211 新帝即位と昇叙
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次回更新は09/01日)
(1558 一条房基(36))
大葬儀と言っても崩御後10日毎に儀式があったり、埋葬後にも儀式が続く。即位の儀式は年が明けてからこれらと並行して行われた。近年、両儀式がこれほど速やかに行われたことはなかった。秋には即位後初めての新嘗祭である大嘗祭を行うことが決まった。後土御門天皇の文正元年(1466年)以降、約100年ぶりの大嘗祭となる。公家達は各公家にある記録を突き合わせて準備を始めている。費用の大半は土佐一条家の寄進による。
即位料・御服費用などは大葬儀同様、大内・一条・毛利の連名で寄進が行われた。即位後に息子房平は従三位、弟大内義房は従四位上、毛利元就は従四位下、毛利隆元は従五位上に昇叙した。毛利元就は祖先である大江広元(毛利元就の正式な姓名は大江元就)の官職である陸奥守、毛利隆元は大膳大夫に任じられた。息子が従三位となったこともあり、上洛していない私も従二位に昇叙した。
足利幕府そっちのけで各種儀式が進んだ。足利幕府に捻出できる費用はなかった。最大勢力である三好長慶も戦費が嵩み、余裕がなかった。それでも幕府を無視する形で大金が飛び交い、褒賞として官位が任じられることに危機感を覚えざるを得なかった。そこで朝廷から新しい元号への改元の相談が向けられるとすぐに飛びついた。これまでも改元は朝廷と幕府の協議の元で行われてきており、これらの費用は全て幕府が出すこととなった。三好家の負担は大きく、崩御から即位の流れの中で争い事は禁忌される雰囲気もあり、畿内での争いはひとまず鎮静化することとなった。大内・毛利の両家は足利幕府への寄進も行い、大内義房は長門・周防・石見、毛利隆元は安芸・出雲の守護職に、毛利元就は相伴衆に任じられた。
新しい元号は「永禄」。即位の儀の内容と共に各地へ文を送る。年を明けての文は土佐に帰国した息子房平と連名で行った。正式に土佐一条の家督を譲ることを決め、大喪と即位の儀をこなした房平への家督相続の儀式の準備に入った。先帝崩御から半年も経っていないため、前回の使者がまだ帰ってきていない地域も多かった。九州は前回の使者が再び向かう。帰ってきてから各地の地図起こしで忙殺されていたが、短期間で再び巡ることで地図の精度が上がるだろう。
即位に合わせて思わぬ出費が嵩んだ。京の公家達への援助である。大喪、即位と儀式が続いた。衣装を含めいろいろと物入りだったのだ。新調する着物の反物や小物類だけでなく、子孫のために子細を記録するための紙、筆、墨の物価が上がったのも響いた。そこで個別に交渉していた古い楽器、武具、道具、着物、書物などの買い取りを専従のチームを作って大々的に行った。家宝としていた品も修繕、修理ができずにガラクタになって扱いに困っている品が多かった。着物を仕立てた後の端切れの布もあった。正偽が不確かな品々や戦火を受けて欠落した書物も買い取った。とにかく取り急ぎの現金化を請け負ったのだ。京近くの一条砦の側に修理工房を設けて一時修理を行った後で土佐に送り、本格修理を行う。楽器や道具は再利用できるものは再利用し、二流品以下は派手にリペアして南蛮向けの輸出品に化けさせた。武具は刀ではなく剣も多く、現在の実用には向かないものの、高品質のものが多かった。展示・観覧のための資料館を新設することにした。
着物や反物、端切れの買い取りを行うために、呉服屋ごと買収した。表向きは古着や端切れを扱うリサイクルショップに改装。少量だが密やかに、これまでは既存の座が障害で京では出回っていなかった土佐製の絹織物・麻織物を扱う。明の絹と比べると品質が低かったが、ようやく1段か2段落ちくらいまで良いものができるようになっていた。明よりは安値で南蛮向けに輸出していたが、国内向けの方がローリスクなのは間違いない。屋号は「越後屋」とし、現金売り、掛け売りなし、切り売りあり(反物単位でなく長さ指定売り)の商売を始めた。織物類よりも、櫛、かんざし、帯留めなどの小物類の販売が好調だった。
紆余曲折を経て大嘗祭は1687年に221年ぶりに略式で斎行されました。
呉服屋は1673年創業の三越の盗用です。
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