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この作品には 〔ガールズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

夜明けと兎

作者: 雪葉 白

しんしんと雪が降っている。

吐いた息が黒い雲と白い雪の中に溶けていく様を、朝陽(あさひ)はブランコとシーソーくらいしか遊具がない小さな公園のベンチに座ったまま眺めていた。


いつからここに居るだろうか。少なくとも、ベンチの上に薄らと雪が積もるくらいはここに座っていた。


後ろの家から、夕飯のカレーの良い匂いがする。


帰るか、と朝陽は静かに鼻を啜った。それからゆっくりと立ち上がると、さっき寄ったホームセンターのビニール袋を手に持って帰路を辿った。


鍵を開け自宅に入る。家の中は暗く静かで、外と温度も変わらない。靴を脱ぐと、靴下越しにどんどん廊下へ熱が逃げていった。


ただいまは言わない。言わなくたって怒る人はもういないからだ。


朝陽はリビングに向かう。何の気無しに机を見ると、開かれたままのアルバムが置きっぱなしになっていた。

数枚しか写真が入っていないアルバムには、笑顔がぎこちない彼女の姿が写っている。写真は苦手だと嫌がる彼女を何とか説得して撮れた貴重な数枚だ。それ以外の盗撮写真はスマホにも沢山入っているけれど、やっぱり、彼女と二人並んで撮れた写真の方が好きだった。


朝陽はアルバムの中の彼女をそっと撫でた。昨日散々泣きまくった癖に、朝陽の涙腺はまだ枯れていないようだった。彼女を心配させないように、口元だけ笑顔を作ってみせる。


「……大丈夫だよ、(よる)


呼ぶ度に心が温かくなる、大好きな彼女の名前。朝陽は自分の名前と対極にあるその名前を愛していた。ロマンチストな訳ではないが、運命だって感じていた。


「直ぐに()()()に行くからね」


だから朝陽は、夜の隣に居たいのだ。


「二人でいれば、もう寂しくないから」


夜は今、意識不明の状態にある。三ヶ月前、帰宅途中だった夜は歩道橋の階段を上っている途中で、心臓発作を起こして意識を失い階段を転落する人に巻き込まれた。

夜は受け身も取れないままその人と共に階段の一番下まで転落し、全身を強く打ち付けながらその人の下敷きになって倒れていた所を通行人に発見された。


二人共救急車で病院に搬送されたが、その人は既に心臓が止まっていた。夜も頭を強く打っていたせいで意識が無く、体の骨も幾つか折れていて出血もしており、かなり危ない状況だった。


朝陽が仕事が終わって連絡に気付き、病院に駆けつけた頃にはもう、夜はベッドの上で酸素マスクを付けて横たわっている状態だった。


それを見て、果たして誰が希望的観測を口に出すことが出来るだろうか。

夜が目を覚ます確率なんて誰にも分からない。沢山の管を体に繋げて、呼吸ですら自らで行うことが出来ないそんな状態の夜を見て、大丈夫。きっといつか。なんてそんなこと、思えるわけが無かった。


朝陽はその様を呆然と見つめていた。


夜の小さい手はただ腕にくっついているだけの物のようにだらんとベッドに落ちている。夜空に輝く月のように真ん丸で綺麗な黄色い目はずっと開かないままだし、可愛いけれど芯のある声が朝陽の名前を呼ぶこともない。


絶望しか感じなかった。何度だって夜の名前を呼んだし、幾度となく夜の様子を確認しに来ては、眠り続けるままの顔をじっと眺めて、いつか目を覚ましてくれないかと願い続けていた。

そうしてとうとう、限界が来てしまった。


朝陽は今日、夜の元に行く。会えないなら、強引にでも会いに行ってやるのだ。それが片道切符だとしても構わない。夜がそこに居るのなら自分だってそこに永住してやる。


朝陽はアルバムをそっと閉じ、椅子を引き摺って所定の位置まで移動させた。

そして天井にさっき買ってきたロープをしっかりと結ぶと、反対の先端に輪っかを作る。


唐突に、背筋に寒いものが走った。きっと部屋の暖房をつけていないせいだろう。生きている証拠だ。もうすぐ消える。


輪っかに自身の首を通した。その時、ふっと頭に夜の顔が思い浮かんだ。


……今の自分を見て、夜は何と言うだろうか。きっと物凄く怒るし、出来れば泣いて欲しい。朝陽だって夜を想って沢山泣いたのだから、その倍は泣いてくれると嬉しいと思った。


そんな風に夜のことを考えていたら、少し気持ちが軽くなった。うん、大丈夫。もう平気。

夜とのデートに行く足取りのように軽やかに、朝陽はその一歩を踏み出した。



□□□


ぱちっ、と目が覚めた。

何かがおかしい。朝陽は瞬時にそう思った。首に掛けていたロープが無かったからだ。それに、天井からぶら下がっていた筈なのに今は何故か床に寝そべっている。

誰かに助けられた? しかし、それにしては周りがやけに静かだ。人の気配がしな____


「起きた?」

「?!」


突如降ってきた声に、朝陽はびくりと肩を揺らした。そしてその声に、目を僅かに見開いた。朝陽の記憶のほぼ全てに色濃く残る、大好きな声に限りなく似ていた。


というか、これってまさか。


急いで声を辿り、視線を動かすと、その声の主はこちらを鋭い目つきで見下ろしながらソファに座っていた。


「___夜」


幾度となく呼び続けた名前を呼ぶ。

本当に、本物の夜だ。あの顔、さっきの声、その姿。間違いない。夜がいる。朝陽の目の前に、そこに座っているのだ。


「夜」


夜の姿をしっかり目に焼き付けたいのに、またも朝陽の涙腺が馬鹿になってしまっている。一瞬で視界が水中のように揺らめき、夜の輪郭がぼやけて景色と混じり合う。


「夜っ……!」


もつれる足を必死で動かして、夜の懐に飛び込んだ。


触れられる。幻覚じゃない。


甘い花のような彼女の香りがふわりと朝陽の鼻を掠め、また懐かしさに体が震えた。


「うるさい」


夜を見上げると同時に、夜は朝陽の頬を指でぎゅっと摘んだ。


「……いひゃい((痛い))


遠慮の無い力加減に心が痺れて熱くなる。朝陽に対するこの雑な態度も、まさしく夜だ。嬉しくて堪らず、朝陽が笑顔のまま無抵抗に頬を抓られていると、夜は溜め息をついて手を離した。


「ねぇ、一旦離れて」

「嫌だ」


朝陽は夜の腰にがっちりと抱きついた腕を、その言葉で更に強固にする。


「良いから、離れて」

「嫌。絶対離れない」


離れたら、夜がまた消えてしまうかもしれない。心の中で朝陽はそんな恐怖に襲われていた。だから絶対に離れようとしなかった。


「……離れないと、嫌いになる」

「すみませんでした」


夜の言葉で、朝陽は瞬時にソファの前にある机よりも更に奥に飛び退いた。

夜の『嫌いになる』は本当に嫌われるので、気を付けなければならないのだ。


「そんなに奥まで行かなくて良いのに」

「ごめん。咄嗟に体が……」

「もう」


夜はまた溜め息をついて立ち上がる。そのまま朝陽のいる所まで歩いて来るので、朝陽はなんとなく正座になった。

夜は朝陽の目の前に立つと、じとりと目を細めながら朝陽のことを見下ろした。


「良い? 今から大事なことするから」

「えっ? はい……」


何故だろう。少し胸がドキドキする。

頬を染めながら夜に期待の視線を向けていると、夜は「口を閉じて、動かないでね」と言って、片手を振り上げた。


朝陽はえっ? と目を点にする。これからされることを理解する前に、左頬に強い衝撃と雷が落ちたような痺れる感覚が襲ってくる。


「……?」


朝陽は左頬を抑えながら呆然と夜を見上げた。夜は手をゆっくりと下ろしながら、俯いたまま何かを呟いた。


「……か」

「へ、」

「大馬鹿!!」

「?!」


夜の怒りの原因が何か分からない。朝陽が記憶を必死で辿りつつ、いやとりあえず謝らなければと口を開くと、夜の目から涙がポロポロと落ちていた。

朝陽は開いた口を更にあんぐりと開ける。


よっ((夜))……?! ご、ごめんっ! 何で、な、な、私なんかしたんだよね?! ごめんっ、泣かないで」


朝陽は慌てて夜の涙を拭おうと膝を立てる。服の袖を掴んで夜に近付くと、ギロリと睨まれて拒絶された。


「そのまま正座してて!」

「はいっ」


言われるままにその場に直った。しかし、夜は泣き続けているままなので何かしてあげたくて仕方が無い。落ち着かなくてそわそわと足が動いてしまう。

夜はそんな朝陽に溜め息をつき、腕で目を雑に拭う。


「あ、赤くなるよ……」

「ならない」

「…」


漸く落ち着いたらしく、夜はふっと息をついた。


「……なんであんなことしたの」

「? あんなこと、って?」

「だから、なんで自殺なんてしたの! って聞いてるの!」


堪えきれず、といった様子で夜は声を荒げた。

朝陽はなんだそのことかと目を伏せる。


「……だって、夜に会えないから。死んじゃったし」


再び、朝陽の左頬に衝撃と痺れが訪れた。夜は怒りと悲しみで呼吸を忘れそうになりながら、朝陽に言葉をぶつけた。


「何、馬鹿なこと言ってるの。私っ、まだ死んでない!」

「……三ヶ月も寝てるのに?」

「……えっ?」


突然のことに虚をつかれ、夜は間抜けな声を出した。朝陽は口元を震わせながら口角を上げ、しかしその目は全てを諦め絶望したように空虚なものだった。


「夜が寝たきりになって、もう三ヶ月も経っちゃったんだよ。その間毎日会いに行ったけど、夜は何も反応してくれなかった」


朝陽の脳裏には、病院で眠り続ける夜の姿が浮かんでいた。静かな室内に響く規則的な機械の音は、朝陽の耳奥にずっと残っている。あれがいつ止まるか分からない恐怖も、音が乱れる度に息が止まる感覚も、朝陽は何度も味わっていた。


「だけど、待ってたよ。結構頑張ったよ。……けどね」


朝陽は、腿の上に置いた拳を強く握り締めた。


「待ってる間に冬になったよ。夜が育ててた花も頑張って世話したけど、冬になる前に枯れちゃった。夜の作り置きのおかずも大事に食べたけど、もう無くなっちゃった。衣替えも一人でしたし、炬燵も一人で使ってる。でも一人で寝ると、いくら毛布を重ねても寒い。寒くて、寂しい。寂しくて、辛い」


