路地裏の不良少女
トーマが街に来てから、二ヶ月が経とうとしていた。突風同盟での寮暮らしにもすっかり慣れた彼は、食堂での手伝いに精を出し、また、班員に付き合って依頼を受けながら、穏やかな日々を過ごしていた。
慣れれば、時が経つのを早く感じる。村でののんびりとした生活では考えられない喧騒や、慌しさに追われていたのも、今では懐かしく思えた。自分は街で生きていられる。少しばかりの自信がトーマと言う少年を成長させていた。
突風同盟の中庭には掲示板があり、その前には依頼を受けようとする者たちが人だかりを作っていた。人垣の間を掻き分け、ぴょんぴょんと飛び跳ねているのはトーマである。彼は竜人族の男に肩を押されて、尻餅をつきそうになっていた。
諦めて、トーマは身を低くしながら人波を抜け出す。
「何をやっているのだ、農民」
トーマを迎えたのは、呆れ果てた様子のレオだ。彼は腕を組み、依頼内容の書かれた紙に我先にと群がる人々に目を遣る。
「きょ、今日は何だか人が多くて」
「見れば分かる。くっ、これでは良いものはすぐに奪われてしまうではないか。貴様、この俺にまた荷物運びをさせるつもりなのか。アレは駄目だ。アレは俺のやる仕事ではない」
「そ、それじゃあ、君が行きなよ」
その場に座り込み、トーマは息を整えようとした。が、レオはすぐさま彼を立ち上がらせる。
「何でも良いから持ってくるのだ! それまでは休む事を禁じる!」
「勘弁してよ……あれ? あそこにいるの、プリカさんじゃないかな?」
「む、俺には見えんぞ。どこだ?」
トーマはプリカのいる方を指差したが、レオには彼女の姿が見えない。
「あ、ほら、出てきた」
「目ざとい奴だな」
ラフな格好をしたプリカは、依頼の紙に手を伸ばそうとする男女から逃れるようにして現れる。彼女は小さく舌打ちして、人ごみを強くねめつけていた。トーマは少し躊躇したが、プリカの名前を呼ぶ。彼女は顔だけを彼の方に向けると、薄い笑みを浮かべた。
「……依頼を受けに来たのか?」
「そうなんですけど、今日は人が多くって」
「ああ、昨日くらいからだったかな、新しい依頼が入ってきてるからね。皆、楽に稼げるものを探しているのさ」
レオの耳がぴくりと動く。彼は、楽に、と言う言葉に反応したのだ。
「ふん、くだらん。バーンハイトが進むは茨の道よ。楽をして稼ごうなどと、万死に値する」
「……トーマ、私が何か取ってきてあげようか?」
「え、そんな、悪いですよ。人が少なくなったら自分で行きますから」
「遠慮するな。どんなものが良い?」
無視されて、レオは怒りを露わにする。地面を強く踏みつけ、指を差して喚く。
「……おい、私はお前が嫌いだ。可愛げのない新人は、私にとって必要ない」
「貴様に必要とされなくても構わん。行くぞ農民」
「ど、どこに?」
「知るものか!」
「……気にするな。何なら、私と一緒の依頼を受けるか? ギナ遺跡でカントリーワームを捕獲するだけの簡単な仕事だ」
トーマはレオとプリカを交互に見る。頭を抱えたくなって、ついでに言えばここから逃げ出したくなった。
結局、トーマは逃げ出してしまった。どうして、レオとプリカは仲が悪いのだろう。仲違いをしている訳ではなさそうで、仲直りをさせるほどこじれてもいない。相性が悪いのだと、トーマの思考はどうしようもないところへと落ち着いた。
トーマは一人で、宿屋の店主に頼まれた遣いをこなし、突風同盟の寮に戻ろうとしていた。
ふと、トーマは足を止める。賑わう石畳の表通りから視線をずらせば、薄暗い裏路地が目に付いた。酒場と宿屋の間、小さな男の子が壁に背を預けて座り込んでいる。……突風同盟のようなギルドに属せば、衣食住は保障される。だが、小さなギルドに属する者、そこを追い出された者や、最初からプレイヤーを選ばない者、選べない者の中には、路上での生活を強いられる者もいた。
