新しい風
馬車と言うものは、少年が思っていたよりも快適ではなく、むしろ不愉快極まりない代物でしかなかった。初めて目にした時こそ心は躍ったが、今ではそんな自分を詰り付けてやりたいと思える。何しろ、揺れるのだ。これでもかと言わんばかりに遠慮なく、情け容赦なく三半規管を揺さぶってくるのだ。そも、舗装されていない悪路を走れているだけ奇跡なのである。村に到着した幌馬車の荷台に乗り込んでから一時間。少年の体調は時間の経過と共に悪化の一途を辿っていた。
「う、うう……」
「おい、吐くなら外に吐けよな。ここで吐いてみろ、その時はお前叩き落すぞ」
同乗者である青年が心底煩わしそうに言い放つ。
「す、すみ――ううっ……」
少年は風通しの良い場所で蹲り、拷問のような時間が過ぎ去るのを待った。
どうして、こんな目に遭っているのだろうと、ぼんやりと考える。否、考えるまでもなかった。何故ならば、自分で望み、選んだ道なのだから。
『しっかりやってきなさい。……駄目だと思ったら、いつだって帰ってきて良いんだからね』
母親の言葉が脳裏に浮かぶ。優しい声音はありありと思い出せた。今となっては全てが懐かしい事にさえ思える。住み慣れた村からはまだ、一時間しか経っていないのだが。
乗り物酔いに苦しんでいる少年、名をトーマと言った。彼はこの大陸の北部に位置する村の出身で、こうして馬車に乗っているのは中央の街まで仕事を探しに行く為なのである。一旗揚げて、故郷に錦を飾ろうなどと大それた事は考えていない。ただ、貧しい村で暮らす皆の生活が少しでも潤えば、そう思っていた。もっとも、今はひたすらに、一心になって祈るのみである。早く、この悪夢が終わる事を。
きつく目を閉じ、外界からの情報を遮断してからどれくらい経っただろうか。振動が収まっているのに気付き、トーマは顔を上げる。
「お目覚めかい。いや、若いってのは素晴らしいわな」
御者を除いた唯一の同乗者である青年がからからと笑った。
「……あの、どうして止まっているんですか?」
「外を見てみな」
トーマが恐る恐る尋ねると、青年は先の態度と比べれば驚くほど親しみやすい表情を浮かべる。
「あ、真っ暗だ」
ここがどこなのかは分からないが、今がいつなのかは分かった。
「ジッポウさんが火を起こしてくれてる。若いんだ、手伝ってくればどうだ?」
「ジッポウ、さん?」
「……御者だよ、御者。乗り込む時に挨拶してなかったのか?」
トーマは恥ずかしそうにうつむく。しまった。やってしまった。これではまるで――実際そうなのだが――礼儀を知らない田舎者である。
「じゃあ尚更行った方が良いな。『ここまで運んでくれてありがとうございます』って言うんだぞ」
「い、言えますよそれくらいっ」
青年は楽しそうに笑っていた。旅が一段落つき、張り詰めていたものも弛緩したのだろう。さっきまで感じていた居心地の悪さもなくなり、トーマの乗り物酔いはすっかり消えてなくなっていた。
馬車の荷台から降り、地面に足を着ける。生き返った気がして、トーマの頬は自然と緩んでいた。
「んん……」
十六年の間、トーマは村を出た事がなかった。大人に混じって近隣の森へ狩りに行った経験はある。だが、ここは全く知らない土地だ。風の音。草木の匂い。土の感触。見上げた夜空。その全てが彼の心を震わせていた。勿論、心細さはある。しかしそれ以上に期待感、高揚感が勝っていた。新しい生活が始まるのだと、トーマははっきりと自覚する。
「やあ、体調は良くなったみたいだね」
人の良さそうな中年の男がトーマに近付いてきた。彼が青年の言っていた、御者のジッポウだと気付いてトーマは頭を下げる。
「は、はい。お、お陰様で……?」
「はっはっは、済まないね。この辺りの道は少しばかり難しい。揺れてしまうのは、まあ諦めて欲しい。サリーとドライもこんな道が続いて機嫌が悪いみたいだしね」
サリー。ドライ。聞き慣れない名前にトーマは首を傾げた。もしかして、気付かない内に誰かが馬車へ乗り込んできていたのだろうかと。
「ああ、いやいや、馬の名前さ」
トーマはこの幌馬車が二頭立ての四輪だったのを思い出す。馬とは言え、彼らもまたこの旅路を共にする仲間なのだ。
