92 初めての昇殿
感想、誤字報告いつもありがとうございます。
(1536 秋 14歳)
14歳にして初めて昇殿することになった。
1年ほどで再び京に来ることになるとは思っていなかった。
それだけ短期間で行った多額の資産を投入した戦災支援の影響は大きかった。
今回、父房冬は正二位、私は従四位下から従四位上になった。
帝(後奈良天皇)は清廉なところがあって献金を突き返すこともあった。
それもあって金欠な朝廷は即位から9年経ってやっと即位式が行えた。
即位式のために北条氏、今川氏、大内氏などから多額な献金があった。
周防の大内義隆は献金ついでに九州攻めの肩書づくりに
大宰大弐を申請していたが1日で取り消されたという。
山科言継など財務を預かる担当者の苦労がしのばれる。
土佐一条家としての献金は他の公家と横並びになるようにほどほどにして、
京本家を超えぬ献金で目立たぬようにしていた。
そこへきての大規模な炊き出しは困窮している朝廷にとって
即位への献金をだししぶっていたと取る意見もあったようで、
土佐にひきこもっているようにも見える祖父房家の真意を知りたがっていた。
まずは当主を相続した私の人となりを見極めようと呼び出されたのだろう。
在京の父房冬はすでに表敬を済ませており、今回は京本家の叔父房通に
連れられての昇殿となった。目にするもの全てが珍しく完全にお上りさん状態。
居並ぶ公卿たちの視線が痛い。
格式ばったやり取りや、お礼の言上をつつがなく済ませて内心一息ついていると
その場を取り仕切っていた関白二条尹房から声がかかった。
「こたびは大儀であった。何か望みのものがあるか?」
平伏したまま。最善手に頭をめぐらせる。
関白が再度催促してくる。
「主上がお望みである。遠慮なく述べよ」
『民百姓は帝の子らでございます。手を差し伸べるのは臣下として当然のこと。お言葉だけで十分でございます』
「(父親の)房冬と同じで欲がないのう。いや、欲がなければ土佐の国盗りなどせぬであろう。何を考えておる」
『恒産恒心は孟子。倉廩満ちて礼節を知り衣食足りて栄辱を知る、とは古代中国の菅仲の言葉でございます。民百姓に礼節を求めるのならば生活を豊かにせねばなりませぬ。土佐一条の持つ土地だけでは土佐の民百姓を豊かにはできませぬ。欲があるからゆえに土佐の国盗りをいたしました』
「詭弁よな」
『今回の大火。さかのぼれば法華衆が延暦寺を論破したのがきっかけと聞いております。
ここで問答を始めるおつもりですか? 二条尹房様であれば相手にとって不足ありません。胸をかしていただきましょう』
居住まいを正して二条尹房に正対し、まっすぐ見つめると二条尹房は目をそらした。
叔父の一条房通があわてて制止した。
「房基、やめよ。御前である。二条様も房基が失礼いたしました」
『失礼いたしました。』
二条尹房に深く礼をした後、再び帝に向かって平伏する。
『田舎者ゆえ失礼いたしました。私は生まれも育ちも土佐の土佐人でございます。この度の従四位上でさえ過分な位。今まで以上に御恩に報いさせていただきます』
御簾の向こう側から帝(後奈良天皇)から直接声があった。
「とさびとか。房冬もそう申しておったな。・・・・土佐権守はどうじゃ、尹房」
二条尹房も帝に平伏してこたえる。
「かしこまりました。そのように手配いたします」
土佐権守を賜ることとなったようだ。
『ありがたき幸せ。謹んでお受けいたします』
今では名誉職ではあるが、帝から直接引き出せた意味は大きい。
在京していないので近衛中将などの役職は避けてのことだろう。
京にある土佐一条の屋敷に戻ると細川晴元から呼び出しの書状が届いていた。
細川晴元は山城・摂津・丹波・讃岐・土佐、5か国の守護。
守護は幕府から与えられた地位ではあるが、
細川晴元はどの国も完全に支配できているわけではない。
土佐にいたっては守護代さえ残っていないのだ。
土佐一条家が土佐を平定しても、抗議さえまともに伝えてこない。
あちこちで戦ばかりで所在不明であったが、
この時期は珍しく足利将軍義晴とともに京にいたらしい。
史実ではこの先足利義晴が京で政務することはないはず。
細川京兆家も没落していく。気にする相手ではない。
官位も細川晴元は従四位下で私の1つ下であり、
朝廷から土佐権守をいただく予定。
呼び出される立場ではないのだ。返信さえせずに完全に無視しよう、と決めた。
父房冬は史実なら祖父房家が亡くなり、
家督を継いだ1539年に正二位になっています。それが最終官位でした。
房基は1537年に従四位下。1539年に従四位上、正四位下。1540年には従三位。
1541年に阿波権守になっています。
この世界で1536年に従四位下になったのは早すぎるわけでもないのです。
1年の内に従四位下になり、従四位上になったのは異例かもしれませんが
正二位以上になる家格ならば下の官位のステップアップは遅かれ早かれの話。
二条家とは一条家が土佐に下向するにいたった因縁があります。
二条尹房はこの後関白を辞して加賀の家領へ下向します。
前関白の九条も京から離れ、摂津の家領に移っています。
摂関家さえも京から避難するほどに混乱している時期でした。
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