173 ●信長と信広
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次回更新は12/24(日)
(1549 ●織田信長(15)視点)
新婚だというのに戦場に駆り出される。実際の指揮を執るのは後見役の平手政秀だ。この時代の兵の運用に学ぶことは多い。学ぶ姿勢を高く評価されているし、長柄の槍やクロスボウも有用だと認めてもらって数を揃えていた。織田側は美濃に攻め込んで大損害を受け和睦、その流れで蝶と結婚。前年の小豆坂の戦いで今川・松平連合に大敗し負け続けている。今川との最前線である安祥城は転生者である兄上(信広)が守っていた。その支援として三河に侵攻する一軍を任されていた。
水野氏が守る刈谷城に入ったところで兄上の兵が撤退してきた。安祥城の無血開城と引き換えに、運べる限りの兵糧や武具と共に全軍が避難してきたのだ。今川方も籠城戦が長引き、城に火を点けられて死兵になられるくらいならと、追いすがることなく猶予を与えてくれたそうだ。逃げる最中は家臣から非難を浴び、今は後詰に集まった重臣から叱責を受けることになったが、人員をこれ以上損耗する訳にはいかないと目を逸らすことなく胸を張って答えていた。その兄上は指揮権をはく奪され、父上(信秀)が居る古渡城へ報告に向かうことになり、兄上配下の兵士はここで再編され、私の指揮下に入ることとなった。
兄上が尾張に戻る前夜にやっと2人きりで話が出来た。神妙な顔をして状況を話し始める。
「鉄砲・・・火縄銃を使われた。数は少なかったと思う。散発的に大きな炸裂音がしたんだ。騎馬の行き脚が止まった。棒立ちになったり、振り落とされた所を矢で狙われて損害が大きくなった。末端の兵は初体験ではどうにもならなかった」
『鉄砲伝来は1543年。出入りの商人達に堺や国友を探らせているが、種子島や火縄といった情報はまだ届いていなかった』
「数は少なかったが被害も大きかったので、野戦に出ることを止めて籠城の準備を進めることにした。今川方の兵は兜も鎧も揃って、武装も確かなものばかりだった。兵の練度も高く感じた。このままでは落城は時間の問題だと思って、和睦の道を探ったんだ。安祥城は織田と今川が取ったり取られたりしてきた城だ。今川にとっては岡崎城を守るためにも松平氏のためにも引けない戦いだ。こちらが引ける時に引かないといけないと判断した」
『・・・土佐の一条から火縄銃が今川に渡ったのだろうか』
「分からない。まだ開発されたばかりで高額だから少数だったかもしれない。使われ方も馬を驚かせることに注力していた。今川方の太原雪斎の独自運用ではないかと思う。今回も今川義元は前線には出てこなかった。義元の真意は分からない。こちらも早急に火縄銃を手に入れる必要があるだろう」
『・・・クロスボウ開発に注力しなければ良かったのだろうか』
「クロスボウは役に立ってくれた。城を守るには頼りになる武器だった。射程は短くても高所からの撃ち降ろしで不利は帳消しになるし、老若男女が使える。勘十郎(信勝)や(柴田)勝家とも相談して決めたことだ。火縄銃普及は桶狭間の1560年前後だろうから、後5年はクロスボウで優位に立てるはずだった」
『京と堺を押さえている三好長慶と松永久秀の線もありうるのか』
「火縄銃のことはお互い情報を集めることにしよう。尾張に戻ったら勘十郎(信勝)や(柴田)勝家にも調べてもらうように話をしておく。父上にも話をしなけばならない。美濃の斎藤とは和睦した。三河から完全撤退して今川とも和睦するべきだと思う」
『負け続けているから身内の造反や寝返りも増えるだろう。まずは足元を固めないと。逃げ帰った兄上は立場が弱いだろうから、俺からも父上に今川と手を結ぶべきだと手紙を書くとしよう。明日の朝までには用意するから持って帰ってくれ』
ここ刈谷城は三河にある。どこまで前線を下げるか。今川が尾張まで侵攻するつもりなのか。どこに砦や城を築いて備えるのか。実質の総司令官である平手政秀とよく話し合う必要があるだろう。尾張内部での戦いを考えれば、兄上が撤退を決断して兵を損耗しなかったのは英断といえる。火縄銃対策も考えなければならない。父上への手紙を書いたら、蝶にも手紙を書くことにしよう。
史実では織田信広は安祥城落城時に生け捕りにされ、松平竹千代(徳川家康)と人質交換されます。竹千代との人質交換のために生け捕りを狙われたのですが、竹千代が今川にいる現状ではこの戦いで命を落とした可能性がありました。今川との和睦に傾いた信秀に信長が反対したという説もあるようです。なお史実でも今川は火縄銃を使っていたようです。
今回の戦で今川側が使ったのは堺で生産された堺筒(火縄銃)。史実では織田側が先に火縄銃を使っていました。堺の鍛冶集団の多くは土佐に移っており、鋳物の関係者も土佐に移っていたので堺での鉄砲開発能力は史実より低く想定しています。火縄銃はまずは将軍に献上されたようですが、国友に生産の指示を出した足利義晴は疎開中。畿内で最初に使ったといわれる細川晴元は既に討たれて亡くなっています。輸入品である弾や火薬も一条が優先的に押さえているので鉄砲が戦場に出てくるのは史実より数年遅れる流れとしています。
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