「それよりこっちに来たらどうだい? 温かいスープとパンを用意してあるんだ」
「え、良いんですか?」
「勿論さ。短い間とは言え、私たちはパーティなのだから」
ジッポウは微笑み、トーマを焚き火まで案内する。そこには簡易に組み立てる事が可能な、木製の椅子が二つ用意されていた。それから、火にかけている鍋。僅かに漏れる香りがトーマの食欲を刺激する。
「冬本番ではないが、ここらはまだ肌寒い感じがするね」
「はい、何しろ北部ですから。あ、もう少しすれば雪が見られるかもしれませんよ」
「興味はあるが、その時に何をしているかまだ分からないな。また、別の人を運んでいるかもしれない」
スープを取り分けてやると、ジッポウはトーマにカップを差し出した。
「ありがとうございます。……あの、ジッポウさんはずっとこのお仕事を?」
「ああ、そうだよ。そうだね、かれこれ、もう三十年ぐらいかな。仕事ってのは何だってそうだとは思うけど、この仕事も最初の頃は辛くてね。それでも、君のように若く、夢を見る子の最初の手助け、街までの案内をしてあげられる」
「そう思えばなんて事はないよ」と付け足し、ジッポウはスープに口を付ける。
「そう言えば、君――ええと……」
ハッと、トーマは顔を上げた。自分の名前を伝えるのを失念していたのである。
「あ、ごっ、ごめんなさい。僕はトーマと言います。そのう、今まで名乗らなくて、ごめんなさい」
「はっはっは、いやいや、気にする事はないよ。そうか、トーマ君と言うのか。うん、トーマ君は旅をするのは初めてなのかい?」
からくり人形のように何度も頭を下げるトーマを見て、ジッポウは思わず噴き出してしまった。
「はい。旅、と言うより村を出たのも初めてなんです」
「そうだったか。旅はまだ始まったばかりだ。荷台で揺られているだけとは言っても体力を使う。休める内に休んでおいた方が賢いね」
今日の醜態を嫌でも思い出してしまい、トーマは俯く。
「えーと、はい。そうさせてもらいます。……あの、ジッポウさんは?」
「私はここで火の番だ。ガラン君と交代でね」
「ガラン……? えっと、あのお兄さんの事ですか?」
「なんだ、自己紹介をしていなかったのか。うん、そうだよ。彼も君と同じで街まで行くらしい」
しまった。またもややってしまった。トーマは深く恥じ入り、自らの頭を小突く。
「何、さっきも言ったが旅は始まったばかりだ。うん、このスープをガラン君にも届けてくれたまえ。そこで改めて自己紹介すれば良いだろう」
「あの、何から何まで。本当にありがとうございます」
トーマがそう言うと、ジッポウはやはり気にする事はないと笑みを浮かべるのだった。
「やーっと名乗りやがったか」
「えっと、ごめんなさい」
ガランと名乗った金髪で長身の青年は皮肉っぽい笑みを浮かべた。
「ま、さっきまでゲロゲロだったからな」
「吐いてないです」
「似たようなもんだろ。それより、このスープは美味いな」
腹が減っていたのか、カップになみなみと注がれていたスープとパン二つを瞬く間に平らげると、ガランは満足そうに腹を摩った。
「あの、ガランさんも街に行くんですよね?」
「そりゃそうだろ。その為にこの馬車乗ってんだからよ」
ごろりと横になるガラン。
「あー、そ、そうですね」
「用がないなら俺は寝るぞ。番が来るまでまだ時間はあるしな」
「あっ、あのっ、僕も番を……」
「お前、いくつだ?」
突き放されるような口調に躊躇したが、トーマは十六と正直に答える。
「は、まだまだガキじゃねえか。ガキは大人しく寝てろ。それとも、また今日みたいにゲロ吐きたいのか?」
断じて吐いていない。が、明日はどうなるか分からないのだ。まだ眠気は訪れない。それでもトーマは頭から毛布を被り、やがて訪れるであろう睡魔を待った。
目が覚めると、荷台には自分しかいなかった。耳を澄ませば、外から声が聞こえる。ガランとジッポウが何か話し合っているらしかった。自分も混ざろうかと考えたが、同時に、自分のような『ガキ』が混ざっても仕方がないのではと思った。
それでも、荷台の出入り口に差し込む陽光にふらふらと誘われ、トーマは荷台を降りていく。
