怪談・登る女
奄美大島。1990年代なかば。夏。
HとKは同じクラスの友達同士だった。Kから「小学校最後の夏休みだろ、何か記念になることがしたいんだ!」と相談を持ちかけられたH。二人は終業式からの帰り道、渦を巻く蝉時雨とギラつく陽射しを麦わら帽子と汗びっしょりの背中いっぱいに浴びながら思案していた。やがて大きな木陰が二人のシルエットを優しく包むと、ようやく少しホッとした二人は幹にもたれて地面に腰を下ろした。Kは麦わら帽子を顔に被せて、でーんと大の字に横たわっている。それを横目にHはペタンと胡座をかく。お尻に伝わる冷たい土や苔の感触が心地よく、火照った身体から熱が逃げてゆく。
「なあーー、何かするんだよとにかく。最後の夏休みだぜ?」
「そ、そんなこと言ってもぉ」
ざあっ、と一陣の風が吹き抜けて、二人を包む木立がざわざわと揺れる。快晴も快晴の青すぎる空に、ソラリスが生み出したみたいな入道雲がもくもくしている。その下には深く萌える山。だが南向きの斜面だけが削り取られ、風雨にさらされ、灰白色の地肌を露出させている。
「あっ!」
筋肉質で丸っこい体躯をコンガリ日焼けさせたKが、がばっと起き上がってHを見た。短く刈り込んだ坊主頭を頂いた垂れ気味の目尻に大きな黒目を湛えた眼差しには力がこもっていて、有無を言わさぬ迫力があった。
「な、なぁに?」
真夏でも透き通るような白い素肌をしたHが、その眼力に気圧されながら訪ねた。南国らしい彫りの深い顔立ちだが、艷やかな紅い唇と憂いを帯びた細い眉、潤んだ相貌が気の優しさをにじませながらも戸惑いを隠せずにいる。木立をすり抜けてくる潮風につやつやした黒いおかっぱヘアーが揺れる。
「なあ、お前ん家たしかヤマ持ってたよな!?」
「ヤマぁ?」
「砕石、掘るとこだよ」
「ああ~、あれね……でも、あんなのボクが生まれる前に閉めちゃったって」
「そこだよ!」
「どこ?」
Hがおっとりと振り向いた先に回り込んでKが食い下がる。
「ヤマだよ。そのヤマ行こうぜ!」
「今からぁ?」
「バカ違うよ。夜だよ、夜!」
Kが指差した先には、青空と眩い陽射しを浴びて浮かび上がる灰白色の山肌。そこはかつてHの家が所有していた採石場で、すっかり錆びきったフェンスや金網、恐竜みたいに巨大な重機たたち、何年か前の台風で壊れたままのコンベア、それに事務所兼休憩室プレハブ小屋が今もそのまま残されていた。
夜。
南の島の、賑やかで深い闇が訪れた。
晩ごはんを食べ終えて家を抜け出したHが海岸通りに続く道にあるバス停の小屋でベンチに座ってデニムのショートパンツから覗く白い脚をブラブラさせていると、突然そこに眩しいライトが向けられた。
「待たせたな!」
青白い光輪の向こうからKの声がした。
「そんなの持ってきたのぉ?」
「これなら幽霊だって丸見えだろ」
Kが手に持ってポンポンと弾ませたのは大振りな懐中電灯のようなもので、それは実際に漁師さんが船の上で海を照らす強烈な代物だ。
(確かにありがたいけど……なんだか風情がないなー)と思ったが黙っているHだった。
「おーし行こうぜ、迷わず行けよ行けばわかるさ!」
勇躍、真っ暗な道を歩き始めたKだったが「で、さあ。Hん家の採石場どっちだっけ」
「ん、もぅ。こっちこっち」
すぐに立ち止まって、Hに袖を引っ張られるのであった。
深い草いきれと木立に埋もれた森の中は虫や動物の鳴き声が不快な湿度をまとって響き渡っていた。枝葉を揺らす風が心なしか冷たく気持ちいい。肘まで流れてきた汗が雫になって震えて、それを拭う間もなくまた滲んで垂れる。あまり体力のないHの息が上がってきている。それに気づいたKが、彼の手をぎゅっと握って歩き続ける。