街は自由だ。縛られる事もなく、律される事も滅多にない。全ての責任の所在は、自身にある。結果の全ては自身に帰結する。助けられる事がないなら、助ける事もない。当たり前の中に埋没しつつある意識を、トーマは無理矢理に覚醒させた。そうして、どうする事も出来ないのだと気付く。ここで男の子にパンを与えたとしても、明日もパンを持ってこられるかどうかは分からないのだ。
「おい、店ん前でぼっと立ってんじゃねえぞ」
「あ、す、すみません」
酒場に入ろうとする大柄な男に肩を押されて、トーマは歩き始める。男の子の姿は、頭から離れてくれなかった。もしも突風同盟に入っていなければ、自分も、ああなっていたのだろうか。
「ただいま」部屋には誰もいなかった。トーマは息を吐き出し、ベッドの上で横になる。まだ夕食にも早い時間なので、少しだけ眠ろうと考えたのだ。
瞼を閉じれば、やはり、路地裏に座り込む男の子が浮かんでくる。忘れようとしても駄目だった。こんなに思い悩むなら、声を掛けていれば良かったんだと、トーマは自分を責める。どうせなら、誰かが戻ってきて欲しかった。話さえしていれば、その時だけは嫌な事を忘れられる。彼は扉に視線を向けて、瞼を擦った。
体を揺さぶられる感覚で、トーマは目を覚ました。
「…………起きたか」
「あ、れ? ウェッジ、どうしたの?」
いつの間にか眠っていたらしい。陽はとうに落ち、室内は寝る前よりも暗くなっていた。
ウェッジはトーマから離れて、腕を組む。彼は困ったような表情を浮かべていた。
「あ、晩ご飯、食べた?」
「……いや、まだだ。それよりもジュリが戻らない」
「ジュリが?」
団体行動が不得手なガラン班の中でも、ジュリは一人で行動するのを好んでいる。彼女が部屋に帰ってこない日も今までにあった事を思い出して、トーマは首を捻った。
「いつもの事じゃないか」
「…………忘れたのか。明日は班長と共に塔へ向かうんだ」
「あ、そ、そうか。そうだよ。……でも、今ってそんなに遅い時間なの?」
「既に日を跨ごうとしている」
トーマの意識が急速に覚醒していく。彼はベッドから跳ね起きて、窓に目を向けた。
「……ジュリは自分勝手だが、班で動く時にはちゃんとしていた筈だ。まあ、文句こそ、言うがな」
「そう言えば、レオは?」
部屋には自分とウェッジしかいない。まさか、レオまでどこかへ行ってしまったのだろうかと、トーマの心は不安の色に染まっていく。
「いや、班長やレイネさんたちと街へ出ている。俺たちは留守番だ」
「あ、その……」
「気にする事はない。入れ違いになる可能性もあるからな」
ウェッジは自分のベッドに戻るも、腕を組んだままだった。
「…………正直、俺はそこまで心配していない」
「ジュリを?」
「あいつは街の出、だからな。ガラン班の中でなら、一番世渡りに長けている。ふ、まさか、街で迷う事もないだろう」
ならば、何故彼女は戻らない。トーマの心は千々に乱れる。
「ここが嫌になっちゃったのかなあ」
「…………いや、荷物はそのままだ。戻るつもりはあるのだろう」
「あ、そっか。って、なんだ。ウェッジだって心配してるんじゃないか」
トーマがそう言うと、ウェッジは頭をかき、低く唸った。
「仲間だからな」
ウェッジだけでなく、トーマも照れ臭くなってくる。けれど、悪くはない気分だった。
何も起こっていないと、そう信じたい。ジュリならば、自分のようなへまはしない筈だと、トーマは必死に言い聞かせる。
「僕も、探しに行くよ」
「…………そうか。気をつけろ、夜の街はごろつきも多い。絡まれるなよ」
