赤毛のジュリ・2
マッドボアはトバの森に生息する、イノシシ型のモンスターである。このモンスターは体温調節や、外部の寄生虫を体から落とす為に泥浴、水浴を好むのだ。その為に水辺の近くに巣を作る。
トーマたちはマッドボアの牙を得る為、ジュリが見たと言う小川を探して森の中を歩き回っていた。
「そろそろ見えてくるんじゃないかな」
「あ? どうして分かるんだよ」
トーマは草木を掻き分けながら、まっすぐに指を差した。
「臭いがする。水の臭い。それから、音も聞こえてこない?」
ジュリは疑い深そうに目を細めた後、つまらなさそうに首の骨を鳴らす。
「しない。何お前、豚か何かなの?」
「……違うよ」
「あっそ。まあ良いや、とっととモンスターぶっ殺しに行くとしようぜ」
「あっ、ちょ、ちょっと」
すぐそこに目的地があると言われて、ジュリはやる気を取り戻した。彼女はトーマよりも前に出て、雑な手つきで草を退かしていく。
やがて、彼女らは開けた空間に辿り着いた。
「……へえ」
トーマの言った通り、そこには小さな川が流れている。切り開かれた道を通らなかった為か、人の手が付いていない場所に見えた。
「ほら、言ったでしょ」
「偉そうに吠えてんじゃねぇぞ。川を見つけても、マッドボアを見つけなきゃ話にならねぇんだからな」
ジュリは周囲を見回す。あるものを見つけて、彼女の表情は愉悦に染まった。
「見ろよ」と、トーマはジュリに示された場所を見て不思議そうに瞬きを繰り返す。が、何かに気付いたのか得心したように頷いた。
「そっか、ここで泥を浴びてったのか」
「ヒヒっ、まだ乾いてねぇぜこの跡。ツイてやがる、豚野郎は近いぜ」
「どうするの、ここで待ち伏せするの?」
「めんどくせぇ、オレたちから会いに行こうぜ。ま、出会ったら出会ったらでモンスターは即、死んじまうだろうけどよ」
その自信はどこから来るのか。トーマはジュリを羨ましく思いながら、溜め息を吐く。
「じゃ、こっちから行くか」と、ジュリが草むらを指差した瞬間、がさりと物音が聞こえた。二人は息を飲み、立ち尽くす。
草むらから現れたのは、トーマとジュリを合わせたよりも大きく、重そうなイノシシだった。茶色い毛は泥に塗れて、しかし牙はぎらりと鈍い色を帯びている。縄張りに侵入したモノを見て、モンスターの鼻息は荒くなっていた。このモンスターこそ、トーマたちの求めていたマッドボア、である。
「あ、う……」
動揺するトーマをよそに、ジュリは川下に向かって逃げ出していた。
「そっ、そんなあ!?」
置いていかれた事よりも、これから自分はどうなってしまうのだろう。トーマはスコップを構えたが、
「――――――!」
「なっ、ざけんなよおい!」
マッドボアはジュリを追い掛け始めた。どうやら、動いたモノに闘争本能を刺激されたらしい。
水音を立てながら逃げ続けるジュリに、彼女を追い掛けるマッドボア。今なら自分だけは安全に帰られる。と、一度はそう考えたトーマだが、今にも殺されてしまいそうな人間を見捨てる訳にはいかない。同じ班の者なら尚更だろう。
尤も、走り出したのは良いのだが、足の速いジュリと、彼女を追い掛けるマッドボアには中々追い付けなかった。それどころか、背中を完全に見送ってしまう有様である。
「……と、途中で曲がれば良いのに」
トーマは息を切らしながら川を下っていく。恐慌の極みにあるジュリの叫びや水音は聞こえているので、まっすぐ進めば間違いはない。しかし、いつまで走り続ければ気が済むのか。
突風同盟の敷地内にある中庭、ここに設置された掲示板を睨み付けている者がいた。レオである。彼は鎧を着込んでおり、いつでも依頼を受けられるような状態であった。
