91 天下一武道会と天文法華の乱
感想、誤字報告いつもありがとうございます。
天下一武道会と天文法華の乱
ともに文章量があまりにも少なかったので抱き合わせの投稿としました。
(1536 夏 13歳)
土佐では戦のない期間がしばらく続いていた。
土木作業のかたわら、武士たちも調練をかかさずにいたが
士気をあげるために武術大会を催すことにした。
当分戦を仕掛けられそうもないし
この先に進むには水軍の充実が必至でこれには時間がかかる。
各地にある足軽合宿所で選抜大会を行い、
専用に作り上げた競技場で決勝戦を行う。
種目としては
相撲に剣道はトーナメント式
投槍器をつかって飛距離を競う槍投げ
100mの短距離走
1000mの中距離走
10000mの長距離走
弓の的当ては騎射と歩射の種目別。10射の合計点での対戦形式
各牧場から自慢の馬を出走させての
1000m走
2000m走
3000m走
騎乗技術を磨かせる。
血気盛んな武士たちの心をスポーツで昇華させる。
ついでに基礎体力や技術の向上をはかる。
(#注:距離はメートルを使っているわけではありません)
(#注:尺は10/33を基準として設定しています)
相撲はルールを明確にし、各地の神社に土俵を作らせ祭などで興行をさせていたので
足軽衆以外にも各地の神社から推挙された農民や商人や職人などの参加を認めている。
兵法家を誘いこむために天下一武道会などと大袈裟な名前にした。
定期的に行うことでウワサを聞きつけて土佐まで来てくれることを期待してのことだ。
私自身は長距離走にエントリー。
相撲や剣道は当主として観覧して表彰する立場なので参加するわけにはいかなかった。
当主が参加したら勝っても負けても問題になりそうなので仕方ない。
長距離走は後続を大きく引き離しての優勝だった。
正しいフォームの知識と専用にあつらえた地下足袋シューズの効果が絶大だった。
(1536 7月 13歳)
土佐では天下一武道会で盛り上がっていた頃、京では天文法華の乱が起こっていた。
天下一武道会は予選会も含めて長い準備期間と土佐全土がまとまるイベントであったので
京での争いが始まっても途中で止めることなく進行したのだった。
延暦寺・六角軍6万 vs 法華宗2万
法華宗(日蓮宗)二十一本山の21寺は全て焼失した。
この中には本能寺、本圀寺、妙覚寺などがあった。
そう、本能寺の変が起こる前に本能寺は焼け落ちたことがあったのだ。
この戦いで法華宗徒の町衆が多い下京は全域、上京は1/3が焼失した。
1万人以上が亡くなったという。
、
事前に計画していた通り、京郊外に築いた一条別邸と堺から
支援物資を運び入れて炊き出しを各所で行わせた。
一条家は前面に出ず、延暦寺など武装化している寺を避けて
八坂神社や京都ゑびす神社などの神社や一条家の菩提寺である東福寺に
物資を提供し炊き出しを行ってもらう。
吉田宗忠の角倉家などの京の大きな商家にも支援物資を提供して
炊き出しを行ってもらう。
物資は一条家が持つが、実行するための人員が足りないので
施行は寺社や町衆にまかせるようにしたのだ。
寺社や町衆への物資提供も縁戚のある公家があれば公家を通して公家の顔をたてた。
父房冬からは大徳寺、三条西実隆公からは二尊院が推挙されていた。
なるべく一条家は裏方に徹するように注意させた。
今回の乱で法華宗は洛外に追放され、京では禁教となった。
朝廷や寺社に根回しをし、焼かれた21寺の周辺には仮設長屋を
建てる手筈を整え、資材を運び込んだ。
大工の確保など、そこから先は寺社や町衆に丸投げした。
いくら裏方に徹していても、関係者には知られているので
各方面から支援の要請が相次いだ。ただ全てに応えることはできない。
選別は父房冬や叔父房通がこなしてくれた。
この大規模な救援事業は土佐からの指示によるものと
帝の耳にも届いたようで、支援した公家や寺社からの後押しもあり
従四位下から従四位上へ官位が上がることとなり、
朝廷から昇殿の要請(呼び出し)が届いてしまった。
法華宗が京への帰還が許され、再建されたのは1547年以降。
戻ったのは21のうち15寺。その後、信長によって弾圧を受けます。
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