「う、うん」
しかし、ここでじっとしているのは耐えられなかった。トーマはウェッジに留守を頼み、部屋を飛び出した。
中庭に出ると、レイネがベンチに座っているのが見えた。彼女は近寄ってくるトーマに気付くと、柔和な笑みを浮かべて小さく手を振る。
「お目覚めになられたのですね」
「ごめんなさい、僕だけ寝ちゃってて」
「いいえ、お疲れだったのでしょう。……申し訳ございません。ジュリさんはまだ……」
レイネは申し訳なさそうに目を伏せた。
「街を探してはみたのですが、何分、地理には明るくないものでして」
「謝らないでください。たぶん、ジュリは」
街で生まれ育ったジュリは多くの裏道を知っている。彼女が本気で姿をくらますつもりなら、自分たちには見つけられないと、トーマは分かっていた。だが、ジュリにそのつもりがないという事を彼は信じている。
「僕も今から探しに行きます。レイネさんは休んでてください」
「では、お言葉に甘えさせていただきます。坊ちゃまとガランさんも街にいるはずですから、何かあれば、その、坊ちゃまをよろしくお願いします」
頷き、トーマは街へと飛び出した。
陽はとうに落ち、街には夜の帳が下りている。だが、そこかしこに点在する酒場からは明かりと喧騒が漏れ出していた。トーマは表通りをひた走っていたが、ジュリを探すのなら裏道に足を向ける必要があると思い直す。
裏道には、一切の明かりがない。舗装こそされているが、ゴミが散らばり、道を進めば悪臭が漂っている始末だった。鼻をつまんでいたトーマだが、奥へと入り込むにつれ、嗅覚が麻痺しかかっているのに気づき、やがて諦める。
「……子供が」
ぼそりと呟くと、道の端に寝転んでいた少女が体を起こした。彼女の目は闇の中で爛々と輝き、トーマを値踏みしているようでもある。彼は気おされまいと、腹に力を込めて歩き続けた。まるで別世界に迷い込んだ気分になっていた。同じ街の中であっても、差はある。今の今まで訪れなかった街の部位を垣間見て、トーマの気は鬱々とし始めた。あてはない。しかし、この夜の中にジュリがいると考えて、彼は歩き続ける。
小一時間は裏道を進んでいただろうか、トーマは、音を聞きつけた。酒場からの喧騒ではない。問い詰めるような、鋭い声が聞こえたのである。そこにジュリがいるとは限らない。しかし、トーマの足は声の聞こえた方へ自然と伸びていた。
そして、トーマは息を殺す。角を曲がった行き止まりに、何かがいた。暗がりの中、三人分の人影が見えたのである。二人の女が、何者かの胸倉を掴み、罵声を浴びせていた。
「やれよ」と、そう言ったのは間違いなく、トーマの探し人である。彼は息を呑み、赤毛のジュリを確かに認めた。トーマは、彼女が危険な目に遭っていると思い、すぐに出て行こうとしたが、何故か足は動かなかった。決して盗み聞きするつもりなどなかったが、彼の思惑を無視し、ジュリの胸倉を掴む女は口を開いている。
「戻ってきなよ、ジュリ。いつまであんなところでいい子ちゃん気取ってるつもりだ? あんたにゃ似合わないよ。日陰者が無理したって、折れるに決まってる。そうだろ?」
「だから、やれって言ってんだろ。オレはもう、てめえらと一緒にゃならねえってんだ」
「……冗談きついぜ。たった二ヶ月で毒気抜かれたってのかよ。私の知ってるあんたは、そんな甘ちゃんじゃない。なあ、何かの間違いだよな? そうだよね、ね、ジュリ?」
ジュリを問い詰めている女は、焦っているようにも見えた。会話の流れから考えて、女はジュリの昔の仲間と言うやつなのだろうと、トーマはあたりをつける。そして、女はジュリに戻ってきて欲しくて、当のジュリは誘いを拒んでいるらしかった。
――――ジュリが、いなくなる?