朝陽は夜を見上げる。顔を上げた拍子に、目に溜まっていた涙が揺れて流れ落ちた。


「もう待つの、疲れちゃったよ。だから夜は死んだって思い込んで、じゃあ同じ所に行かなきゃって。私は一人で生きていけないから」

「……そんなに、経ってたの?」


夜は戸惑いながら朝陽を見て、自分の手を見る。


「私がここに来てから、そんなに……?」

「夜」

「何___っ」


朝陽は夜の目が自身から外れた隙に立ち上がり、夜を自分の腕の中に閉じ込めた。

そして、自分より一回り小さい彼女を強く抱き締めた。


「私もここにいる」

「なっ、に言って」

「ここがあの世でも良い。夜が居るんなら、私は()()()()()()()

「〜〜っ離して!」


夜に力一杯押し返され、朝陽は思わず腕を離してしまった。


「私、死んでない! 死んでないから! ここはあの世なんかじゃないし、朝陽だって死んでない! 死んで良かったなんて、二度と言わないで!!」


朝陽の胸を力任せに拳で殴りつけながら、夜は目尻に涙を滲ませて叫ぶ。


「……でも」

「私、帰るんだから! 絶対、帰る! 勝手に決めつけて絶望しないで! 待ってろ馬鹿朝陽!」

「あっ……?!」


ドンッ、と体を押された。その瞬間、朝陽の足元の床が消え、体が下に落ちていく。


「夜っ……! そんなっ……嫌だ……!」


朝陽は両手を力の限り夜へ伸ばす。しかし努力虚しく、体は下に落下する。肝心の夜は涙で濡れた目を両手で拭うのに必死で、こっちを見てすらいなかった。


折角会えたのになんて仕打ちだ。もっと再会を喜びたかった。抱き締めて、名前を呼んで、キスをして、頬を染めて恥ずかしがる彼女を目に焼き付けたかった。


朝陽は果てしない後悔に唇を千切れる位噛み締めて、ふっと意識を手放した。


「___ゲホッ、ガハッ!」


目を覚ました瞬間、耐え難い息苦しさを覚えて盛大に咳き込んだ。

たまにえずきながら咳込み続け、しばらくして漸く息苦しさから解放される。息を大きく吐きながら自身の喉に手をやると、ざらりとしたロープの感触に一気に現実に引き戻されたような気がして、息を呑んだ。


暗い天井を見上げる。朝陽が意識を失った後でロープが切れたらしい。不自然な切れ方をしたロープの断面が月明かりで照らされ、朝陽の頭上で垂れ下がっていた。どうやら運すらも、朝陽の味方では無いらしい。


「夜、夜っ……! あぁ、なんで、なんで!」


朝陽はくしゃりと顔を歪め、床を拳で強く打ちつけた。体を丸め、子供のようにわんわん泣いた。

そのまま一頻り泣き喚き続けると、涙が枯れる頃には流石に冷静になってくる。暗く冷たく静かな室内で、朝陽は大の字になって床に寝そべった。鼻を啜りながらぼんやりと天井を見上げ、先程の夜との会話を脳内で反芻した。


「……また、死んだら夜に会える」


ぽつりと呟き、首にかかったままだったロープを摘んでじっと眺めた。


「もう一度行かないと、あそこに。……行くんだ」


ロープから手を離し、朝陽は決意を口にする。

瞼が急激に重くなる。移動する気力も体力もなく、朝陽はそのまま意識を手放した。


そして、翌日。


「夜〜〜〜っ!」

「あぁぁぁもおおお!!」


朝陽は再び、夜に会いに来ていた。昨日は平手だったが、今日は拳が飛んできた。朝陽は笑顔でそれを受け止める。


「えへ、来ちゃった♡」

「『来ちゃった♡』じゃ、ない! またあんなことしてっ……! 怖くないの?!」

「夜大好き」

「話聞いて!」


夜の腰に抱き付きながら、朝陽は太陽のように眩しい笑顔を愛しい彼女に向ける。対して夜は、苦虫を噛み潰したような表情で朝陽の頭を押し潰さんばかりに押していた。


「馬鹿! もう! 馬鹿!!」

「えへ、えへへ……夜、キスして良い?」

「い、や!! ……はぁ」


鋼の意志で離れようとしない朝陽にとうとう諦め、夜は疲れを滲ませながら床に座り込んだ。


「なんでこんなことするの」

「夜に会う為ならなんだってするよ」

「だから私、死んでないから」

「でも、また会えた」

「…」


反論出来ない夜に、朝陽は「ね」と笑顔を浮かべる。しかし煽っているわけではない。ただ純粋に、また夜に会えたことが嬉しくて堪らなかった。頬がこのまま落ちてしまいそうな程緩んでしまっている。

夜は悔しげな顔を隠すように、そっぽを向きながら言った。


「私も、ここのことはよく知らないの」

「? でもここって、私達の家だよね」

「それは、神様に頼んだから」

「え、神様……?」


唐突なファンタジーワードに、朝陽は目を丸くする。夜は馬鹿にされたと思ったらしく、首をゆらりと回して朝陽を睨んだ。朝陽は咄嗟に頭を振って全力で異議を唱える。


その様子に気が済んだのか、夜は鋭く細めていた目を元に戻し、続けた。


「事故に遭ったあの後、ここで目が覚めたの。最初は真っ白な空間でしか無かったから、頭がおかしくなったのかと思ったけど。そしたら急に神様が現れて、なんか詳しく説明してくれたんだけど……難しくてよく分からなくて。ただ、私はまだ死んでないことと、その時が来るまではここから離れられないってことは分かった」

「時……?」

「……うん。私も、分からない。けど兎に角私は、絶対に元の世界に帰るの」


そう言い切った夜の強い眼差しに、朝陽は思わず目頭が熱くなる。

あぁ、それがもう少し早く聞けていたら。もしかしたら、何か変わっていたのかもしれない。

でももしそうだったら、朝陽は夜に会えないままだったのだろうか。


「…」


朝陽はやるせない気持ちを隠すように夜の肩にぐりぐりと頭を押し付ける。


「ちょっと、痛い」

「ごめ___」


顔を上げると、怒った夜の顔が目の前にあった。夜の顔をこんな至近距離で見たのは三ヶ月ぶりだ。相変わらず可愛い。久しぶりのこの距離に、朝陽は動揺を隠し切れない。鼓動が高鳴って、頬が熱くなる。


無理。どうしよう可愛い。夜。可愛い。愛してる。


怒って尖らせているその口に、理性が一瞬弾け飛んだ朝陽は自身の唇を重ねた。


「?!」


夜は予想していなかった事態に目を見開く。


「ちょっと___んんっ」


唇が離れた隙に朝陽を怒ろうとするも、直ぐにまた口を塞がれる。

ならばと抗議の為に上げた手もするりと朝陽に取られ、指を絡められて身動きが取れなくなる。

朝陽はそのままゆっくりと夜を押し倒し、何度も角度を変えてキスを続け、夜から抵抗する力を奪っていった。


五、六回キスを重ね、やっと満足した朝陽はゆっくりと夜から体を離した。

絡めていた指を解こうと力を抜くと、夜がぎゅっと指に力を入れた。


「!」


甘く蕩けた目で夜が朝陽を見上げている。朝陽は口に含めばとんでもなく甘そうなそんな光景に、ごくりと生唾を飲んだ。先程満足した筈なのに、もっと欲しいと思ってしまう。


「……夜」


朝陽は夜の頬に手を当てる。


「抱かせて」

「いい………い、や駄目!!」


思考が溶けていた夜はすんでの所で正気を取り戻し、受け入れかけていた口をきゅっと引き締めて朝陽の頬を力の限り押した。


「っだ?!」


衝撃で朝陽の首があらぬ方向を向き、ぐきっと変な音が鳴る。その隙に朝陽の体が離れたので夜も急いで上半身を起こした。


「何するの〜……」


朝陽は涙目になって首を押さえる。火事場の馬鹿力というものが効いたのだろうか、余りにも痛かったらしい。


「そ、そういうのは帰ってから!」

「夜が誘ったのに……」

「さ、そって……ないから」


先程の自分を思い出し、夜は耳まで真っ赤にして俯いた。朝陽はそんな夜の耳に口付けると、夜が振り下ろした手を慌てて回避した。


「可愛い。夜大好き」

「…」


照れ隠しの睨みを浴びて、朝陽は心底幸せそうに微笑んだ。夜は色々とリセットをするように一つ息を吐いて、朝陽に向き直る。


「朝陽、もうここに来ないで。お願いだから」

「……どうして?」


口だけ薄らと笑みを浮かべる朝陽に、夜は背筋が少し寒くなった。夜の目から見ても、朝陽の感覚がおかしくなっていることは明白だった。

夜は頸に冷や汗を滲ませながら朝陽を恐る恐る見上げ、言った。


「……恋人に、何度も死んで欲しくないの」

「でも私、大丈夫だよ。寧ろ調子が良い気がする」

「そんな訳ないでしょ……! じゃあ朝陽は、私が連日自殺を繰り返してるって言ったらどうするの」

「全力で止める」

「何で分かんないかなぁ……??」


「何が?」と首を傾げる朝陽の顔を引っ叩きたくなったが、夜はぐっと堪えた。

夜は朝陽の顔を見る。朝陽はこう言ってはいるが、二日に渡って自殺を繰り返していて、"寧ろ調子が良い"なんてそんなこと、絶対にある訳が無いのだ。現実世界の朝陽の状態が心配でならない。それでも夜には、現実の朝陽に干渉する方法が無い。