昼間と同じ道のりなのに、蒸し暑い暗闇に包まれているとそれだけで果てしなく長く遠く感じる。ずっと繋いでいる手が汗ばんで、Kは無意識のうちに何度も握り直した。手はずっと繋いでくれるんだなあ、とHは虚ろな瞳を潤ませた。酸欠なのだ。
「ごめん。ちょっと苦しい」
「えっ、そうか。じゃあ」
Kがライトを振りふり、休めそうな場所を探す。青白く大きな光輪が手頃な木立を照らした。幾つも伸びて枡席のように隆起した根っこにHの小ぶりで丸っこいお尻がすぽっと収まった。すぐ隣にKがどかっと腰掛けて木立にもたれた。Hの右手とKの左手は、まだ繋いだまま。気がつくと周りが少し静かだ。ひんやりとした風が、ふたりの繋ぎあった手のひら、肩から首筋、髪の毛の先まで撫でてゆく。
「あー……雨、かな」
「そうかも」
言っているうちにHは頬にポタリと雨粒を感じていた。さっきの冷たい風は、やっぱり雨を連れてきていたんだ。でもあの時それを言わなかったのは……。
「ごめんな」
「?」
きゅるっとした瞳で首を傾げKをじっと見るHに「雨まで降ってきちゃった。ヤマ行こうなんて俺が言うから」「ううん」珍しく話を遮ってまでかぶりを振るHを、今度はKがじっと見つめた。
「一緒になにかしようって言ってくれたの。うれしかったから」
「……!」
照れくさそうに頬杖をつくKの短く黒い頭髪に早くも雨粒が滴り始めた。
「やばいな」
腰を上げようとするKに、すがるようなHの眼差しが絡みつく。追いかける視線はKを離さない。強まり始めた雨脚に戸惑うふたり。行くも大変、戻るも大変。
「よし!」
KはHの前にしゃがんで、腰のあたりで両手を構えた。
「?」
「おんぶするから、帰ろう!」
「え、でも」
「いいから、風邪ひいちゃうぜ」
「危ないよ」
「うーーん」それはKも重々承知だった。それなら「じゃあ、あそこまで行こう!」と改めて彼が指さしたのは、採石場跡地に打ち捨てられたプレハブ小屋。
案外スグ近くまで来ていたのだ。これならあそこで雨宿りして、雨が上がったら帰ればいい。そう思って最後の数百メートルを走る二人で一つのシルエット。Kの分厚い背中が火照って、鼓動が速くなっている。Hの髪が揺れるたびにKの首筋をくすぐる。熱い吐息が降りしきる雨に溶けてゆく。体温と気温と湿度と汗と吐息の境目が、全部ずぶ濡れになってわからなくなりそう。Kの肩越しにぎゅっとした腕を離さないように、Hは夢中でしがみついた。
プレハブ小屋は頑丈なコンクリートフェンスの向こう側にあった。でも、その庇が大きく出っ張ってフェンスのこちら側にも届いていて、幾らか雨は凌げそうだった。
庇の下に立ち、大きく一息ついたKの背中が弾んでいる。彼も体力を消耗しているのだ。そんなKの背中とそびえ立つコンクリートの壁に挟まれたHは、激しい雨音に混じって奇妙な音を聞いた。
それは何か重たいもの……例えて言うなら大人のニンゲン一人分の何かが急斜面を滑り落ちるような、低くくぐもって不気味な音だった。
「ねえ……」
怯えと興味の入り混じった複雑な色合いを浮かべた瞳で、Hは背中越しにKの顔を覗き込んだ。
「なんか、いま」
「聞こえた……よな」
よかった。Kにもちゃんと聞こえていた。いや、二人とも聞こえてるってことは確実に存在しているってことだから……あんまり良くは、なかったかも。
砂利を踏みしめる音がして、石を蹴落としながら登ってゆく。しばらくして滑り落ちる。砂利の上にドサっと嫌な音がして、また繰り返して。フェンスと豪雨とプレハブ小屋の向こうで、その気配だけが延々と蠢いている。
「だ、誰だろうね」
「な、何だろうな」
アハハ、とKが漏らした乾いた笑い声が驟雨に晒され湿り気を帯びながら闇夜に溶けた。そうしている間にも音は続いている。雨も降り続いている。
「ちょっと見てみようぜ」
何を──Hが言葉にする前にKは手に持っていた強力なライトを音のする方へ向ける。青白い光が真っ直ぐ伸びる、大粒の雨に反射してキラキラ輝いている。そして岩肌に目を向ける。二人は目撃る。