トーマの胸がちくりと痛んだ。しかし、一方で仕方がないとも思っていた。ジュリは恐らく、自分たちガラン班を、突風同盟を、何とも思っていないのだろうから。懐かしさに駆られれば、彼女はきっと突風同盟を抜けるだろう。
「うぜえ目で見んじゃねえよ。笑わせるぜ、仲間みてえなんがくだらねえだの抜かしてたてめえがよ、さっきからぐずぐずとさ。振られ女よりもタチが悪いったらねえわ」
「……っ、ジュリっ」
ぱあん、と、路地裏に乾いた音が響いた。
「拍子抜けだぜ」
ジュリはにいいと口角を吊り上げ、すぐそこにある女の顔をねめつける。
「平手なんかでオレが折れると思ってんのか? だから、やれよ。その為に連れてきてんのがいるじゃねえか。なあ」
もう一人、先から口を開かなかった女がいた。彼女は、その手に何かを握っている。
「ジュリ、意地張んなよ。私の気持ちが分からないってんなら、そうする。けど、別にあんただって怪我したくねえし、死にたくねえだろう。ウチら抜けるってのがどういうことか、あんただって……」
「だからさあ! やれってんのがわかんねえのか!? オレはぐずぐずやんのが嫌いなんだよっ、エモノがあんなら抜けよ。したらオレも遠慮なくこいつを抜くからよ」
「……ジュリ。ジュリ。ジュリ」
女はジュリから離れて、呆然とした様子で彼女を見つめている。
トーマは、場が剣呑な雰囲気に整えられるのを感じていた。このまま放っておけば、確実に誰かの血が流れるのだと悟ってしまう。
「オレは戻らねえ。あんたはオレに戻って欲しい。意見がかち合ったんならやることは一つだって、あんたが言ったんだろうが。地べた舐めた方が引きずられるって、あんたが言ったんだろうが」
女はしばらくの間無言でいたが、覚悟を決めたのだろう。やれ、と、傍らに控えていた女に、小さく告げた。
女が握っていたのは、巨大な鋸であった。彼女はそれを、一切の躊躇なくジュリに向けて、薙ぐようにして払う。もうダメだと、トーマは叫びながら、物陰から姿を現した。彼の登場に、鋸を持った女が反応し、ジュリから距離を取る。
「そんなもの振り回して、何をっ」
「撤収する」と、鋸女は、行き止まりだと思われていた壁に取り付くようにして飛びつき、そこを易々と乗り越えていってしまった。すわ戦闘かと思っていたトーマは弛緩し、息を吐き出す。その場に取り残されたもう一人の女は、ジュリとトーマを見比べた後、心底からつまらなさそうに鼻を鳴らした。
「そいつが、今のあんたのお仲間ってわけかい、ジュリ?」
「失せてろよ。今のオレに、あんたは必要ない。お人形さんが欲しいってんならよそ当たんな」
「……突風同盟って言ったっけ。そこにいる限り、あんたは必ず後悔するよ。覚えときな」
女は今一度トーマに視線を遣った後、彼の脇を抜けて、その場を立ち去る。路地裏には静寂が戻り、トーマは汚らしい壁に背を預けた。
「ああ、よかった」
その言葉を聞きつけ、ジュリは眉間に皺を寄せる。
「……よかった、だ? てめえ、いきなりしゃしゃり出てきやがってよ。何? なんなんだ、お前? 何様のつもりなんだよ」
「だって、君が危ないと思ったから。それに、夜中勝手に出歩いて……」
「だからっ、そんなのオレの勝手だろ。オマエに詮索される覚えはねえんだよ」
「でも、仲間だと、思ったんだ。僕は、ジュリのことをほっとけないって。君がいなくなったら困るって、嫌だって、そう思って……ごめん。迷惑だったね」
トーマには、裏がない。自分とは違う。二ヶ月も共に過ごせば、他人に興味のないジュリとて、彼の人となりが分かる。彼が心底から自分を心配して、仲間だと思っているのは、紛れもなく本当なのだ。
そうか、と。ジュリは口中で呟き、小さく笑んだ。
「何が仲間だ。くだらねえ」
ジュリはトーマの肩を叩き、彼に背を向ける。
「ねみい。帰ろうぜ」
「う、うんっ。そうしよっか」
毒気が抜かれたと言われた。突風同盟に来た事を後悔する時もある。しかし、少なくとも今は、悪い気はしていなかった。素直でないジュリは、決して、ありがとうなどとは言わないけれど。けれどきっと、トーマにはこの気持ちを見抜かれているのだと、彼女は、やはりくだらないと笑った。