夜は強く下唇を噛む。それを見た朝陽は夜の頬に手を当て、指の腹で唇を優しく撫でて噛むのをやめさせると、ゆっくりと顔を近付けて再度唇を重ねた。


「血が出ちゃうよ、夜」

「誰のせいだと思ってるの」

「心配しなくても、ちゃんとご飯は食べてるよ」

「ここに来てたら意味無いでしょ」

「それはだって、夜に会いたいから」

「…」


朝陽の素直な好意に嬉しさを感じてしまう自分に腹が立つ。夜は拳を握り締め、しかし直ぐに緩めて朝陽の手を握る。


「ねぇ、約束して。もうここには来ないって」

「…」

「私、絶対に帰るって言ったでしょ。お願いだから、ちゃんと待ってて」

「…」

「……朝陽、お願い」


朝陽は穏やかな笑みを浮かべたまま、夜からそっと手を離す。


「あーあ……名残惜しいなぁ」

「ねぇ、朝陽」


そして一歩後ろに下がると、朝陽の足元の床がふっと消えた。いつ分かるようになったのだろう。もう時間が来たのだ。


「じゃあね、夜」

「あさっ……」


下に落ちていく朝陽に、夜は思わず手を伸ばしていた。

初めてだ。朝陽が、夜の頼みを聞き入れなかった。


「……馬鹿朝陽」


あの様子では、朝陽はまた来てしまうのだろう。夜は伸ばした手をもう片方の手で掴み、強く握った。


今の夜では朝陽を止められない。帰る方法も分からない。……上手くいかない。何もかも。


「やれやれ。何やら、困ったことが起きているみたいだね」

「……神様」


歯痒さでむしゃくしゃしていると、後ろから声がした。ここにいるのは自分と、神様だけだ。

夜が振り返ると、兎の姿を模した神様が夜の足元までぴょんぴょんと跳ねてきた。


「夜。こういうことは、早く教えてくれないといけないよ」

「……ごめんなさい。でも、止めてはいるんです」

「ふむ。しかし、彼女は聞き入れていないようだね?」

「……はい」

「さて、どうしたものか」


神様はふむ、ふむとゆっくり考えるように口を動かす。しかし特に何も思い浮かばなかったらしく、目を閉じた。


「まぁ、夜が止めているというのなら()()良いだろう。しかし、そう何度もはいけないよ」

「……分かっては、いるんですけど」

「私が止めようか?」

「…」


夜は服の裾をぐっと掴む。確かに、神様に頼めば一瞬で解決するだろう。でも本音を言うなら夜だって、恋人に会いたくて堪らない。


「少し、時間を与えようか。でも、少しだけだよ」


その思いが顔に出ていたのだろう。神様は子供の我儘を聞く親のように夜に語りかけ、「それじゃあね」と去っていった。


「……っふ……」


一人になった夜は、声を抑えながら涙を溢した。

朝陽はきっと、明日も来るのだろう。止めなければならないのに、自分の力では止められない。話だって聞いてくれやしない。

それに夜も、朝陽に会えて嬉しいのだ。ずっと一緒にいたい。そう思っていることだって、本当はいけないことなのに。


「早く、帰りたい……っ」


夜はその場に蹲って、声を抑えて泣き続けた。


□□□


ぴちゃん、と水が落ちる音がする。

朝陽は静かに目を開けた。体が冷えて、気分も悪い。

寄りかかっていた浴槽から離れ、水の中から腕を出す。その手は白く血の気が無く、浴槽の水は赤く濁っていた。チカッと太陽光が水に反射して、朝陽は不快げに低く唸った。


「……また、怒られちゃった」


朝陽は頬を緩ませる。今回は夜とキスまでしてしまった。久しぶりの甘美な感覚に、今も余韻で口の中が甘く感じる。


「可愛かったなぁ、夜」


栓を抜いて溜まっていた水を流し、ふらつきながら立ち上がる。ふと浴室の鏡に目がいった。そこには生気のない顔をした自分の姿が映っている。

その醜さに、自嘲の笑みが溢れた。


「あーあ、早く夜に会いたい」


ぐっと伸びをする。さて、何か食べなければ。また夜に心配をかけてしまう。

朝陽は冷蔵庫に何が残っていたかな、と考えながら浴室から出て行った。


そうしてまた、夜になった。

というか、疲れて寝ていただけなのだ。それなのに、気付いたら夜の元にいた。


「……今度は何したの」

「わ、かんない。何でだろ」


首を傾げながら夜を見上げる朝陽は、まぁ良いよと笑顔を浮かべる。


「それより、その兎は何?」


言いながら、朝陽はソファに座る夜の隣に厚かましくも居座り、あろう事か夜に優しく優しく撫でられている真っ白な毛並みの兎に目をやった。


兎と戯れている夜は可愛いが、夜に可愛がられている兎は気に食わない。朝陽ですら片手で数える程しかないというのに、あの兎は何なのだ。腹が立つ。気持ち良さそうな顔しやがって。


「……神様」

「ぶっ?!?!」


だから余計に驚いた。思わず腹の奥から空気を吹き出して咽せる位には動揺した。


すると突然、兎の目が静かに開いた。


「君が朝陽だね?」

「!」


見た目はただの兎でしかないそれが急に流暢に喋り出し、朝陽は思わず顔を強張らせる。


「そんなに警戒しなくとも、取って食ったりはしない」

「…」


朝陽は兎に返事はせず、夜の方へ視線を送る。夜は視線を合わせようとしない。

怒っているからだと思ったが、それにしてはどこか暗く沈んでいる表情に違和感を覚えた。


「……あの、恋人と二人で過ごしたいんです。私に用があるなら、もう本題から話してくれませんか?」

「はは、手厳しいな。では夜、席を外してくれるかい?」


夜は頷くと、現実世界では朝陽達の寝室に当たる部屋に歩いて行く。


「は?! え、待って、夜!」


呼び止める朝陽を無視して、夜はこちらを振り向きもせずに扉の向こうへ消えていった。

朝陽は兎を鋭く睨みつける。


「まるで子供だな。自制心の欠片も無い」

「そうですね。子供なんで気が短いんですよ。……で、要件は?」


兎は愉快そうに目を細める。


「二つある。君のことと、夜のことについてだ」

「夜のことだけで良い」

「では順番に行こう。そうだな。君は、何故夜が現世に帰れないのだと思う?」


朝陽は怪訝な顔をしながら、記憶を辿っていく。


「……確か、"時が来るまで帰れない"……? とか言ってたような」


朝陽は夜と二度目に会った時のことを思い出しながら答えた。


「そう。そして、その"時"についてだ。簡単に言うと、今の夜は現世との繋がりが非常に薄い。多少の衝撃で直ぐに千切れてしまう。だから私は夜を現世と黄泉の狭間にある()()に置いて、その繋がりが強くなる時を待っているわけだ」

「はぁ」


朝陽は返答に間抜けな声が出てしまうのを止められなかった。兎の話が余りにも奇抜過ぎる上、情報量の多さに頭が処理できなかったからだ。


「私とて夜を死なせたく無いのだよ。彼女は死ぬには早すぎる」


兎の言葉で、朝陽はショートしかけていた頭を何とか元に戻した。


「ただね。実際、こういう事例は多いんだが、大体は繋がりも強いから自らの意思で現世に帰ることが出来ているんだ。しかし夜は、何故だか繋がりが非常に弱い。まるで死を受け入れているみたいだ」

「それは、違う」


違う、と兎の言葉に被せるように朝陽は口を開いた。一番最初に会った時の夜の涙を思い出せば、その言葉に憤りすら覚えるというものだ。


「何故?」

「夜は絶対に帰るって言った。あの子の"絶対"は、絶対だから」

「そうか。だが、人間の本心は時と場合によって直ぐに変わるもの。夜が意識を失うその瞬間に何を思ったかなんて、誰にも分かるものではない」

「神様にも?」

「無論だ。プライバシーは守らねばならない」

「……そう」


朝陽は少しがっかりした。兎に聞けば、夜が今何を考えているか分かるかもと思っていたからだ。


「さて、話を戻そう。薄かったはずの夜の現世との繋がりが、今は濃くなったり薄くなったりと不安定な状態にある。原因は勿論、君だ。君の存在が、夜の精神を掻き乱しすぎている」

「そんなの、濃くなった時に連れ戻せば良いんじゃないの?」

「そんな簡単な話ならもうやっている。タイミングが難しいんだ。それに、問題は薄くなった時の方だ。君の存在が夜の命を薄めていることに、君は気付かねばならない」

「……つまり、神様ももうここには来るなって言いたい訳ね」


朝陽はここまでの話を自己要約して、またそれかと目を細める。

そんなこと、今更回りくどく言われなくてももう耳にタコが出来ている。


「でも、無理。私は夜に会う為なら何度だってここに来る。その為に何度だって死ぬ」

「それで、実際に死ぬことになったとしても?」

「別に良い」

「そうか。しかし君は、もうここには来られなくなるだろうな」

「……なんで?」


朝陽は衝撃で組んでいた腕が無意識に解け、下にダランと垂れ下がったことにも気付けない。口をポカンと開けたまま立ち尽くしてしまった。


「そりゃあ、君は望んで死に向かっているのだから。夜は巻き込まれただけで、君とは違う。……朝陽。君は死んだら下に堕ちるんだよ」

「下って……」


兎が言わんとする内容を理解して、朝陽は僅かに顔が青ざめる。


「っ冗談じゃない! 絶対に死なないから!」

「それなら、せめて今日は生き延びるんだな。因みに、現実世界の君は今死にかけている状態だ」

「……簡単だよ。生き延びれば良いんでしょ」

「あぁ。しっかり生き延びてくれ。……さて、これで君についての話も話せたことだし、私は消えるとしよう」


兎は立ち上がり、軽やかにソファを飛び降りる。


「また今度、夜をどうするかについて話そうじゃないか。私も方法を練っておくよ」

「どうするかって、生き返らせる方法のこと?」

「あぁ。……思ったより時間を使ってしまったな。悪かった。____夜。もう良いよ。こちらにおいで」


兎は寝室の扉の前に立ち、夜に呼びかける。程なくして扉が開き、夜が出て来た。

夜は兎に二言三言話し、兎は夜と入れ替わるように扉の向こうへ消えていった。


パタン、と扉が閉まった。


夜が朝陽と目を合わせた瞬間、朝陽は夜に駆け寄り、抱きついていた。


「朝陽……?」

「夜。私、絶対に死なないから」

「……ほんと?」

「うん。それで、絶対にまたここに来る」

「なんでよ」


夜の拳が朝陽の後頭部に振り下ろされた。

朝陽はそれでも構わず夜を強く抱き締め、少し腕を緩めて唇を重ねる。夜は一瞬肩をびくりと震わせ、しかしやがてキスを受け入れるように朝陽の背中に手を回した。


夜の唇の感触を脳裏に刻みつけるように、朝陽は繰り返しキスを続ける。次第に夜から力が抜けていくのを感じ、支えながら壁に夜の背を預けて一緒にズルズルと床に座り込んだ。


「……朝陽」

「何?」

「行かないで、って言ったら……喜んでくれる?」


熱に浮かされたようにとろんと潤む瞳が、控えめに、されど熱烈に朝陽を見上げている。赤く染まった頬と、肩を上下させて吐く甘い吐息も相待って、朝陽は体調不良とは別の目眩がした。

