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怪談(KとH)  作者: 佐野和哉


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5/5

あがんまの山

 奄美大島の人々は、山や水をとても大切にしている。山は水を生み出し、水は海へと流れ出て、また雨を降らせて山に還る。島の人々はその営みと恵みのなかで生きている。それは遥か昔からの信仰でもあった。

 Hの家にも水神様を祀る祭壇があり、昔は庭に井戸も引かれていたという。その井戸のあった広い庭の片隅を寝転びながら見るともなしに見ていたHがおもむろに起き上がった。強烈、かつ濃密な陽射しが螺旋を描いて降り注ぐ、ある晴れた夏の日。

 正座して神棚を背にして神妙な顔になって、同じく寝転んで漫画を読んでいるKに迫る。ぐぐーっと顔を近づけてゆく。さらさらの黒い髪が扇風機の風に揺れてKの額や肩のあたりをくすぐるように撫でる。大きく開いたシャツの胸元から白い素肌が露になり、薄い胸板には丸みを帯びた桜色の突起が彼の目を惹きつける。いや、別に、いいのか。男だし。俺も、Hも……「あがんま」

「へ?」

「行ってみない?」

「何処へ」

「あがんま」


 KやHたちの住む地域には昔から「あがんま」と呼ばれる場所がある。〝太陽が上がる場所〟といった意味だそうな。上がる、に、あずまという字を書くらしい。Kも詳しいことはよくわからなかった。

 シャツの中身の残像に心を少し持っていかれていたが、あがんまと聞いて俄然その気になってきた。普段は宿題もせずに遊びまわっていて、あまりHに構っていられなかった。そんなときに彼のほうから一緒に宿題をしようと電話がかかってきた。その電話を母親に取られたのが運の尽き。

「行って面倒見てもらってこい、話はつけておいたから」

 こうなったら逃げられない。そういうわけで観念してHの家にやってきたのだが、案の定Kは宿題なぞすぐに放り出して漫画を読み始めてしまった。が、Hはそんな彼を咎めもせずにじっと見つめていた。そして、あがんまについて切り出したというわけ。


 HはHで、実のところ宿題なんてどうでもよかった。どうしても……どうしてもKを独り占めしたかった。いつも朝、彼の家に行っても留守で。マツ、ミツ、タカのバカ三人組と一緒になって何処かへ飛び出してしまっていた。何しろ漁師の子だから朝が早い。夏でも暗いうちから居なくなってしまうのだから始末に負えない。しまいにはお父さんですら

「アイツは蝉より早く起きてやがら」

 と言うくらい。それで、わざとKのお母さんが家にいる時間に電話をかけて

「あの、僕、Kくんちゃんと宿題してるかなって。それでよかったら、今度うちで一緒にやりたいなって」

 と切り出したというわけ。


「だけどよぉ、立ち入り禁止だろ。確か」

「うん」

「どうすんだよ」

「うん」

「まあ入れなかったらキノコでも探して帰ればいいか」

「うん!」

 Hは蝉しぐれが渦を巻くような山道をKと並んで歩いていた。Hの気持ちなど微塵も知らないKはバカ三人組も誘おうとしていたが、どうにか振り切って二人きりになれたことで半分ぐらいは満足だった。山は涼しいけど、皆で行くと目立つから……秘密を知るものは少ないほうがいいじゃないの、などなど散々に言いくるめて連れてきたのだ。

 秘密というのは、勿論そのアト……立ち入り禁止区域に侵入することだ。そうすれば今度こそ二人になれる。キノコ狩りもいいけど、フェンスの前までさえ着いてしまえばKのこと、どうにか乗り越えて中に入ると言い出すに決まっている。


 奄美大島は山がちな島。Hには少々つらい道のりだったが、やっと訪れたKとの時間。それも広大かつ濃密な大自然という密室にふたりきりだ。

 ひんやりと湿っぽい緑の匂いがしみついた静かな空気に流れ落ちる汗が触れて、素肌から熱を奪ってゆく。Hの白いオトガイから滴ったしずくが逆さまの景色を抱いたまま地面に吸い込まれて、やがてシミも残さずに消えてゆく。KがHの手首をぐいと引き寄せ、半分抱きかかえるようにして歩く。まるでお人形さんみたい……彼の分厚く逞しい肩に身をゆだねながらHは顔を伏せて少しだけ笑った。

 羽のように軽いHの体を抱き寄せたKも、黒く艶やかな髪の毛を媒体に気化した汗や素肌を覆う皮脂が甘く香りたち……湿ったシャツの隙間から垣間見える胸板にそそり立つ桜色の突起や腋窩の薄い茂みも相まって妙に胸の高ぶりを感じていた。それはこれから向かう場所への不吉な予感なのか、それとも幼馴染が成長とともに身にまとい始めた色気への戸惑いだろうか。


 やがて二人の前に件のフェンスが姿を現した。それは自然豊かな山にはおよそ似つかわしくない、銀色に輝く大げさなフェンス。しかもまだ新しい。この島を度々蹂躙する台風のせいで何度も飛ばされたり拉げたりするので取り替えたばかりなのだろう。

 さあ、あとはKが中に興味を示せば……とHが思う間もなく、彼は喜色満面でフェンスに取りついてがしゃがしゃと音を立てながら登り始めた。ぱつんと張りつめた瑞々しい肉体が深い森の奥で木漏れ日を浴びながら脈動するのがシャツ越しにもわかる。が、

