十二 夜に浸りし箱庭で
その領分に、常闇の空には無数の星々が広がるが、月は無い。それだけではなく、虫音も動物の気配もないのだ。
入る事ができるのは創造主と眷属。そして許された者である。が、今の所、許された者は一人としていない。
領分の中心には小さな家があり四方は草花で囲まれて侵入者である風がザワザワと庭を撫でて騒めきを起こす。
その領分こそが二人の家であり、全てが創造主たる朧の力の支配下である箱庭だ。
二人は小さな家の縁側に腰掛け、旅路から帰って早々に眼前に並ぶ牡丹を眺めた。が、どうにもまだ早かったらしい。牡丹はまだ蕾をつけたばかりで、咲くのは少しばかり先だろう。
代わりに、牡丹の隣に並べてあった躑躅は鞠の如く丸く剪定されて、見頃の鮮やかな赤紫が咲き乱れている。更には領分の一面に並べた菜の花畑が黄色に染まり、飽きる事ない春の様相が世界を覆い尽くした。
「もう少し、ゆっくりでも良かったな」
ポツリと壮年の声が、申し訳なく小さく溢した。気持ちの整理こそついたが、家に帰る事しか考えておらず、寄り道でもすればまだ見る景色もあっただろうと苦々しく呟く。
「良いの、躑躅も菜の花も見頃だもの」
菜の花は何も特別でも何でもないそこら中で咲いている花だ。刈り取った白菜から出た芽やら、種が飛んだ土手やら、菜種の畑やらで。春めかしいが珍しくもない。なんなら、帰りは一等目にした花と言っても良いぐらいだった。
それでも椿はまだ見飽きる程ではないと言う。常闇の静寂で眺める景色は、また違って見えるのだと。
「次に出かけるのは、夏まで待とうか。どうせ、松さんが仕事を押し付けてくるだろうから」
と、不意に口にしてしまった名前に朧の眉間に皺が寄る。
「なあ、椿。松さんは信用ならない。何故仕事を受けようと思った」
その問いに椿は迷いなく、「私は半分だけれど、妖と言える存在よね? なら、私たちが生きる世界は、もうあちら側なのでしょう?」とこたえた。
椿は畏れない。精霊だろうが、異形だろうが、妖しい狐だろうが。それこそ、人を喰う神ですら――。
「松柏さんは、確かに疑わしいけれど……今は他に伝手も無いのだし利用するのも手だと思ったの。全くの他人よりも、まだ信頼出来る……かな。朧が松柏さんから仕事を受けたく無いのなら、他の方法を考えるけれど」
言い切るそれは自分が生きる場所を認識し、これからの生き方を鑑みたものだった。ふわりとした余裕の笑みで朧を見上げれば、朧は何かがツボに入ったのか、くつくつと喉を鳴らす。
俺の女房は度胸がある。そう楽しげに笑って、不安など消し飛んだ顔を見せた。
「それで……次は、何処へ行ってみる?」
「それなんだが、また海へ行こう」
朧から目的地を口にするのは珍しい事だったので、椿は頷きながらも小首を傾げる。
「何か、目的でも?」
「……珊瑚簪。松さんに訊ねたら、白砂児という町で造られたものだと。……今まで、それらしいものを贈った事がなかっただろう。これぐらいは許してくれ」
ごつごつとした指先がいたずらに椿の頬を擽る。
「欲しかったんだろう?」
白い珊瑚をそのままに紅玉と真珠だけの飾りだけ。鼈甲は手相が見えるほどに透き通る琥珀色。
どちらも、悠然なる自然の景色とは違った美麗に椿は息を呑んでとり込まれていたのだ。それも、うっかり、その場で欲しいと口走ってしまいそうな程。
「で……でも、ああ言ったものは、高い……のよね?」
何故だか椿は慌てた。いつもは落ち着いて冷静な姿勢を崩さずにいられるというのに、欲しがっていた姿を見抜かれていたというだけで、顔は紅潮して手はいじいじとむやみやたらに指同士を絡ませる。
「どうだろうな。物によるとは思うが」
「じゃあ……」
「男から女に簪や櫛を贈るのは、そう言った意味なのだろう? それも駄目だと言うのか?」
春の心地にも似た優しげな笑みを浮かべた朧が、また椿の頬を撫でた。こそばゆい肌触りで、未だ紅潮したまま落ち着きすら取り戻せていない椿は、そのまま降りてきた唇に口を塞がれて何も言い返せやしなかった。
どちらにしろ高鳴る鼓動が、「駄目」などという無粋な言葉など飲み込んでしまっていたのだが。
風がザアザア――と領分を通り抜けていく。流れる風に合わせて黄色が揺れては、悠々とした時間が過ぎていく。
ゆっくり、ゆっくりと。
直に如月も終わり皐月も始まれば、牡丹と同じ頃合いに藤棚も色付き、今は黄色で染まる花畑も鈴蘭の白色へと顔を変える。
決して光の届かない領分ではあるが、常夜に浮かぶ星空に照らされた世界はこんこんと育まれながらも、二人を見守り続けるであろう。
第二幕 了