朝陽は受け入れようと無意識に開いた口をぐっと閉じ、ついでに目も閉じる。


頭の中で兎との会話を思い出し、朝陽はそっと目を開ける。そして、固唾を飲んで朝陽を見つめている夜の頬を両手で包み込み、笑顔を見せる。


「……めちゃくちゃ嬉しい。……でも、ごめん」


一瞬俯いて、泣きそうになるのをぐっと堪え、また顔を上げて笑みを浮かべる。


「私、ここにずっとは居られないみたい。このまま死んだら、私は下に行かなきゃいけないんだって」

「下?」

「多分、地獄とかそういう所」

「……そんな」


愕然としている夜の頬を撫で、朝陽は「大丈夫」と呟く。


「さっきも言ったでしょ。私は絶対に死なない。夜とずっと一緒にいたいから」


もう一度、今度は軽く触れるだけのキスをして、朝陽は夜から手を離す。


「またね、夜」


そうして下に落ちながら、朝陽は落ちる瞬間に見た夜の顔を思い出し、両手で顔を覆った。


「あぁ……見るんじゃ無かったなぁ……」


夜が甘えるのを我慢するあの顔に、朝陽は途轍もなく弱かった。


帰りたく無い。夜とずっと一緒に居たい。いっそこのまま手を引いて、一緒に現実世界に帰りたかった。でも朝陽にはそんなことが出来ない。


「……くそっ」


朝陽はベッドの上で目を覚まし、開口一番に悪態をついた。

体に力が入らない。兎が、朝陽は死にかけていると言ったのは本当のことのようだった。


朝陽はベッド脇に置いてあったスマホを手繰り寄せ、電話を掛ける。


『もしもし?』

「ごめん、蒼空(そら)。今日暇?」


電話相手は朝陽の弟である蒼空だ。弟も朝陽と同じ社会人である為、平日の昼前に電話に出てくれるかは分からなかった。しかし出てくれたので、朝陽はこれ幸いと脳内で蒼空を利用する算段を立てた。


そんな思惑が伝わったのか否か、蒼空は電話越しでも分かる程うろんな声を上げた。


『休みだから家にいるけど……何? めっちゃ嫌な予感がするんだけど』

「じゃあ、今から言うもの買って来て。で、持って来てくれる?」

『え"。予感的中じゃん。やだよ。俺今日は家でゲームする日にしてんだけど』

「うちでやったら良いじゃん。蒼空が買おうか迷ってたゲームソフト、うちにあるよ。なんならあげる」

『…………何買ってけば良いの』


蒼空の懐柔に成功した朝陽は、買って来て欲しい物を数個伝えて電話を切る。

ゆっくりと起き上がって水を飲み、それだけで疲れてしまったので再び寝転がって待っていると、やがてインターホンが鳴る。

ベッドから動かないでいると、やがて電話が鳴った。


『開けてよ』

「動けないから、ポストの中に入ってる鍵使って入ってきて」

『もー、先に言ってよ』


電話が切られると同時に鍵の開く音と、それから扉が開く音がした。程なくして朝陽の名前を呼びながら蒼空が部屋に入って来ると、朝陽の顔を見てぎょっと目を見開いた。


「顔色最悪じゃん。何したの」

「ちょっと夜に会いにね。ありがと」


購入品が入った袋を受け取りながら言うと、蒼空は眉を顰めながら床に座った。


「病院に? 姉ちゃんが病人じゃん。何でそのまま診てもらわなかったの」

「……ちょっと複雑なんだよ」

「訳分かんない。で? それで足りるの?」

「じゅーぶん。ゲームはリビングの机とかにあると思うから、やってて良いよ」

「はーい」


説明が長くなりそうなのでさっさと蒼空を退散させ、朝陽は体をゆっくりと起こした。そして袋の中から栄養剤や鉄分を補給するサプリやらを出すと、水と一緒に流し込んだ。


「……よし、次」


今度はレバーや煮干し、鉄分補給の飲み物等を取り出し、無心で口に放り込む。食べ合わせは余り良くないが、この際失った血が戻ってくるなら何でも良かった。


それから少し仮眠を取り、若干の回復が見られると起き上がって日光を浴びた。


トイレの為にリビングを通ると、蒼空がゲームに没頭していたのでソファに座ってその様子を少し眺めた。


「そういや、夜さんの具合はどうだった?」


気を遣ってか、蒼空が話しかけてきた。


「変わらないよ、ずっと」

「そっかぁ」

「でも、昨日は可愛かったなぁ」

「………え?」


突然、赤く染まった頬に手を当ててくねくねと悶え始めた朝陽に、蒼空は耳と目を疑った。


「一生記憶に残しとかなきゃ」

「え、え? 何言ってんの? いつの話?」

「昨日」

「夜さん、目が覚めたの?」

「いや、覚めてはないけど」

「は? ちょっと待ってよ。姉ちゃん、何か変じゃない?」


蒼空は机にコントローラーを置き、朝陽の目をじっと見つめる。


「何」


言いながら朝陽はそっと目を逸らす。その時、何気ない振りをして手首を隠すように握った。


蒼空はそれを見逃さなかった。蒼空は朝陽の腕を掴み、素早く服の袖を捲り上げる。数本の赤い筋が痛々しげに残る手首が蒼空の目に晒され、朝陽はしまったと口端を歪めた。


「ねぇ、これ何」

「別に何でもないよ」


朝陽は腕を引こうとする。しかしそれに気付いた蒼空が掴んでいる手に力を入れたのでビクともしない。


「何でもなくないじゃん。……俺、今日泊まってくから」

「は?! ど、どうしたの急に。蒼空、明日仕事でしょ?」

「休む!」


「荷物取ってくる」と蒼空は鞄を肩に掛け、立ち上がる。朝陽に背を向けた蒼空を、朝陽は咄嗟に腕を掴んで引き留めた。


「待ってって! 大丈夫だから!」


朝陽は掴んだ腕を引っ張る。反動で振り返った蒼空の顔を見て、朝陽は思わず息を呑んだ。


蒼空の目から止めどなく涙が溢れていた。蒼空は涙で濡れた瞳で、朝陽をきつく睨みつけていた。


「……っ何が」


蒼空は掠れた声で呟く。力無く項垂れ、涙を片腕で拭った。


「何が、"大丈夫"だよ。何も大丈夫じゃ無かったじゃん。夜さんが意識不明になって三ヶ月、姉ちゃんは夜さんの顔をずっと見てたから知らないと思うけど、俺が見てた姉ちゃんも大概酷い顔してたよ。夜さんより、姉ちゃんの方が死にそうな顔だった。"大丈夫"なんてこと、一回も無かった!」


朝陽は驚きで蒼空の顔から目が離せない。蒼空は苛立たしげに舌打ちしながら朝陽の手を振り解いた。


「勘弁してくれよ……。何? 姉ちゃん死ぬ気なの? 無理だから。俺、絶対に嫌だから」


そう言い捨て、蒼空はズビズビと鼻を啜る。

蒼空の主張が一区切りした雰囲気を察し、朝陽はおずおずと口を開く。


「……お、怒ってんの? それとも悲しいの?」

「どっちも!!」


朝陽の返事が気に障ったらしく、蒼空は怒りで声を荒げた。朝陽はそれに肩を震わせ、気まずそうに目を伏せる。


静かになった室内では、蒼空の嗚咽がやけに響いた。居た堪れない気持ちになり、朝陽はくしゃりと顔を歪める。そして息を吐くと、蒼空を見上げながらそっと手を握った。


「蒼空、心配かけてごめん。でも、私は死ぬ気は無いから」

「……嘘つき」

「嘘じゃない。これは本当」


そうはっきり言い切ると、漸く蒼空は朝陽と目を合わせた。朝陽は口元に笑みを作って見せる。


「死んだら、夜に会えなくなるでしょ」

「……なんかムカつくけど、それだけは信じられるわ」


ムッとしながら顔を背ける蒼空に「そりゃ良かった」と朝陽は苦笑する。


「でも俺、今日は泊まってくから」

「え」

「えじゃ無いよ。そんな顔色してる人を放っとくほど、俺は冷たい人間じゃ無いから」


赤くなった目を細めながら、蒼空は朝陽の手を引いて立ち上がらせる。


「とりあえず寝れば。姉ちゃんが死なないように、俺が見ててやるし」

「……分かったよ」


半ば拒否権は無いように感じる蒼空の腕の引っ張り方に渋々応じ、朝陽は再びベッドに戻ることになった。


蒼空は先程の言葉通り、携帯ゲームをしながら朝陽の傍らにずっと座っていた。たまにピコピコと効果音が煩いが、まだ赤いままの目を見ると何も言えない為、朝陽は大人しく寝ることにした。


次に目が覚めると、部屋の中は真っ暗になっていた。蒼空の姿は見当たらない。名前を呼ぼうとすると、丁度扉が開いて蒼空が顔を出した。


「あ、起きた? ご飯あるけど」

「作ったの?」

「まさか。お粥買ってきたの」

「いや、もっと栄養あるもの食べなきゃ」

「馬鹿なの?? まず消化に良い物だろ。体が弱った時に肉とか魚とかジュースとか色々食い散らかしてたんだし、お腹痛くないの?」

「痛くない」

「臓器も馬鹿じゃん。ほら起きなよ」

「んー」


消化に良い云々については、新作ゲームに意識を取られて購入品をそのまま全部渡した蒼空の責任もあるのではと思ったが、これ以上火に油を注いでも良いことは何も無いので朝陽は口を噤んだ。


自身でも驚く程の回復力を見せた朝陽の体調は、今や結構良くなっている。これなら夕食後に一回死んでみても良いかもしれないと思っていたが、蒼空が隣でずっと目を光らせているので実行は難しそうだった。


仕方なく、今日は自殺を諦めてベッドに潜り込む。蒼空の気配をひしひしと感じる。朝陽は夜に会えないのが堪らなく悲しく、泣きそうになりながら目を閉じた。


「恐ろしい執念だな」


朝陽が目を開くと、目の前に兎がいた。しかし背景はいつもの家では無く、白一色の何も無い空間だった。夜が言っていた最初の光景が、正にこの光景のことなのだろう。


「無理をし過ぎじゃないか? 夜も怒って呆れていたよ」

「……ここに来れたってことは、まだ足りない? もう少し何か食べるべき?」


朝陽は首を傾げている兎に、焦りを覚えながら言葉を返した。突然ここに飛ばされたことに関しては多少驚いてはいるが、すぐにどうでも良くなる位もう慣れてしまっていた。


「いや、もう結構だ。今回朝陽がここに来れたのは、少し方法を変えてみたからだ」

「変えた? どんな風に?」

「朝陽がここに来る為の条件を自殺から睡眠に変えてみたんだ。これからは眠る度にここに来ることが出来る。ただし、君が落ちるリスクはぐんと下げた訳だが、無くなった訳じゃない。注意はするようにな」


