95 土佐学校と分国法
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(1537 春 14歳)
吉良宣経他数名が足利学校から戻ってきた。
3年前に津野氏・大平氏の後に臣従してきた吉良氏の嫡男だ。
向学心のある青年というので足利学校へ派遣し、見聞を広めてもらってきた。
足利学校では国内トップクラスの高等教育が行われており、
10年以上も学び続けている人もいるという。
土佐で教育に携わってくれる人材の勧誘もしてもらっていたが難航していた。
昨年の京での炊き出しや寺社への復興支援などが伝わって
畿内に縁のある数人が短期間であるが土佐へ来てくれることになった。
旅費はこちらで持つし、中村書庫には明からの多くの書物があることも
決め手になったようだ。
中村には医学校が、宿毛には船員の上級学校が立ち上がっているが
四書五経を中心とした上級学校は浦戸に新しくつくることにした。
名称は土佐学校とし、本山茂宗を学校長としてすえた。
主な目的は幹部候補生の育成だ。学費生活費は免除される。
ただし農作業従事や潅漑・築城・堤防などの実習がある。
寺子屋からの推挙された子弟も受け入れることにしている。
関東にある足利学校をモデルにし、交流も視野にいれる。
軍師教育としての易学はカリキュラムには入れない。
易学は書物収集はするが教育は足利学校にまかせることにした。
国学や漢学だけでなく化学、物理学、算学(数学)も教えていきたいが
転生者たちが一線を引いてから教材作成に協力してもらってからのこと。
戦のない時代になってからの夢だ。いつか総合大学を作りたい。
学生がまだ少ないこともあり、土佐学校の指導者を中心に
土佐国内の法整備を行うための分国法作成に協力してもらう。
史実で最も有名なのは今川仮名目録だろう。
今川氏親が1526年に制定したものを入手していて
これを基礎として補追して原案を作ることにしていた。
なお、今川氏では昨年転生者今川義元が家督相続して当主となっている。
周防大内が作っていた大内家壁書は今川仮名目録より少し古い。
豊後大友には大友義長条々が、肥後には相良氏法度があったので
これらも取り寄せて参考とした。
御成敗式目を意識して一条式目(仮)とする。
領民支配、家臣統制、寺社支配、所領相論、軍役など多岐に渡る内容となる。
刑法に関しては別途、一条法度(仮)として整備していく予定だ。
史実では吉良宣経が当主となった後に
周防から南村梅軒を招き、土佐南学が起こったといわれ
本山茂宗は南村梅軒の教えを受け、本山梅渓と名乗るようになったといわれます。
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