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タモツ

 海、空、ゆるやかに伸びる舗装路、湧き上がる雲。どこまでも青く深い景色の前に佇んでいると、いろんなことを少しだけ忘れていられる気がして。Hは学校に行けない時よく釣りに来ていた。島の子どもたちにとって身近な娯楽でもあり、彼も見た目によらず中々の腕前だった。

 何しろ物心付く前から竿を握ったり振ったりしてるから、自然と上手くなるのだ。この日も理由なき憂鬱の雨雲が心の天気図に染み出して、教室は勿論のこと家の中にも自分の部屋でさえも居場所がなく感じて、気がつくと小さな黄色いバケツを手にぺたぺたと晴天の下を歩き出していたのだった。


 山手にあるHの家から坂道を下って、今頃みんなが授業をしている大棚おおだな小学校の前をそそくさと通り過ぎる。木立をすり抜けてくる楽しげな漣のなかに、やっぱり自分の居場所は無い。

 でも、あのなかに、Kも居るんだよなあ。

 小学校と用水路に挟まれた白っぽい路地を抜けると集落で唯一の商店、その名も大棚商店だ。食料品から日用品、文房具に酒タバコ、道路沿いにはガソリンスタンドも併設した謂わば〝よろず屋〟で釣具やエサも売っている。

 コンクリートで出来た無骨一点張りの四角く低い建物の眼の前には紺碧の海。

 エサと飲み物だけ買って、また歩き出す。店の人も居合わせたお客も、みんな顔見知りだ。自分のことも、家のことも、良く知っている。でも別に何も言わずに過ごしてくれる。そんな大らかさが有り難かったり、それはそれでなんとなく居心地が良くなかったり。


 日石のガソリンスタンドを通り過ぎて海沿いの県道に出る。

 西へ少し歩けば隣の集落である大金久おおがねくに入る。このぐらいならHの足でも休み休み歩けば大丈夫……みんなは心配してくれるけど。

 HやKの家がある大棚と大金久は小学校区が同じなため、そちらから通ってくる同級生も多かった。

 なので釣りポイントなども彼らから教わることがあって、その中の一つに陣取って早速とばかり糸を垂らす。見晴らしの良い堤防で、紺碧の海と入道雲を頂く青空が水平線までぽかーんと広がっているのを見渡すことができた。

 

 どうしたことか。

 この日は殊の外よくかかり、釣果は上々を通り越して爆釣と言えるほどだった。とてもじゃないが一人では持ちきれず、かといって逃がすのも惜しい。バケツいっぱいの魚、さかな、サカナ。Kにも来てもらえば良かったかな……不意に、なんとなく学校と思しき方角の空を追う。そうだ、あとで彼の家にもお裾分けをしてあげよう。

 そう思ってふと手元の竿を引くと、軽い。あ~やられた、エサだけ取られてる。まあこれだけ釣れているということはサカナも相当いるはずだし、こういうことも……またやられた。そしてここから、今度はパタっと釣れなくなった。


 まあ、別に、いいけど。海、見てるだけだし。

 それ以降、今度は待てど暮せど当たりは来なかった。ただ島の子であるHにとって釣りは特別なことでもなく、ポピュラーな暇つぶし。竿を振って魚が獲れたらめっけもん。そうでなくとも、このぼんやりと海や空と一緒にいる時間が好きなのだ。誰に気兼ねもなく、話し声や笑い声の渦に苛まれることもなく、狭い空間で自分だけが違う色の空気の中に独りぼっちで閉じ込められることもない……。自分にとって居心地の良い時間と場所が、たまたまみんなと違うだけ。

「釣れなくなったろ」

「あ、うん」

 背中に届いた嗄れ声に振り向くと、腰の曲がった老婆。ほっかむりにモンペで、両手を後ろに回して組んでいる。潮風で彫り込まれたような皺を刻んだ顔は柔和だが、日に焼けて垂れ下がった瞼の奥の黒目だけがなんだか寂しそうだ。

「タモツの仕業じゃ、早く帰り」

「たもつ?」

「もう今日は釣れんよ、さあ」

 え、ちょっと、それ誰……脳裏に浮かんで舌先まで出ていた疑問を呑ませるように、急かされたHは堤防をあとにした。


「ねえ! どういうこと?」

「え、いや」

「誰なの、そいつ!」

「そう言われても」

「タモツって誰なのさ」

「うーーん……」

「気になる? 気になるよね」

「じゃあ、明日また行ってみようぜ」

「うん!」

 釣りからの帰り道。Kはお裾分けに立ち寄ったHに迫られ、たじたじしていた。

 Kも興味がないことはないのだが、それ以上にHがこの手の話題で一度言い出したら聞かないことをよく知っているのだ。明日は土曜なので学校も半日だし。


 そして翌日。学校が終わるとお昼ごはんを食べずにおにぎりを作ってもらい、大棚商店の前で待ち合わせ。何も言わなくてもいい、いつも外で遊ぶときはココなのだ。先についたKが中でジュースを選んでいるとHもやってきた。おかっぱヘアに包まれた潤んだ瞳と赤い唇で、少し見上げるような視線を投げると、ついHが手に取った桃の天然水まで買ってあげちゃうKであった。