まるで自慢げに説明をする兎は、コホンと咳払いをしてから続けた。


「安心すると良い。君はまだ死んでいない」

「そう……そっか。良かった。夜は?」

「席を外してもらっているよ」

「…………分かった」

「後で来るから、少しは辛抱しなさい」

「分かってるよ。それじゃ、昨日の続きを」


朝陽は兎の前に胡座をかいて座る。


「そうだな。昨日、夜の現世との繋がりが濃くなったり薄くなったりしていると話したことは覚えているか?」

「うん」

「夜のその不安定な繋がりを安定し、更には現世に返す方法を思いついたんだ」

「どうやって?!」


朝陽は思わず胡座を解き、ぐっと身を乗り出した。兎はそんな朝陽を「落ち着きなさい」と制する。


「その為に必要なものは、君だ」

「……私? どういうこと」

「君、夜の為に死ぬことは出来るかい?」


朝陽は瞬発的に「勿論」と答えかけてぐっと口を結んだ。脳裏に、蒼空の顔が思い浮かんだ。


「それは、ここに来るための条件のこと? それとも、本当に死ぬってこと?」


兎に悟られぬよう、質問をして沈黙を防いだ。


「後者の方だ」


兎は端的にきっぱりと言い切った。朝陽はそれ以上の質問も出てこず、やはり沈黙してしまった。

そんな朝陽を見て、兎は予想外とでも言わんばかりに口を縦に開いて「ほう」と呟いた。


「君でも悩むのか。私はてっきり、君は即答するだろうとばかり思っていた」


朝陽はぐっと奥歯を噛む。


「あの子は、私とおんなじ目に合わせちゃ駄目だから」


俯きながらそう呟いて口を閉じ、一呼吸置いてから顔を上げる。


「でも、夜の為ならなんだってやる」

「……そうか。では仕方が無いな。別の方法を考えなければ」

「さっきの方法は? それは教えてよ」

「ああ。朝陽はここに行き来することが出来るだろう? 夜が片道切符なら、君は往復切符を持っているみたいなもの。だから君の切符を夜のものと交換すれば、上手くいくかもしれないと思ってな」

「なるほどね」


「まぁ、まだ思考段階ではあったが」と置いて、兎はうーんと唸る。


「まだ時間が必要だな。あぁそうだ朝陽」

「うん?」

「君にも仕事をやろう。夜自身が繋がりを強く出来るよう、帰りたいと思わせるように話して誘導してくれ」

「え」


朝陽は途端に渋い顔をする。


「い……」

「まさか嫌だとは言わないだろう? 君が誰のお陰でここに来て、誰のお陰で夜に会えているのか、まさか分からない訳無いものな?」

「…」


"誰"をやけに強調して話す兎の圧力に負け、朝陽は嫌のいの形になっていた口をきゅっと閉じた。


「……でも、どうやったら良いか分からないし、夜に嫌われたくない」


口を尖らせながらそう言えば、兎はやれやれと言うように頭を横に振った。


「君達は恋人同士だろう? 話なんて沢山しているんじゃないのか」

「してるよ。くだらない話ならね」


朝陽は胡座をかいた足をしっかりと掴み、背中を後ろにぐっと伸ばした。


「でも、大事な話なんて普段する機会無いよ。それこそ何かきっかけでも無いと。夜も私も自分のことを話すのは苦手だから、少しずつ話してたんだよ。だからまだ全然知らない」

「…」

「まぁ私は、夜の誕生日と好きな食べ物と嫌いな食べ物、毎週欠かさず見てるテレビ番組とかお風呂の入浴剤へのこだわりとか寝る時の好きな体位とかキスする時にどこを攻められるのが好きなのかとか抱く時はどう誘われるのが好みかとかその他にも色々知って__」

「もう良いもう良い」


兎はうんざりしながら口を挟んだ。このまま放っておいたらずっと話し続けていたんじゃないかと思う位淀みない朝陽の"夜語り"を止め、兎はふぅと息を吐く。


「充分知っているじゃないか。寧ろ気持ち悪いくらい」

「……全然だよ。全然、知らない」

「?」


突然、朝陽は悲しそうに目を伏せた。


「夜が本当に心を許してくれたことなんて一度も無くてさ。どんなに頑張っても、奥底までは見せてくれなかった。だから分かんないんだよ。夜のことならなんだって分かりたいけど、その本人が見せたくないって言うんなら、私にはどうにも出来ないから」


最後の方はまるで独り言のように呟いて、朝陽は横にぱたんと倒れた。

そして、兎を見上げる。


「本当に、私が聞かなきゃ駄目なの?」

「……夜を助けたいんだろう? 少なくとも私の目からは、夜は君に一番心を許しているように見えたよ」

「それはここでの話でしょ」

「それでもだ。夜は君と過ごしている時が一番、表情が豊かに見えた」

「ふーん……。そっか。まぁ、ね。だって、恋人だしね」


一人呟きながら、朝陽は兎の方へ体をごろごろと回転させながら移動する。そして兎の脇腹に顔を突っ込むと、そのまま静止した。


「……良い毛並みしてんじゃん」

「離れなさい」


兎は初めて知る不快感に顔を歪めながら言った。朝陽が口を動かす振動と、吐く息で体が局所的に熱くなり毛も湿るような感覚が実に気持ちが悪かった。


「お日様の匂いがする」

「?! やめなさい!」


すうっと匂いを嗅がれ、兎は慌てて飛び退いた。くすくすと笑う朝陽を睨みつけるも、朝陽の表情を見て鋭くなった目が丸く元に戻っていった。


朝陽は心底嬉しそうに、しかし少し恥ずかしそうに頬を赤らめて笑っていた。その目には僅かに涙が滲んでいるようにも見える。

それが兎を揶揄ったことによるものなんかじゃ無いことは、兎の目から見ても明らかだった。


兎はやれやれと目を細めると、飛び退いたその場で足を仕舞い座り込む。

朝陽は笑いが収まると息を吐き、体をゆっくりと起こしながら言った。


「分かった。頑張ってみるよ」

「あぁ、宜しく頼む」


そう答え、兎と朝陽は暫し見つめ合った。お互いの目には、夜を助けたいという一つの目標を目指す仲間の姿が映っていた。


「……で、もう話って終わりで良いんだよね?」


朝陽は朗らかな笑顔を浮かべてそう尋ねる。その目にはもう仲間の姿は映っておらず、恋人一色に染まっていた。

兎は先程まで感じていた爽やかな風が吹いているような感覚が余韻すら残らず一瞬で消え、がっかりしながら溜め息をつく。


「今呼んでくるから、待っていなさい」

「分かった」


うきうきと待っていると、背景が朝陽と夜の家に変わっていく。後ろの扉がガチャッと開く音がした。


「!」


突然、夜に後ろからふわりと抱き締められた。


「夜? どうしたの」


朝陽は胸が高鳴り、はにかみながら朝陽の首に回された夜の腕にそっと手を当てる。


「朝陽……」

「ん? ……ん??」


夜の腕に力が込められていく。朝陽は徐々に首が締まっていく感覚に嫌な予感がして、夜を見ようとする。


「貴女……どこまで馬鹿なの!!」

「ぐえええっ」


しかし間に合わず、朝陽が後ろを振り返って許しを乞う前に夜は目一杯腕に力を入れ、朝陽の首を強く締め上げた。


「何、あの暴飲暴食は?! 今度は服毒自殺?! 体が弱ってる時に蒼空君を使っておかしな事して! 私がどんな気持ちだったか! 分かる?!」

「破茶滅茶に怒ってることは分かりまギブギブギブ!! 締まってる!! 変な風に締まってる!!」


遠慮無い力加減に喜んだのも一瞬で、朝陽は首を斜め後ろに曲げたまま締め上げられて、視界が明滅し始めた。今は本気で焦って夜の腕をペシペシと叩いている。


「ご……ごめ、ん……なさ……」


しかしとうとう脳に酸素が回らなくなり、朝陽は朦朧とする意識の中で漸く謝罪の言葉を口にした。さっきまで叩けていた手ももう力が入らず、床に垂れ下がっている。


「…」


夜は不服そうな顔をしながらも、朝陽の限界が近いことには気付いていたので仕方なく腕を緩めた。

瞬間、朝陽は息を吹き返したように大きく息を吸う。その反動で咳き込みながら、夜に凭れ掛かるように崩れ落ちて呼吸を整えた。


夜はその様子を、朝陽に膝だけ貸しながらじっと見下ろしていた。まだ許したわけでは無いので、何もせずただ見下ろし続けた。


呼吸が整った朝陽はフラフラと体を起こす。そして言われずとも正座の姿勢を取ると、流れるように綺麗な土下座のポーズを取った。


「迷惑を掛けて申し訳ありませんでした」

「……それで?」

「もうあのような事はしません」


夜はじっくりと時間をかけ、朝陽の土下座を眺める。朝陽は針のように深く突き刺さる視線に生きた心地がせず、ダラダラと脂汗をかいていた。


「分かった」


やがて夜は溜息をつき、朝陽を許したのだった。


「良かった〜〜」


朝陽は堪らず夜の腰に抱き付いた。そのまま夜の膝に頭を預けると、顔を斜めに伏せたまま膝の感触を堪能する。

夜は冷たい表情を崩さないまま、朝陽を見下ろした。


「ねぇ、何隠してるの」

「何が?」

「最近、神様と何か話してるでしょ」

「あぁ、夜をどうしたら現世に帰せるか相談してるんだよ」


朝陽は何でもないように答えたが、夜は訝しむように目を細める。


「それだけじゃないでしょ」

「それだけだよ。ほんとに。夜も兎に聞いてるでしょ?」

「聞いてない」

「え?」

「最初に説明された以降は、何も教えて貰ってない」

「…」


夜は朝陽から目を逸らさないで言った。その怒りと不安がないまぜになった目は朝陽を捉えて離さず、朝陽も夜から目を離せないまま起き上がり、夜の正面に座り直した。朝陽の内心は、大事なことは何も言わずに夜を放置した兎への暴言で黒く塗り潰されていった。


「……ねぇ、教えて」


はっと気付いて、朝陽は目の前に集中する。少し目を離した隙に夜の目から怒りが消え、今度は不安と心細さで揺れ動いていた。


「私、帰れるの? それとも、ずっとこのまま?」


夜の口が戦慄く。


「さ、三ヶ月ってさ、長いよね。長い、よね? その間ずっとここに居て、いつからここに居るのかも分からなくなったまま神様の言う通りにずっと過ごしてて、さ。死んでないのに死んでるような感覚でこれからもずっとここに……居続けたら私、どうなるの?」


夜は自嘲の笑みを浮かべ、床に爪を立てながら握った拳は微かに震えていた。

朝陽は何かを言おうとして口を開き、しかし結局何も言えないまま口を閉じた。


「私のことでしょ? 何で私が教えて貰えないの? 何で私だけ知らないままなの? おかしい。おかしいじゃん。何で誰も、何も教えてくれないの」


じわりと夜の目が滲んでいく。


「嫌い。朝陽も神様も、嫌い」


夜の片目から静かに涙が零れ落ちた。夜はそれをすぐに手で拭い、ふと前を見て目を丸くした。


そこには夜より遥かに激しく涙を流す朝陽がいた。嗚咽さえせずにぼたぼたと大粒の涙を流し軽く鼻水まで垂らす朝陽の姿に軽く恐怖すら感じてくる。


「な、んで朝陽が泣いてるの?!」

「だって、夜に嫌われたら私……死ぬしかない」

「なんでそんなこと言うの! そんな冗談言わな……!」


夜は言いながら、朝陽は既に何度も自殺を繰り返していることを思い出した。


「あ、んん〜〜っ……?! んんん……」


このまま朝陽が現世に帰れば、まず間違いなく躊躇せずに死ぬだろう。その様が有り有りと想像出来た夜は、下唇を強く噛みながら唸る。そのまま眉間に深い皺を寄せて暫し葛藤する様を、朝陽はさめざめと泣きながら見つめていた。

