本当にあった(かもしれない、ある意味)怖い話 その2 古いアパート
2月27日 全編公開
「ねえ、なんか、臭わない?」
そう言うと、ふと立ち止まり、女は顔をしかめた。
つんとすましてさえいればキリッとした顔だちの「美人」で十分通る顔だちなのに、あいにく彼女は豊かすぎるぐらい表情豊かだ。笑う時には喉の奥までのぞき込めるほどの大口を開け、思い切り大声を上げるし、今のように気にくわないことがあれば、思い切り鼻に皺を寄せ、眉をしかめ……牙をむきだして吠えつく土佐犬そっくりの、ものすごいブサイクな顔になる。
まあ、そういう飾らないところも、この女――涼夏の魅力の一つなのだが。
いや、そんなことはどうでもいい。
盛夏は過ぎたとはいえ、まだ秋の気配はほど遠い、都会の路上だ。真夜中近い時刻ではあるが、気温は30度を下らず、立っているだけで汗がにじみ出てくる。その上ほのかにこんな臭いが漂ってきたとあれば……涼夏が立ち止まるのも無理はない。
とはいえ。
「臭い?さあ、僕は、別に気にならないけど」
せっかくこうしてうまく誘えたというのに、こんなところで「おあずけ」はごめんだ。
いやな臭いなど気のせいだと言わんばかりに、俺はごく自然に軽く眉をひそめ……そして、
「それより、さっき買ったコンビニの新製品、ちょっと楽しみだよね。いかめんたいわさび味のポテチって、一体どんな味……」
話をさらりと違う方向へ流そうとしたのだが……残念なことに、涼夏はそう甘くなかった。
「いや、やっぱり臭うって!生臭いっていうか、ちょっと甘いような……」
「ああ、その、ほら、ここ海近いだろ?だから、この先ちょっと行ったところに、魚とかの加工場なんかがいっぱいあってさ。風向きが悪いと、時々臭いが流れてきたりするんだよ」
「ああ……言われてみれば……確かにそんな感じかも……」
涼夏は相変わらず眉間に皺を寄せたまま、しつこく鼻をうごめかす。
「でも、この臭いって、魚?なんか、肉っぽい感じもするけど……」
「ああ、市場とか倉庫とかもあるから、ひょっとすると、肉の臭いも混じってるかも」
「ふ~~~~ん」
納得したような、できないような微妙な顔だ。
「まあ、すぐに慣れるよ。それより、ここ、暑くない?いつまでもこんなところ立ってたら、せっかく買ってきたビールが、ぬるくなっちゃうよ」
無類の酒好きであるという弱点をさりげなく突いてやる。と、思った通り風向きが変わり、
「うーん、まあ、そう、ね……」
涼夏は、不承不承、といった感じでうなずいた。
それでもまだ、歩き出そうとはしない。
酒が飲めるのでさえあれば、悪魔の誘いに乗って地獄の果てまでついてくるんじゃないか、とまで噂されているというのに、こうまで足が重くなったところをみると、この女、相当本気で逡巡しているようだ。
そうはいくか。偶然を装って居酒屋で話しかけてから数ヶ月。少しずつ少しずつ距離を詰め、ようやく部屋にまで誘うことができたんだ。ここで逃したら、今までの努力が水の泡だ。
「さあさあ、涼しい部屋で飲み直しといこうぜ。とっておきのツマミも用意してあるし!」
わざとらしく朗らかな声を張り上げ、彼女の両肩を軽くつかむと、さもふざけているかのように、ぐいぐいとその歩みをうながず。
「あ、ちょっと!待って、待ってって!あはははは……」
ようやくいつもの陽気さを取り戻した涼夏は、次第にその足取りを軽くしながら、再び俺の部屋へと向かって――半ば無理矢理に――歩き出した。
「……なんか、臭い、強くなってない?」
再び涼夏の足が止まった。
真夜中近いし下の階の住人にも迷惑だから、と足音を忍ばせて外付けの鉄階段を上り、俺の部屋の扉を開けた、その直後のことだ。
慌てて俺も、しきりに鼻をうごめかしてみる。
と、確かに、華やかなバイオリンやビオラ、チェロが華やかに軽やかに旋律を駆け抜けていく中、ほんのかすかにコントラバスの重低音が響くかのように、シトラス系の爽やかな香りに混じって、重く苦い、不安を覚えさせる臭いが、かすかだがべっとりと鼻腔にまとわりついてくる。
閉め切った部屋の、むうっとする蒸し暑さと相まって、それは、耐えがたいほどに不快だった。
くそっ!あんなに徹底的に掃除して、消臭スプレーもいやってほど吹きかけたのに……!
