49 遅れてきたものたち
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(1532 冬 9歳)
津野からの農民や足軽が大量に流入したラッシュがひと段落した頃に
甲賀から鈴鹿小六が一族を連れて戻ってきた。
一族を受け入れる場所は確保していたので受け入れはスムーズに進められた。
山の奥で椎茸づくりや炭焼きの拠点のひとつとして
秘密が外部に漏れないように隠れ里のようにつくっていた
場所のひとつをまるごと空けた。住んでいた山の民たちは
同じような拠点づくりに津野に移住していった。
若い男衆は少なめで、話があったように
戦続きの中で減ったようだったし、傷ついて戦には
ついていけそうもない年配者が多かった。
逆に子どもの数が多く、話を聞くと畿内で孤児を集めてきたらしい。
ここで技術を教え込み育成していくつもりなのだそうだ。
馬と牛を多めに手配して、荷物や当面の食糧は自分たちで中村から運ばせた。
召抱えた彼らをいつまでも甲賀衆と呼ぶわけにもいかないので
「忍者衆」と名づけた。
この時代に「忍者」という呼び名はなく
乱破、素破、草、夜走、夜盗、軒猿、志能備、
地方それぞれでいろいろな呼び方をされていた。
「忍びの者」から「忍者」とした。
津野との戦に間に合わなかったことを残念がっていたが
元々戦働きさせるつもりはなく、警備警護が目的だったから
気にすることはないと言った。津野平定が早すぎたのだ。
甲賀から人がきたと同じくらいに
堺からは頼んでいた鎧兜が届いた。これもまた戦には
間に合わなかったが、津野の兵をまるがかえすることに
なったので、追加の発注は想定以上の数になった。
これも長めの納期で構わないし、
他の戦国大名に売る際に古い鎧兜を下取りしたものを
こちらに回してはどうか、と提案した。
戦国大名たちは新式の鎧兜が安く買えるし、
納屋としては新式は戦国大名に買ってもらえて
下取りした旧式は一条に買ってもらえるわけだ。
こちらとしては旧式でも土佐内の戦では
まだ現役で使えるし、短い納期で数が揃う。
ただし、鎧兜の補修、すなわちメンテナンスをする職人を
少しでよいので移住してもらうことを条件にした。
防具とは別に武器として阿波(徳島)の海部氏が作る海部刀を揃えた。
これは刃の背の部分がノコギリ状になっている刀で
主に船乗りが好んで使う形の刀らしい。
多くが日明貿易で海外に輸出されている刀だそうだ。
こちらは日明貿易の中継地点として土佐の港に立ち寄る際に
軽くて高く売れる干し椎茸と物々交換でごっそりと入手する
ようにした。交易船としては空いたスペースで
利益率の高い商品を土佐や九州で載せることができるので
重くて嵩張る商品と喜んで交換してくれたのだった。
wikiによれば「忍者」は昭和30年代以降に普及した呼称だそうです。
好きな忍者は「猿飛肉丸」です。
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