「ねえ……」

「ん?」

 あっそうか。振り向いたKの顔に、そう書いてあった。そして躊躇うことなくパッと飛び降りると、Hのそばに寄ってきて手を取った。

「ありがと」

「大丈夫か? この先」

「うん」

 Kとふたりで山奥へ入り込むことに夢中で、自分もその山奥に向かって歩いていかねばならないことなどすっかり失念していたHだったが、それでもやはり彼と一緒なら何処まででも歩いて行きたかった。

「よっ……と」

 ある程度まで登ると今度はKが下からHのお尻を押して、フェンスを乗り越えさせようとする。すでに疲れが出ているHは太ももを持ち上げて動こうとするけど、震えてしまって上手くいかない。まして不安定なフェンスの上だ。自然と荷重はKの手にかかる。Hのやわらかくすべらかなお尻の山に、Kの節くれだった指やごつごつした掌が埋もれてゆく。むにっとお肉を掴まれるように、それを拡げられたり閉じられたりするように力が入るたび、Hは血流がそこに集まってゆく感覚を覚えた。KはKで、紅潮するHの頬が暑さや疲労によるものだけではないことを、どことなく感じ取っていた。

「痛いっ」

「あっ、ごめん!」

 本当は、痛かったのは指がお尻に食い込んでたからじゃ無かった。お尻に意識が集中するあまり、フェンスを乗り越えようとしたときに硬くなった先端が〝引っかかった〟のだ。そこがすっかり膨張していることすら忘れるほど、Kの指の動きに神経を集中してしまっていたせいで。

「ねえ」

「ああ、ちょっと待ってろ」

 もうそれ以上Hが何も言わなくてもKは心得た様子で手早くフェンスを上り、反対側に飛び降りた。つまり難なく侵入を果たしたわけだが、今度は登ったまま降りられないHを下で受け止めなくちゃならない。

「まるで猫ちゃんだな」

 そう言って笑うKの眼差しは優しく、声色は慈愛に満ちていた。そして普段は乱暴で粗雑な彼が猫のことは〝猫ちゃん〟というのが妙に可笑しくて、可愛かった。

「怖いよ」

「いいって。絶対受け止めてやるから」

 さあ来い、と両手を広げて微笑む彼の胸元へ、一刻も早く飛び込みたかった。高い、怖い、でも抱かれたい、怖い、でも──

 一瞬の逡巡のち、意を決して飛び降りたHだったが腰が引けていたせいか元来の運動音痴のせいか飛距離が全然足りなくて垂直落下式に頭から突っ込んできた。慌てて飛び込んだKだったが、かろうじて抱き留めたところでバランスを崩し、二人して柔らかな地面に倒れこんでしまった。


 湿った土と落ち葉の匂いの、緑色した濃密な空気が攪拌されて二人の頭上で渦を巻く。


 抱き合ったまま目を閉じて痛みをこらえるHと、その横顔を見て少し体が熱くなるKと、それぞれの吐息が至近距離で混じり合う。漣のような蝉時雨が遠ざかる。また近づいて来る。汗で濡れた腕や脚や頬の素肌が触れ合っている。それなのに少しも不快じゃなく。少し身じろぎをすると互いの足が絡み合う。Hは自らの膨張を悟られそうで、でも膝がかすかに触れたKも硬くなっているのを知る。そして彼は少しだけ目を逸らす。


「ごめん、痛くないか」

「ううん、痛くないよ」

 あがんまも何もかも、もうどうでもいい。今はこのまま寝転がっていたい。

「よし、もうちょいだ!」

 それなのにKは、すっくと立ちあがるとHに手を差し伸べる。

「ありがと」

 億劫そうに立ち上がったのは痛みのせいでも、恐怖のせいでもなかった。


 そこから先は、かなりきつい山道だった。Hは勿論のことKですらも青息吐息で、胸も背中も激しく上下している。それでもどうにか歩いて行くと、やがて石造りの立派な祠が苔むしたまま鎮座していた。深い森の奥、風が木漏れ日を揺らし、光の粒が降り注いで冷たい屋根を鈍く光らせている。

 そしてKは黙って、何かに誘われるように、祠に向かって歩き出した。うつろな目は、どこも見ていないようで、誰かを追い求めているような顔をしている。

「ねえ……」

 Hの呼びかけに振り向きもせず、彼は祠に手を伸ばした。


 そこでHの記憶はぷっつり途絶えていた。ただ漠然と、猛烈に恐ろしい目に遭い……命からがら逃げ帰ってきたことだけが脳裏に残っている。記憶のかけらを拾い集めてしまうことを、無意識に心が拒んでいる。

 Hは激しく揺れるKの背中で目を覚ました。彼はHを背負ったまま脱兎のごとく山を下りてきたのだ。

そして二人してこっぴどく叱られた。黙って家を抜け出した揚げ句、立ち入り禁止のフェンスまで乗り越えて、這う這うの体で帰ってきたと思ったら全身どろどろに汚れ切っていたとあっては無理もない。Kはゲンコツを食らい、Hも普段は優しくて理解ある母親からきつく咎められた。


 今日に至るまで、あの日Kは何を見て、どんな目に遭ったのか何一つ語ろうとしないし、二度とあの山に近寄ろうともしなかった。

 後年になってKが島を出ると決めたことの一旦は、この日の出来事も関係しているかもしれない。


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