十 盲目の女②
平太は、真夜中に灯りも持たずに一階の椿の部屋へと向かった。浮き足だった様子ではあったが、慎重さは失ってはいない。
父親に見つかると、厄介な事この上ないのだ。
足音を立てない様に、廊下の木板が軋む場所を避けては一歩一歩慎重に椿の部屋へと向かっていく。
邸の最奥。妙に薄暗いと感じたものの、心躍っている平太にとっては特に気に留めるほどの事でもなかった。
そのまま最奥へと進み、平太はゆっくりと目的の部屋の襖を開けた。中は閉め忘れた縁側の障子が開け放たれ、招かれた夜と共に月光が眠る椿を照らす。おかげで、部屋は冬の寒さ以上に冷気に満ちている。
その冷気の中。静かな寝息に、平太はそろりそろりと近づいた。焦ってはいけないと思いつつも、早く早くと急いた気が足を速めようとする。
息が荒立ちそうになるのを抑えて、平太は椿に覆い被さった。手を懐へと忍び込ませ、猿轡として用意した布を取り出す。口に押し込んで仕舞えば、声は出ないだろう。
平太が、布を押し当てようとした――――その時だった。
パチリと、何の機微も見せる事なく椿の瞳が見開いた。
その、女の眼の仄暗さよ。
蔵のどんよりとした暗闇でも思い出しそうなまでに、暗くおどろおどろしい気質を放ったその瞳。その女の様相があまりにも畏ろしく、平太は思わず椿の上から飛び退き、後ずさった。
見えているかの様な椿の双眸が、深い闇の底からじっとりと平太を見やるのだ。
まるで妖にでも出会したかの様に、平太の浮ついた気分は一瞬で消え去った。「ひっ」という情けない声を漏らしては、侮っていたであろう盲目の女に怯えている。平太は興奮していた男のそれが萎える程に何故だか無性に椿が恐ろしくなってしまったのだ。
逃げなければ――そう浮かんだ所で、腰が抜けて思う様に動けない。
そんな平太を嘲笑うかのように、くすりと微笑う妖しい女の声が平太の耳に届く。いつの間にか椿は立ち上がり、一歩一歩確実に平太へと近づいていた。
それはもう、嬲り弄ぶようにじっくりと。
易々と追いついた平太の眼前で、妖しい雰囲気を纏った女は艶やかな瞳を向けながら膝をついた。
「あなたがいつも私を見ている事、気がついていましたよ」
そうしてまた、妖しく微笑う。
あの蔵と同じ恐怖を、平太は眼前に感じていた。声を上げる事、逃げる事すら忘れる程の恐怖に怯え固まってしまい、歯を鳴らしてはガタガタと震えている。
そんな平太の顔を女の繊細な手がゆっくりと包み込み、耳元で甘露な声色を口遊む。
「ねえ、蔵の仕来りはどうなっているの?」
その声。甘く、痺れるような――――椿の花の香りでも漂い酔いしれたとでもいうように、椿の声を聞いた瞬間、平太の目は生気を失った。
「……全ての扉を開け放つ事は禁じられています。一から三の門の何処かが閉まってさえいれば、中のものは出てこれない」
覇気のない。怯えてもいない淡々とした声が平太の口から溢れていく。椿は当然の如く言葉を受け取って、更に続けた。
「塀の意味は?」
「できる限り、八千矛神の力を山々に奪われない為です。塀――境界があるから、神の力は地面を伝い村へと流れているのだと」
そう、と椿は満足そうに呟くと、じゃあ最後にと続けた。
「あなたは蔵を開けることは出来るの?」
「出来ます。俺も血を継いでいます」
平太の答えに椿は殊更優しく微笑んだ。
「では、彼を解放してちょうだい」
平太は、言葉が終わると同時にこくりと頷く。それまで動けなかった事が嘘の様に、あっさりと立ち上がり、ぼんやりとした顔をしながらもスタスタと歩き始める。
平太の足は迷いなく村長の私室へと入っていった。村長の寝室は別にあり人の気配もない。静まり返った部屋の窓際にある手元箪笥。その真ん中の引き出しを平太は躊躇いもなく開けると、入っていた鐵色の鍵を手に取り、そのまま邸を出ていった。
月光に照らされた畦道を裸足のまま、大の男がゆらゆらと揺れ進む姿は実に奇妙だった。意思を持った足取りではなく、ただただ虚ろな亡霊として漂っているかのようだ。
その足取りのまま蔵の手前の塀へと辿り着くと、以前あったはずの恐怖など今は完全に消え去った平太は、迷いも無く門を開け放った。
鳥居をくぐり抜け、そのまま蔵の前で佇むと、手にしていた鍵を使い一の扉を開けた。
ガシャン――と、激しい金属音と共に錠前が地に落ちる。次は二の扉。
二の扉もまた同じ。何事もなく鍵を開け、錠前はそのまま捨て置く。そして最後――平太は全ての仕来りを忘れて三の扉を開け放ったのだ。
ガシャン――と、金属音を聞きながら平太は扉を開く。ギギ、ギ――と不快な音が響くと同時。
門の僅かな隙間から中の暗闇が一斉に溢れ出し、平太は――――飲み込まれた。




