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幽冥婚姻譚  作者:
第三幕 白鼠の御宿
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十二 悪鬼

 声は、続いた。


「夜分遅くに失礼だとは思いましたが、声がしたもので。何かお手伝いできる事は御座いますか?」


 女の声。障子戸に映る影からも、恐らく一人だろう。小太郎は現状の母らしき存在を前に声を出せなかった。何も知らない誰かをこれ以上巻き込む事ができないでいた……のだが。


「申し訳ないのですが、手を貸していただけませんか? どうぞお上がり下さい」


 何かは、再び母の声色で平然と他人を招き入れる。そして、小太郎を見た(なにか)はこれでもかと口の端を吊り上げて嗤った。


『お前よりもずっと美味そうなのが来た』


 その瞬間、小太郎の背筋が粟立つ。


「入って……」


 入ってくるな。そう叫ぼうとしたが、母のようで、そうでない温もりの手に口を押さえつけられ言葉は途切れる。暴れようとも、もがこうとも、到底力では敵わない。そうこうしている間に無情にも、カラカラと軽い戸口が音を立てて開いていた。


 じゃり――と、土間に一歩入り込んだ足音が、踏み込んだ瞬間に止まる。

 何かを訝しんだのか。ならば早々に帰ってくれと小太郎は願ったが、小太郎の思惑とは違った言葉が、しじまに凛と鳴った。


「招いてくださって感謝します。夫が無理やり境界をこじ開けると言うので焦っておりましたの」


 焦っているという割には、抑揚のない声で話す女。小太郎は女が何を言っているかが理解できなかった。確かに言葉では招いたが、施錠をしているわけでもないのに、何を言っているのだろうと。首が自由に動けば、あからさまに首を傾けて女に疑義を投げかけていただろう。

 そんな小太郎に反して、()()姿()()()()()()の手が汗ばみ始めた。まるで慌てているよう――いや、怯えている、だろうか。小太郎の目線が上に向けば、元々病で青白かった母の顔色が、更に青ざめて震えているのだ。


 特に女に変わった様子はない。大人しそうな風貌で、姿勢も良い。それぐらいだ。が、ふと気付く。


 ――夫って言ってたけど、何処にいるんだ?


 障子戸に映った影は一つだった。そして今も、彼女の言う夫らしき姿はない。と思っていたのだが――視界の端で、暗闇がもぞりと動いた。

 その瞬間、鋭い刃が小太郎の頬を掠めた。同時に、背後で激しい物音が響き、小太郎の口を塞いでいた手はあっという間に離れていった。小太郎が(なにか)が弾き飛ばされたと気づいたのは、凛とした声が「茶器を持って、こちらへ」と促してからだった。


 小太郎に向かって手が伸びる。果たして信じて良いものか、一寸ばかし躊躇った。だがもう寄る辺はない。小太郎は桐箱を抱えると、ほっそりとした繊細な手をしっかりと握った。


「朧、少し離れているわ」


 何に対して告げたのか。そう言った女は、小太郎を連れて家から飛び出して夜に駆けた。



 ◆◇◆◇◆


 暗闇の中で()()()がゆらりと動く。煙のような動きでゆらゆらと漂うが、遅緩(ちかん)な動きとは違い鋭い殺意が満ち満ち、場を支配していた。その殺意は小太郎の母の姿の()()を槍にも似た鋒で幾重にも貫き、動かぬように押さえつける。

 足、頭、腹、肩と様々な急所が貫かれ、只人(ただびと)であったなら、即死していた事だろう。だが、残念な事に()()は人ではないので、只管に痛いだけだ。ただ、動けない上に獲物も逃げてしまったとあって、痛みよりも怒りが勝っているのだろう。口から飛び出したのは、苦悶の声などではなく悪態だった。


「くそっ‼︎ あんたの所為で台無しじゃないか。折角良い話を拾ったって言うのに‼︎」


 こんな事になるのなら、小太郎を喰って終わっておけば良かった。不味い母親など喰わねば良かった。そもそも噂話に乗るんじゃなかったと、言いたい放題である。ぎゃあぎゃあと騒ぐ()()が耳障りだったのか、黒い靄に動きがあった。緩慢とした動きでゆらゆらと揺れ、次第にそれは人の姿へと変わる。

 今にも闇に溶けてしまいそうな黒を纏う男の姿――朧は、赤い瞳を赫赫(かくかく)とさせ、喚くそれを見下す。その身体の殆どは見たまま人と変わりなかったが、右腕だけは異形(さなが)らに幾重にも枝分かれして()()を突き刺したままだった。


「良い話には裏があるもんだ。残念だったな」


 さして、心の籠ってもいない言葉を吐く朧。その右腕は、とどめを刺そうと新たな鋒を生み出して()()の首へと添える。


「そういや……人間の皮を被って、とって変わる話を耳にした事があるような……」


 あれは、鬼だったか妖怪だったか……()()()()()記憶を辿って思い当たったように朧は独り言のように言い放つ。


「……確か、天邪鬼(あまのじゃく)だった……か?」


 まあ、鬼だろうが妖だろうが差異は無いだろうと、ぶつぶつ呟いたかと思えば、ようやっと天邪鬼らしき妖へと声をかけた。


「妖や鬼ってのは首を刎ねれば死ぬのか?」


 まだやった事がないんだ。と淡々と言い放つ朧の姿に、()()の顔は引き攣った。


「いや待ってくれ!」


 天邪鬼は大袈裟に手振りで朧に許しを乞うように手を前の出す。


「子供ならあんたに譲る! だから見逃して……」

「俺らみたいな存在に法なんて存在しねえだろう? お前が子供を喰らおうとしたのと同じように、俺に喰われる……それだけだ」

「……だからって、()()()()()で俺を殺すのか? 高々、人間の子供一人の事だろう?」


 天邪鬼に問い掛けられ、朧は天井を見上げる。「ああ、何でだろうな」、なんて自問をぶつけて、不意に何かを得心した顔が再び天邪鬼を捉えた。


「でも、まあ理由をつけるなら……餓鬼が良いようにされているのが気に食わなかっただけだな」


 朧の中で、どうでも良かった存在に理由がついたと同時、その腕は切っ先から靄へと変じる。

 それまで天邪鬼を拘束していたものが消え去り、ほんの一息ついて、恐々としながらも「見逃してくれるのか」と口にした。だが、朧の表情は天邪鬼へ向けた据えた瞳は赫々と燃えるような色だというのに、恐ろしくも冷淡に見下ろしている。


「逃がすと言った覚えはねえな」


 天邪鬼の顔が歪む。その恐怖が染み付いた表情のまま、身体はずぶずぶと黒い靄の中へ飲み込まれていった。

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