67 本山氏臣従
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(1533 冬 11歳)
長宗我部国親、敷地藤安、津野国高が少数の手勢と
本山茂宗の本山城に着いたのは長宗我部が降伏して
1週間ほど経ってのこと。
本山城は吉野川の源流近くの山の中にある。
使者を前にして本山茂宗は一条家に下ることをあっさりと認めた。
「朝倉城は昨年できたばかりの新しい城だった。
それをたった2日で落とされたのだ。
朝倉城に居たものどもは皆、心折られたようだった。
一条には絶対に敵わぬと口々に言う。
戦った相手にたらふく食わせて、めしを持たせて送り出す。
したたか過ぎるわ」
「われら長宗我部には朝倉城では婚儀で使った花火なるものを
使ったらしい、くらいしか聞き及んでいない。
お前ら本山が粘らぬから岡豊城まであっという間にせまられた。
津野の姫野々城も早くに落城したという。
籠城しても勝ち目がないと野戦に挑んだら野戦でも2日で壊滅させられた。
金儲けばかりしている公家の小僧・・・ではなく童だと思っていたら、
軍略が凄まじい」
「朝倉城では花火だけでなく、火槍のようなものも使っていたそうだ。
夜があけたら既に城の形をなしていなかったらしい。
岡豊城ももたなかったのか?」
「野戦が終わるとすぐに山に火をかけられた。
季節は冬だ。山ごと燻されそうになったわ。
迷うことなく風上から火をかけおった。
逃げ道はあけておったが、城から逃げても
わしらには行く宛がないから、降伏するしかなかった」
「仏にもなれるし、鬼にもなれる、か。
真に10の童なのか?、よほどの軍師がいるのか?」
一条家の重臣である敷地藤安が首をふって否定する。
「私たち一条のものも本陣でその差配を見ているだけでした。
特に軍師がついているようにも見受けられませんでした」
今や一条家の家臣となっている津野国高も同意する。
「私の配下であった津野の足軽たちも攻め手に参加していましたが、
私の知っていた頃とは全く違う動きをしていました。
軍配と旗の合図で陣太鼓や鐘を鳴らし、
その合図通りに全部の兵が一斉に動いていました」
「わしは岡豊城の高い位置から見ておった。
まるで一つの生き物のように蠢く様はすさまじかった。
あの練度で訓練された兵が2000いるというのが信じられん」
「今回、前線に出ていたのは房基様の直属の兵のみで
房家様、房冬様、他の国人衆は兵を出しておりません。
同行した家臣達は味方ながら皆が震えておりました。
評定では四国平定をするおつもりだと言われておりました。
今回の戦ぶりを見物した家臣達はもう誰も疑うことはないでしょう」
それを聞いた本山茂宗は大きく
「四国平定とは大きく出たな。見ている世がわれらとは違う。
確かに土佐の中で争っている場合ではないのう。
”平天下”の夢は房基様に託すのが一番であろう。」
本山茂宗の言葉に敷地藤安が反応した。
「そういえば・・・・茂宗様が悩まれるようであれば、と
房基様がおっしゃっていたことがありました」
「何か?」
「本山の”同憂同楽”の旗印はよい言葉だ。
だが君主の憂いは民の憂いと同じではない。
民の憂いを慮るのはよいが、それにとらわれてはいけない。
民の楽しみと君主の楽しみもまた違う。
民が楽しむ様を楽しむのが君主の楽しみなのだ、と。
”同憂同楽”は民同士が使う言葉なのだ。
君主の憂いは民にわかってもらわなくてよい。
一人で抱えねばならない強さを持たねばならぬ、と」
「・・・・一人で抱える強さ、か。・・・・器が違うな。
君主であったつもりだったが、仕えるべき主に
出会えたようで心が震えるわ」
こうして土佐七雄の中で最大勢力であった本山氏も
一条の下につくことが決まったのだった。
本山茂宗の頃、本山氏は全盛期を迎えました。
朝倉城を築き、土佐南部に進出し、
1540年頃には吉良氏を滅亡させていました。
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