「やあ、おはようトーマ君。どうだい、良く眠れたかい?」
パンを片手に微笑むジッポウ。トーマの目からは、彼に疲労の色は見えない。流石ベテランの運び屋と言ったところだろうか。
「はい。その、僕だけ寝てて申し訳ないくらいです」
「いやいや、気にしないで。ああ、そうだ。あちらに小川が流れている。水は少し冷たいが顔を洗ってくると良い。その間にスープを温め直しておくから」
「おう、一人でも大丈夫か?」
「おはようございます。大丈夫です」
からかう様なガランの口振りにムッとしながらも、彼らと比べればまだまだ自分は子供なのである。大した反論も出来ないまま、トーマは小川へと向かう。
昨夜は気付かなかったが、どうやら自分たちは森の中でも少し開けたところで野営していたらしかった。周囲の木々が伐採されているのを見ると、ここは昔からこういう場所として使用されてきたのだろうと推測出来る。
そんな事をぼんやりと考えていると、さらさらと水の流れる音が聞こえてきた。歩調を速めると、温かだった空気が、ぴんと張り詰めたようなものに変わっていく。
「気持ち良さそうだな」
ぽつりと呟き、小川に指を入れてみる。ジッポウは冷たいと言っていたが、これくらいの水温は北部に住む者にとっては当たり前だった。
この川も、村に繋がっているのだろうか。そんな事を考えてしまい、トーマの鼻がすんと鳴った。その事実に気付いた彼は慌てて頭を振り、故郷への恋しさを断ち切ろうと試みる。
「僕は、これから街に行くんだ」
自分に言い聞かせる為に、一言一句、はっきりと口に出す。頬を叩き、小川に顔を浸した。
「遅かったじゃねえか。スープ、少し冷えちまってるぞ」
差し出されたタオルで顔を拭くと、次にカップが目の前に突き出された。
「ありがとう、ございます」
「おう。ああ、ジッポウさんは少し先を見てくるってよ。この先、ちっと道が荒れてるらしいんだ」
朝からげんなりとしてしまう。ガランの言い方だと、昨日よりも馬車は揺れるのだと、そう聞こえてしまうのだ。
「ま、揺れるのは午前中だけらしいけどな。午後からはもっと道らしい道に出るさ」
「あの、どれくらいで街に着くんですか?」
「この調子なら七日掛かるか、掛からないかってとこらしいな。ま、短い間だが、改めてよろしく頼むわ」
そう言ってガランは立ち上がる。
「ああ、バスケットの中にパン入ってるだろ? それ、無理しない程度に片付けといてくれや。もう持たないらしいんだわ」
「はい、分かりました。いただきます」
頷くが、あまり腹に詰めすぎては今日こそ本当に戻しかねない。出来れば、揺れませんように。酔いませんように。祈りながら、トーマはパンを一口齧った。
乗り物酔いとは、乗り物が発する振動が原因で内耳にある三半規管が体のバランスを失って起こる諸症状の事だ。また、乗り物の振動、加速、減速、カーブを曲がる際に掛かる加速度が加わり、三半規管が刺激された結果引き起こされる自律神経の失調状態である。その為、医学的には動揺病または加速度病と呼ばれる。
そんな事知るものかとでも言わんばかりに、トーマは必死になって毛布に包まり、目を瞑っていた。ジッポウが危惧していた通り、道は荒れていて、昨日よりも強く、激しい振動が体を揺さぶっている。
「……なあ、こういうのって話したりして気を紛らわせるのが良いって聞くぜ?」
情けないトーマの様子を見かねたのか、頭を掻きながらでガランが声を掛けた。
「そ、そうなんですか……?」
「今にも死にそうな声じゃねえか。……お前から話せるような状態じゃねえよな」
ガランは腕を組み、しばらくの間何かを考えている素振りを見せる。
「お前、街についてどれくらい知ってる?」
「……あ、あんまり」
「んじゃ、ま、暇だし適当に話しといてやるよ。そうだな、んじゃ、まずは……」
果たして、その話の何割がトーマの耳に入り、抜けていったのか。
七日間。
長いのか、短いのか。その期間をどう捉えるかはその時の雰囲気や気分によって変動するものだろう。楽しければ時間はすぐに過ぎていくものであるし、そうでなければ時間の進みを遅いと感じる事もあるだろう。