「……ない」
しかし、レオが受けようとしていた依頼の紙はなくなっていたのである。彼よりも先に、誰かがその依頼を受けてしまったのだろう。
「くうう、このレオ・バーンハイトが先を越されるなどと……っ! ……む?」
怒りに震えているレオの肩が叩かれる。彼が振り返ると、そこには同じ班のメンバーであるウェッジが立っていた。
「おお、射手ではないか」
ウェッジは自分が射手と呼ばれる事に慣れていないのか、少しだけ戸惑っているような素振りを見せる。
「どうした? む。ところで射手、弓を持ち出してきているようだが、貴様どこかへ行っていたのか?」
ウェッジは首を横に振る。
「ふむ、つまり、今から出るところか。依頼を受けているのか?」
またもや首を横に振られた。レオはううむと唸り、
「ああ、そうか。今から依頼を受けるところだったのだな」
正解を引き当てた。ウェッジは首肯し、掲示板に視線を向ける。
「貴様も目当ての依頼がないらしいな。どうだ射手、俺と組まぬか? このレオ・バーンハイトと組める機会など滅多にないぞ」
「…………構わない」
「ならば決まりだ。手近なところでバルボロ火山のドラゴンを狩りに行くとしよう」
ウェッジは急いで首を振る。手近どころか、二人で行っても道中で力尽きてしまうだろう。
「二人では心許ないか。では別の者にも声を掛けるとしよう。……おお、都合が良い奴らがいたぞ」
レオが指差すのは、黒い屋根の寮に向かって歩いていくガランたちである。彼だけではなく、自分たちの入団試験の際に試験官を務めたコビャク、プリカもいた。見た事のない男が二人いるが、あの集団にいると言う事は彼らも腕に覚えがあり、認められた者なのだろう。
「…………班長たちを?」
「うむ、奴らなら腕に問題はあるまい?」
問題は別のところにある。どうやって言い聞かせようかウェッジは悩んでいたのだが、レオはとっくに走り出していた。
「おい貴様ら! 光栄に思うのだな!」
遅かった。ウェッジはうなだれて、事態の推移を見守る事にする。
「おう、レオじゃねえか。どうしたんだよ」
「喜べガラン、今から俺たちは依頼を受ける。ふふん、貴様らを俺たちのパーティ、その末席に加えてやろうと言っているのだ」
レオの言葉を聞いたプリカは露骨に嫌そうな顔をして、彼に背を向けた。コビャクたちは顔を見合わせて苦笑する。まるで相手にされていなかった。
「依頼ねえ。ま、頑張っているようで何よりだ」
「……放っておけガラン、そいつの話を聞いていると苛々してくる」
「何だと女ぁ! 俺の好意を無下にするつもりなのか!」
プリカは目を細めて、周囲に視線を向ける。
「……ん、トーマはいないのか?」
「ふん、今頃農民は野菜の皮を剥いているだろう。奴にはお似合いだな」
「……なら、私はこれ以上お前とは関わらない。御者のいない暴れ馬などモンスターと変わらんからな」
それだけ言うとプリカはさっさと寮に戻ってしまう。
「馬などどこにもいないではないか。良く分からない女だな」
「あー、レオ……」と、ガランは頭に手を遣りながら口を開く。
「依頼を受けるのは良い。まあ、俺も手伝ってやっても良い。で、何をするつもりなんだ?」
「ドラゴン退治だ」
ふざけるなだとか、舐めてんのかてめえなんて怒号が飛び交う中、ウェッジはその場をひっそりと立ち去った。
声が途絶えた。マッドボアのものらしき足音も聞こえなくなった。トーマは辺りに気を配りながら、慎重に歩を進めていく。
「……おい、こっちだ」
