八 取引
◆◇◆◇◆
『この世でない場所で、不思議な茶器が存在する』
廃寺敷地の門前で座っていた僧侶姿の老爺。その嗄れた声は、昔噺でも語るゆっくりとした口調で小太郎に話しかけた。既に、朽ちかけて誰も住んではいないはずのそこ。打ち捨てられた寺院に祀られた神仏だろうが、僅かな望みをかけて祈りを捧げようと小太郎は願掛けのつもりで訪れた矢先の事でもあった。
そこで一人足を休める老爺が小太郎の目には不審に映る。見鬼の瞼を閉じていても、小太郎の眼には違和感がある姿でしかない。
――これは、人間じゃない
狐か、狸か。それとも、老爺の皮を被った何か、だろうか。
町外れにある小さな寺院だ。人気は無く、偶然旅人でも通りかからない限りは声を上げたところで誰も気づかないだろう。小太郎は慎重に「そうなのか」と、軽い調子で返した。
幼い頃から見えると言う事は、相手にも知られているようで、そう言った手合いは小太郎からしてみれば手慣れたものでもある。だが、慣れているからと言って危険が無い訳ではない。小太郎は見えるだけで、追い払う術は何一つとして持ってはいないのだ。
だから、殊更慎重に慣れた口は「それが何なんだ?」と調子を合わせてみる。そうすることで相手の気が紛れてくれる事を願ってもいた。
『それがな、人に触れさせると魂が抜けるって話だ。大昔の神様がな、その茶器に魂を溜め込んで、酒を混ぜて呑んでいたそうだ……まあ、滋養の代わりだったとかでな』
これには小太郎は顔を引き攣らせ嫌悪した。要は人を喰らっていた神様の話なのだ。気分が良い訳が無い。本当は、嫌悪を示せば相手の気分を害す事もあるから気をつけねばならない。だが、最悪己を喰う話を面白がっているやもしれない輩を前に、小太郎が老爺を軽く躱わす余裕は無くなっていた。
――これは、逃げた方がいい
町までは四半里(一粁)程はある。全速力で走ればあるいは……。
小太郎が、妖相手の勝算が見えない打算を巡らせているのを知ってか知らずか、嗄れ声は『お前をとって喰う気はないよ』と、落ち着き払った様子で言った。その言葉に反してニタリと嫌らしく笑う口元は、己の正体を隠す気が無いのか、それまで老爺らしく腰を曲げていた姿すら止めてしまう。それを見て、喰わないにしても小太郎の脳裏にはこの場から去る事しか浮かんでいなかった。
今まさに、小太郎は回れ右して一目散に町へ戻ろうと足に力を入れていた――だが。
『お前の母御……死にそうなのだろう? なあ、小太郎』
そう囁いた老爺の声は、いっそう不気味な野太い声に変わっていた。
小太郎が知る奇々怪界な領分は、底気味悪くも突然近づいてくる。
時に静かに、時に豪風のように。そして、やたらとこちらに旨みがあるような話を取引として持ちかけてくる。
されど、決して応えてはいけない。滲み出る悪意を薄っすらと感じとっていた小太郎は、誰に教わったでもないが心に決めていた。
特に、わざと姿を見せてくるような輩が持ってきた話などもってのほかだ。けれども、小太郎の足は一向に帰路へ向く事はなかった。寧ろ、老爺の言葉の続きを期待して、耳を傾けんとしていた。
『神様方には滋養の酒だが……人間が飲めば、万能薬にすらなる……いや酒だから百薬の長が正しいか』
人間を装うのを止めたからなのか、三日月型を模って嫌らしく笑う口は怪異そのものだ。だのに、小太郎は怪訝な様子ながらも老爺へと更に近づいていた。
「その茶器が存在したとして、何処にある」
老爺はますます邪気の籠った顔で嗤う。
『小太郎、お前。夜市への道を知っているだろう?』
「知ってる。ガキの時に一回入ったきりだ」
『なら、もう一度その道から夜市へ行ってみな。その先で、鼠の家を探すんだ』
「鼠?」
『そうさ、鼠だ。その鼠どもが、件の茶器を持っている』
「けどそれって……」
それまで気丈に振る舞っていた小太郎が言葉を詰まらせた。が、それには理由がある。
老爺の言葉は盗んでこいと言っているも同然だ。夜市へは、小太郎でも入ることができる。幼い頃に偶然に道を見つけて潜り込んだのもあって、それ自体に戸惑いはなかった。だが問題は、その夜市に存在する者達だ。
そこ棲むのは、人間ではなく。所謂、妖と呼ばれる怪異達だ。幼きに潜り込んで一度きりになっていたのも、それらの小太郎を見る目が今も忘れられないからだ。
夜祭のようにぼうっと明るく照らされたその領分で、うっかり迷い込んだ小太郎を獲物同然に見るその目。哀れな坊と伸びゆく手。小太郎は、危険を感じたその瞬間に、道を辿って逃げ出したのだ。
今も残った記憶が小太郎の肝をぶるりと縮こまらせる。
小太郎は、心の底から怖いと思った事がない。危険なものは、目で見た瞬間に何となく悟れてしまうのもあった。だが、その群れに飛び込むとなると……矢張り、怖い。
けれども、母を思えば恐怖はまだ眠っていてくれる。小太郎は喉元まで出かかっていた恐怖を抑え込んで、老爺へと向き直った。恐怖を抑えた小太郎は、今度は疑った眼差しを老爺へと向ける。
「その話が本当だったとして、あんたは俺に教えて何の利益がある」
こういった妖がただの親切で話をするわけがない。
これは、取引だ。
小太郎の疑義を前にしても、老爺の邪悪さは止まる事を知らない様子だった。口が裂けてしまうのではないかと思うほどに湾曲した口に、正しく怪異の姿を見る。
『なに、儂では鼠の家に入れんのだ。だがお前は違う。もし手に入って母御に薬を飲ませた後、儂に茶器を渡してくれたなら――それで十分だ』
誘いに乗った小太郎に、老爺は満足げに答えたのだった。
◆◇◆◇◆
老爺との会話は、まるで昨日のことのように鮮明な記憶のまま小太郎の脳裏にこびりついていた。
登離宿より外れた社に隠れて、小太郎は記憶を甦らせつつも月明かりを頼りに黒漆の箱の中を覗き込んむ。
中身は、黒漆の箱以上に黒く染まった茶器だ。黒釉を塗られた蓋付きの茶碗型のそれ。絵付けもないが釉薬の光沢が月明かりに照らされて湧然と輝く。茶器に詳しくはない小太郎でも、きっと腕の良い職人の作品なのだろうと感じたほどだった。
黒漆の桐箱の中を覗く小太郎は、吸い込まれそうな黒を前にして怖気付いていた気を持ち直した。老爺の言う通り、この茶器は真っ当なものではない。美しい姿だが、茶器の輝きとは別にぞわりとする気配もある。神聖なるものの持ち物であった、そればかりは疑わしいものだったが、効果さえ嘘でなければそれで良かった。
「これは……母さんのためなんだ……」
小太郎は、何度目かもわからない決心を胸に朝を待った。