やがて夜はがっくりと肩を下ろし、口を開いた。


「……取り消すから、死なないで」


朝陽は捨てられた子犬のように目を潤ませながら、「本当?」とか細く呟いた。


「……本当」


溜息をついて、夜は朝陽の涙をポケットから出したハンカチで優しく拭ってやる。朝陽は夜にされるがまま、動かず大人しく待つ。


「全く、もう」

「えへへ」


あらかた綺麗にし終え、やれやれとハンカチを仕舞う夜に、朝陽は子供のような屈託のない笑顔を向けた。

朝陽のそんな顔に、夜は弱かった。つい胸がキュンと痺れ、あやすように頭を撫でてしまうのだ。


同棲中何度したか分からないやりとりだ。そしてその後に必ず朝陽は、自身の頭を撫でている夜の手を取り指を絡めて繋ぐと、子犬のように頬擦りをするのだ。


普段はそれで満足して嬉しそうに笑うのだが、たまに、じっと夜の目を見つめる時がある。

これが、朝陽が夜に甘えたい時のサインだった。


夜は少し躊躇いながら腰を上げる。それを見て、朝陽は空いている方の腕を軽く広げる。そして朝陽の膝の間に入って凭れ掛かってくる夜を、朝陽は気が済むまで腕の中に閉じ込めるのだった。


夜はまるで自分が甘えているように感じる()()が恥ずかしくて堪らなかった。


「ねぇ、普通逆じゃないの」


何度伝えたか分からないその台詞を恥ずかしさを誤魔化すように言えば、「これが良いの」とまた何度言われたか分からない台詞を返される。


「この世で一番大切で大好きなものが私の腕の中にあることが、私の中で最も幸せで安心することだから」


朝陽は目を瞑りながらそう吐き出し、項垂れて夜の肩に頭を預ける。呼吸をする度に花のような甘い香りに包まれる。朝陽はもう一度指を絡め、夜の手を握った。


「ねぇ、夜」

「なぁに」


朝陽が手を握るのに合わせてたまに握り返しながら、夜は伸びた返事をする。

朝陽は自然な聞き方を脳内で考えては消しを三度繰り返し、諦めて思いついたまま聞いた。


「……死にたくなったこと、ある?」


ピクリ、と夜の指が震えた。


「……なんで?」


夜はにへらと笑って答えた。朝陽に背中を向けていたが、笑顔を浮かべていることは直ぐに分かった。きっと夜がいつもしている誤魔化す時の笑顔だろう。声色もよく似ていた。


朝陽は夜が直ぐに否定をしないことがなんとなく分かっていた。だから特に驚きもせず、夜の手を握りながら聞いた。


「どんな時?」

「私が聞いてるんだけど」

「教えて、夜」


ね、と朝陽は一瞬だけ夜を抱く片腕に力を入れた。


「…」


夜は口を噤んで俯いた。朝陽は催促はせず、ただ片腕でしっかりと夜は囲みながら待ち続けた。


「……言いたく、ない」


やがて夜は、掠れた声でそう言った。握っている夜の手に僅かに力が込められる。


「そっか」


朝陽は微笑み、夜の後頭部に額を当てた。


「ちなみに私はね、夜に嫌われた時」

「言われなくても知ってるよ」

「じゃあ、嫌わないでいてくれる?」

「嫌わないよ。……時と場合によるけど」

「よるかぁ」


苦笑しながら、朝陽はあっと声を上げる。


「ごめん、時間みたいだ」

「……もう?」


振り返り、夜は残念そうに眉尻を下げた。「また来るから」と夜の頭を撫でながら朝陽は言う。


「兎がね、私がここに来る為の条件を変えてくれたみたいなんだ」

「え、ほんとに? 何に変わったの?」

「寝てる間だけここに来られるみたい」

「そっかぁ……! 良かった。そっか、良かったぁ」


夜は噛み締めるように何度も呟き、朝陽に抱きついた。


「じゃあもう死ぬ必要も無いし、ここに来ても大丈夫ってことだよね」

「うん。ただ、リスクが無くなった訳じゃ無いから気を付けなきゃいけないんだって」

「あ……そっか」


「そうだよね」と自分を納得させるように呟いた夜のいじらしさが可愛くて仕方が無い。朝陽はふっと頬を緩め、そろそろと離れようとしていた夜を再度抱き締めて体を密着させる。


「あーあ、可愛いなぁ。可愛いなぁ、もう……」


夜をぎゅうぎゅうと抱き締めて、朝陽は夜が聞き取れないくらいの微かな声で離れたくないな、と囁いた。


「朝陽だって可愛いじゃない」

「……ありがと。でもこれは愛しさ混じりのやつだから、夜に沢山使いたいんだよね」

「またそんなこと言って」

「あはは。じゃあ、またね。夜」


惜しみながら腕を解き、最後に夜の頬を一撫でしてから朝陽は下に落ちていった。


落下していく最中、朝陽の目にチカッと光が差し込んだ。反射で目を瞑り、恐る恐る開くと同時に目を見開いた。眼前には、雲の隙間から輝く太陽の光で照らされた白にも近い真っ青な青空が広がっていた。


「うわ、すご……」


初めて見たその光景は余りにも美しく、癪ながら感動してしまう。

朝陽は息を吐きながら心に決めた。


いつか絶対に、この景色を夜に見せてあげるんだ。


爽やかな風を吸い込んで、朝陽は目を閉じた。


□□□


カーテンの隙間から差し込む陽の光を瞼越しに感じ、朝陽はぼんやりと目を覚ました。見慣れた天井と、隣を見れば、ゲームをやりながら寝落ちしたらしい蒼空が朝陽のベッド脇で顔を伏せて寝ていた。


「規則正しいが過ぎるな、これは」


時計を見ながら呟いた。時刻は六時半。普段なら有り得ないような起床時間だ。


しかし、スッキリした寝覚めは感じなかった。寧ろ寝ている時間も活動していたようなものなので、体にはやや倦怠感を感じている。


もう一眠りしようか。そう思ったがしかし、もう一度寝たらまたあちらに行ってしまうのではという懸念があったので断念する。


仕方ないと朝陽は大きく伸びをする。今日早く寝れば良いだけのことだ。そう自分に言い聞かせて、暖かな布団の魔力から抜け出した。


掛け布団を蒼空に掛け、ゆったりとした足取りでリビングに向かう。カーテンを開けて部屋を明るくすると、洗面所で顔を洗い、マグカップに入れた水を飲みながらソファに沈み込む。


テレビでも見ようかとぼんやり考えていると、突然ドタドタと激しい足音が響いてきた。それから少しもしない内に、血相を変えた蒼空がリビングの扉を突進するように開けて入ってきた。


「おはよう。早いね」

「……生きてたぁ」


蒼空は朝陽の顔を見て、へなへなとその場にへたり込む。それから大きな溜息をついて、やっと朝陽へ挨拶を返した。


「起こしてよ」

「いや、寝てたから」


当然でしょという顔で水を飲む朝陽を睨み、蒼空は持ってきていたらしい掛け布団を腕に抱えて朝陽の隣に腰を下ろした。


「ここで寝る。俺が起きるまで姉ちゃんもここに居て。絶対ね」

「え?」

「どっか移動すんなら起こして!」

「は、はい」


蒼空は声を荒げたまま「おやすみ!」と掛け布団を自分に巻いて目を瞑る。朝陽は体を石のように固くしたままじっと蒼空を見守っていると、やがて控えめな寝息が聞こえてくる。朝陽はほっとして体を緩めた。


どうやら蒼空は余り寝ていないらしい。目の下に薄らと隈が出来ていた。朝陽は物音を立てないようにそっと立つと、カーテンを静かに閉めた。それからキッチンで蒼空が買ってきてくれたレトルトの粥を温め、それを手に静かに蒼空の隣に戻った。


粥を食んでいると、身動ぎをした蒼空が朝陽の肩に凭れかかってくる。蒼空に触れている肩がじわりと暖かくなって、朝陽は思わず粥を食べる手を止めた。

人の体温を感じるのなんていつぶりだろうか。最近ずっと冷えていた体が芯から暖まっていく感覚がした。何故だか無性に安心して、鼻の奥がツンと痛くなる。


朝陽は凭れ掛かっている蒼空に頭を乗せ、目を瞑る。

泣き虫で心配性で、夜と恋人になれた時は唯一手放しに喜んでくれた弟だ。やっぱりこの弟の為にも、生きなければと思ったのだった。


やがて夕方になり、蒼空を家へ帰した朝陽は一人になった部屋の中で夜の写真を眺めていた。

蒼空は家を出る最後まで渋っていたが、明日は仕事を休めなかったこともあり、朝陽の家に食料等の備蓄をたんまりと買い溜めてから自宅へ帰って行った。


夜の写真を眺めながら考えるのはやっぱり夜をこの世に帰す方法のことだったが、何をどう考えた所で朝陽に出来ることは限りなく少ない。


考えるより行動すべきだと思い、朝陽はソファに横になる。そして目を瞑った。


___ぱっと目を開く。ここに来る時は感覚で分かるようにまでなっていた。


「おかえり」


ふと、声が聞こえた。朝陽は声をした方を振り返る。するとそこには、ソファに座って足を抱えている夜がいた。朝陽は思わず錯覚する。まるで現実世界の、いつもの我が家の光景のようだった。


「た、ただいまー」


泣きそうになったことを気付かれぬように、夜に覆い被さって抱き締めた。

しかし、夜が抱えている足が絶妙に邪魔をして思うように抱き締められない。


「足、どけない?」

「どけて欲しいんだ?」


夜は小悪魔のようにいたずらっぽく笑った。挑発しているようにも見えるそれに、朝陽は何かが湧き上がりそうになるのをぐっと堪えた。邪な感情が覗きそうになるのをぐぐっと堪えて、夜の頬を両手で包み込む。