振り返っても誰もいない。上を見ると、木の枝に腰掛けたジュリがいた。彼女は疲れた様子でトーマを見下ろしている。
「良かった、生きてたんだね」
「オレを勝手に殺すんじゃねぇよ」
ジュリはそこから飛び降りて、息を吐いてしゃがみ込んだ。トーマが見たところ、彼女は疲れているだけで怪我らしい怪我もしていない。
「急に逃げるから、モンスターもびっくりして追い掛けていったんだよ」
「チクショウあの野郎、次見つけたら切り刻んでやらぁ」
「大口叩いてたけど、僕を置いて逃げ出したじゃないか」
「お前の足がおっせぇんだよ。ちっ、あーあーめんどくせぇなあ。もう帰っちまうか」
その意見には賛成だ。しかしと、トーマはモンスターの去っていった方に目を向ける。
「また戻ってくるんじゃないの?」
「その前に森から出りゃ良いじゃん。頭使えよお前」
ジュリは両腕を伸ばしてだるそうに歩き始めた。
「帰るんならそれで良いけどね。僕も恐かったし」
ぴくりと、ジュリは足を止める。トーマの言葉に反応したらしかった。
「『も』、じゃねぇよ。恐がってたのはお前一人だろ」
「そっちだって恐がってたじゃないか。真っ先に逃げ出したくせに」
「……へえ、やろうっての?」
トーマは詰め寄ってくるジュリから距離を取る。
「やっ、やらないよ! とにかく早く帰ろうってば」
睨み合い、やがて二人して歩き出した。ここで争っている事の無駄さに気付いたのである。
が、背後から近付いてくる狂暴な足音にトーマたちの体が固まった。
「じゃあな、生きてたらまた会おうぜ」
言って、ジュリは走り出す。トーマも後を追い掛けるが、先に捕まるのは自分なのだ。ならばと、彼は立ち止まってスコップを構える。
「はああ!? お前イカレちまったのか!?」
「違うよっ、僕は逃げ切れない。だから……!」
ジュリは立ち止まり、ナイフに手を遣って思考を巡らせた。足音は迫ってきて、泥塗れのマッドボアが見えてくる。トーマは覚悟を決めたらしく、前方を強く見据えていた。
「……っ、うっぜぇ! 逃げりゃ良いだろうが!」
「依頼を受けたんだろ。依頼は、約束なんだ。顔も見えないし、知らない人の頼みでも、でも叶えてあげなくちゃ!」
「きっ、た……!」
マッドボアがトーマを完全に捉えた。標的を見つけたモンスターは勢いを増して小川の水を跳ね上げる。
「う、わあああっ!」
スコップの腹にマッドボアの頭が激突した。衝撃に押し切られたトーマは弾き飛ばされて、小川に体を浸す。彼は必死に起き上がって、モンスターの追撃を躱した。
勢い余ったマッドボアは川底の石に足を取られてバランスを崩す。その隙を見逃さず、トーマがスコップを叩きつけた。
「――――ッ!」
苦悶の叫びを上げ、マッドボアは体を揺さ振る。
「こんのぉ……!」
トーマが再度スコップを振り上げた。だが、がら空きになった腹にマッドボアの頭突きが入ってしまう。彼は短く呻き、体をくの字に曲げた。そこに迫るのは、モンスターの牙である。
「……うぅ」
眼前にある牙を見てしまい、トーマは目を瞑った。
「何やってんだよ!」
「ジュリっ」
マッドボアの腹に、ナイフの刃先が突き刺さっている。ジュリは柄を握る手に力を込めて、傷口を抉るように回した。モンスターは頭を上げて苦しそうに呻く。
「鈍くせぇんだよお前」
「ごめん」と、トーマはジュリの隣に並んだ。
ダメージを負ったマッドボアは体を揺さぶるのを繰り返す。怒りに震え、敵であるトーマたちを睨んだ。
「どうするの?」
「決まってんだろ、殺すだけじゃねぇか!」
ジュリは、向かってくるマッドボアの鼻先に足を当てて飛び上がる。
「ヒャッホウ!」