「ああ、そうか。ほら、あの、とっておきのツマミ、用意したって言っただろ。その下ごしらえの時ちょっと失敗しちゃって。きれいに流しを洗って、水もジャバジャバ流したから、大丈夫だと思ったんだ。その時は、全然臭ってなかったしね。けれど、多分どこか、流し切れてなかったんだ。まさかこんなに臭ってくるだなんて」
いつも下ごしらえした後は臭うけど、それにしてもこれは臭いすぎだ。さてはあいつ、めんどくさがって後始末をおざなりにしかしなかったな、全く……と思わず顔をしかめる。
「ごめん、もう一回流してみるから、ちょっと待ってて」
慌ててエアコンのスイッチを入れると、流しの下から業務用の強力な洗剤と脱臭剤、それに芳香スプレーを取り出し、景気よくぶちまけてはスポンジで流しの中をこする。無言のまま、黙々と作業を続けていると、自然、怒りは臭いの元を作った相手へと向いていく。
どうして今日に限ってこんな、適当なことをしたんだ!部屋がこんなんじゃ、せっかく誘い込んだところでうまくいくはずがないじゃないか……!
怒りと焦りとで口を開く気にもならず、シンクに食いつくようにしてひたすら腕を動かし続ける俺の背中にほだされたのだろうか。
「あ、少し臭い、ましになってきたかも。これなら、大丈夫じゃない?」
涼夏が、ややほっとしたような声を上げた。
「あ……そうだね、よかった。それじゃあ……」
「上がるね~。冷蔵庫、どこ?」
ギシギシと廊下の床板を軋ませながら、足音が次第に近づいてくる。
「ああ、ここに……」
言いかけて、ぶわっと全身から汗が噴き出た。
ヤバい。
冷蔵庫に入っているものが見られる!
「ああ、いいよいいよ、僕が入れるから!こっちに寄越して!」
焦りに焦って冷蔵庫と彼女の間に割って入ろうとしたのだが……一歩遅かった。
涼夏が無造作に冷蔵庫の扉を大きく開け放ったその瞬間、ひと嗅ぎで吐き気を催すほどのとてつもない腐敗臭が、部屋中に広がった。
「ちょ、なにこれ!くっさ!うわ、くっさ!」
涙目をすがめるようにしながら、それでもなお、涼夏は冷蔵庫の前から離れない。
「なに、どうなってんの?冷蔵庫壊れて、中身腐っちゃった?にしてもこの臭い、一体なに入れてた……え?なにこれ?……え、内臓?」
その一言で、あまりの臭いに思わず呆然としていた俺の後頭部が、すうっと冷たくなった。
ちょっと待て。処理する前にアレを見られたら、まずいだろ!特に涼夏には、絶対に見られちゃまずいだろうが!
思わず俺は、床が揺れるぐらいの勢いで、足を、どん、と踏み下ろし……次の瞬間、自分が何をしてしまったかに改めて気づき、大きく目を見開いていた。
今の……下に聞こえてしまったんじゃないか?
まずい!まずいまずいまずいまずい!