「見えるか?」
「はいっ」
トーマたち一行は、なだらかな丘の上で最後の休憩を取っているところだった。
目的地を眼下にしてトーマの胸は期待に高鳴る。同時に、寂しいとも感じていた。街に着けば、ジッポウともガランとも別れる事になる。もう二度と、とは限らないがこんなご時世だ。次にいつ会えるか、生きている間に巡り会えるかどうかは分からない。
「あれが、街なんですね」
「ああ、あそこに着けば旅は終わりだ」
ガランは目を細めて、街を見遣った。
「懐かしいな」
「ガランさん、昔は街にいたって言ってましたもんね」
「おお、そうなんだよ」
街にはよほど良い思い出があるらしく、昔話をするガランは子供のように目を輝かせている。
「こう見えても、俺は結構すげえギルドにいたんだ。そこからさ、人手が足りなくなってきたから戻ってくれって手紙が来たのよ」
「え? 手紙って、それだけで街まで戻るんですか?」
「ま、ダチもいるし、世話になった人もいるしな。良いぜ、ギルドはよ。組織の後ろ盾があるってのも色々と便利だけどよ、仲間が出来るってのには比べられねえな」
「仲間、ですか」
羨ましいのか、妬ましいのか分からない。トーマはガランの視線の先を追い掛け、街を睨んだ。自分にも仲間は出来るだろうか。十年、二十年経っても、子供のような、そんな輝きが残っているだろうか。
「おお、良いもんだぜ。まあ、何だ。お前にも出来れば良いな、そういう奴がさ」
村にはトーマと同年代の子供がいなかった。仲間、友人はいなかった。彼は、数年前に村から出て行ってしまった年上の女性を思い出すが、彼女は友人、仲間と呼べるような存在ではなかったのだと思い直す。
出来たら良いなと、素直に思った。
「……そろそろ行こうか?」
離れたところに座っていたジッポウが立ち上がり、トーマたちに声を掛ける。
「そっすね。昼までには街着いて、宿とか決めときたいし」
「うん、そうだね。……いや、長いようで短かった旅だった。そんな気がするよ」
「ヤだなあ、まだ終わっちゃないんですよ?」
それもそうだとジッポウは笑い、年を取ったかなと独りごちた。
御者台に戻るジッポウと、荷台に乗り込もうとするガランを眺めていると、
「あの」
トーマの口は勝手に開いていた。
二人は立ち止まり、不思議そうにトーマを見つめる。
「僕、ガランさんとジッポウさんに会えて、本当に良かったと思っています」
まだ街には着いていない。まだ旅は終わっていない。それでも、溢れ出る言葉を止めようとはしなかった。
「二人にとって、僕は初めての仲間じゃないですけど。けど、僕にとって二人は初めて組んだパーティで、初めて出来た、その、仲間だと、勝手に思ってます」
――だから。
「だからっ、その……」
「あー、いらねえよ、そういうの」
「……あ」
ガランは髪の毛を掻きながら荷台に戻っていく。
「あのな、一々口に出して言うもんじゃねえよ。すげえ恥ずかしいだろうが。なあ、ジッポウさん」
「いやいや、私は嬉しいよ。ありがとう、トーマ君」
ジッポウはトーマの頭を撫で、本当に嬉しそうに目を細めた。
「君のような若い人にそのような言葉を掛けてもらえるとは、本当に光栄だ。願わくは、忘れないでいて欲しい。トーマ、君が最初に得た仲間が私たちだと言う事を」
父とは違う掌。その感触に涙ぐみながら、トーマは頷く。
「はっ、泣いてんじゃねえよ。本当にガキだな、お前はよ。……まあ、街で会ったら挨拶ぐらいはしてやる。だから、お前も俺を見つけたら声ぐらい掛けに来い。良いな?」
街まではもう少し。旅が終わるまでもう少し。
忘れるものかと、トーマは何度も頷いた。
「さあ、出発しよう。名残惜しいが、出会いあれば別れもまた然り。なあに、きっとまた会えるさ。そうだろう?」
太陽は空の真上に陣取り、暖かな光を下界に送る。
御者が息を吐き、馬が嘶いた。幌馬車は緩やかな丘を下っていき、街を目指す。
辛い事はあるだろう。
苦しい事も起こるだろう。
それでも、きっとそれすらを忘れられるような楽しい事も経験するだろう。
若い旅人は夢想し、暫しの間目を瞑る。馬車の揺れは、もう気にならなかった。