293 東北征伐
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次回更新は03/22(日)
(1580 一条房基(58))
土佐の大学校で使用している農学書「農業全書」は数年毎に改訂されており、現在11版になっていた。各作物の栽培方法から農具、肥料、畜産まで多岐に渡っている。次の改訂ではタバコとカボチャが追加される予定である。「農業全書」から米作りの基本のみを要約した「稲作大要」を編纂させた。内容の半分は農具の図説になっている。名古屋に幕府直轄の印刷所を作ってもらい、全国に発送させる予定だ。楷書を使い、50音表も添付した。
だが、「稲作大要」だけでは微々たる効果しか期待できない。何故そうしなければならないのか、作業の本質まで詳細に書かれていないからだ。理解できる者は根本とそれ以上のことが知りたくなるはずだ。農具も一部しか記載されていない。牛馬が使う物や揚水車、干鰯のような魚肥の作り方とそれに伴う漁網や漁法など、地域差のよるものは省かれているからだ。結局は体系立てて教育を受けた者が地域に合わせた農法を一歩一歩試行錯誤していくしかないのだ。
京から名古屋に戻り、「稲作大要」全国発送の手配を取りまとめていたところに、竹中重治と織田長益が訪ねてきた。
『竹中殿とは九州で別れて以来2年ぶりになるか。初めての名古屋の感想は?』
長らく幕府の監視役として側にいた2人だが、竹中重治とは九州での大友・島津の調停後に幕府に戻って以来の再会であった。
「建物は皆新しく道も広い。何より糞尿の匂いがしないのが良いですね」
中世のパリの不衛生が酷かったのは有名だが、鴨川が溢れた時には洗い流されるのを待つほど京も酷かった。
『東北征伐の様子はどうだ?』
東北各地で一揆が起きていた。大半が検地と刀狩りに反発した国人が農民を煽っていたため、人的被害は少なかったが、幕府軍が向かったために逆に戦火が拡大した。関東、九州と多くの国人が取り潰されたり、移封されりしたことへの危機感が拍車をかけたようだ。
「前田利益殿は一命を取り留めました。後を継いだ前田利家殿が鎮圧して間もなく仕置が始まるでしょう」
越後の統治に飽きた前田利益は戦場を求めて難癖をつけて東北に攻め入った。最上義光の元に集結した東北勢を攻めた時に釣り野伏に遭い負傷。極秘情報だろうが、土佐から派遣した病院船で行われた手術であったから、詳細の報告が届いていた。右手を失い、今後歩行困難な重傷であった。
『前田利家殿は東北で領地を得ることになるのかな?』
九州で領地を得られなかった前田利家は、前田利益の後始末に奮戦していた。信長の両前田はこれが最後の戦場になるのだろうか。
「利家殿は蝦夷を望まれており、私も蝦夷攻めに参陣することになりました。今日はそのご挨拶に伺ったのです。名古屋の様子も見ておきたかったですし」
『どうして蝦夷に?』
幕府内部の動静までは探れていない。蝦夷の蠣崎氏は安東氏に従属しているだけで、東北仕置の対象にはならないと思っていた。
「西国同盟です。一条は大友氏と豊後の石炭の取引を始められましたね。九州では馬鈴薯と甘藷の栽培も始まった。これらを幕府に持ち帰って協議した結果、蝦夷を早く直轄地にすべしとの判断になったのです」
蒸気機関の研究をしていることは幕府に知られていた。石炭の確保に動いたことが疑念を生んだと思われる。だが、機器は高圧に耐えられず、蒸気機関の実用化への道は遥かに遠い。日本統一も間近である今、憶測や無駄な探り合いを無くすためにも、技術情報の共有をすべき時なのだろう。
『私の監視役はどうされるのですか?』
「一条公の九州調停の評価は高かったのです。それにこれまでも中央の政治に積極的に介入せず、技術公開には協力的だった。脅威ではないと判断されました。これまで通り要注意ではありますが、正直に言えば重要な役職を任せる人材が少ないために、私が呼び戻されることになったのです。蝦夷攻めは戦歴をつけるための箔づけです」
見立てが甘い。甘過ぎる。四国を小さな島国と過小評価し過ぎている。
『・・・・蝦夷行きは止めて高山国に行きませんか? 蝦夷ではアイヌとの衝突の歴史が長い。蠣崎氏を服属させて終わりにはならないでしょう。蝦夷を統治するためにはアイヌ民族との融和が必要になる。高山国ではなんとか原住民との共存に成功しています。得るものは多いはずです』
台湾には10を超える原住民がいる。争いも多かったし、滅ぼした部族も複数ある。今でも同化させるのに苦労していた。
「・・・・高山国に入れるのですか?」
『隠すつもりはありません。それなりの立場の人間が行かねばならないでしょう。蝦夷に行くならば名古屋遷都には間に合うかどうか分からないでしょう。期限を決めてならば遷都前に高山国から帰ってこられると思います』
「・・・・持ち帰って検討させていただきます」
その後、織田幕府は竹中重治を団長とした高山国視察団の派遣を決めた。織田長益は続々と名古屋に移り住み始めた公家や大名の応対をするため、名古屋所司代に就任した。東北の大名の多くは降伏して東北征伐は終結したが、最上氏は取り潰され、蒲生氏郷が移封された。
実際の農業全書は1697年刊行。八代将軍徳川吉宗座右の書の一つと言われています。
最初の実用的な蒸気船は1783年。蒸気機関車は1801年。理論がわかっても技術が伴うには時間が必要。
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