 二人ならんで快晴の県道を往く。ぽくぽくと長閑な足音がふたつ、左右にカーブを描いて空へとけてゆく。時折、大きくゆるやかなカーブを描いた車道を赤や白の自動車が走り去ってゆく。海鳥が空に浮かんで鳴いている。昨日同じ堤防の昨日とだいたい同じ場所に降りる。

 いそいそと手際よく用意するHを、感心しながらKが見つめる。

「うまいなあ」

「うふふ。はい、どうぞ」

 Kの分の支度も済ませたHが意気揚々と糸を垂らす。Kの家は代々漁師なのだが、K自身は釣り支度どころか紙ヒコーキも満足に折れないくらいの超・不器用だった。ので、こういうときは専らHが頼みだった。なにしろ一人では針に糸も通せないのだ。


 さて……と、ひといき入れる間もなく今日もまた爆釣だった。

 黄色とピンクの可愛いバケツがみるみるうちにサカナで埋まってゆく。糸を垂らしていればサカナがかかる。それをまた釣って、釣って、釣って。別に腕がいいとか潮目が良いというわけでもなく、島育ちの二人が揃って〝なんでこんな釣れ方をするのかわからない〟というぐらい釣れる釣れる。

 が、ニンゲンはゲンキンなもので、こうも釣れまくるとそれはそれで飽きてしまうもので。おにぎりを食べ終わったKは堤防に寝そべって大あくびをして、その隣でHも寝転んで、視界の半分を埋め尽くすKの背中を見つめて。

 呼吸を繰り返し上下する背中、そばには自分だけ。静かで満ち足りた時間。時々バケツの中でサカナが跳ねる。Kのスニーカーがコンクリートをじゃりっと擦る音がしたのをきっかけに、寝転んだまま竿を上げてみる。軽い。

 やられた……?

「ねえ。そっちもあげてみて」

「んー?」

 よっこいしょ、とKが体を起こしてしまうと、視界の大半を占めていた背中がひょいと消えて、見慣れた空と県道だけになった。

「ああエサ取られ、た……」

 そこで二人は顔を見合わせた。

 

 まさか!?

 タモツ!?

 

 思わず竿を放り出して、堤防から身を乗り出して海面を見渡すも、空には海鳥、遠くに外航船やLNGタンカー。その向こうは入道雲。何もおかしなことはない。堤防に打ち付ける波の音だけが響いている。と耳を澄ましてみると足元からざぶり、ざぶりと音がするのに気が付いた。

 再び顔を見合わせたKとHは、その引きつった顔で恐る恐る真下を覗き込んでみた。サカナが泳いでいるのが見えるくらい限りなく透明に近い海の中に、まるで陶器のように真っ白な肌でガリガリに痩せ細ったオトコが居た。陽光を浴び時折きらめく水面ごしに見える姿はアタマも身体もツルツルで毛というものが何も生えていない。もちろん服も着ていない。筋張った身体にあばら骨が浮き上がって、手足は枝のように細い。それがずっと下を向いたまま何か探しているようだった。

「おい、あれって……」

「あっ!」

 そして動きを止めたオトコがゆっくり体を起こし、コチラに向かって水面から出てこようとしていた。ゆらめく水の底からゆっくり、ゆっっくりと手を伸ばし足を踏みしめ、堤防を探すように……。


「行くぞ!」

 そのとき、呆然とするHの手をKが強く引っ張って走り出した。バランスを崩してよろめいたHも我に返って、そのまま後を追う。怖かった。気味が悪かった。恐ろしかった。

 大棚に向かって来た道を走ってゆくが、すぐ息切れを起こしてしまいHを道端に座らせてKが背中をさすっている。深呼吸をしようと顔を上げたHが気づいた。

「あっ、昨日の」

「おお」

「ねえ、タモツ……って、誰?」

「……」

 気まずそうに、しかし少し寂しそうに彼らから目を逸らした老婆。構わず更に続けるHが「今日もね、釣りしてたらサカナ来なくなって。で海を見たら白いひとが」「!?」

 そこまで聞いた途端に、シワだらけの顔がサアっと青ざめた。

「あのひとが……タモツ……?」

 ふう、とHの隣に腰を下ろした老婆がため息をついて話し始めた。

「そうさな……あれは気の毒なことで」


 もともと村のもんだったんよ。だけどあれの祖父母の代に不始末があってな……八分になって、親兄弟もおらんくなって、みなし児んなった。それでもあれを助けるもんがおらんで、ある日ふっと消えた。何処へ行ったか誰も探さん。八分の子だからといってな。

 それから何年もして……それがあたしの娘の時分よ。海にタモツがるっちゅう話が出て。サカナ釣ってると食いに来るなんて……まあ、そういうことだった。


「タモツのおじいちゃんたちは、なにがあったの……なんでそんな」

「知らん」

「だって」

「知らんよ、なんも」

 もう帰れ、あと、誰にも言わんでええよ、そう言い残して老婆がゆっくり立ち上がり、ぽくぽくと歩いていった。夕暮れ始めた橙色の海で影絵になった老婆を見送ったHが、ぼそりと口を開いた。


「タモツも独りぼっちだったんだ」

 自らも孤独を抱えているHの心に、それは深く刻まれた。

 そしてあの時……わずかに見えたタモツの顔には、アーモンド型の目玉が真ん中に一つしか無かった。そのことは、ずっとHの心のなかにだけ仕舞い込まれていたのだという。



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