93 刀鍛冶
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(1536 秋 14歳)
細川晴元からちょっかいをかけられる前に京を出て堺へ移動した。
堺は交易拠点でもあったが、技術拠点でもあった。
多くの鍛冶師や鋳物師がいるのだ。
土佐への神社仏閣の勧進や分社の誘致があったので
鐘や仏具などが堺へ発注され、土佐へ多くの鐘や仏具が運ばれていた。
鋳物も鍛冶も燃料として多くの木材が必要とされる。
以前から鋳物師や鍛冶師を土佐へ勧誘していた。
堺や京で長く激しい戦乱があった影響もあって
堺と土佐、両方に拠点を置く商家も多くなっていた。
堺に限っていえば土佐の評判はどんどんと高まっていたのだ。
この時代、鉄も多く輸入されていたし、
土佐には砂鉄が採取できる河口もあった。
阿波の海部刀は大量生産された輸出品目ではあったが
鉄の多くは輸入しているものが使われていた。
日明貿易が盛んになり、最初は耐火レンガそのものを輸入していたが
今では土佐で耐火レンガを製作できるようになっていた。
これにより製鉄やガラス製作の炉の性能が向上していた。
耐火技術だけでなく各種最新技術を試行するための投資を
土佐一条家がになってくれているため、
土佐の基礎技術は堺を超えるようになっていた。
刀の製造にはいくつかの専門職人がいて
・鉱物を掘り出す、鉱山師
・砂鉄を採集し砂と分ける、鉄穴師
・たたら製鉄で砂鉄を溶かす、たたら師
・炉の火のための炭を焼く、山師
・刀鍛冶
・刀に梵字や装飾図を彫る、彫師
・刀にあわせて鞘を作る、鞘師
・刀を研ぐ、研師
上の工程や下の工程があってはじめて製品が作られる。刀剣も同じだ。
刀鍛冶の上の工程の技術に強くなりつつある土佐は魅力的な環境といえる。
上品で優雅な作風で貴族に愛された山城の刀工集団は貧する朝廷とともに
勢いが弱まっていたところに、度重なる京での戦乱で衰退しつつあった。
戦乱の世では数打ち(量産品)の需要が強く、これが逆風にもなっていた。
天文法華の乱で京が大火に見舞われ、京の刀鍛冶集団の一部は
鍛冶師の多い堺に避難していた。
将来的には彼らの多くは[鉄砲]鍛冶になっていったのかもしれない。
だが、堺で土佐の評判を聞いて、移住先として土佐が選ばれ始めていた。
戦の心配をせず、安心して仕事ができる環境として土佐が注目されたのだ。
山城、摂津、大和などの鍛冶師達が堺から土佐に流れるようになり、
切磋琢磨で良品が作られるようになっていた。
市場に近い堺は量産技術が磨かれる傾向が強くなり始めていた。
いざ土佐に来てみると、農機具、大工道具、家庭道具など
戦以外の生産を後押しする態勢も整いつつあった。
人を殺す武器ではなく人を生かす道具を作ろうとする職人も増えてきた。
例えば、はさみといえばU字型(ギリシャ型の和鋏)が一般的で
X字型(ローマ型の洋鋏)がなかったので土佐でこれらを開発し、普及を始めた。
以後[土佐鋏]と呼ばれる大ヒット商品が生まれることになった。
何にせよ土佐に鍛冶師が集まって工房が大きくなってくれるのは大歓迎だ。
ゆくゆくは鉄砲の大量生産を始める下地を作っていく必要があるからだ。
種子島に鉄砲が伝来するまで後7年である。
刀剣の五大産地を五箇伝と呼ぶようになったのは江戸時代以降。
大和伝、山城伝、備前伝、相州伝、美濃伝
大和は平城京、山城は平安京、相州は鎌倉幕府、政治の中心とともに繁栄
備前は鉄の産地、美濃は交通の要衝として発展。
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