85 避難民と伊賀衆
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(1535 秋 13歳)
畿内からの避難民の流入が止まらない。
1532年頃から本願寺・一向一揆 対 細川晴元・法華一揆の合戦で山科本願寺は全焼し、
堺のみならず奈良の興福寺や春日大社までもが大きく被災していた。
1533年には三好千熊丸が一向一揆と細川との和睦の斡旋をしたという。
三好千熊丸は今は三好孫次郎利長と名を変え、細川晴元に仕えているという。
おそらく彼が転生した三好長慶だと思われる。
土佐守護でもある細川陣営は土佐一条家を敵対勢力だと考えているだろう。
三好長慶が細川晴元を喰って京か堺に腰を据えてからでないと接触は難しいかもしれない。
1534年には本願寺が和睦を破棄したが、この夏に本願寺が大敗。
やっとこの秋に本願寺と細川との和睦が妥結した。そ
の後、幕府・細川・六角との和議がまとまったという。
本願寺は一時は畿内5国で10万を超える兵を動かしたという。
土佐の戦場とはスケールが違い過ぎる。
一条本家と縁のある奈良の興福寺の復興には土佐から多くの木材が寄進された。
堺の復興にも支援を惜しまなかった。
戦がいったん収束した昨年(1534年)あたりから避難したり
完全に土地から逃げ出した人が増え始めていた。
既に朝倉氏、越後長尾氏なども一向宗禁止令を出していたので
家督相続直後に土佐でも一向宗禁止令を出していた。
とはいえ土佐には一向宗の寺はなかったので影響はなかった。
今回、法華宗についても禁止令を出した。
海路での移動では一度に大量な避難民は来ない。
四国山地を越えてまでくる民もそれほどではない。
伊予・讃岐・阿波からの流入については街道と関所の整備を行う。
西の伊予との間は宿毛街道とJR予土線のルートを最優先で整備させている。
前世でいうJR土讃線のルートは本山城までは整備していたので
その先、阿波国境まで整備をし関所の砦化を行うことにした。
商取引が活発で海路で行きかう船はこれからも増えていく。
納屋に続いて天王寺屋の唐船も就航した。
国内航路を行きかう土佐商人の弁才船も増えている。
港での検閲、検疫の強化も急務だ。
堺衆の紹介で伊賀衆の流れを汲む千賀地家が仕官を願ってきた。
千賀地家は元をたどれば服部家だった。将軍足利義晴に仕えていたが、
最近は六角家が抱える甲賀衆とのつながりが強くなり、見切りをつけて離れたそうだ。
服部本家は三河の松平家へ向かい、分家の一部が旧姓の千賀地に戻して
こちらに来たらしい。家を保つために2つに割ったのだろう。
転生者服部正成は徳川家康の家臣だったから服部本家で三河あたりで転生するのだろう。
徳川家康は1543年頃の生まれだから服部正成もまだ生まれていないと思われる。
千賀地家は伊賀衆としての知識と経験は少ないようではあるが
甲賀衆の流れを汲む鈴鹿家が土佐で独自の忍者技術を磨いてきたように
土佐で互いに切磋琢磨してもらう。
ただおそらく六角氏か細川氏の息がかかった間者が紛れていると思われるので
十分な注意が必要であろう。
京での騒乱はまだまだ尾を引いている。
前世では勢いづいた法華宗に対して、延暦寺とそれを支援する六角氏が京でぶつかり、
洛中の大半が焼失した。
宗教対立のせいか年表には出てこないが、応仁の乱以上の被害規模だったはずだ。
大量の難民の発生を前提に早急な対策立案が必要となるし、
あからさまにならぬように稼ぐチャンスでもある。
農民ならばまだ助け合えばなんとか食いつなげるだろうが
職人や芸人、商人は厳しい日々が待ち受けている。
できれば技術者たちはこちらに誘導して保護したい。
とりあえず今のうちから農地に適さないエリアに大規模な街を整備していく。
木材の集積と蔵など物資の集積所の建設を先に済ませておく。
こちらへの移民が想定より少なくなったとしても
畿内では木材と食糧についてはいくらあっても足りなくなるはずだ。
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