「えっ。……何?」

「それ、どこで覚えてきたの?」

「覚えるって?」

「…」


何となく予想はしていた返事だった。不思議そうな顔の夜から手を離し、朝陽は夜の隣に腰掛けた。


「全くもう。好き」

「脈絡無さすぎて訳分かんない」


夜はクスクスと笑いながら言った。表面では冗談めいて笑う夜だったが、ほんのり赤くなる頬を見て朝陽は満足気に笑った。


「なんか、懐かしいよね」

「? 何が?」


朝陽は夜に微笑み、記憶を辿るように遠くを見つめた。


「夜に『おかえり』って言われた時、私達が一緒に住み出して、少し慣れてきた時のこと思い出した」

「え……なんか、変だった?」

「ううん。覚えてる? 一緒に住もうって誘ったの、私だったじゃん」

「あぁ、うん。覚えてる」

「夜が頷いてくれて嬉しかったけど、やっぱり最初は慣れなくてずっと緊張してたからさ。無理に受けてくれたんだろうって、悪いことしたなってずっと思ってたんだよ」


あの頃の朝陽は焦っていた。付き合っていた頃よりも夜との距離が離れてしまった気がして、簡単なスキンシップすら取ることが出来なかったあの状況では、いつか夜に嫌われてしまうんじゃないかとすら思っていた。


「でも一緒に過ごしていく内に同棲にも慣れてきて、私が仕事から帰ってきた時に、夜がさっきみたいに笑顔で『おかえり』って言ってくれて。あの時私、本当に嬉しかったんだよ。ここは自分の家だと夜が思ってくれたことも、夜がリラックス出来る居場所が一つ増えたことも」


朝陽はソファに置かれた夜の手に、自身の手を重ねた。


「なんか懐かしくて、嬉しくなっちゃった」


はにかんで夜を見ると、夜もこちらを見ていた。しかしその表情は朝陽とは異なり、どことなく朝陽を責めているような悲し気なものだった。


「……どうしたの」


驚いてそんな言葉が口をついて出た。しかし、それがいけなかった。


「なんで、言っちゃうの」


夜は朝陽の言葉を聞いた途端、くしゃりと顔を歪めて項垂れた。


「? 何が……」

「思い出しちゃったじゃない!」

「?!」


夜は突然声を荒げた。それはもはや悲鳴に近く、朝陽はびくりと肩を揺らした。


「朝陽に会えて、大好きなお家に居られて、お腹も空かないし眠くも無いし、仕事にも行かなくて良いし、……もう良いやって思ってたのに!」

「え……? 夜、何を」

「やっぱり、帰りたい……! 元の世界に、帰りたい……! うあああん……!!」


夜は嗚咽混じりに本音を吐き出し、とうとう号泣し始めた。


「……待って、待ってよ、夜」


朝陽は耳を疑った。夜を落ち着かせなければならないが、いやそれは分かってはいるが、それよりもまずはっきりとさせなければならないことがあった。


朝陽は夜の肩に手を置いて、夜を真っ直ぐに見つめた。そして冗談であって欲しいと願いながら、恐る恐る尋ねる。


「"もう良いや"って、何? まさか、ずっとここに居ても良いと思ったとか、そんなこと無いよね?」


夜が先程何気なく呟いた言葉。きっとあれは夜の本音だろう。しかし、それは朝陽が最も聞きたくない言葉だった。

だってまるでそれは、夜が現状を受け入れているみたいじゃないか。


信じたくなんて無かった。


「もう疲れたの……! 充分待ったでしょ?! 何もさせてくれない、どうせ私は何にも出来ない! じゃあ、もう良いじゃない。もう嫌……私、楽に___」


朝陽は咄嗟に口を重ねて夜の口を塞いでいた。そこから先の言葉を言わせては駄目だと思った。しかし夜は激しく抵抗し、呆気なく離れてしまう。


「嫌ぁっ! 朝陽の馬鹿! 嫌い! 嫌い!」

「……っ」


夜は子供のように泣き喚き、朝陽への拒絶の言葉を何度も何度も口にする。それが容易に朝陽の胸を貫き続け、ズキズキとした痛みに泣きそうになっていた。しかしぐっと唇を噛み締めて堪え、夜を引き寄せて抱きしめた。


「お願い……お願いだから、そんなこと言わないで。夜が諦めちゃったら、私にはもう何も出来なくなっちゃうよ」

「そんなの知らない! 私の所為じゃない!」

「そう……だね。本当に、そう」


こうなってしまったのは、夜の所為でも、朝陽の所為でも無い。誰の所為でも無いのだ。ただ、偶然巻き込まれてしまっただけ。それなのにこんな所に一人閉じ込められて、無力を感じながらただ毎日を過ごす日々はどれだけ辛かっただろうか。人一倍心が脆く、普段は気丈に振る舞っているだけの夜が、耐えられる訳が無かったのだ。


朝陽は胸が苦しくて、息が出来なくなりそうだった。涙が出てくるのはきっとその所為だ。夜を宥めるのに精一杯で、自分のそれは押さえることが出来なかった。


「……っ」


本当は夜を、頑張ったねと褒めてやりたい。褒めて、慰めて、このままでいることを許してやりたかった。

それでも朝陽は、夜を許してはいけないのだ。夜の為に。……いや、朝陽の為に。


「駄目だよ、夜。諦めないで。どうか、頼むから」

「……っやだ、無理。もう、無理!」

「そんなこと言わないで、お願い」

「なんでっ……なんで"良いよ"って言ってくれないの?!」


否定を続ける朝陽に我慢の限界が来たらしく、夜は朝陽の胸を両の拳で強く叩きつけた。


「いつもなら絶対っ、"良いよ"って言ってくれるじゃない! なんでっ、なんで?! 言ってよっ! "良いよ"って、言ってよぉっ!」


次から次に、夜は拳を振り下ろし続ける。朝陽はそれを全て受け止めながら、怒り泣きじゃくる夜と同じ位大粒の涙を溢していた。


「なんで……なんで……!」


夜の拳は徐々に減速し、やがて止まる。しゃくり上げながら、息を吐くように呟いた。


「なんで……?」


裏切られたかのような夜の声色に胸が締め付けられ、朝陽は夜を抱き締める腕に力を入れた。鼻が詰まって呼吸が苦しかった。大きく息を吐いて、肺に酸素を送るように息を吸って、乾いて張り付きそうな喉からなんとか声を絞って答えた。


「……会いたい、から」

「……ぇ」

「夜に、会いたいから」


毎日のようにここへ夜に会いに来て、朝陽は以前のような元気を取り戻しつつあった。しかし本質では分かっていた。夜も朝陽もここにはいない。夜は病室にいて、朝陽はあの家に一人でいる。朝陽が目を覚ますと部屋はシンと静まり返っていて、相変わらず家は寒いままなのだ。


その度に朝陽は思い知る。幸せな気持ちで目を覚ましても、結局朝陽は孤独なのだ。


「一緒に帰りたいよ……」


朝陽は目を閉じる。その拍子に、目に溜まっていた涙が床に落ちた。それは床に染み込むことなく、綺麗さっぱり消えて無くなった。


「…」


夜は口を閉じたまま、朝陽の肩越しに二人の家を眺めていた。二人で決めた家。自分が自宅だと認めた場所。だから夜は、神様にこの家を再現して欲しいと頼んだ。少しでも夜の希望が通るのなら、せめて殺風景で不気味なこの景色を安心出来る我が家に変えておきたかった。


初めは満足していた。再現度も高く、居心地だって申し分無い。これなら良いと、本当に満足していたのだ。


しかし、夜は今明確に『違う』と気付いてしまった。そうだった。ここは我が家じゃ無い。まるで魔法が解けるように、夜の目はすっかり覚めてしまった。


「朝陽……」


私も、帰りたい。夜は朝陽の肩に顔を埋め、縋り付くように朝陽の背中に腕を回し、服を掴んだ。


その瞬間、夜は糸が切れた人形のように力が抜けた。


「えっ、えっ?!」


朝陽は横に滑り落ちそうになる夜を慌てて支える。心臓が一瞬止まるくらい酷く驚いていた。


「夜! 夜?!」


顔を覗き込むと、夜は死んだように眠っているようだった。しかし、何故急に?


朝陽のその疑問は、すぐに解消された。


「朝陽、危険なことはしないでくれ」


どこからともなく現れた兎が、朝陽の隣に立っていた。


「今の出来事で夜の現世との繋がりが極限まで細まり、元に戻ったかと思えば、一番太くなった。良くやったと言ってやりたいが、本当に危なかったんだ。結果オーライで済む話じゃ無いぞ」


苦言を呈する兎に、朝陽はぶちりと何かが切れる音がした。


「誰の、所為だと……」

「ん?」


兎は耳を微かに動かした。


「誰の所為だと思ってんだ!!」

「?!」


兎は朝陽の怒声に耳を震わせ、目を瞬かせた。

尚、夜が腕の中で寝ているので若干ボリュームは抑えめである。


「夜に"タイミングが来るまでずっとここから出られない"以外説明無しとかおかしいでしょ! お前神様じゃないの?! どうなるか位分かるよね?! てか責任者ならアフターフォローくらいしっかりやって!! この子闇堕ち寸前だったんだけど?! プライバシーとか大層なこと言って夜のこと放っとくくらいならちゃんと管理してよ!!」

「な……な……?!」


兎はショックであんぐりと口を開いたまま固まった。

朝陽は一頻り文句を言い切って満足すると、荒くなった息を整えながら夜を眺めた。


脳裏に先程の夜の慟哭が頭に思い浮かぶ。朝陽は大きく息を吐きながら、もう一度夜をしっかりと抱き締める。


……怖かった。本気で夜に会えなくなると思った。その位、夜は本気だった。

あの目も、声も、震えていた体も何もかもが、夜の心が擦り切れて無くなりかけていたことを表していた。

夜があんなに取り乱した姿を見るのは初めてだ。その位、限界だったのだ。


朝陽は奥歯を噛み締める。気付かなかった自分にも、腹が立って仕方がなかった。


「ごめんね、夜」


朝陽は夜の背中と膝の裏に腕を回し、静かに抱き上げる。そして寝室へ向かうと、扉を開けて中に入った。


そこもやはり、現実世界の寝室と全く同じだった。朝陽はベッドの脇まで移動すると、夜をそっとベッドに下ろす。掛け布団を掛けながらふと見ると、夜が家中から掻き集めたのか、二人が並んで映っている写真やお気に入りのクッション、朝陽がプレゼントしたアクセサリーに付いていたクマのぬいぐるみなんかが枕の横に所狭しと並んでいた。更に言うと、夜がねだったのか兎が与えたのか分からないが、朝陽によく似たぬいぐるみまで置いてある。


朝陽は恥ずかしいような嬉しいような、何とも言えない気持ちになりながら夜の頭を撫でる。すると、夜は朝陽の服の袖を掴んだ。朝陽は驚いて夜の顔を見るが、夜は変わらず寝息を立てていた。行かないでと言われている気がして、朝陽は目尻を細める。もう一度夜の頭を撫でると、掴まれている上着を脱いで夜に掛けた。


