290 名古屋行幸
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次回更新は03/01(日)
(1579 一条房基(57))
関東征伐は今川軍が、九州征伐は毛利軍が主力だった。織田軍の参陣が少数だったのは、何年もかけて準備していたイベントが控えていたためであった。春になって帝の名古屋行幸が行われた。行幸とは帝が外出することである。京で御馬揃えが行われ、1万の軍が警備した行列が京から名古屋へ移動した。名古屋御所は建築途中であったが、先立って建立した平安神宮への訪問を口実に、新しい都の下見旅行であった。関白と皇子・皇女は京に残り、主だった公家が参加した。同道する軍は1万だが、先行する軍、名古屋で待機する軍を合わせると3万の兵が動員された。街道と宿場町の整備に時間がかかり、やっと行幸に漕ぎつけた。
幕府の費用で整備するため、街道沿いの一色の美濃と織田の尾張は特需に沸いていた。一行は近江から美濃、尾張を通り、熱田神宮に立ち寄り名古屋に入った。計画段階では伊勢神宮から参拝を望まれたが、京から名古屋への街道整備が優先された。代わりに名古屋遷都後に伊勢神宮の式年遷宮への全面協力と帝の参拝が約された。今は京から名古屋の街道整備を行っていた人員が京から伊勢への街道整備を行っている。
名古屋京は大きく北区、南区、東区、西区、中区に区分けされている。御所の予定地は北区。中区は名古屋城を中心とし、議事堂や各種奉行所(省庁)は南区。御所に先行して平安神宮が北区に建立され、門前町が形成されつつある。港近くは全国から集まった資材の集積地として一番賑やかになっていた。人口が集中していることもあり、病院と薬園が作られ、併設する形で薬師寺が建立された。奈良の薬師寺ではなく、四国八十八ヶ所ゆかりの真言宗の寺として勧進した。遷都後には高智の医学大学校が薬園側に移転する予定だ。
大工は全国から集まってきたが、腕のよい宮大工の数はそう多くなく、御所よりも先に武家屋敷、公家屋敷が先行して完成していた。移住予定者が多いため進捗は半分程度だ。地方大名や家格の低い公家はあらかじめ決められた規格で建設済みの屋敷に入ることになる。後から壁絵や鬼瓦などで見分けがつくようなオプション付きだ。中には注文住宅を望む大大名や摂家などもいる。
行幸には多くの僧侶も同道しており、遷都の進捗の早さに衝撃を受けていた。織田幕府は三好長慶が焼き討ちした比叡山、日吉大社、天満宮などの再建に許可を出したが、名古屋での寺社建設を許したのはごく僅かだった。帝の異母弟である覚恕は天台宗座主となっており、名古屋に天台宗の寺院建立を願った。一条氏が薬師寺を勧進して人気を博していたため、織田信長の肝いりで天台宗の寺として天正寺の建立が認められた。その天正寺では大仏造立も決まったが、御所建設が優先のため大仏の開眼式は次の帝の代になるだろう。武家の守護神である八幡宮の勧請も認められ、建設も始まっていた。各宗派は争うように遷都費用の寄進を行い、名古屋での寺社建設を願ったが、寺院諸法度の法案審議が滞っており、保留扱いで放置されていた(284話)。
行幸の威光は大きく、行幸が済んでも近隣諸国から多くの見物客が押し寄せた。大名や公家や高僧は入居前の武家屋敷、公家屋敷を、一般人は使用人向けに建設された長屋を宿として利用した。都が完成するまでの期間限定であるが、四国の商人達が宿、食事処、土産物屋など観光業にまで手を広げた。既存の商人達は関東と九州の戦時特需と美濃と尾張の宿場町特需で忙しく、これまで行ってきた儲け方を踏襲するので手一杯だったのだ。そのため、ほぼ全ての資材と人員が外から入ってくる名古屋では、海運と投資する資金力と人材を持つ四国商人が市場を独占しつつあった。
実際の平安神宮は桓武天皇を祀る神社として1895年に創祀。
織田信長が京都御馬揃え(軍事パレード)を行ったのは1581年
伊勢神宮の内宮と外宮が20年毎に建て替えられるようになったのは1629年から。それまでは内宮と外宮の神宮式年遷宮は同年ではなく、戦国時代は100年以上長期中断されていた。
天正寺は織田信長を弔うために豊臣秀吉が造営する予定だった寺。
松永久秀による東大寺焼失はないので奈良の大仏は健在。豊臣秀吉による(方広寺)京の大仏でなく織田幕府が名古屋に大仏を造ります。方広寺は存在しないので「国家安康」の鐘も存在しません。
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