降りしきる雨の中、白っぽい服を着た髪の長い女が、素手と裸足のまま、ずぶ濡れのまま、全身のあちこちから血を流したまま、採石場の岩壁を登っていたのだ。十数メートルはある岩壁を登り続け、かなりの高さから落っこちるところを。しかも今度は二人の眼の前でライトに照らされるなかアタマから垂直落下式に地面へ叩きつけられた。
だが平然と起き上がりこちらを振り向きもせず、また登り始めた。その繰り返し……。Kのライトが放つ強烈無比な光線の中で傷口から玉のようにあふれる血液や横顔にへばりつく傷んだ髪の毛までがくっきりと浮かび上がっているが、Hには女の顔が見えなかった。ほとんど真後ろから見ているせいもあるだろうが、この女は脇目も振らず登って落ちてを繰り返している。
それなのに。
どうしてあの女性が、あんな苦しそうな顔をして、あんなに血走った目をして、雨よりも激しい涙を流して、忘れられた壁を登り続けていたと知っているのだろう。
遠雷と海鳴りと驟雨が二人とひとりを包む。永遠のように感じる、長く短い暗い夜。Hは濡れたシャツ越しに素肌に伝わってくる、Kの火照りと鼓動を頼りに呼吸する。
何か恐ろしいものを、ひどく不気味で不自然な何かを見ている。そのこと自体よりも、それをKと一緒に……それどころか、いま自分はKの背中でそれを見ているのだということが理解しきれなくて。Hは自分で自分を後ろ斜め上から見下ろしているような錯覚に陥りながらも、眼前の光景から目が離せないでいた。
Kも立ち尽くしている。額を伝う雨粒か汗を拭うのも忘れて、ただじっと落ちては登る女を見ていた。Kの両肩から胸元に回してぎゅっと握るHの両手に力がこもる。雨と汗で指と指がぬめる。その生暖かい感触と感触の隙間すら雨垂れが穿つ。
どのぐらい見つめていただろう。
「見せもんじゃねえぞ!!」
突然、フェンスの向こうから野太い男の怒鳴り声が響いて、驚きのあまりKは体をビクッと震わせて少し浮いた。バランスを崩しそうになったのを立て直しながらも、眼の前の異様な光景に気圧されて鳴りを潜めていた恐怖心が急に鎌首をもたげてきた二人は一目散に駆け出した。ぬかるんだ地面が顔のない蛇のように二人の足をすくい取ろうと絡みつく。
少し雨脚が弱まってきたが、代わりに吹き込んでくる海風に乗って木立の雫がバラバラと降り注ぐ。Kが握りしめたライトの強く青白い光が気の狂ったホタルのように森の中を飛び回る。必死で駆け抜けると、二人は呆気なく最初のバス停に帰り着いた。気がつくと雨は上がって、雲の切れ間が広がり星が見えていた。
「ねえ」
「ん?」
「降りるよ、もう大丈夫だから」
「いいって。このまま居ろ」
「でも」
「……ごめんな。家まで送るから」
そう言ったきり黙り込むKの背中で、Hは疲れた体を揺らしていた。沢山の大きな水たまりにちぎれた雲と黄色い三日月が浮かんでは通り過ぎる、ずぶ濡れの靴でかき潰された月がばらばらになる、すぐにゆがみながら元通りにうつる。
見上げれば月星、虫やけものの声がして、月明かりで水たまりが浮かび上がる。それがとてもきれいで、やっぱり手を繋いで歩いてみたかったなと思った。
結局、KはHの家で平謝りしたうえ、自宅に帰ってからも家を抜け出すわライトは勝手に持ち出すわ(お父さんのものだったらしい)でこっぴどく叱られ、次の日きっちりたんこぶを作っていた。
あれから長い月日が経った。KとHは今でも一緒によく遊ぶし、昔話をすることもある。決まって夏になると思い出すのは、あの雨の夜。
一体、誰だったんだろう?
一体、何だったんだろう?
全ては謎のままだ。何もわからないし、誰にも言わなかった。
ふたりだけの、遠い夏の秘密の物語。
登る女。おしまい。