三 婚儀
暗闇の中、花嫁は微動だにしなかった。村長の妻君に言われるがまま供物と共に並ぶ姿は、実に堂々としたものだ。
正座のままピンと背筋を張り、手は重ねたままゆったりと膝の上に置かれている。顔は凛としたまま怯えるでもなく、喚くでもなく、ただ、座って時が過ぎ去るばかりだ。ただ、焦点の合っていない目は暗闇の奥底すら見てはいなかった。
扉の向こう側で重苦しい錠前の閉まる音が鳴る。更にはその向こう、最後の鍵が閉められた頃に闇が蠢いた。
空気がうねる。
黒い煙が闇の中で漂い、花嫁へと纏わり付いた。
どろりと流れる濁った川の如く、ゆっくりとゆっくりと暗闇は花嫁へと絡み付く。身体を這う感覚だけが花嫁にあるのか、そこで漸く膝の上に乗せていた手の人差し指がピクリと動く。よく見れば、眉も僅かながらに上下する。
だが同時に、花嫁の唇からは安堵の息が「ふう」と色濃く溢れた。
「……ここに座すは、八千矛神であらせられると存じております。何卒、私を食すのであれば、先に痛みなく心の臓を一突きにして頂ければと」
と。焦点の合わない瞳は、ただ真っ直ぐに壁へと向いている。良家の子女を思わせる口振りは何処にいるとも分からない相手に、凛とした声のまま語り掛けたのだ。
すると、纏わり付いていた暗闇が、声に応えたのかまた蠢く。
『何だ、冥府に行きたいのか』
何処から現れたのか、地響きの様な低い声が花嫁にも聞こえたのだろう。
「はい。ですが、痛いのは嫌いですので一思いに殺して下さいませ」
ゆっくりと綿帽子を被った頭が垂れていく。三つ指ついて、頭を下げる所作は洗礼され、指の先まで美しく、既に覚悟を決した姿だった。
綿帽子に隠れてこそいたが、首を差し出している様にも見える事だろう。
花嫁は、三つ指ついた状態で待った。待ったが、一向に何かされる気配がない。かと言って、今更頭も上げられない。
して、どうしたものか。
一つ、二つと時を数えていると、綿帽子と角隠しがするりと落とされ何かが首筋に触れた。それは、誰かの掌のざらつきを思わせる感覚を覚えるも体温は無い。何より、目の前に人の気配はない。
首筋の感覚が、ふっときえるも今度は顎の下辺りを撫でられている不思議な感覚があった。そのまま、顎を力任せに引き上げられ、花嫁はされるがままに首を上げていた。
『俺の言葉が理解できるのか』
またも目の前でない何処からともなく聞こえる。不気味だが、威圧的ではない。花嫁は奇妙に思いながらも、淡々と答えていた。
「……はい。少々変わった声色ですが、はっきりと」
『では、俺が見えるか』
「いえ、残念ながら私は生まれてこの方、何も見えてはおりません」
虚無の顔で、花嫁は特に意味もなく答えた。
「私に視力はありません。私にとって、最初で最後かもしれない死ぬ機会。どうか、七日の間に私を殺して下さいませ」
花嫁の言葉の全てに恐れも虚偽もなかった。
まるで今日の予定でも語る口。暗闇の中でうっすらとした紅の色が花嫁を艶やめかせ、口元は微笑でいる。
花嫁の言葉で闇が騒めいた。ぐるぐると渦でも描いて花嫁を取り囲む。ある筈の無い風が生温く、花嫁の肌をそよそよと摩るが妙に生々しい。
風が止み渦が止まると、供物の全てが消えていた。残ったのは、花嫁と三献の儀の為の屠蘇台だけ。その残った屠蘇がふわりと浮くと、酒が杯へと注がれていた。
『俺の声が聞こえる者は初めてだ。特に花嫁を寄越せと言った覚えは無いが、面白い』
儀礼も何もなく無作法に注がれたそれ。今にも溢れんばかりだった杯はまたもふわりと浮いた。
そうして豪快に暗闇の何かへと注がれた酒が消えていくが、同時に喉へと流し込む音が響く。何かが、飲んでいるのだろうかと花嫁が疑問に思う頃には、再び盃に酒が注がれていた。
『飲め』
花嫁の手が意思とは関係なく持ち上がると、その手には盃が乗せられていた。並々と注がれたそれを両手で支えると鼻先まで近づけて、酒精の香りを鼻腔へと潜らせる。
「……呑んだら、私は死ねるのでしょうか」
『少し違うが、ある意味で死人みたいなものだ』
くつくつと喉を鳴らして何かが笑う。
花嫁は一瞬迷うも、もう覚悟は決した後とあってどうにでもなれと意気込んで喉へと酒を流し込んでいた。
『良い呑みっぷりだ』
これだけしか無いのが実に惜しいと、何かは愉悦の声を上げた。もう一度、花嫁の盃へと酒を注ぎ呑めと促す。
花嫁はそれも、ごくりと呑み干すと、手の上にあった盃が再びふわりと浮いて手から離れていた。
目の前では何かが惜しみなく屠蘇の中身を盃へと注いでは呑み干していく。まるで人にも似たその行動に、神というものを思い出す。
神の姿とは人に似ているのだとか。ならば、行動が人に近くとも何ら不可思議でもない。
「あの、貴方が八千矛神であらせられるのですか?」
気分よく進んでいた酒の最後を呑み切ると、何かは答えた。
『神という言葉は都合に合わせて使うものだ』
そう何かが答えると、カランと木製の何かが床に落ちた。それが盃であったと気づいた頃には、花嫁の肌に何かが触れている感触があった。そのまま押し倒され、頬を撫でられる。
「晴れて俺とお前は夫婦となった」
その時、花嫁の耳元でそれまでと違った声があった。
地響きのような声とは違って、鮮明になった声は低いが壮年程度の男を思わせる。同時に誰かが自分の身体を弄る感覚に溺れ、酒の酔いが回り始めた花嫁は抵抗を見せなかった。
人では無いモノに触られている感覚は奇妙ではあったが、酔いと快楽に呑まれ初めた思考はぼんやりと「これは初夜の儀なのだ」と納得する程度。最早まともな思考など何処にもなかった。
すると、また耳元で誰かが優しく囁いた。
「花嫁殿、名は何という?」
ぼんやりとした意識の中、花嫁は初めて与えられた快楽に呑まれながらも熱量の篭った吐息混じりに答えた。
「椿……」
「そうか……椿か……」
感慨深く名を呼ぶ声が、椿の唇を塞いだ。そこではっきりと人に似た暖かみを椿は初めて感じ、辿々しくも、そこにいる何かへと手を伸ばしては絡めた。
それが合図か、何かの手が帯を緩めた。帯が緩まると、自然と懐剣が帯から落ちて、チリンと――鈴の音が静かに鳴った。