179 土佐防衛戦
被災された方々にお見舞い申し上げます。
一日も早い復興を心よりお祈り致します。
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次回更新は01/21(日)
(1550 28歳)
複数の情報源から阿波国守護細川持隆が大軍を動かしつつあるという話が伝わってきた。細川持隆の正室は大内義興の娘である。大内義興の娘は新将軍足利義維の正室(義栄の母)、私の父一条房冬の側室(大内晴持の母)、大友義鑑正室(大友晴英の母)など有力者に嫁いでいた(父房冬の正室は親王の娘であり格上ということ)。新将軍が堺から阿波に落ち延びた際には細川持隆を頼った。そして共に上洛して足利義維を将軍に押し上げたのだ。
細川持隆は播磨の赤松氏に頼られて備中国まで遠征し、尼子氏と戦った。故・細川晴元の号令に応じて伊予に攻め入って、河野氏と戦った。今回も上洛に多くの兵を編成し、海を渡った。だが先に京に入った細川氏綱が細川宗家(京兆家)を継いで権力を握った。阿波細川家としては得るものがない戦いばかりが続いていたのだ。新将軍とともに上洛したことで、堺や京で土佐一条の羽振りの良さを実感した。これまでも高い年貢、夫役や兵役に耐えかねて阿波から土佐へ少なくない民が流れ出ていた。商船の多くが銭を落とすことなく阿波には寄らずに直接土佐へ向かうようになっていた。降ろす荷も積む荷もないのだから当然であった。名前だけであったが最後の土佐国守護は亡くなった細川晴元だった。守護代も20年以上土佐には在住していなかった。室町幕府からは見放されていた国だったはずが宝の山になっていたのだ。新将軍の後ろ盾となり、新しい細川宗家の協力者でもある阿波細川家ならば、土佐を奪い取ったところでどこからも文句が出ない自信もあったのだろう。
讃岐十河には細川持隆の子が養子に入っていた。讃岐からは十河の軍が讃岐の一条軍を引きつけるために攻め入る。讃岐は土佐に隣接していない。土佐に隣接しているのは阿波であり三好の本領だった。三好長慶の弟である三好之相(実休)は阿波国守護である細川持隆に仕えていた。三好之相が北から土佐に攻め入る。細川持隆は南から土佐に攻め入る。海側からは安宅船の大船団が押し寄せる計画となっていた。
これほどの兵が動くとなれば武装、兵糧、人員の手配は膨大となる。複数の商家が請け負うことになる。計画も進捗も全て筒抜けだった。秋の農繁期を終えてから攻撃が始まった。
北から攻め寄せた三好軍に対しては吉野川の源流に位置する本山城に女子供を引き入れての籠城戦となった。三好軍は無理攻めをせずに包囲の兵を残して、大半は素通りして土佐中央部へ向かった。土佐に入ってからの街道は整備されている。途中にある山城のほとんどは破却されており、三好軍はあっという間に長宗我部氏の主城であった岡豊城に迫った。南から攻め寄せた細川軍も抵抗されることないまま室戸岬を回り込み、安芸氏が守る奈半利港に迫った。
土佐は山に囲まれ、大軍で押し寄せるには不向きな地形である。だからこそ複数のルートで攻め寄せる。間違いではない。ただ兵の質が全く違っていた。昔ながらに家ごとの編成の部隊と違って、土佐の軍は兵種ごとの編成になっていた。四国の城は山城ばかりでこれまでは攻城戦が中心だった。騎馬隊が戦場に投入される戦いなどなかったのだ。馬もポニーのような小型馬ばかりで荷運び中心だった。土佐では長い年月をかけて中型馬を育成し、騎馬隊が作られていた。整備された街道を想定よりも早く移動し、土佐国内深く引き込まれ、平地で決戦を仕組まれたと気づいた時には遅かった。鉄砲足軽隊が鮮烈なデビューを飾り、崩壊した前線を騎馬隊が蹂躙した。
海戦は更に悲惨だった。この当時の軍船の主役である安宅船は人力船である。百数十人の定員のうち数十人が櫓を漕いで進む。陸地に沿ってしか運航できない。いきなり浦戸や中村に攻め込むことは出来ない。口径が三匁ほどの火縄銃が戦の主力になる前に、二十匁砲=大鉄砲が既に完成していた。安宅船より小回りが利き高速で動ける関船に大鉄砲を載せて安宅船を沈めていった。吃水線に穴が空いた平底の船が沈むのは早い。鎧兜をつけたまま多くの兵が船とともに海の藻屑となった。辛うじて陸にたどり着いても、武器は投げ出したままで疲労困憊した状態では大人しく投降するしかなかった。
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