朝陽は扉を静かに閉じながら寝室を出る。そして居心地が悪そうにソファに座る兎の元に向かい、その正面に腰を下ろした。


「早急に、夜を帰したいんだけどさ」

「……そうだな」


兎は一旦反省を終えたらしく、目を閉じ、また開く頃には真剣な顔つきに変わっていた。


「帰すなら今だろう。夜が心から帰りたいと思ったお陰で今が一番繋がりが太くなっている。……ただ、」

「ただ?」


漸く待ち望んだ瞬間が来て逸る気持ちを抑えながら話を聞いていた朝陽は、突然顔を曇らせた兎に反射的に聞き返していた。


「……完全に安定するまでにあと少し、足りないんだ。帰ることは出来るんだが、完全じゃない状態で帰るといつかまたここに呼ばれてしまう可能性がある」

「呼ばれるって、まさか」

「そういうことだ」


朝陽の脳裏に、病院で眠る夜が思い浮かぶ。あれがまた起こるというのか。それは、駄目だ。絶対に駄目だ。

朝陽は唇を噛み締める。


「っじゃあ!」


朝陽は声を張り上げた。


「私ので補って!! 死なない程度ならいくらでも良いから!」


朝陽は胸元を強く握り締め、兎に懇願する。

自分が夜にどれだけ貢献出来るかなんて分からない。それでも朝陽は、どうしても諦めたくなかった。


「朝陽、無茶を言うんじゃない」

「無茶なんかじゃない! 要は死なないように気を付ければ良いんでしょ?! 死ぬ気でやるから!」

「…」


兎は迷いを隠すように目を閉じる。そして目を開くと、朝陽を真っ直ぐに捉えた。しかしその目は朝陽ではなく朝陽の奥底を覗いているように感じ、朝陽は思わず身震いした。


「本当に良いんだな?」


朝陽は躊躇いなく答える。


「うん。後悔はしない」

「……分かった」


答えた瞬間、朝陽は体から力が抜けていくのを感じ、ぐらりと体が傾いた。後ろのソファに倒れるように座り、片手で額を押さえる。


「もう会うことは無いと祈っているぞ。朝陽、健勝に生きなさい」


揺らぐ視界に抗いながら兎を見る。しかし、視界はもうブラックアウトしかけていたせいで兎の姿は輪郭すらもぼやけて見えなくなっていた。



□□□


ゆったりと瞼が開き、朝陽は心地良く目が覚めた。まるで今まで長い夢を見ていたようだった。まだ半分微睡みの中にいながら、そういえば何か大事な話をしていたような……と記憶をゆっくりと辿っていく。


そして、思い出した。朝陽はハッと目を開く。そして転げ落ちるようにベッドから出ると、慌てて身支度を整え、朝食どころか水を飲むことすら忘れて家を飛び出した。


朝陽は走る。信号が変わりかけているのも構わず渡ろうとして、誰かに後ろに腕を引かれた。


「姉ちゃん!!」

「っ!」


丁度、隣から曲がってきた自動車が正に今朝陽が渡ろうとしていた横断歩道を割と早い速度で横切っていった。

朝陽は思わず息を呑む。鼻先を掠めていったその自動車を見送って、呑んだ息を吐いた。

朝陽が止まったのを確認してから、その手は腕から離れていった。


「危ないって! 何考えてんの?!」

「蒼空、ありがと……ほんと、ありがとう」

「な、何……怖い」


振り返った朝陽は、通勤途中らしい蒼空に荒くなった息を整えながら礼を言った。珍しく素直に伝えていると言うのに、当の蒼空は困惑して口をへにゃりと歪めながら後ずさっていた。


「てか、何してんの? こんな時間に、そんな焦って走るなんてよっぽど……」


言いながら蒼空はあっと声を上げる。


「なんかあった?!」


主語が抜けているが、恐らく"夜に"という意味だろう。朝陽はその真偽を確かめる為に早く病院に行きたくて堪らず、たたらを踏みながら頷いた。


「ごめんっ、呼び止めて! 早く行って! あっ、でもさっきみたいなのは無しね! 気を付けて!!」

「分かった! ありがとう!」


蒼空は再び走り出した朝陽の背中に言葉を投げかける。朝陽はそれに半分振り返って答え、また走るのに集中する。


段々と、景色が何度も見たものに変わっていく。奥の方に病院が見えてきて、朝陽は更に足に力を入れる。


「……あのっ!」


半ば駆け込むように病院に入った。何とか振り絞って近くの看護師にそう言うと、朝陽の顔を見て察したらしく「こちらへ」と夜の病室へ案内してくれた。


「まさか、分かっていたんですか?」

「分かって、って……」


驚いた様子の看護師に朝陽も驚きながら返すと、看護師は一瞬更に驚いたように目を見開き、直ぐに表情を戻した。


夜の病室の前に着くと、何やら慌てたように何人もの看護師や医師が部屋を出入りしていた。

その様子に、心臓が嫌な音を立てる。分かっている筈なのに、最悪を想像してしまう自分もいるのだ。今までずっと頭の片隅にあったその最悪の姿が浮かんで、朝陽は堪らず胸元の服を握り締めた。


不意に、看護師から水が入った紙コップを渡された。


「一度落ち着かれてから、入室なさった方が良いかと。声が掠れていらっしゃったので」

「……ありがとう、ございます」


よく分からずに受け取った朝陽にそう伝え、看護師は部屋に入っていく。それから少しもしない内に、中にいた数人の看護師や医師と共に部屋から出て来た。


入って良いということだろう。丁度水を飲み切った朝陽から空の紙コップを受け取った看護師に目で促され、朝陽はおずおずと病室の扉を跨いだ。


心臓の音が煩い。まるで耳の横にあるかのように、自分の心臓の音しか聞こえなかった。

頬に風を感じる。大体の治療を終え、病室を移動していた夜の隣の窓はいつも閉まっていたのに、今日は開いている。風に乗って、夜の甘い花のような香りが朝陽の鼻を掠めたような気がした。


夜は今までと変わらず眠っている姿のままだった。

朝陽は震える足をなんとか動かして、夜のベッドに近寄っていく。すると足音に反応して、夜の瞼がゆっくりと開いていった。


「……朝陽」


少し掠れているが、間違いない。夜の声だ。

不思議だった。ついさっきまで聞いていた筈なのに、物凄く久しぶりに声を聞いたような気がした。


「私、どうして、ここにいるの?」


夜は眠そうな、不思議そうな顔で朝陽を見ていた。その目がゆっくりと閉じられていき、僅かに皺が寄る眉間に片手を乗せた。


「その時が、来たってこと? よく、分からない……どうして……かな……」


朝陽は、横たわったままの夜をそっと抱き締めた。夜の後頭部に手を回して覆い被さるように抱き締めると、トクン、トクンと小さな鼓動が朝陽の体に伝わって来た。

夜は温かくて、心臓が動いていて、それでいて、肌も、髪も、柔らかかった。


「……おかえり、夜」


安堵しながら、そう言った。


「……あれ? 朝陽、顔……見せて」

「?」


何やら様子のおかしい夜に従い、朝陽は頭を上げる。すると、後頭部に回されていた夜の手が朝陽の頬に移って、掌で、指先で、まるで感触を確かめるように朝陽の顔を撫でていく。

夜のしたいままに任せて待っていると、やがて夜はふっと力無く笑った。


「何、これ。全然、違う。こっちの方が、断然良い」

「? あ、触り心地?」

「ふふ、うん」

「分かる。私も思った」


可笑しそうに笑う夜の顔を見て、朝陽も釣られて笑う。


「ちゃんと、完璧に再現してねって、お願いしたのに。神様に、文句言わなきゃ」


夜の手が朝陽の頬から、再び後頭部に回される。そしてぐっと引き寄せられ、唇を重ねた。


「ただいま、朝陽」


顔を離した夜の目尻から、涙が垂れていた。夜が泣いている。そう思った時、雫がぽたりと夜の頬に落ちた。朝陽は鼻を啜る。するとまた、夜の頬に雫が落ちた。朝陽は思わず笑ってしまう。駄目だ。全然涙が止まらない。


揺らぐ視界の中で、夜は頬を緩めて朝陽の頭を優しく撫でた。その手つきが本当に優しくて、朝陽はぐっと目を細め、夜のベッドに顔を伏せる。


「朝陽」

「……うん」

「ありがとう」

「……何が?」


とぼけてそう言えば、弱々しい夜のチョップが後頭部に下ろされる。全く痛くないのに、「いてっ」という声が朝陽の口から笑みと共に溢れ出た。


「今度、全部、聞かせてね」


夜は穏やかな笑みを浮かべ、朝陽の手を握った。


「……うん、分かった」


朝陽は夜の手を握り返し、言った。それから体を起こすと、手は握ったままでベッドの淵に腰掛ける。


「じゃあまずは、元気にならないとね。すこぶる健康になる方法知ってるんだけど、聞きたい?」


朝陽は悪戯っぽく笑みを浮かべる。その顔を見て、夜はうげっと顔を顰めた。


「まさか。絶対、嫌」

「あはは。だよね」


朝陽は楽しそうに笑い、一息つく。それからまた静かに笑った。気付いた夜は、「どうしたの?」と首を傾げる。


「いや、良いこと思いついてさ」

「良いこと?」

「うん。あのさ、夜が退院したら兎を飼わない?」

「兎……」

「あの兎そっくりの子をお迎えしようよ。ちゃんと、夜が退院するまでに兎の飼い方を勉強しておくからさ」


「ね?」と夜の目を見る。夜は少し迷いながら目を逸らし、やがて「うん」と頷いて目を合わせた。


「じゃあ夜は、名前、考えておいて」

「分かった」


朝陽は頷き、握っていた手を離して立ち上がる。視界の端に、入るタイミングを伺う看護師の姿が見えていた。


「また来るね」

「うん。待ってる」


朝陽は出口に向かって数歩進み、「あ」と立ち止まる。それから、夜を振り返った。


「そういえばさ。見た? あの景色」

「景色?」

「すっごい綺麗な朝日と、青空」

「……あ、見た。見たよ、凄かった」


夜の目に、あの日見た朝日が浮かんでいた。朝陽と同じ景色を、夜も見ていた。


「うん」


朝陽は満足気に、歯を見せて笑ったのだった。


その後医師に数個説明を受け、手続きを終えて朝陽は病院を出ると、立ち止まってスマホをポケットから取り出した。


兎に必要な物は何だろうか。住む所(ケージ)と、食器と、トイレと、餌と……。どうやら、思ったよりも色々と必要らしい。


朝陽はスマホを再びポケットに仕舞う。それから、兎の飼育に必要な物を買う為に、まずはホームセンターへ向かったのだった。

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― 新着の感想 ―
面白かったです。 とにかくハッピーエンドで良かった。 描写が細かいので「今なにが起きているのか」読んでいてしっかり伝わってきました。いわゆる“小説的表現”もこだわりが感じられて良い。メインキャラの背景…
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