291 九州仕置
感想、誤字報告いつもありがとうございます。
次回更新は03/08(日)
(1579 一条房基(57))
大友氏と島津氏の仲立ちを済ませると、名古屋に詰めて行幸の裏方に忙殺されていた。大友宗麟は大砲を豊後臼杵城の防備と島津との国境沿いに配備した。一方、島津義久は耳川で試射に使った大砲2門を九州征伐の前線に運び、幕府軍が包囲していた佐賀城攻略で止めの一撃を放つことになった。この戦いで龍造寺隆信が戦死した。
幕府軍は佐賀に留まり、織田信行が入城。信行を幕府代表として九州各領主との交渉が始まった。柴田勝家らは巡察行軍を行い、反抗する在地領主の諸城を制圧していった。幕府軍に全面協力した大友宗麟と島津義久は上洛し、幕府と直接交渉を進めた。筑前・筑後は織田信行、肥前は柴田勝家、肥後北部は本多忠勝が配されることになり、島津氏が認めていた大友氏の九州探題は無くなり、織田信行が就任することになった。
上洛した島津義久は九州へ戻る前に開発中の名古屋京に立ち寄った。
「ご助言いただいたおかげで肥後半国が安堵されました。重ね重ねお礼申し上げます」
肥後北部(熊本や阿蘇)は本多忠勝、肥後南部(八代や天草)は島津氏の領土となった。日向南部と合わせて九州の南半分は島津氏の領土である。
『幕府も家臣達の手前、戦功もあった島津家の領土を減らすわけにはいかなかったでしょう』
「言われてみれば菱刈鉱山を手放すのは仕方のないこと。金山ひとつで肥後半国を買ったと思えば悪くはなかったと思います」
武田は甲斐の金山を手放して北信濃を得た。越後は前田利益、常陸は佐々成政、主だった金山のある領地は天領になるのは避けられないと説得したのだ。幕府は筑後に本多忠勝、肥後に前田利家を配するつもりだったが、島津氏が九州征伐で活躍し、菱刈金山を幕府に献上したことで、島津氏の肥後半国を認めることになった。
『(弟の)家久殿が議員になると聞きました』
「今回も同道させました。私は領地改革で忙しく、中央に係われそうもありません。幕府への人質の意味も込めて、家久を送るのが適当と判断しました」
ジャガイモとサツマイモの栽培が始まる。武士を減らし、農地を開拓して行かなければならない。
『(名古屋)京屋敷も増えてきました。参勤交代があるかわかりませんが、江戸との往復よりは経済的負担は軽いでしょう』
「想像以上に大きな都市でした。島津屋敷は薩摩にある私の屋敷の3倍くらいに広い。どうか家久のことよろしくお願いいたします」
『引っ越しは最低限に考えたほうがよいですよ。遷都、譲位、即位と儀式が続きます。当主として再び名古屋に来ることになるでしょう』
「また借金しなければならなくなりそうですね」
『・・・・サトウキビを作りませんか?』
「サトウキビ! 琉球でもまだ作られていないようです。明との交易でも手がかりはなかった。教えていただけるのですか?」
『流通網、取引相手はこちらが押さえています。利益の大半は土佐の商人が取ることになりますが、それでもよければお教えしましょう』
「栽培方法、砂糖の製造法がわかるだけでも大きい。一から全て切り拓いていくには10年以上かかるでしょう。いや、既存の取引に割り込むなら潰されかねない。今は遥か先での大金よりも目の前の小金のほうがありがたい」
『種子島や屋久島なら栽培できると思います。1,2年はかかるでしょう』
「ゆくゆくは琉球を征服すべきでしょうか?」
『その判断は幕府、もしくは新政府がすべきでしょう。下手に動くと折角広げた領地が薩摩一国になりかねませんよ』
「確かに。それでも準備だけはしておきたい。(弟の)義弘は今回の九州征伐で大砲と土佐水軍に魅了されました。土佐への視察を熱望していました。農業指導だけでなく軍事指導もお願いしたい」
『まずは国力を上げることに力を注いでください。島津はあまりに苛政が激しい。苛政は虎よりも猛なり。六公四民で回せるくらいになるまで軍事費を下げてから相談を受けましょう』
史実で柴田勝家は信行派で信長に敗れた後に信行を見限ることになったこともあり、今回は信行・勝家をセットで九州に配します。尾張・紀伊・水戸の徳川御三家のような扱い。この作品で本多忠勝は勝家の娘婿なので勝家の側につけました。
面白いと思った方、
ブックマーク、ポイント、いいね、いただけると嬉しいです。




