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戦国クラス転生  作者: 月本 一
176/294

175 ●第13代将軍足利義維

感想、誤字報告いつもありがとうございます。


次回更新は明日1/1(月)

(1548 ●菊幢丸=足利義輝(12)視点)

 足利将軍家の舵取りをもっと上手にできていれば江戸時代と並ぶ長い治世になったのではないだろうか? 転生先として義晴と迷ったが、信長周辺に多くの転生者が集まっており、彼らの上となる立場であろう義輝を選択したのだった。狙っていた前田慶次が選ばれてしまっていたので”剣豪将軍”という異名に惹かれたのかもしれない。


 父義晴は流浪の将軍だった。戦場に出ることの多い将軍だった。幕臣達と協議し、多くの手紙を書き、精力的に将軍であろうとしていた。転生先に義晴を選んでいたら、父ほど上手く対処できたとは思えなかった。細川氏や三好氏の勢力争いの中を見事なまでに泳いでいた。将軍家に生まれたとはいえ京で暮らすことは少なかった。何かあればすぐに近江坂本や朽木谷に逃げ出すことになった。それでも母といっしょにいられた。2人の弟は幼い頃にそれぞれ興福寺と相国寺に預けられた。


 全ては細川晴元の死で変わってしまった。おそらく三好長慶は転生者なのだろう。私が将軍を継承するよりも早く、父義晴が将軍を解任されてしまった。元服をしてしまえば命を狙われてしまうからと2人の弟同様に寺に預けられることになってしまった。母は実家の近衛家に戻ることとなり、伯父である近衛稙家に連れられて京の大覚寺に預けられた。父義晴は引き続き六角定頼の庇護を受け、桑実寺に残って将軍の座を狙うこととしたようだ。だが正式に朝廷が解任したわけでこれをひっくり返すだけの力も伝手もない。幕臣達の多くが見限って離れていった。


 室町幕府12代征夷大将軍は父義晴である。祖父である11代将軍の義澄は解任され、10代将軍の義稙が再任されている。義稙に追い落とされた祖父義澄は父義晴を播磨赤松氏に預け、叔父義維は阿波細川氏に預けて、別々に育てさせた。その義稙が解任されて12代将軍になったのが父義晴である。父義晴が就任したのは11歳の時だったという。阿波に逃れた義稙は叔父義維を養子にしている。もうね、関係性ぐちゃぐちゃです。


 征夷大将軍は朝廷が任じる。周囲の思惑で本人の意思とは関係なく就任・解任される。細川晴元が亡くなり、細川氏綱が三好長慶とともに京に入った。父義晴は近江坂本に逃げ、阿波守護細川持隆とともに叔父義維が京に入った。細川氏綱は幕臣達の切り崩しを行い、三好長慶は京の治安維持に兵を配備し、新将軍のための御所建設を進めた。将軍交代の既成事実を積み上げていったのだ。


 父義晴は近江守護六角定頼を頼って観音寺城近くにある桑実寺に身を寄せて幕政を行った。桑実寺はかつて2年ほど仮の幕府を置いていた寺であった。御内書という将軍による公文書を全国にばら撒いていた。一方、足利義維も御内書の形式を整えた公文書もどきをばら撒いていた。武力を持たぬ武家の頭領兄弟のなりふり構わない外交戦略は全国で空回りしていたようだ。頼られていた六角定頼も単独では京に攻め入ることはできずにいた。


 父義晴の正室は五摂家の一つ近衛家の娘だった(慶寿院)。五摂家は朝廷で政務に関わる5つの家のこと。九条家は所領を支配下に治めている三好にすり寄っていた。二条家は大内を頼って周防に下向していた。鷹司家は嗣子がいなかったため絶えていた。一条家は二条家との政争に敗れ、土佐に下向して勢力を弱めていた。現在は土佐一条の莫大な財力を元に隆盛していたが、政務からは距離を置いていた。朝廷では近衛・九条・二条の3家が権力争いをしていた。父義晴の旗色が悪すぎるために近衛家は足利将軍家から距離を取り始めた。幕府の政務は京に残って政所執事の仕事(財政や訴訟対応)を行っていた伊勢氏が実質は支えていた。三好長慶は幕府と朝廷との要である伊勢氏を強く庇護した。伊勢氏は義澄、義稙、義晴に仕えてきた家である。義澄の子であり、義稙の養子である義維による将軍継承を受け入れさせ味方に引き入れることに成功した。


 細川晴元の死から3年。細川氏綱を始め多くの武家が連名で朝廷に願い出て父義晴が征夷大将軍から解任され、叔父義維が13代となった。

説明回になってしまいました。足利義維はこの当時義冬と名前が変わっていたようですが、義維のまま通していきます。


13代は転生者である足利義輝。14代が義維の子義栄、15代が義輝の弟義昭。義昭は豊臣秀吉政権下で将軍を辞任して足利将軍家は15代で終わりました。義輝が暗殺された永禄の変の時、興福寺にいた次弟覚慶(義昭)は逃げ延びましたが、相国寺にいた末弟周暠は殺されています。


足利義輝は1546年に11歳で将軍を継承していますが、この話では1545年に細川晴元が亡くなり、足利義晴は義輝を元服させる機会を逃して寺に預けざるを得ませんでした。大覚寺にしたのは伯父大覚寺義俊(近衛稙家の弟、母慶寿院の兄)がいたから。


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― 新着の感想 ―
[良い点] 関係性ぐちゃぐちゃです! [一言] 明日の更新も楽しみです。 よいお年をー
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