モンスターの背にナイフを突き入れ、腕を下ろしたまま駆けた。真一文字に肉を裂き、ジュリはマッドボアから飛び降りる。僅かに上がる血飛沫が、小川を朱に染めていた。
トーマはマッドボアをスコップの腹で押さえ付けて叫ぶ。その声に応えたジュリが再びモンスターの背に乗り、
「アハハハハっ、じゃあなー」
マッドボアの頭部にナイフを振り下ろした。モンスターは死に物狂いの抵抗を見せるが、トーマは一歩も引かない。
「まだ足りないよおっ!」
ジュリはベルトに提げていた鞘から二本目のナイフを引き抜いた。それを一本目の近くに深く突き立てる。マッドボアは痙攣を繰り返していたが、まだ息がある。
「ジュリぃ!」
顔面に返り血を浴びながらで、彼女は咆哮を上げた。モンスターの体の上だと言うのに足を天に向けて、ナイフの柄に踵を落とす。より強い力が加わって、肉を貫く鈍い音がした。
息絶えたマッドボアから牙を削り取ると、そこでようやく人心地がついたらしい。ジュリは小川の水で顔に付いた返り血を洗い流す。
「くそ、取れねぇ」
「僕はもう諦めたよ。……それよりさ、これ持って帰っても良いのかな?」
トーマが指差すのはマッドボアの死体である。
「食べるのか、それ」
「うん、食材の足しになるかなあって。あ、大丈夫だよ、袋を持ってきてるから」
「……勝手にすれば?」
あんな重いものを一人で持って帰ろうなんてどうかしている。ジュリは呆れた風に溜め息を吐いて、足に違和を感じた。どうやら、先刻の戦闘で痛めてしまったらしい。
「依頼も終わらせたし、何だかんだで、何とかなったね」
トーマはモンスターを袋に詰め込み、それを両手に抱いた。
「それじゃあ帰ろうよ」
「……先に帰ってて良いぜ」
「えっ、と。どうして? 同じ場所なんだから、一緒に帰れば良いじゃないか」
「ごちゃごちゃうるせぇんだよ鳥かよお前。オレが帰れってんだから……」
ふと、トーマの視線がジュリの足元に向く。彼は不思議そうに小首を傾げた。
「足、何だか庇ってるように見えるけどさ、怪我したの?」
「誰かさんのケツを拭かされたせいでな」
「じゃあ、おぶっていこうか?」
「はあ?」
トーマはマッドボアの入った袋を地面に下ろした。
「別に気にしないで良いよ。ほら、ギナ遺跡でも気絶した君を運んだんだし」
「嫌に決まってんだろ。くっそだせぇ事させんなっつーの」
「でも、放っておけないよ」
「良いから行けよ」と、ジュリは面倒臭そうに手を振る。
「もしかして、気を遣ってくれてるの?」
「んな訳ねぇだろ。頭どっかおかしいんじゃねぇ? 良いか、オレはお前に背負われるぐらいなら片足だけで帰る」
トーマは困った。陽の落ちてきた森の中で、ジュリを一人にする訳にはいかない。かと言って無理に背負うのは不可能に思われた。
「……じゃあ、やっぱり僕は君と帰るよ」
「はあ? 付いてくるつもりかよ」
「だってほら、そうだよ。依頼の報酬、僕にだって分け前があっても良いじゃないか。独り占めはずるいよ」
別に分け前は欲しくなかったが、捻くれ者の彼女にはこう言うのが一番だと、トーマは内心でびくびくしている。
「それとも、やっぱりおぶろうか?」
ジュリはトーマと自分の足を何度か見比べ、
「………………だせぇから、やだ」
そっぽを向いて、ゆっくりと歩き出した。
トーマもジュリと同じ歩幅を保って、ゆっくりと歩く。
「疲れたら言ってね」
「何をだよ?」
「『オレを背負え』って」
「死んでも言わないから」
「遠慮しなくて良いのに。コレより重いって事はないだろ?」
「……怪我治ったら刻んでやんよ」
「何を……?」