今さら慌てても遅いんじゃないか、諦めた方がいいんじゃないか、という内なる声はあえて圧殺し、大慌てで今度こそ冷蔵庫と涼夏の間に立ち塞がると、俺は、後ろ手で扉を閉めつつ、こわばった笑みを浮かべた。
「ご、ごめんね、まさか、冷蔵庫がいかれてたなんて!臭いの元、これだったんだね!」
はは、と乾いた笑い声を立てた直後に、いや、笑ってる場合じゃないなと、真剣な表情を作る。
「ほんとごめん!今すぐ処理しちゃうから!それでさ、申し訳なんだけど、ちょっとだけ、手伝ってくれると……」
すがるような思いで発した一言だったが、残念なことにその必死さは思いは届かず、涼夏はあからさまなしかめっ面となった。
「え、手伝えって……あたしに?この臭いの中で?」
「すぐすむから!このまま放っておけないしさ!」
「いやいや、ないでしょ。普通にあたし、帰るから」
「待って!本当にすぐだから!」
「またね」
言うが早いか、くるりときびすを返し、涼夏は、すたすたと廊下を歩いている。
「待って!待てよ!」
肩に手をかけ、引き戻そうとしたのだが、すげなく振り払われる。
「やめてよ、しつこいの、うざいって!」
いらついた声。その思った以上の激しさに、俺は、再び伸ばしかけた手を途中で力なく漂わせる。その間も、涼夏は大股ですたすたと歩き続け、つっかけるようにパンプスを履くと、玄関扉のノブに手をかけようとし……次の瞬間、「ひっ!」と感電でもしたかのような勢いで手を引っ込めると、倒れ込みそうになるほどの勢いで、半歩、後ろに飛びすさった。
「ど、どうした?」
彼女の肩越しに、前方をのぞき込む。
と……玄関灯のぼんやりとした光に照らされたノブがゆっくりと回転しており……やがて、扉全体が外側に向かって、細く開いた。
そのすき間から、鈍く光る金属が、ぬらりと姿を見せる。
刃の半分ほどがべっとり鮮血にまみれた、包丁だ。
刃先からぽたり、ぽたりと血の玉が落下する、そのリズムに合わせるかのように、包丁の柄を握りしめた、これも血まみれのゴム手袋が、血まみれのレインコートの腕が、返り血を浴びたゴム長の胴体が……そして、レインコートのフードを目深にかぶり、マスクをした顔が、のっそりと現れた。
「はっ……!ひっ……!はっ……!!」
恐怖のあまりか、ろくに声も出せまま後じさる涼夏。その肩をそっと抱きながら、俺も、彼女の体に押されるようにして、台所へと向かって後退していく。
不意に、包丁を持った侵入者が、立ち止まった。
そして……なにやら小声でつぶやく。
半ば無意識に「え?」と聞き返すと……。
「あたしの、内臓!内臓を、どうした!」
侵入者は突如、包丁を振り上げ、割れ鐘のような声で叫んだのである……!
「涼夏ちゃん、やったっけ?ごめんなあ、びっくりしたやろ?」
もうもうと上げる煙越しに、大家――この建物全体の持ち主であり、一緒に家業を営んでいるオカンが――いかにもすまなそうに声をかけた。
「本当にびっくりしましたよ!でも、おかげでこんなおいしいお肉ご馳走になれて、逆にラッキーだったかもです!」
ホフホフと肉を頬張り、ビールを流し込みながら、涼夏がこの上なくうれしそうな表情で答える。
先ほど涼夏と一緒に入った俺の部屋の真下、1階にある、実家のリビングである。
あの後、怒り狂うオカンをなだめすかし、謝り倒して腐った臓物を処理してもらい、冷蔵庫から流しから台所から、ありとあらゆるところを洗浄、脱臭しまくって、ようやくすっきりしたところで、
「いやあ、お疲れさん。手伝ってもろて、ほんまに助かったわ。お礼に、よく冷えたビールと、とっときのお肉ご馳走したげるわ!」
という誘いに尻尾を振ってついてきた涼夏と共に、ホットプレートで思い切り焼肉を食べている最中なのである。
「さあさあ、うちはオロシもしとるさかいな。まだまだ肉、ようさんあるよって、どんどん食べてな」
「ありがとうございます!それじゃ、遠慮なく!でもこのお肉、本当においしいですね!」
「そやろ?和牛やったらA5ランクやで」
「脂がとろけるように甘くて、味も濃くって!ああ、これでレバーとかハツとかの内臓もあれば、最高だったのに!」
