74 "ほぼ"土佐統一
感想、誤字報告いつもありがとうございます。
(1534 秋 11歳)
田植えも終わり、農閑期に入ったころに
基本的な軍事訓練を終えた一条家家臣たちの足軽衆を
船で浦戸港まで運び、前線に送り込んだ。
通常、田植えが終わっても夏は農閑期ではない。
田植えや稲刈りだけでなく、草取りも重労働のひとつなのだ。
正条植えで苗と苗の間が空いていることが重要で、草取り作業が楽になった。
今では手押し車タイプの草刈機が開発され更に楽になっている。
今回は父房冬が総大将となり、一条古参の家臣がまわりを固める。
足軽衆には統一された鎧兜、槍も刀も支給されている。
戦国時代にしては珍しく、全員が小盾を装備している。
笛や太鼓の合図で駆け足をし、方向転換をし、ピタリと停止する。
集団行動訓練だけを繰り返し徹底させてきた。
相手の城下でこれを実演をする。集団で槍や刀の型稽古を披露する。
ほとんどの国人が降伏勧告に従って武装解除した。
大津城の天竺氏
介良城の横山氏
下田城の下田氏
栗山城の十市細川氏
戦闘にならないまま次々とくだしていったら土佐湾まで南下してしまった。
主攻は父房冬にまかせて今回は後ろで控えていて
降伏した国人たちを監視する役目をになっていた。
天竺氏、十市細川氏を下したことで
土佐守護職である細川京兆家と完全に敵対することになった。
細川政元が1507年に暗殺された時、
守護代であった遠州細川家が土佐を引き払った。
長宗我部氏はそのあおりを受けて凋落し、滅亡の一歩前まで追い込まれた。
細川政元の死亡で細川京兆家嫡流は途絶えた。
その後の細川家当主高国は3年前に細川晴元との政争に負けて自害した。
この細川高国の国の字を賜っていたのが長宗我部国親である。
津野氏も十市細川氏も安芸氏も国の字を賜っている。
細川京兆家の影響力は未だに強いのだ。
だが、現当主細川晴元は畿内での戦で忙しい。
阿波を越えてまで土佐の小競り合いにかかわる余裕はないはずだ。
土佐守護に敵対してもひるまない姿勢を見せつけることが
逆に強みになると思う。一条家は土佐を平定するつもりなのだ、と。
それに前世の史実では細川京兆家は下り坂のまま没落する運命だ。
転生者の三好長慶や松永久秀を支援できれば加速されるだろう。
主攻の軍勢は東へ進み香美郡へ侵攻。
香宗城の香宗我部氏、山田城の山田氏をくだす。
安芸郡へ侵攻は連戦していた兵の一部を交代させる。
土佐北街道を整備した旧本山氏と旧長宗我部氏の兵が加わり、
陸路で土佐東街道を整備しながら進む。
補給は海路での支援を受けながら進む。
進軍スピードが早くてこれらの兵站の維持と調整が大変だった。
津野氏に勝ったころの苦労再びだ。
安芸氏は安芸城を包囲した時点で降伏。
ここで一端、全軍を岡豊城、朝倉城までひきあげることにした。
結局、戦闘らしい戦闘はほとんどなかった。
戦の基本は相手よりも数を揃え、装備を整え、鍛え、士気を高めて臨むことだ。
国人達は戦わずに降伏したことで負けた気になっていないだろうが、
ここから心を折り、牙を抜きにいく。
国人達の気持ちを変えるのは難しいだろうが、兵や民は違う。
生活が楽になり、豊かになったらもう元には戻ることはできなくなる。
土佐七雄の当主達に聞いた話をまとめると
土佐国内には300から400の城があるらしい。
小さな国人はまだまだいる。一つ一つ潰していくのは非効率過ぎる。
残りは完全に無視をして、経済的軍事的に圧倒的な格差を
見せつけて相手からくだってくるのを待つことにした。
初夏に始めた統一戦は野分に邪魔されながら秋まで
かかってしまった。早く中村に帰って雪姫に会いたい。
駆け足で土佐統一は省略しました。
細かい描写をしはじめると長くなりすぎるし、
長宗我部氏をくだせば土佐統一編は十分かな、と。
長宗我部氏が土佐を統一したのは1575年。
まだ生まれていない元親の代になってのこと。40年早い統一となります。
四国を統一したのは1585年。本能寺の変の3年後のことです。
本能寺の変があり信長からの侵攻がなく、畿内が混乱したおかげでしょう。
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