい、ウェッジは重装備の隙間を狙うも、まともに刺さりそうな箇所は見受けられなかった。
「まだ残ってやがったか。まるでアリの巣だな、ここは」
「……言ってろ」
ジュリは油断なく目を遣りながら、隙を窺う。
剣士たちは皆、一歩でも踏み込めば剣の届く位置で立ち止まっていた。彼らは目配せし合い、おおうっと、声を吐き出す。次の瞬間、ジュリの右方にいた剣士が動いた。剣は彼女の首を切り払おうとしたが、ジュリは身を低くして、剣士の脇をすり抜ける。
よくやった、と、ウェッジは心中で喝采を上げた。そのまま逃げ切ってくれればいいと祈り、彼は、ようやく出来た隙を衝き、弓を放つ。攻撃を繰り出した剣士の兜の隙間を縫うように、目玉に、矢が突き立てられた。同時に、ウェッジのもとに三人の剣士が殺到する。
「ウェッジ!」
「行けっ! 行ってくれ!」
ウェッジは尚も矢を番えた。体はもうまともに動いてくれない。だが、一人でも多くの敵を、一秒でも長く引きつけてやると、彼は剣士たちをねめつける。
得物を大上段に振りかぶった剣士の口中に、ウェッジの放った矢が刺さり、錯乱した彼は矢ごと、自らの舌を引き抜く。狂ったように震えた剣士は、血を吐きながら、ウェッジの腹部に剣を突き立てた。
「てめえらっ、よくもっ、よくも!」
「くっ、このやろうが!」
反転して、突進したジュリだが、剣士の、ガントレットによる一撃をこめかみに食らって、糸が切れたように、その場に倒れ込んだ。
中庭で戦うガランには、ウェッジとジュリの姿が見えていた。
「なっ、こいつ、まだ動けるのかよっ」
ウェッジが剣で貫かれる様も、動かなくなったジュリの姿も、見えていたのだ。
ガランは歯を強く噛み合わせて、獣のような唸り声を発する。彼の四肢は傷つけられており、ただ、立っているのですら奇跡のような有様だった。ガランを囲んでいる者たちは、ごくりと唾を飲み込む。
「……バケモノだ」
誰かが呟き、誰かの手首が切り落とされた。
「がああああああああっ、ああああああああああああああ――――ッ!」
「うっ、うわっ、やれよ! 早くこいつを殺せって!」
ごめん。
ごめんな。
助けてやれなくて、ごめんな。
心中で詫びながら、ガランは目に映るモノ全てを切り、払い、貫いていく。逃げ惑う者の背を刺し、近づいてきた者の胸を突き、彼は返り血を浴びながら、吠え声を上げた。
けだものと化したガランは次なる獲物を見定めるも、既に、肉体は限界であった。彼は折れた剣を杖代わりにするが、四方から矢を射掛けられ、うつ伏せに倒れ込む。血が口内を浸していた。ガランは唾と共にそれを吐き出し、最後の力を振り絞って、上半身を起こす。空を見上げれば、月が煌々と輝いていた。中庭から眺めるそれは、とても懐かしいもので、黒煙と紅色の業火は、今の彼の目には映らなかった。
「……ごめんな」
ガランの意識は、そこで途絶える。最後の最後まで謝り続け、仲間を守ろうとした彼は、息絶えてからも剣を握り続けていた。
恐らく、トーマはまだここに残ろうとするだろう。レオも、彼の意見に同調するかもしれない。しかし、ここが潮時だとレイネは判断していた。
レイネたちは、突風同盟を襲ったであろう者たちに見つかってしまったのである。……ここまで追っ手が来た事で、突風同盟の制圧は完了したに違いないと、レイネは判断していた。
追っ手の数は四人であり、全員が帯剣している。彼らは遠巻きにレイネたちを見ていたが、彼女らを怪しんで、とうとう声を掛けてきたのだ。
「お前ら、そこで何をしている」
トーマは返答出来るような状態ではなく、レオに喋らせるとどうなるか分からないので、レイネが率先して口を開いた。
「はあ、私たちは大陸からの旅の者です。先日から街で宿を取っていたのですが、大陸に戻ろうと馬車を待たせておいたのです」
「……こんな時間にか?」
「街の雲行きが怪しいものですから」
追っ手の中で、一番の年長者がレイネと対峙している。彼は顎鬚を弄りながら、注意深くレイネを観察していた。彼女は薄い笑みを顔に張りつけている。
「ふむ。悪いが、少し話を聞かせてもらう。故あって、俺たちはここから、とあるギルドの者たちを逃がすわけにはいかないのだ」
「ええ、少しでよろしければ」
レイネは腹に力を込めた。自分を犠牲にしてでも、レオの命だけは救わなければならないと、彼女は、申し訳なさそうにトーマを見遣った。