「ごめんなあ。ホンマやったら、内臓もたっぷりたべてもらいたかってんけどな。どっかのアホが、とんでもない大ポカかまして、せっかく下ごしらえした内臓、台無しにしくさりよったから」
あおっていたビールジョッキを慌てておき、もぞもぞと身じろぎする俺。
そんな俺を冷ややかに横目で見ながら、涼夏も同調する。
「本当にもったいないですよね~」
「サプライズプレゼント、とかいうて、わざわざウチに下ごしらえさせて。ほくほく自分の部屋に持っていって。でもって、うっかり計画停電忘れてました、ってどういうことやねん。おかげで、せっかくのおいしい内臓、ぜーんぶパア。部屋ん中じゅうくっさい臭いでいっぱいにして、でもって、自分で片付けるならまだしも、わざわざ親に片付けさせるって、ホンマ、空いた口が塞がらんわ!」
こうなることが分かっていたから、オカンに知られたくなかったのだ。だから、こっそり二人で片付けようとしてたのに……。
「仕方ないだろ。停電が今日だって知らなかったんだから」
いくらかでも汚名返上しようと、唇をとがらして抗弁する。が、俺のそのわずかな抵抗も、オカンの鼻息一つで吹っ飛ばされた。
「なに言うてんの!半月前から何度も何度も言いました!今日の昼間計画停電やで、冷蔵庫の中空っぽにしとくんやで、って。今朝かて仕事に出かける前に声かけたやろ、冷蔵庫大丈夫か、って。ほしたらアンタ、なんて答えたか、覚えてるか?「ああ、大丈夫大丈夫!」って、はっきりそう答えたやんか!そやろ?」
確かに言われた。
涼夏が冷蔵庫を開けた瞬間、そのことを思い出していた俺は、それ以上なにも言えなくなり、唇をとがらしたまま、黙り込む。
「ほら、な?一体どこがどう大丈夫やったんか、説明できるもんなら説明してほしいわ!しかもその上、腐らせたらのばれたら怒られると思たから、こっそり片付けようと思った、それで涼夏を引き留めた、って、なにを考えてるんや?飲み直そ言うて初めて部屋に連れてきた女の子に、あんなばっちいモン触らせようてか?ほんまに、脳ミソどっかに置き忘れてきたんか?」
「さすがに引きましたよ。しかも、あの時の様子だと、あたしメインで片付けさせようとしてたし」
「いや、あの、俺少し潔癖で、ああいうのちょっと触れなくて……涼夏なら、仕事で慣れてるかなって」
俺がつい、本音をぽろっともらしてしまった途端、二人の声量が跳ね上がった。
「ええ年こいたオトコがなにを情けないこと言っとるんや!自分のケツも自分で拭けんのかいな!」
「そりゃまあ、慣れてないことはないけど、でも、仕事でもないのにあんなのの処理するのは、やだよ!」
「あ、はあ……ですよね、すみません」
二人の勢いに気圧され、俺はひたすら小さくなって頭を下げることしかできない。
「ああもう、ほんまに情けのうてナミダ出てくるわ!一体どういう育てられ方したら、こんなボケナスができあがるんや?いっぺん親の顔が見てみたいわ!」
「やだお母さん、親の顔って、鏡で毎朝ご覧になってるじゃないですか~」
「いーや、ウチはこんなボンクラ、育てた覚えはない!このアホは、やっぱりボンクラやったウチのお父ちゃんが一人で作った子や!」
「あ、お父様がアメーバみたいに、分裂して増えたんですね!単細胞生物?」
「まさにそれや!単細胞のオッチョコチョイ、大して役立たんのに、ムダにえらそうで、ほんまにお父ちゃんそっくりやで!」
「あははは……お父様も、同じようなミス多いんですか?」
「そやねん!この間もな……」
「あははは……!それって……」
「しかもやで……」
「あはははは……」
その夜、オカンと涼夏は、焼肉と俺とオトンをツマミに、白々と夜が明け始めるまで飲み続けたのだった。
「……田舎でのびのび育った娘で、つい最近こっちに出てきた。体を動かすことと食べることが好きで、ダイエットにはあまり興味なし。ほどよく筋肉と脂肪がついてる感じやな。しかも、肌が弱いせいで化粧は最低限。もちろん、タトゥーもなし。持病もなく、極めて健康。……ええやないか。和牛やったらA5ランクや。どこでこんな娘見つけたんや?」
「いつものバーだよ。初めて見る顔だったんで声かけたら、すぐに乗ってきた」
「アンタ、顔だけはイケメンやからな。化けの皮はがれんうちに、なるべく早う、部屋に連れこんでや」
「ああ、分かってる。来週か、再来週には……」
「遅い遅い!注文、どんどん入ってるんやで!」
「でも……」
「お客さんの要望に素早く応えていかんと、あっちゅう間に商売左前になる!ええか、今週中、遅くとも来週アタマには、連れ込むこと!わかったか?」
「……わかった、そうしてみるよ」
「それと並行して、新しいターゲットも見つけとくんやで!」
「わかってるよ!……本当に人使いが荒いんだから……」
わざわざ声を低くしたというのに、こういうときだけ耳が突然鋭くなるオカンは、当然のように俺のボヤキを聞きつけた。
「なに、アンタ。なんか文句でもあるんか?だったら、ウチの代わりにこっちの作業、やってくれるんか?」
「いや、それは……」
「できへんのやろ?だったら、素直に仕入れの仕事に精出しなはれ!」
「……分かったよ……」
俺が唇を突き出し、身をすくめたところで、玄関の引き戸ががらりと引き開けられた。
「ただいま帰りました~!」
元気よく弾んだ声だ。
「お、おかえり~!」
その元気さに触発されたかのように、俺と話す時とは打って変わった弾んだ声で、オカンも応える。
「無事納品終わりました!」
「ご苦労さん!先方さん、喜んどった?」
「ええ、すごく喜んでらっしゃいました!」
「そりゃよかった!やっぱり、涼夏ちゃんにオロシ任して正解やったな」
「ありがとうございます!でも、まだまだお母さんの包丁さばきには敵いませんよ!」
「いやいや~、ウチは今まで、健康な個体ばっかりオロシてきてるからな。ああいった、病気の部分をどう処理したらええかは、さっぱりやし。その点、さすが涼夏ちゃんは、看護師さんだけあるで」
「いえいえ、普通の部位のオロシはまだまだ、勉強させてもらってます!」
「や、もう、そんなふうに言ってくれるのは涼夏ちゃんだけや。ありがとうね。それにしても、まさかああいった病気のところを好まはるお客さんがいるっちゅうんは、ホンマに盲点やったわ。涼夏ちゃんのおかげで、これまでは捨ててたとこも売れるようになって、大助かりや」
「いえ、助かってるのは私の方もです。そろそろ一人でやるのは限界かなって思っていたんで、こんな風に仕入れから最後の廃物処理までしっかりできあがってるお店で働けて、本当に感謝してます!それに……」
と、ここで、それまで完無視していた俺を、涼夏はちらりと一瞥した。
「あたしの方のツテだと、どうしてもクセの強いお肉しか手に入りませんし。このお店なら、いつだって文句なしのおいしいお肉が食べられますから!」
満面の笑みとなる涼夏に、オカンも、かっかっかっと気持ちのいいほどの大笑いを返す。
「病院とウチと、カケモチで働いてくれてる上に、仕入れ先や得意先まで紹介してもろて、ホンマ、涼夏ちゃんは福の神やな!どれ、今日も福の神さんに、いいお肉と内臓と、お供えさせてもらお!」
「ほんとですか!?うれしいです!今日もたくさんいただいちゃいますね!」
「うんうん、結婚式もそろそろやし、たくさん食べて、お肌ツヤツヤにしてな!」
「はい!」
はしゃぐ涼夏。その姿を見て俺もにっこり満足げにほほえんだのだが……それがオカンの気に障ったらしい。
「アンタも、こんないい花嫁さんもらお、っていうんや。へらへら笑てないで、気合い入れて、仕入れに精出してもらわんと困るで!」
「そうそう、あたしがおいしいお肉食べられるように、頑張ってね、あ・な・た!」
爆笑する女二人。
「はいはい、分かりましたよ」
聞こえるか聞こえないかの声で返事をしつつ、俺はひそかにため息をついた。
(やれやれ、今まで気の強いオカンの尻に敷かれ、こき使われてきたってのに、これからはオカンと嫁さんの二人に尻に敷かれて、こき使われるのかよ……。ま、でも、涼夏がいなけりゃ、家業も近い将来成り立たなくなるだろうし、これでいいんだろうな……いいことにしておくか……)
ますます話に花を咲かせる女二人から目をそらすと、俺は、脱臭装置付きの強力換気扇を始動して臭いが外に広がらないようにした上で、「廃棄する部位」の入ったポリバケツに薬品を注ぎ、モヤモヤする思いを振り払うかのように、思い切り力を込めてかき回しはじめたのだった……。